雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

人生で一番頑張った時期   5

2019-10-30 06:56:45 | 自分史
★この時期の『カワサキ特約店制度』実現のために、私自身が先頭に立ってその旗を振り続けたのは事実なのだが、こんな構造的な改革の実現は、それを支え推進する強力な仲間が要るのである。

逆に言うと『そんな仲間たち』がいっぱいいたことがスムースな実現に繋がったのだと思っている。

昭和46年2月、大阪にカワサキ共栄会を創ってこの流通機構対策はそのスタートを切るのだが、この1年はその基本コンセプトの検討に当たった年で、こんなメンバーでの熱心な検討が続いたのである。

大阪では北地区を古石喜代司、中地区が宮本進、南地区を竹内優さんが主務担当をしていて、この3人を中心に、
京都営業所からは藤田孝明所長の他、久後淳一郎、柏原久、関初太郎さん、
名古屋母店からは鍋島英雄母店長と当時岡崎地区担当の南昌吾さんなどである。

これらのメンバーでの検討会は、今思ってもなかなかのものだったし、まさに多士済々の個性的なメンバーで、このメンバーたちがその後のカワサキ国内市場で長く中心となって活躍したのである。


★法律的なことなど私が不得手な分野を支えてくれたのが、名古屋の鍋島英雄母店長『特約店制度』の契約内容等その骨格は全て彼の作なのである。
川崎航空機入社のエリートでその後弁護士を目指して、会社を辞めたりもするのだが、ずっと後は南昌吾さんの実家の事業経営に参画したりしたので、カワサキを去ってからもいろいろとお付き合いがあったのである。

この時期が昭和46年なのだが、このメンバーのうち、古石・竹内・関・柏原・南の5名はカワサキオートバイ販売定期採用2期生で昭和42年度入社の未だ入社5年目の若手だったし、久後くんはさらに若かったのである。

宮本進くんは京都の旧い代理店出身の二輪に関しての経験が長く、サラリーマン育ちとはちょっと違った独特の個性で、大阪で対応が一番ムツカシかった船場モータースを担当してくれて、岡田博さんを動かして、共栄会会長・大阪特約店会長までに引っ張ってくれたのである。
後、滋賀カワサキを立ち上げて長く、カワサキを扱われたし、竹内優くんと二人はカワサキOB会の慶睦会にも出席されるので、現役諸君もご存じの方が多いと思う。

 慶睦会での髙橋鐵郎さんと宮本進・竹内優さんである。

 


翌年の昭和47年度からは、兵庫営業所が仲間に入って、所長の平井稔男さんや谷沢高明、吉田純一さんなど個性豊かなメンバーが加わることになるのである。
 
 
★ こんなメンバーの中でもなかなかの実力者が南昌吾さんで、この時期に既に岡崎出張所の所長をしていて、大阪・京都と共に一番最初に『特約店制』を実施した地区の一つなのである。 メンバーには後、東京で特約店を開業した五島さんがいた。
 この岡崎地区の中には、『ヤマハオートセンター』がスタートの時期から特約店に参加したのである。
 現在のレッドバロンで、ヤマハから独立開業した杉浦斎さんがオーナーだが、今は日本全国に展開しているが、当時はこの岡崎の本店一店だけの時代なのである。
私が最初に杉浦斎さんにお会いしたのは、特約店制度をスタートした直ぐ後で、
大阪の船場モータースの大学を卒業したばかりの息子さんのところに、ヤマハオートセンターからバイク販売のダイレクトメールがたまたま届いて、船場の岡田博さんが『テリトリー違反だから、文句を言ってくれ』と仰るので、岡崎まで出かけたのである。

 杉浦さんに会って、そのことを言うと痛烈に反論されたのである。

『私はヤマハを辞めて、こんな岡崎の田舎で店を立ち上げて、今から二輪販売店をしようとしている。
大都会と違ってこの地区だけでは大して売れないので、今年大学を卒業した人たちにダイレクトメールを打ったのである。どこに問題があるのか。
私はルール通りに認証工場の資格も取り、店の横に安全運転コースも造って一生懸命やっている。
カワサキ特約店というがそのうち何店が認証工場資格を持っているのか? 持っていなければ修理をするのは違反なのだ。 
大阪の船場さんなど大都会の中でやってるから販売も簡単なのだが、田舎で頑張ろうと思えば大変なのである』
とコテンパチンに言われてしまって、確かに仰る通りなので、納得して戻ってきたのである。

