林 住 記

寝言 うわごと のようなもの

遥かな海 遠い空

2021-08-25 | 遠い雲

おととしの暮のこと。
久し振りに、懐かしい湘南海岸を巡るつもりになった。
鵠沼海岸から城ヶ島まで、最後になるかもしれない小さな旅。

それが泡と消えました。

学生時代、アルバイトをした逗子海岸の寂しい海開きを、
この夏の始めにテレビで見た。

海岸に自動車道路が開通し、ビルが立ち並んでる。
あまりの変わりように唖然呆然。

当時の逗子海岸には、大きな建物は2軒だけ。
木造2階建てで、国鉄海の家と、古ぼけたなぎさホテルだった。
それが..............。

あの頃はこの頃のような猛烈な暑い日は無く、潮風が心地よかった。
暑かったのは夕凪のいっときだけ。

昼飯はドカ弁だった。
逗子駅から海岸まで木のサンダルをつっかけ、同僚と速足で歩けた。
コロナなぞ考えたことも無かった。

  

  遥かな海、遠い空。

  あの頃の思い出を書いた過去記事が沢山あります。
  このブログ上部の検索枠に、地名を入れ検索してください。
   鵠沼海岸と渚の写真はネットから。

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葛湯

2021-08-17 | 遠い雲

4,5日前のあの猛烈な熱さはどこへ行ったのだろうか。
涼しさ以下、肌寒ささえ感じる今日この頃。

長袖長ズボンに着替え、麦茶は冷蔵庫に入れたまま。
友だちに頂いた、暖かい葛湯を飲んでおります。

  製造販売元は、群馬県は富岡市の田島屋
  富岡は、あの富岡製糸工場がある町。

熱いお湯で溶いた葛湯はとろ~りと仄かに甘く、身体が温まる。
結構結構。

  

子供の頃、よく腹を壊した。

絶食させられ、ビオフェルミンか置き薬の苦い熊の胆を飲まされた。
回復期になると、先ず腹に入れたのは葛湯だった。
ビオフェルミンの粉薬も甘く、美味かった。

あの頃、母がどういう葛粉を使ったのかは知らない。
だけどこの甘さはあの時のもの。懐かしい味だ。

そこで友達には、言ってある。

  また富岡に帰ったら、お土産に頼むね。

  

  お返しは、鎌倉豊島屋の鳩サブレにするね▲ 

  母は月に1回早起きして、本店で壊れたサブレを安く買ってきた。
  いま、完全なものは池袋の西武本店でも売っている。
  簡単簡単。でもないな、上京できないもの、最近は。

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百日草

2021-07-28 | 遠い雲

百日草の花を見ると、母を思い出す。
毎年、タネから育てていた。

  暑い盛りに100日間も咲き、経済的で、丈夫なんだよ。

が口癖で、仏壇に飾っていた。

  こんな貧乏くさい花。

と、兄は腐していたけれど、森生はそうは思わなかった。

近頃あまり見られなくなった百日草は、いま。ジニアという。
でもね、森生には相変わらず百日草だ。

  高麗の里を徘徊している時、たまに農家の庭先で百日草を見かけます。
  その度に、気弱だった少年時代を思い出す。
  近頃は何かと攻撃的ですが。

  

  kanabunさまのブログには、見事な超接写写真が載っております。
  素晴らしく、新しい気付きがありました。

  無断でごめんなさい。触発され記事が1本出来上がりました。

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弁護士に家を貸す

2021-04-14 | 遠い雲

子どもの頃、家は貧乏でしたが、貸家が数軒ありました。
借家人は全て、父のきょうだい一家でした。
空襲で家を失くし、頼ってきたのです。

生活の足しにはならず、むしろ親戚だからこそのいざこざが絶えずありました。
あの頃、森生少年はよく思いました。

  親類に家を貸すもんじゃない。

ところが父は、

  弁護士と新聞記者に家を貸してはいけない。

と言っていました。

例の小室圭氏が28頁4万字もの文書を公表しました。
間違いない微妙な経緯を書き連ねているようですが、週刊朝日の広告によると、

  母と一心同体の書きぶり(辛酸なめ子)
  秋篠宮さまへのアリバイづくりの印象(河西秀哉名古屋大学准教授)
  法律学び過ぎて禍根残した(牧野和夫ミシガン州弁護士)
  潔さの欠片もない(岡野あつ子)
  怒りの怪物にならないか心配(香山リカ)

