雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

人生で一番頑張った時期     6

2019-10-31 07:19:11 | 自分史
★ この時期はちょうどカワサキが二輪事業に乗り出してちょうど10周年の節目の年でもあったので何か特別のキャンペーンでもやろうと起案したのが
全国販売店の『アメリカ視察旅行』なのである。
全国で100店ほどの参加ではあったが、参加条件が厳しかったこともあって、
東京が約半分、残り半分が大阪・名古屋・京都・兵庫など、私が担当するテリトリーが大半だったのである。

当時はまだ海外旅行など一般には全く関係ない時代だったから、二輪業界でも初めての海外研修旅行ではなかったかと思う。
全国カワサキ会協賛でその副会長として視察団の団長のような役を仰せつかったのだが、私にとっても初の海外旅行だったのである。

昭和47年(1972)1月8日から1月15日まで
ロスアンジェルスーサンフランシスコーハワイを巡っての旅程だったのである。



 
そんな旧い話が結構正確に解るのは、65年間欠かさず続いている日記があるので何とかなるのである。
ただ、ちゃんと書こうとすると、日記を読み返すことになるので時間が掛かってなかなか大変なのである。このところ毎日書き上げるのに、半日近く掛かるので、あと一つ、二つで終わりにしようかなと思っている。


このアメリカ旅行は、カワサキがアメリカに進出し、カリフォルニア州サンタアナに拠点を置いた直後のことで、意気盛んなアメリカ市場を見学しようという、
結構真面目な研修旅行だったのである。

 粗っぽい旅程をご紹介すると

1月8日 羽田東急ホテルで結団式・シアトル経由ロス・
    KMCの歓迎レセプション・宿舎はロス・グランドホテル

     

1月9日  ロス近郊のトレールランドでレース見学・デズニーランド見学
1月10日 KMC訪問 浜脇洋二社長などとの懇談会・夜ナイトツアー

 
KMCのメンバーは当時こんなスタイルの時代、浜脇さんは左から3人目。 
一番左は杉沼浩さん、MFJの常務理事なども務めたのでご存知の方もいるかも
   
  


1月11日 市内観光・ヨットハーバー・さよならパーテイ
1月12日 サンフランシスコで市内観光・販売店訪問
1月13日 サンフランシスコで販売店訪問・Golden Bridge
1月14日 ホノルルへ ハワイ観光
1月15日 ハワイ  日本へ帰国      
   
 
参加の販売店たちは、アメリカの二輪事業のデーラー店舗見学など、その先進性を目の当たりにして大いに刺激を受けたことは間違いないのである。
 こんな視察旅行も『カワサキ特約店推進』に大いに寄与したと思うのである。



★この翌年の昭和48年(1973)2には、名車Z2の発売があり、大人気だったのだが、
この年の8月4日には全国各地でカワサキジャンボリーを一斉に開催することなったのである。
当時このジャンボリーは四国などでは既に開催されていて100~200人の規模で行われていたのである。

私自身にとっては全く初めての経験なのだが、近畿・中部地区合同で、その10倍ぐらいの規模で1000人~2000人を集めて開催しようと企画したのである。
何のノウハウもなかったのだが、大丈夫やり切れるという自信みたいなものがあったのは、何事も少人数のほうが『手間がかかる』のが普通なのである。
前年度のアメリカ視察旅行なども、大変な準備が要ったのだが、1000人も集まるとなると、集まった人たちは当然自分で判断して行動するので、準備さえ確りとすればそんなに手間は掛からないものなのである。

 そんなことで、まず大阪・名古屋の中間で1000人以上の人たちがテントを張れる場所から探して、まず候補に挙がったのが、奈良県の『曽根高原』なのである。

  

 秋にはススキで名高いこんなところである。

 


 曽爾高原でやることにして、曽爾村は初めは乗気だったのだが、『1000人も集まる』と聞いて、ビックリして町議会で検討して貰ったのだが、結局断られたのが、開催1ヶ月前の7月2日のことなのである。

 これには流石に参ったのだが、気を取り直して、琵琶湖周辺と言うことで『マキノ町の砂浜』を候補地にして『マキノ町役場』と協働で進めることにしたのである。

 こんな立地なのである。

  

