雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

昭和50年(1975)42歳 国内販社出向10年最後の年

2011-05-03 06:11:17 | 自分史

★当時の国内販社、最初に出向した時は、

『カワサキ自動車販売』 自販と言っていた。

10年後、戻る時の社名は、『カワサキオートバイ販売』、通称『カワ販』と社名変更されていた。

まだ、世界の市場が、国内とアメリカだけの時代だったので、販社と言ってもカワ販と名称変更した時の社長は川崎航空機の常務取締役岩城良三さんであったし、

出向者も本社のスタッフは部長以下殆どが川崎航空機籍のメンバーだったのである。

それに反して、販売第一線は、従来のメグロ、メイハツの代理店社長や販売会社としての採用を開始した若手諸君が中心だったのである。

 

そんな販社の中で、最初の数年は、本社で広告宣伝とレースを担当し、

その後、仙台で東北6県の販売代理店管理を4年、最後の方は北海道地区も合わせて担当したのである。

この4年間は、最高に勉強になった。年上の経験豊かな代理店の社長の方たちとのお付き合いは、二輪販売の全ての要素を教わったのである。

さらに、大阪、名古屋、東京の大市場の第1線営業を2年半、そして最後の2年半を本社企画スタッフとして、当時展開していた特約店制度を担当していたのである。

 

★大阪、京都、名古屋、の特約店からスタートし、全国各地に展開した最後の年となった。

全国各地のこの制度の説明会は、全てそのスピーカーを務めたのである。

制度そのものが、この時代の二輪販売店にとっては画期的なものであったし、販売店そのものもさることながら、販社の営業担当への説得、その理解の方がむしろ問題であった。

納得して『やる』と手を挙げたところから順次、制度の展開を図ったのである。

販売店の選択は非常に厳しく律して、地元の兵庫県などは候補店が見つからなかったので、自社のセールスやサービスからの『のれん分け制度』を造り、独立希望者を募り進めたのである。

2月に、兵庫の第1号店として財満君の灘カワサキの検討を開始している。

その後も、兵庫県は販社従業員だけではなくて川崎重工からの従業員の独立もその後続いて、独特のカワサキ販売網を構築していったのである。

 

この年の特約店説明会の実施状況は、

2月に、北関東の埼玉と千葉

3月には、広島、新潟、群馬、栃木、茨木

5月に、四国の説明会を行って、東北を残しほぼ完了したのである。

10月からは、川重の企画に戻ったのだが、最後の仕上げの東北地区は、10月後半にカワ販からの依頼で説明会の巡業をしているのである。

 

★ 非常に貴重な販社への出向の10年間であった。

人生の30代を、製造メーカーに入社したのに、そのほとんどの人が経験しない『マーケッテング』の世界にいたのである。

国内の流通段階が、世界に比べて遅れていたがゆえに、末端の販売がホントはどんなものかを逆に知ることが出来たのである。

こんな末端の泥臭い経験が、その後の人生の糧になったし、今現在のNPO The Good Times に繋がっているとも言えるのである。

 

★家では息子は、小学校6年生、4年生の時に始めたサッカーは、5年生の時に小学校の単独チームで兵庫県優勝を果たし、

6年生のときにはオ―ル三木のキャプテンとして兵庫県で優勝し、東京の全国大会に出場している。

オ―ル三木も結構強くて全国大会でも何回かは勝ち進んで、大会の優秀選手にも選ばれたりして、息子も家内もすっかりサッカー熱で燃え上がっていたのである。

夏休みの出来事だったのだが、母親たちはみんなチームと一緒に東京まで行って世話をしたりしていた。

この年あたりから、中学も高校も大学も、息子はサッカー中心の生活になってゆくのである。

 

★この年あった、今でもよく覚えていることの一つに、ヤマハオートセンターの杉浦さんとの出会いがある。

まだ岡崎に1店舗だけの商売スタートしたばかりの時である。岡崎地区のカワサキ特約店の中の1店だった。岡崎地区は当時南君が所長で、後東京でファイブテンを立ち上げた五島君がセールスだった。

岡崎、京都、大阪南が特約店制度を一番最初にスタートさせた地区なのである。

そのヤマハオ―トセンターの杉浦さんが出したDMが、大阪の船場モータースの学校を卒業したばかりの息子さんに届いたのである。 船場の岡田さんが、テリトリー侵害だから文句を言ってくれと仰るので、気楽に引き受けて、ヤマハオートセンターを訪ねたのが、この年の7月24日のことである。

ちょっと文句を言ったら、こっぴどく反論された。

『この岡崎の田舎町で、一生懸命バイクを売ろうとして、DMまで打っている。安全運転コースも持っているし、ちゃんと認定工場の資格もとっている。大阪の特約店で認定工場の資格を持っている店が何店あるのか。ちゃんとした体制でやっているが、岡崎は大阪と違って田舎だから、DMでも打たぬとなかなか売れないのだ。 』と言うのである。

『これは尤もだ』と思ったので、それ以上は強く言わなかった。帰阪して直ぐ堺の伊藤さんに認証工場の取得を勧めたりした。

杉浦さんとは、それ以降も何度もお会いしている。 いろいろやり合ったことも多いがが、結構気があって仲はいい。 家には杉浦さんから頂いた立派な品が幾つもある。

いまは『レッドバロン』多分間違いなく『世界一のオートバイ販売店』である。 国内300店舗もあるのだが当時は岡崎1店だったのである。

 

★この年の4月に船場モータースは新店舗を造り、息子さんはアメリカに修行に出すと言う話も出ている。

当時は、ハ―レ―の『SEMBA』ではなくて、まだカワサキ色の強い船場モータースであった。

暴走族=オートバイ=ナナハン=カワサキ と言われていた時代で、業界で安全運転の対策が強く言われていた時代であった。

マレーシアで日本赤軍によるハイジャックが起こったのは、8月11日のことである。

 

昭和50年の始まりは、こんな年であった。

私にとっては、カワ販の出向が終り、10月からは川崎重工業の単車事業部企画部での仕事が始まるのである。

10月からのメーカーでの3ヶ月は、次回に譲ることにする。

 

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コメント (2)
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