等々散々な評判で、そのとおりなんでありましょう。

テレビには皇室ジャーナリストと紹介される人が、いろいろ揣摩臆測してますな。
取材抜きですが、それもそのとおりなんでありましょう。

ところで、姫宮さまの持参金は、1億円以上にもなるらしい。
また、成り行きによっては、新たに小室宮家誕生になることもあるらしい。
この2件をどうお考えか、次はA4で2枚くらいの文書を公開して頂きたいです。

  

  あの頃から70年。
  いま、父が言ってた言葉を、なるほどなぁと頻りに思い出しております。

  なお、その後の報道によれば、小室氏は解決金支払いを検討中とか。
  金額は借りたか貰ったか揉めている400万円だそうで、どこから捻り出すのでしょうか。

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節分

2021-02-03 | 遠い雲

節分ですが、今年は今日2月3日でなく、昨日だったんですね。
地球の公転に小さなズレがあり、今年は124年ぶりに2日になったんだとか。

公転に小さなズレがあることは知っていた。
積み重なるズレを解消するために、4年に1度、閏年があるんじゃないのかぃ。

一体、誰が節分を2日に決めたんだろうか?
天文台つまり国交省か、総務省か、それとも成田山新勝寺か?
どうもそこんところが、じじぃはよく分かりません。

ここ高麗の団地に越してきて40年。鬼は外、福は内の声を聞きません。
以前住んでいた街の外れの住宅地では、聞いた記憶がありますが。

 

森生が子どもの頃、実家で豆撒きをしたことがあったかなぁ。
全く記憶がありません。

あの頃は食料不足。大豆をばら撒くことなんか考えられなかった。
父は親から受継いだ、鎮守の祭礼のお世話はしていた。
でも他の年中行事には全く無関心だった。

近頃、ハロウィンなど、横文字由来の年中行事は盛んなようだ。
節分や雛祭りや花祭りなど、古くからある漢字由来の行事も大切にしたいものです。
新しいことを飲み込めなくなったじじぃは、そう思います。

  

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松葉牡丹

2020-09-23 | 遠い雲

  

  朝刊に全15段を使った広告が載ってました。

広告主は小学生を対象にする進学塾SAPIX。
塾代表と北鎌倉女子学園学園長の、教育方針に関する対談です。
森生は、この女子学園の下にある古い町に生まれ育ち、
姉と妹はこの学園の卒業生です。

  

通称・台山にあるこの女子学園で思い出すのは、松葉牡丹です。

小学生の頃。女学校は小さく、隣に大きな邸宅がありました。
大人たちは「鐘紡の社長のお妾さんが住んでいる」と噂。

玄関前に、団地SC中庭の2倍はある車寄せ。
中央の円形は芝生。周りは車が通る砂利敷き。
真夏、砂利敷きに松葉牡丹が群生し、いろんな色の花が咲いていた。

森生は松葉牡丹が欲しくて、芥子粒のような種を集めました。
努力の甲斐もなく、うちの庭では発芽しなかったけどね。

  邸宅と女学校に上る急坂に側溝があった。
  まちでは「水洗便所の水だから触るな」といわれていた。
  子供たちは「便所の水なのに匂わない」と不思議だった。

  

  あれから70年余り。
  邸宅は女子学園に呑みこまれ、影も形もありません▲
  右手にあった、瞳パッチリのきよみちゃんちも分からない。

  女学校前からは円覚寺の杉森、北鎌倉駅と町並み、
  そして背後の山が見晴らせた。
  懐かしいけれど、大分様変わりしたようだ。
  もぅ10年以上、北鎌倉駅に降りたことがありません。

    故郷は遠きにありて思ふもの....