 
初めての経験で大変だったのだが、『大会会長』として運営企画は全て私一人で立てて、その通りの実行としたのである。
ここでも世の中で初めての試みがいっぱいあったのである。

● まずは当時は大広にいた佐々木八太夫さんと組んで、『ビッグサウンド・オン・ステージ』と題して、舞台を造り、有名バンドを呼んでのロックバンド演奏を企画した。この費用だけで260万円も掛ったのだが、兎に角2000人を集めようとバイクの販売そっちのけでセールスも販売店もこの期間はジャンボリーの切符を売ることに専念し、ほぼ2000人が集まる目途が立ったのである。

● ただ、2000人も集まると『マキノ町役場』の人が砂浜にテントを張るスペースが不足するのではと心配されて実測するとこれはなかなか大変なのである。
砂浜だけでなく通常の駐車場にもなどと考えていたら、『神様は援けて下さる』のである。
7月中旬あたりから琵琶湖の水がどんどん減りだして、、8月4日の当日には砂浜が倍増し、隣に流れている川の水も少なくなって魚のつかみ取り大会が出来たりしたのである。

     


● 2000人の食事は『販売店の希望者』に出店を出して貰って対応することにし、若し不足の場合を考慮して、自衛隊から緊急食糧を1000人分ほど準備もしたのだが、これは使わずに済んだのだが、この処分が一番大変で、川重の明石の従業員に頼んで買って貰ったりしたのである。

● このジャンボリーの当日の運営方式も私なりに考えて、40人の従業員を二人一組の20班にして、その責任者を決め、20人に連絡したらすべて解決という方式にしたのである。
場内で使用できる金券を先払いで売って、現場では現金は通用しない仕組みにしたのは、アメリカ視察旅行の時のアナハイムのデズニーランドがやっていた方式で、使わなかった券は帰りに払い戻ししますと言ったのだが、想定通り、終了すると帰りを急いで、殆ど払い戻しは発生しなかったのである。

 ● このジャンボリーの当日の運営を手伝ってくれたのは、
当時兵庫所長だったあの平井稔男さんで、彼が現場を殆ど取り仕切ってくれたのである。 二輪業界ではちょっとした有名人だから、ご存知の方も多いだろう。


   

 
    



★このジャンボリーのナイト・ステージも、殆どの方が初めての体験だったし、
隣では、たまたまだが『花火大会』があって、会場を盛り上げたし、翌日はこれも殆どの人が初めての『ジェットスキーのデモンストレーション走行』をお見せしたのである。
ジェットスキーが日本に入ってきた年で、この直前岡山の海岸で接触事故があり、国会で取り上げられたりしたのだが、『ジェットスキー』はカワサキの商品名なので、適当な名前がなく『エンジン付き海浮遊物』と言われたというウソみたいなホントの話なのである。

こんな話を鮮明に覚えているのは、私が自ら『旗を振った』からで、『マキノ町』にも大人気であったこの催しは、『マキノ町』で何年か続いたのだが、2年目以降は私は単なるお客さんで後輩諸君がやってくれたのである。


★『人生で一番頑張った時期』ということで、このブログ続けているのだが、自分でもホントにこの時期頑張ったなと思っている。

日記を読み返してみても、この時期は、東京・名古屋・大阪を担当していた時期でめちゃくちゃ忙しく、『ジャンボリー』に係きりなどは到底無理な時期だったのだが、移動の新幹線の中で考え、それを指示するぐらいなことでやり切っていたのである。

 成功の積み重ねが『すべてが上手く回る』基礎になるのだと思うが、当時の仲間たち従業員も、販売店も、成功の事例が重なって、何をやるにしても『信じて貰えた』のだと思う。
 当時から『信じる者』と書いて『儲かる』に通じるのだから、信じなさいと、何か宗教家のようなことを言っていたのだが、『人を信じる』ことは成功の基礎だと、私はホントにそう思っていて、『バカみたいな性善説者』なのである。

 この時期にあった『大きなイベント』二つのお話である。
 参加された方は、間違いなくちゃんと覚えておられると思うのだが・・・・


 
 
 
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