★『人生で一番頑張った時期』 それは昭和45年から昭和50年(1975)までの期間で、年齢で言うと37歳から42歳までの、カワサキオートバイ販売に10年間出向していた後半の時期だと思っている。
カワサキの国内市場が『実用車のカワサキ』から『中・大型スポーツのカワサキ』に脱皮する時期で、その販売網を自転車屋中心から『二輪専門店』にしようとする、カワサキ独自の『カワサキ特約店制』へと構造的な転換をしようとした時期なのである。
大阪の『カワサキ共栄会』設立を皮切りに、独特の『特約店制度』とし、その内容は厳しく販売店に接したのだが、選んだ店とは文字通り『共に栄えよう』という基本コンセプトだったのである。
その契約内容は、担保設定か保証金積み立てをMUST条件とした非常に厳しいものだったが、大阪では500店近くもあった販売店を25店に纏めてそれ以外には一切販売しないという、カワサキとしてもリスクが大きかっただけに、その実施に当たっては地域を絞って大阪・京都からスタートし、徐々にその範囲を広めていったのである。
そんな画期的な内容だったので、実行するに当たっては、その内容を熟知している人が旗を振る必要があったので、この全国展開があった期間の数年間は、すべて『私が旗を振る』ことになったのである。
★ 一般に、サラリーマンの異動などは、ある一定の期間が経つと行われるのが通常だが、この5年間の『私自身の職務の異動』は目まぐるしく、それはカワサキの特約店制の推進状況と共に変わっていったもので、『こんな経験』をされたサラリーマンは、おられないのではと思うのである。
それは一貫して『カワサキの流通網対策』そのものだったのである。
粗っぽくその概略を纏めると
● 大阪母店長に異動したのが、昭和45(1970)年11月。
この時点で担当地域は大阪・京都・滋賀・奈良・和歌山の5県だった。
● 翌年の昭和46年(1971)2月には大阪共栄会を設立し、それを母体にして『特約店制度』を検討推進したのだが、 その基盤を創るのに約1年。
● 昭和47年(1972)が一番目まぐるしく動いた年で、
1月には、担当分野に兵庫県が加わり、
4月には名古屋地区を含めての中日本営業部長となり、『特約店制度』をスタートすることになるのである。
10月からは東京地区を加えて担当する『直営部長』となっている。
この年の異動はまさに『3ヶ月単位』の目まぐるしいものであった。
逆に言うとそれだけの特約店制推進実現があったということなのである。
この時期は川崎重工業で言えば『課長職』なのだが、当時のカワサキオートバイ販売会社は『地域販売会社制』が主流だったのだが、『特約店制度実行』の地域は『直営部』と称して、私の担当となっていったのである。
東京・名古屋中部地区・大阪近畿地域と『大都会地域』を担当して、売上金額では、全国販売高の半分以上を担当することになってその責任も重大だったのである。
『人生で一番頑張った時期』というのもお解り頂けると思うのである。
★そんな大変な時期に、昭和48年(1973)3月に、あのZ2の発売があり、二輪業界の中でただ一人カワサキだけが進めてきた 『二輪専門店制度=特約店制度』に 『大きな追い風』が吹くのである。
当時のZ2の人気はすさまじく、二輪販売で初めて『バックオーダー』なるものを経験し、販売努力は殆ど必要なかった状態で、『特約店制度の推進』に集中することが出来たのである。
こんなZ2の販売もあって、10月には大都会の特約店制の目途がほぼついたので、
『直営部は解散』して、東京・名古屋・大阪の3地区は3人の部長さんの担当となり、私自身はカワサキオートバイ販売の本社管理部長として明石に戻り、それ以降は『全国の特約店制度推進の旗』を振ることになるのである。
全国展開をするにしても、この制度の理解が第一だし、従来の過程を熟知しているメンバーが必要で、この時手伝ってくれたのが、大阪地区の特約店制を実際に推進したメンバーの一人古石喜代司くんなのである。
これ以降の全国展開では『特約店制度を実施する』と『手を挙げた地域』から希望点を集めた『特約店説明会』を開催し、希望店にも、営業所長以下担当者にも『特約店制度がどのようなものか』を懇切丁寧に説明して、順次特約制度を実施していくのだが、その地域の『特約店説明会』には、大阪の特約店会会長の船場モータースの岡田博社長が現地まで一緒に出向いて頂いて手伝って頂いたのである。
実際の『特約店社長』の説明だったので、それは非常に説得力があったのである。
兎に角、今まで世に存在しない制度を実施するというのはホントに大変なことなのである。
★そんな大変な時代だったのだが、世の中の流れは『成功例』に目敏くて、各地の特約店の成功の情報は、二輪業界の中を飛び歩いて、他メーカーのセールスの間でも大きな話題になり、3年目あたりからは、希望地域も希望店も続出してスムースに全国展開となったのである。
人間の心理は『世の中の流れ』に取り残されるのは非常に不安なのだということがよく解った。
昭和50(1975)年9月までの2年間で全国の特約店網がほぼ完成することになり、
私自身は10年間の国内出向を終わって、川崎重工業発動機事業本部企画室課長として復帰することになるのだが
1975年にアメリカのKMCでスタートした、こんなコンセプトをヨコで見ていて、
『これはイイな』と個人的には思っていたのである。
Kawasaki . Let the Good Times roll !
『カワサキに出会う人たちが、ユーザーも販売店も、道でカワサキに出会う人たちにとっても、ハッピーになるような活動をカワサキは展開し続けます』
当時、私が先頭に立って推進した『カワサキ特約店制度』で私が秘かに思っていたコンセプトにぴったりだなと思ったのである。
これはアメリカ人の発想で英語で言われていて、正規の日本語訳はないのだが、
『Kawasaki に出会う人たちをハッピーに』 は非常にいいと思ったのである。
★誤解のないように申し上げておくと、
この『カワサキ特約店制度』は、昨今流行のメーカーの専売店制度とは、『基本的コンセプトが全く異なる』のである。
昨今の制度は、各メーカーの商品だけしか販売できない『専売店制度』なのだが、
当時の『カワサキ特約店制度』は『二輪車を専門的に扱う』のだが、何銘柄扱うかは、全く制限をしていなくて、販売店の意志で自由なのである。
私見だが、現在のような『単一メーカー専売店制度』がユーザーにとっても、販売店にとっても最善とは思えないし、極単に言えば『メーカーのエゴ』みたいなところがあるように思えてならない。
★ただ、この『Good Times Concept 』は1970年代に数年アメリカで使用されただけで消えてしまったのだが、私の気持ちの中には、『二輪事業はこうあるべきだ』とずっと思い続けていて、1990年代に、3回目の販社出向で国内市場を担当した時に、20年ぶりに国内でこれを復活したのである。
それを当時の髙橋鐵郎本部長が全世界に展開し、後田崎雅元さんが川重社長になられた時に、川崎重工業の基本コンセプトになったりしたのである。
そんな想いもあって、定年後には、『NPO 法人The Good Times 』を設立し、このNPO法人に出会う人がハッピーになるような活動を、さらに言えば、『私に出会う人がハッピーになる』そんな生き方をしたいと思っているのである。
そんな私自身の人生に対する生き方の基本コンセプトに出会ったのが、
この『人生で一番頑張った時期』だったとも言えるのである。