  

  時々、こちらのブログを拝見してますが、ふるさとは知らない町になりました。

  門は円覚寺境内にある帰源院山門の、およそ70年前の姿です。
  岩波写真文庫「鎌倉」から。

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八月の濡れた砂・九月の言葉

2020-09-01 | 遠い雲

八月が行き、また九月が来た。

熱かっただけで、何ごともなかった八月。
九月も、同じだろう。

ここまで来たら、何も起きないのが幸せ。
とはいえ.........。

じじぃにも輝いていた季節があった。
今と較べて、だけど。

石川セリの歌に、ほぞを噛む思い。

  八月の濡れた砂

そして昔の記事▼を思い出しました。

  九月の言葉

  

  挿絵は不肖・森生の旧作です

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としま えんど

2020-08-31 | 遠い雲

朝刊の全面広告にビックリ。大きな紙面の片隅にThanks.だけ。
紙面をよく見ればとしまえんだ。

豊島園の広告には、いつも驚かされましたね。

  例えば「史上最低の遊園地」。

としまえんプールの、愉快な駅貼りポスターは、毎年、期待していた。

  冷えてるプールの温水洋一。年増の水着美人48人が勢揃いしたTSM48。
  そしてデヴィ夫人に、マリリンモンロー▼等々。

  

残念ながら、ロマンチックな思い出はないなぁ。
甥たちの旺盛な食欲に慌てながらも、感動したことはあった。

他には会社の運動会かな? 
職場で参加した秩父音頭の練習は、勤務時間中に熱中し、部長に叱られたことも。

あの頃、会社は伸び盛りだった。
創業者である大将が社長一家3人を率い、グラウンドを一周。社員の歓呼に応えた。

会社はバブルの崩壊に遭い、名前だけ残し、競合グループに吸収された。
攻めには強く、守りは弱かったのだ。

始めがあれば、終わりがある。
豊島園94年。

  Thanks. Toshima-end

  

             200831


庭師志望

2019-11-05 | 遠い雲

庭師の仕事ぶりを、ついつい眺めてしまいます。
自分の庭仕事の参考になるばかりではありません。
庭師になりたかったからです。

中学生の時、父方の叔父が亡くなり、叔母は二人の従兄弟を連れて再婚。
祖母と父は、叔父一家が住んでいた離れを解体して売却。三人の持参金に。
小学生の頃、箱庭作りが好きだった森生は、屋敷内の木や石を跡地に移動した。
母方の祖父が「巧いな、いい庭師になれるぞ」と褒めてくれた。

祖父は自作農兼庭師だった。
若い頃、鎌倉山にあった田中絹代邸の庭園管理をしていたのが自慢だったらしい。
家族に褒められたことが無かった森生は、庭師になりたくなった。

しかし高校はバリバリの進学校。庭師なんぞは選択肢に無く、空気に流され大学へ。
そしてぼんやりしたまま卒業。だから大学生時代の記憶があまりありません。
当時の中学や高校に、三者面談なんて無かったですからね。

世間知らず、融通が利かず、生意気だったので、就職後はあちこちで小突かれました。
そして行き詰まったり、躓く度に庭師になりたい、と思ったものです。

退職後は近くの大寺に押しかけ、庭師の真似事をするつもりでしたが、仕事は殆ど掃除夫。
しかし、あの頃の体調は頗る良く、地元の友人知人を増やせました。

森林公園など公園のボランティアも、木に関わりたかったからです。

  

  師が付く職業には、医師・技師・法師・牧師・香具師・教師・詐欺師などがある。
  じじぃの身の丈に合った職業は、庭師だったのではないか、と今になって思います。

  あの頃、もしも自分の希望を貫いていたら..............。
  これは後悔ではありません。むしろ見果てぬ夢を愉しんでおります。
  負け惜しみ、かな?

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読書週間

2019-10-30 | 遠い雲

いま、読書週間なんですね。
しかし、じじぃの読書習慣はなくなりました。

視力が落ち、長い電車通勤と根気が無くなったからです。

大学生の約半数は1日の読書時間がゼロだそうです。

そもそも猫も杓子も大学に進学するのが間違いで、大学生は今の半分でいい。
そこそこ豊かになり、働く気がない若者が大学生になり、スマホ漬けになっている。

デモもできない最近の大学生を、学生と見るのが不適切です。

じじぃは増税前に、また本をこんなに沢山買ってしまいました▼
余白が多く軽い本ばかりですが、漫画以外は、多分積読になるでしょう。

  

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土用波

2019-08-19 | 遠い雲

  

