★ 私は人生の半分以上を川崎航空機と川崎重工業で過ごしたのだが、
不思議なほど社長・副社長という会社のトップの方とのご縁が多かった。
ホントに特に親しくして頂いたのである。
でも、昔のお殿様とは違って、
昨今の社会の『エライさん』はみんな若い時は普通の人なのである。
若い頃を知ってる方は、その方が偉くなられても、
昔のままで話ができるから、不思議である。
川崎航空機に入れて頂いたのは当時の副社長砂野仁さんなのだが、
伯父の知人だった砂野さんにお会いしたのは子供の頃だし、
神戸一中も砂野さんの薦めで入学したのである。
そんなことだったので、新入社員の時から会社の上司で一番気安く
『モノが言えた』のは砂野仁さんだった。
★昔のアルバムが出てきた。
その中の写真には、『社会のエライさん』の写真がいっぱいである。
これは現役の時私がお世話になった方が、顔を揃えておられる。
1990年代の初めだと思うが、私も国内販社の専務をしていた時だと思う。
一番左が私だが、
奥におられるのが『山田熙明さん』川重副社長をされてたのだが、
この時は多分、もう引退後だと思う。
神戸一中の先輩で、私の現役時代の後半は山田熙明さんの人事で企画に動いたのだと思う。
山田熙明さんは、神戸一中・1高・東大、それも航空機科という秀才で、
私は後輩であったことから、ホントに若い頃から面倒を見て頂いた。
そのお隣が『苧野豊秋さん』永年私の直接の上司であった。
明石高校の先輩なのである。
このお二人には本当にお世話になったのである。
一番最初が、カワサキ創成期のレース関係で
お二人は『レース運営委員会』の技術・営業分野での委員長をされていて、
その事務局長を私が担当していたのである。
当時はお二人とも課長から部長になられたばかりの頃で、
カワサキでのレースの初めての外人契約であった『デグナーとの契約』は
山田・古谷コンビでの契約だったのである。
私は未だ30歳にはなっていなかった頃だから、山田さんも若かった。
苧野さんは長く国内販社の専務で直接の上司であったが、
晩年は国内の部品会社の社長やJJSBAの会長などで支えて頂いたのである。
★ 真ん中にお座りなのが、『小野寺和夫さん』
全国カワサキ会会長で私がその副会長で支えた仲なのである。
多分ここは、小野寺さんが行きつけの銀座のバーである。
二輪業界での活動でお国から叙勲を受けられたりもしたのだが、
独特のお人柄で、誰とでも親しく且つ対等に話をされるそんなところがあった。
勿論私よりは年上だったのだが、よく支えて頂いて本当にお世話になったのである。
小野寺さん、横浜で二輪のご商売をされてたのだが、
その活動範囲は半端ではなくて、
ごく最近になって解ったのだが、
小野寺さんの葬儀の葬儀委員長を務められたのが、
若い日の菅義偉さん、今の総理大臣なのである。
これにはちょっとビックリだった。
こんな昼の部の写真も出てきた。
★ 一番右は、国内販社10年の出向の後、
事業本部の企画室に戻ったのだが、その時の直接の上司の髙橋宏さん。
当時川重に中國班なるものが初めてできて、
その中國班への異動が殆ど決まっていた私を、
高橋さんが『取返しに』行って頂いての『企画室異動』だったようである。
私は大学時代第2外国語を試験さえ受ければ『優』をくれる中国語を受けていて、
記録の上では『中国語=優』だったものだからそうなったのだと思う。
そういう意味では、『髙橋宏さん』は大恩人なのである。
若し中國班などに行っていたら、
私の現役時代は全く変わったものになったであろう。
★ 私が若い頃から、一番長く一緒に仕事をした人と言えば
それは田崎雅元さん、元川崎重工社長だが、
彼は私の1年下で、レース仲間でもあったし、
その後もいろいろご縁があって、
お互い気心の知れたお付き合いが今でも続いている。
この当時川重副社長であった『大西 胖』さんとの写真を送ってくれたのも、
田﨑雅元さんなのである。
KMCの新社屋の土地、建物については、
当時の副社長大西 胖さんのお世話になったのである。
『大西 胖』さんとは私がまだ課長時代、
アメリカのダンピング問題でこれはちょっと大変な問題だったのだが、
それを直接担当してたのが田崎さんで、
その対策として国内販社体制の構造改革対策が求められたのだが、
その起案をしたのが私で、当時の本社財務担当だった『大西 胖』さんに、
毎月報告に上がっていて、その結果がよかったものだから、
大西さんには『絶大な信頼』があったのである。
そんなこともあって、
KMCの新社屋には社内で反対論も多かったのだが、
私や田崎さんの起案ということで、
大西さんはわざわざアメリカまで足を運んで現地を視察され、
この案に『賛成』して頂いた結果、実現したのである。
その時の大西副社長とのツーショットである。
この時は私も新参部長にはなっていたと思うが、
普通では川重副社長とこんなことにはならないのである。
★ これは大庭浩事業本部長・髙橋鐵郎副本部長時代。
それに企画室長だった私、当時のカワ販専務をされていた髙橋宏さん、
二輪車新聞の年頭記事の記者会見の時の写真である。
大庭さんは後、川重社長、髙橋さんは川重副社長を務められるのだが、
当時私はその番頭役をしていたので、
非常に気安くお付き合いをさせて頂いていたのである。
大庭さんの事業本部長人事も私や髙橋さんの企画室人事をされたのは、
冒頭、ご紹介した山田熙明さん なのである。
当時は山田さんは、川重副社長をされていたのである。
この写真も田崎さんが私に送ってくれたものだが、
当時田崎さんはアメリカの現地販社KMCの社長をしていたのである。
単車事業本部の大庭本部長・髙橋副本部長と田崎さんだが、
後、川重社長が二人、高橋鐵郎さんが副社長というスリー・ショット
なのである。
★ こうしてみると、川崎重工業の中では
錚々たる社長・副社長の方々と、密接にお付き合いする機会を得ているのだが、
それは『カワサキグループ』の中のことだから、
ホントはそんなに大したことではないのかも知れない。
そういう意味では、小野寺和夫さんはお国が認めての表賞だから、
それは『偉いさん』だと言えると思うし、
もう一人、私が親しくさせて頂いている世の中のエライさんは、
『吉田純一、吉田純ちゃん』なのである。
彼も叙勲を受けたし、政界のお偉方にもいっぱいトモダチはいるし、
純ちゃんが一番の『出世頭』だと思っている。
彼は、東京都知事とも
三原じゅん子さんとも仲良しだし、
レース界のこんな大御所たちとも 仲良しなのである。
星野一義は『日本一速い男』と言われる有名人なのだが、
彼が17歳の無名の新人時代からのお付き合いで、
我々の仲間では、今でも『ホシノ』と呼び捨てなのである。
山本隆が星野のお師匠さんだし、その山本隆の仲人は私。
私はカワサキでは『純ちゃんよりは先輩』だから、
いまは『エライさんの吉田純一さん』を『純ちゃん』と呼べる間柄なのである。
私も『捨てたものではない』と勝手にそう思っているのである。
こうしてみると
世の中のエライさんたちも、いろいろあってオモシロいなと思っている。