★昭和40年(1965)は32歳、新しく出来た広告宣伝課での2年目である。
1億2000万円の予算を頂いたのだが、
1年目は7000万円ほどしか使えずに、『お前ら金を遣ってもよう使わん』と本社の専務に怒られたこともあって、
年明け早々全国50社もある地方紙に全頁広告を出すという『前代未聞』のことをやったのである。
多分、こんなことをやったのは日本でもカワサキのこの1回限りのことだと思う。
地方紙は殆どすべて使ったのだが、朝日・毎日・読売などの全国紙は使わなかったのである。
なぜこんなことになったのかというと、当時のカワサキは全くの実用車で
大都会では売れてなくて主販売地域は東北や九州を中心とした田舎市場が主だったからである。
そんなことで、広告代理店の方と大阪の地方紙の支局50社余りの挨拶周りもしているし、
3月8日には地方紙の明石工場見学会も行っているのである。
テレビコマ―シャルもつくって、
「カあちゃん、ワても、サんせい,キめたカワサキ」と藤田まことに喋らせたのである。
★モトクロスはカワサキの二輪事業のスタートとも密接な関係があったのだが、
ロードレースはまだやっていなかったのだが、
この年の5月に鈴鹿サーキットであったジュニアロードレースに山本隆がどうしても出たいというので会社には内緒で出場させたら、
ホンダについで3位入賞したのである。
5月のことだがこれがカワサキが初めて走った鈴鹿サーキットなのである。
一気にロードレース熱が燃え上がって、翌月の6月にはアマチュア6時間耐久レースに3台のマシンを出場させることになるのだが、
山本はジュニアロードに出場したため資格がなく、
歳森康師が相棒に連れてきたのが金谷秀夫なのである。
そんなこともあってカワサキも本格的にモトクロスもロードレースも始めることになり、
GPマシンの開発もスタートし10月にはレース運営委員会が正規に発足したのである。
このメンバーは技術部門が山田熙明を長に高橋鐵郎・中村治道・大槻幸雄・
安藤佶郎・田崎雅元、営業部門は苧野豊秋と古谷錬太郎といういうメンバーで、
事務局は私が担当したのである。
これはファクトリーチーム結成25周年の写真だが、
当時アメリカに行っていた安藤佶郎さんを除いてすべての関係者が顔を揃えている。
因みにこのレース運営委員会の中から
後、川崎重工業の社長・副社長(2名)常務も出ているのである。
★会社ではそんなレースの正規のスタートの年だったが、
家庭では長女が5月に誕生して、長男・長女と二人の父親となったのである。
長女のお産で家内が里に戻っている時期に、
自動車学校に入学して免許を取得したのである。
遅いと思われるかも知れぬが、
当時はクルマなど持っている人は殆どいなかったし。
そんなことで免許も持っている人は珍しい時代だったのである。
たまたまレースに関係していて、鈴鹿サーキットなどにも行く機会が多かったので、
会社の車を運転してあちこちに出掛けていたのである。
私的には甥っ子がクルマを持っていたので、
それを借りてあちこち行ってたのを想い出す。
そんなことで『車の運転スタート』の年なのである。
その後もずっと運転はしていたが、ずっと会社の車ばかりで、
個人で車を持ったのは5年後の昭和45年(1970)大阪地区を担当した時からなのである。