それが杉浦さんとの初対面なのだが、めちゃうるさ型だが、私とは何となく気があって、その時も流石に言い過ぎたと思われたのか、すぐにお酒が家に届いたりしたのである。
 
その後も何度もお会いして杉浦さんとはいろいろ激論を交わしたことも多いのだが、家には杉浦さんからの頂き物がいっぱいある。

 この絵も

   

 この花も、
 杉浦さんから贈られたもので、それを見ると杉浦さんを想いだすのである。
  
  


当時、こんな岡崎出張所の所長だった南昌吾さんには、その後もいろいろ関係があって、東京営業所や販社の電算化問題などムツカシイことをいろいろ頼んだが、何をやっても上手く処理してくれてお世話になったのである。

 その極めつけは、1990年代に国内でケイ・スポーツ・システムという『ソフト会社』を立ち上げるのだが、川崎グループでも初めてと言っていい会社の運営をそのヒントだけを言うとすべて上手く処理してくれたのである。
カワサキで初めてのサーキット運営SPA直入、ユーザークラブKAZEの具体的運営、当時のカワサキのレース運営、月木グループとの連携、岩城滉一とのお付き合い、さらにはカワサキの二輪自動車学校などなど、
1990年代の国内の『カワサキのイメージの創造』は、すべてKSSが母体だったのである。

このKSSで南常務を支えて頑張ってくれたのが渡部達也さんなのである。

  
    



★こんなメンバーの中でも、
私の現役期間中にずっと一緒だったと言えるのが藤田孝明さんである。
 久しぶりに吉田純一さんの授賞記念パーティーでお会いした。

 昭和32年川崎航空機の同じ年の入社で、入社後何年かは野球部で一緒で、三遊間や1・2番コンビだったのである。

 昭和46年に京都営業所長に赴任して、京都・滋賀を担当してくれた。
この京都営業所の当時のメンバーも久後・柏原・関の他にサービスには今はレースなどで有名な山科カワサキの吉川健一(ヨシケン)などもいて優秀だったこともあるが、何よりも藤田孝明さんの独特の対応が、当時の特約店にも絶大な評価を受けたのである。

彼は無口で、そんなに喋ったりはしないのだが、何故か末端からは信頼されるのである。
 京都の特約店については私は全て彼に任していたのだが、特約店制1年後に特約店10店から世話になったと私と藤田くんと二人を京都祇園の料亭に招待して貰ったのだが、京都の祇園の料亭などその時1回だけの経験なのである。
 
京都の特約店制はまさに徹底していて、京都府で京都市内に9店、宇治に宇治カワサキ1店の10店だけというドラスチックなものだったが、京都営業所の経営内容はまさに抜群で、私はカワサキの中で『当時の京都営業所の経営内容』が間違いなく群を抜いていたと今でも思っているのである。

 その後藤田くんには、名古屋や東京営業所の担当の後、西日本販売の常務などを歴任したのだが、

カワサキがアメリカ以外のヨーロッパと日本で、ジェットスキーの販売を始める時、私は躊躇なく『藤田孝』くんを指名し、彼はホントに一人の段階から、全国で初めてジェットスキー特約店を開設した『福井昇』くんなどと日本でのジェットスキー販売網を創り上げ、カワサキジェットスキー販売という立派な会社を創り上げたのである。

このカワサキジェットスキー販売では1年に7000台も販売したことがって、この時の利益総額は10億円に近く、びっくりしたものである。


★私の現役時代、密接に関係のあった人たちのうち、この『特約店制度』時代に出会った人たちと、その後もいろいろと関係があって支えて貰ったのだが、
若い頃にこんな『特約店制度』という素晴らしい体験をしたことが、それぞれの成長に繋がり、その成功が『独特の自信』になっているのだと思うのである。

 この時代、私も『人生で一番頑張った時期』だったかも知れぬが、
その周囲にいたひとたち」にとっても『人生で一番頑張った時期』だったかも知れないのである。




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