  日本が戦争に負けたのは74年前。森生が小学3年生の真夏だった。

海水浴を始めたのは小学5年か6年生の頃だったかな。
当時の親たちは筍生活に追われていたので、近所の友だち5、6人と連れ立って行ったものです。

荷物は浮き板代わりの洗濯板だけ。
海水パンツはまだなく、普段着のまま。濡れても、帰る途中に乾きました。
弁当は、......どうしても思い出せません。

海水浴に出かけるには条件がありました。
それは必ず年嵩の子がいることと、土用波が立ち始めるお盆前まで。
そして滑川の河口付近に絶対近付かないこと、でした。

あの頃の、懐かしい鎌倉海岸の写真を、岩波写真文庫「鎌倉」から抜粋します。
何もかもが貧しかったけど、海の水はしょっぱく澄んでおりました。


由比ヶ浜  その先は材木座海岸、小坪と葉山長者ケ崎。逗子海岸は隠れている。


仮橋  滑川河口。手前が由比ヶ浜、川向うは材木座海岸。


和賀江島  材木座海岸東端で鎌倉時代の港跡。沖に江の島と稲村ケ崎。


ミス鎌倉  取り巻く海水浴客。


坂の下海岸  由比ヶ浜西端。伯母の家があった。


若宮大路  一の鳥居付近。家路。


砂山  若宮大路西側。足跡。夏の終わり。

今日は82回目の誕生日。思えば遠くへ来たもんだ。

190819


浮草と旅情

2019-06-03 | 遠い雲

教頭先生のブログに、京マチ子が出演した、小津安二郎監督の「浮草」の後半が載っていた。
中村鴈次郎と京が、土砂降りの雨の中、激しく言い争うところから最後までである。
う~ん、いいなぁ、見入ってしまった。

大昔、初めて観た時は退屈だった。
けれども今、ブログの小さな画面でも画面・俳優と演技・筋など全てがいい。


なお、教頭先生は過去記事で「浮草」について書いている。
もう一度「浮草」を観たくなった。

デヴィッド・リンチ監督、キャサリン・ヘッバーン主演の「旅情」。
初めて観たのは、確か高校生の頃だった。

ベネチアの街が綺麗。
人々が可笑しく、最後が哀しい旅行映画という感想だった。


その後10年くらい前だったかな、TVで「旅情」を改めて観た。
あの映画は、美しく、笑えるだけではなかった。

オールドミスの初めで、多分、最後の悲しい失恋物語だったんですねぇ。

じじぃの心はヘッバーンに激しく揺さぶられました。
そしてその後の人生を、今でも時々考える。

  教頭先生のブログはこちらからどうぞ。

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渋沢栄一

2019-04-11 | 遠い雲

日本の資本主義の父・渋沢栄一が新1万円札の顏になる。

生誕地埼玉県深谷市は大喜び。同じ県民としてじじぃも嬉しい。
それに、渋沢一族の本流・渋沢龍彦の空色の瀟洒な家があった町内で、生まれ育った
(.......カンケイないか)。

また凡そ20年前。
深谷市が催した渋沢栄一ツアーに参加し、
血洗島(物騒だね)の傾いた巨大な生家や、記念館ほか関連施設を見学した。

その後入間市の「道徳銀行」の遺構も訪れていて、渋沢栄一は親戚のお祖父さんみたいに親しく感じる。

渋沢ツアーに付き添ってくれた深谷市民のおじさんが、こっそり教えてくれた。
渋沢には「大勢のお妾さんや愛人がいたけど、誰も不平不満を漏らさず、渋沢を慕っていた」そうだ。
畜妾は成功の証とされる時代だったし、各人に十分なお手当てを支給していた効果もあるらしい、と。

以下は、公にした渋沢の金銭哲学です▼

  日本を豊かにするには商売が大切で、
  論語と算盤を両立させ、私益と公益を合致し、富を社会に還元する、
  すなわち、よく集め、よく散ぜよ。

等々強欲ゴーンには、渋沢の爪の垢を飲ませてやれ。

顏を渋沢栄一に決めたのは安倍晋三と麻生太郎という最悪のコンビだった。
人心一新が目的の一つとも言われるが、本当にそうなら2人ともさっさと引っ込むべきである。
男の顔は履歴書で、人相は体を表しているんだぜ。

しかしじじぃは、1万円札なら誰の顏でも歓迎です。
津田梅子。中学の英語の先生以来、津田塾の卒業生には何人も出会ってるが外れはなかった。
北里柴三郎。千三・悪太郎よりずっとずっといい顔で、黴菌に強そうだ。

  

