雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

人生で一番頑張った時期    2

2019-10-27 06:15:46 | 自分史
★ 大阪営業所にに異動したのが昭和45年(1970)11月のことだから、今からもう50年近くも前のことなのである。

第一線の営業など全く初めての経験だったが、私流に考えて、私流に行動した5年間で、一生懸命にやったことだけは間違いない。
この時期に一緒に頑張った人たちは、50年経った今も親しくお付き合いがあるから不思議である。

 当時のバイクの販売店は今とは比べることは出来ないほど、弱小店が多くその中心は自転車販売店だったのだが、
カワサキは『中大型のスポーツ車』を扱う方針となったのだから、『バイクの専門店の販売網を創ろう』と思ったのである。これは当たり前のことだが、当時では大変なことで、バイクの専門店など、殆ど存在していなかった時代なのである。

 大阪営業所の取引店数も500店に近くその殆どは部品の取引だというそんな時代に大阪の中で30店弱の候補店に絞り、『カワサキ共栄会』なるものを立ち上げたのが、赴任後3ヶ月の昭和46年2月のことである。


  

 
 当時の二輪車新聞の2月4日号のトップ記事に『2年以内に実績倍増』と発表し『販売網再編構想決まる』と大きく報道されたのである。


 この記事を書かれたのが、二輪車新聞の衛藤誠さんで、今でも現役記者さんなのだが、当時の『カワサキのこと』について、ごく最近ネットでこんな記事を書かれているのである。

  
  


  

 
 ここに書かれている通りなのだが、大阪のことを『詳しく書きすぎる』と、当時の苧野専務から怒られたりはしたのだが、そんなことは物ともせず突き進んだのである。
そんなことが出来たのも、当時の田中誠社長から『大阪のことは任すから自由にやれ』とのお墨付きを頂いていたからである。

新聞に堂々と発表する』から販売店も『これは本気だ』と信じてくれるのである。

  
★この『カワサキ共栄会』の会長には船場モータースの岡田博さんが、そのメンバーの中には、今でもお付き合いのある堺の『株・忍者』の伊藤彰さんなどもいた。
後、レースで有名になった徳野兄弟の実家・浜寺モータースなどもいたのである。

当時の伊藤モータースは今と同じ場所なのだが、こんなお店だったのである。


  


今は、雑誌にこんな風に紹介されるほど立派に成長されているのだが、
50年前だから当然若かったし、今以上に威勢がよかった 伊藤彰さんだった。

   


 
★そんなカワサキの流通網創生期にホントに親身になって手伝って頂いたのが船場モータースの岡田博さんで、共栄会の会長からその後『カワサキ特約店制』へと発展していくのだが、その過程でもお世話になったし、全国展開のための『特約店説明』には、広島や千葉などにも一緒に行って頂いて、自らその制度について説明して頂いたりしたのである。


 今は当時の店からは場所も移って、『SEMBA』と屋号も変わっているのだが、今年ご縁があって、お店にお伺いしご長男の岡田学さんとお会いして昔話を楽しんだりしたのである。


    

 
岡田学さんご兄弟がまだ学生さんおの頃であり、まだアメリカ留学前のことなのである。


★この当時、自分でも不思議なほど、頑張っていて、赴任当時は全然元気のなかった従業員たちも、半年も経つと自ら行動するようになったのである。
共栄会から一歩進めて、カワサキでも、業界でも初めての『カワサキ特約店制度』へと進んで行くのだが、その間私が一番力を入れていたのは、販売店への自らの訪問なのである。

 これは、東北4年間の間、ずっと日本一の販売実績を上げていた岩手カワサキの久保克夫社長から学んだことで、何事も『人間関係の信頼』が第一だということなのである。
 私が最初に入社した川崎航空機工業の社是が『正直・誠実・勤勉』その執務態度は『信頼・互譲・協力』でもあったことからも、常にこのように行動したのである。
 これは、今でもちゃんと続いている。

いろんな事柄は、第一線の現場を自ら見て感じるものがないと、部下の報告ばかりではダメなのである。 そういう意味では私の販売店訪問はずっと続いたし、そこで販売店との『雑談』が一番肝要なのである。
雑談の中』にこそ、人の本音は現れるのだと思っている。

 いろいろあったが、何とかなりそうになってきた半年間だったのである。


 

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