朝から雨である。周りの緑は日増しに濃くなってきた。
こういう日はひねもすの物思いと、読書と文筆活動、時々転寝、度々のお叱呼に専念する。
物思いの結果、おお、重大な公式を発見したぞ。
(老人力+鈍感力)×天動説=我が世の春
ガリレオは火炙りの刑に処すべきだった。地動説は間違ってる。
この公式を林住期に適用すれば、怖いものは無い。
森生の読書と文筆活動とは、まだ完結していない新聞小説を批評するという乱暴な試みである。
例えば、朝日新聞夕刊連載小説、「愛しの座敷わらし」。
文体が森男のささ(わ、ではないよ)やかブログ「林住記」に少し似ている。
作者の萩原浩は森男より年下らしいし、「林住記」の方が先に発表している。
コメントして来ないのはお忙しいからだろう。絶対に真似してる、と思う。
この小説は、登場人物の思ったことが、そのまま状況描写になり、筋の進行に繋がり、全く無駄が無い。
小学生の智也君は座敷わらしと遂に出会い、けん玉を教えてやろうとしている。
座敷わらしは以前から気にはなっていた。この度、ようやく正体を知ることになりそうだ。
だから、文体が似ているけれど、許して上げよう。
同じ朝日朝刊の「宿神」。これは駄目ッ。作者は夢枕獏氏である。
既に若き日の清盛と西行が登場したし、獏先生なので今昔物語を超える奇想天外を期待していたが、やんごとなき美女を巡って、鼻血ブー的しんねりむっつり話。一向に話が進まない。
文体は矢鱈に大袈裟、空白と点々だらけ。手抜きも甚だしい。
なお、具体的な文体は、朝日新聞を購読して下さい、とは森生も無責任だね
まだ、雨が降っている。
気が付いたら、うわみずざくら(上溝桜)が満開だ。水滴を含んで重たそうだ。
ついでに、100年前のいわゆる名作も批評してみよう。
朝日の土曜版で紹介された森鴎外の「舞姫」です。。
その記事によると、鴎外はドイツに国費留学し、かの地の舞姫とネンゴロになるが、出世のため恋を振り払って帰国する。舞姫は追いかけてくる。それでも袖にする......、だったかな?
早速、集英社文庫「舞姫」を読んだ。
石炭をばはや積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静かにて、熾熱燈の光の晴れがましさも徒なり。今宵は夜ごとにここに集い来る骨牌仲間も「ホテル」に宿りて、舟に残れるは余一人のみなれば。
五年前の事なりしが、平生の望み足りて、洋行の官命をこうむり、このセイゴンの港まで来しころは、目に見えるもの、耳に聞くもの、一つとして新たならぬはなく、筆に任せて書きしるしつる紀行文ひごとに幾千言をかなしけん、当時の新聞に載せられて、世の人にもてはやされしかど、今日になりておもえば、穉き思想、身のほど知らぬ放言、さらぬも尋常の動植金石、さては風俗などをさえ珍しげにしるししを、心ある人はいかに見けん。
こたびは途に上りしとき、日記ものせんとて買いし冊子もまだ白紙のままなるは、独逸にて物学びせし間に、一種の「ニル・アドミラリイ」の気象をや養い得たりけん、あらず、これには別に故あり。
げに東に還る今の我は、西に航せし昔の我ならず、学問こそなお心に飽き足ぬ・・・
おいおい、これで一頁だぜ。
ルビはある。語注もある。でも、何だい?これは。
ウィキペディアでは、高雅な文体と浪漫的な内容で初期の代表作、と持ち上げているが、べけんや、であるな。
森鴎外は森男にとって、もぅ論外デアル。
「舞姫」は駄作である。
先ず授業を受けて、それから読み進まなければならない。
紙の裏が少し読めるようになり、初めて読んだ「ヰタ・セクスアリス」は興味津々に読み果せたのだが......。
「舞姫」は時間がたっぷりある学生期に読むべきであり、体力と我慢がなくなった林住期に読むものではない。イライラするだけだ。
あとがき■井上靖による「舞姫」の現代語訳があった!お勧めできそうな「ちくま文庫」です。