  ところで、ここだけの話、じじぃには箪笥預金がある。
  (2年前の全国合計では43兆円.......比較にならないな)。

  じじぃの場合、主力銀行の倒産に備えたものです。
  だが、自販機の改造やペイペイの普及で、福沢諭吉が使えなくなる恐れがある。

  冥途の土産にするのは惜しいので「よく散ずる」つもりであります。

  例により、隣のキムチ野郎が渋沢栄一にケチを付けてきた。
  仮にあちらの始祖・檀君にしたとしても文句を言うだろう。
だから無視すればいい。

  新壱万円札の10000が大き過ぎですね。財政破綻の前に意匠が破綻している。
  でも、ごっそり集め、どっさり散じたいなぁ。

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中学入試問題

2019-03-25 | 遠い雲

  鶴と亀が併せて7羽(匹)。
  脚(足)の数は合わせて22本。
  それぞれ何羽(何匹)ですか?

中学校の入試にこういう問題が出たらどう回答するか?
方程式と鶴亀算での答えの出し方が新聞に載っていた(11日付朝日新聞朝刊11頁)▼

  

じじぃはね、算数も数学も全く苦手。11日以来、時々新聞を見返し頭を捻っていた。
方程式の方は少し考えたけど、半日で思い出した。①②③④も分かった(つもり)であります。

だけど鶴亀算が未だに分からんのですよ。

中学入試では鶴亀算で答えを出さないとダメだそうで、方程式では×だという噂。
文科省の学習指導要領では、方程式は中学から始めるので、使ってはダメなんだそうだ。
このご指導に対し、算数や数学はどんな発想でも論理が正しければ正解、という先生もいる。

う~む、困ったもんですなぁ.......。いずれにしても、じじぃの中学入試は桜散るだわぃ。

  

  小学校での算数の授業は九九と算盤の足し算引き算だけだった。
  担任の女先生は始まったばかりの学校給食にかかりっきりで、算数の時間は算盤の自習時間だった。

  教科書は、現在の新聞紙半頁大の半分の藁半紙を生徒たちが自分で半分に折り、10頁分くらいしかなかった。

  微分積分が趣味だった父が算数を見てくれたのが原因で、算数が徹底的に嫌いになった。
  以後、100年近く生きているが、鶴亀算も方程式も全く必要がない人生だった。だから文科省は黙ってろ。

  鶴亀算や方程式が分からなくても心配することはない。いい証拠がここにいる。
  だけど人生の勝ち組じゃないのね。

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円覚寺舎利殿

2018-10-05 | 遠い雲

毎日読んでいるブログ「あれれこれれ」に、台風24号が円覚寺の舎利殿を壊した、との記事がある。

鎌倉は海沿いの街なので、暴風の被害が相当あっただろうとは思っていた。
しかし円覚寺は山あいの北鎌倉(山ノ内)。それも谷戸の奥に鎮まる舎利殿の、暴風被害には驚いた。
そして遥か昔の舎利殿の様子を思い出した。

いま、国宝・舎利殿に立ち入ることはできない。
しかし森生が小学生の頃は、子どもたちが勝手に内部に入っても、雲水に咎められることはなかった。
薄暗い内部の黒い石張りの床が、冷たく気持がよかったことを覚えている。

巨樹に囲まれた舎利殿左側の急斜面をよじ登ると、そこには畑が広がり、まるで別天地だった。

畑を横切り、更に急坂を上れば六国見山の頂上である。
西は大船の町並。その背後の山並みの先には、丹沢・箱根の山塊と、富士山が見えた。
南側は輝く相模湾と伊豆半島。江の島は丘陵に遮られていたが、広い風景に見とれたものである。

ノブちゃんが持って来た白い食パンは、凄く美味かった。

近所のノブちゃんは総菜店を継ぎ、まだやっているはずだ。
森生は実家も両親の墓参りにも行かないので、10年以上も会ったことがない。
シンちゃんはほかの町へ引っ越してしまい、アグちゃんと隣のショウちゃんは、随分前に亡くなった。

鬱蒼とした杉森に包まれていた円覚寺は広く、子どもたちの遊び場だった。
公園のように明るくなってしまったいま。
観光客が溢れ騒々しい。

おじぃさんのふるさとは、心の中にある。

  

  写真は笠智衆写真集「おじいさん」朝日新聞社刊から。

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