よく手入れされた、昔ながらの広い田園風景である。
東松山市神戸(ごうど)では田植えが始まった。
最近、お米には昔ほど頼らなくなったけれど、豊かな気分になれた。
(この見事な田圃でも、すぐ近くで埋め立て工事が始まっていた)
120531
よく手入れされた、昔ながらの広い田園風景である。
東松山市神戸(ごうど)では田植えが始まった。
最近、お米には昔ほど頼らなくなったけれど、豊かな気分になれた。
(この見事な田圃でも、すぐ近くで埋め立て工事が始まっていた)
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先頃亡くなられた吉田秀和先生が、バルバラ夫人を喪ったときに、朝日新聞の記者に語ったというお言葉です。
黄泉の国に行って妻を連れ戻せれば、と本当に思う
近頃、いい歳をした大人が親しい人が亡くなると、キリスト教徒でもないくせに、矢鱈と「天国へ行った」とか「天国から見守ってくれる」とか、「天国」を連発する。
ま、確かに「極楽へ行った」とか「極楽から見守ってくれる」では、残念ながら少しふざけた感じがしないでもない。
しかし吉田先生は流石に「天国」ではなく、国風を踏まえて「黄泉の国」だった。
以前、小沢昭一さんが朝日新聞に載せた何方かに対する追悼文では「あちらへ行った」と書いた(と記憶している)。
「あちら」または「彼岸」。これもステキな表現ですね。
なお、「見守ってくれる」なら「草葉の陰から」を頭に付けると上手く収まると思う。
子どもに言い聞かせるならともかく、公の場で「お星さまになって見守ってくれる」なんて大人が言わないで欲しい。
昨夜(5月29日)の朝日新聞夕刊「文芸/批評」頁に、丸谷才一さんによる吉田秀和先生への追悼文が掲載された。
見出しは「われわれは彼によって創られた」です。
見出しだけ読むとタモリさんが赤塚不二夫の告別式で読んだ、感動的な追悼の言葉に似ているけれど、全文は流石、弔辞の名手・丸谷才一さんである。以下は冒頭の11行です。
これはわたしの持論だが、今は新しく想を練っているゆとりはない。
何度も書いたことをくりかへす。
批評家は二つのことをしなければならない。
第一にすぐれた批評文を書くこと。
第二に文化的風土を準備すること。
この二つをおこなって、はじめて完全な批評家となる。
旧仮名遣いで書いた追悼文はとても平易であり、たっぷりとした風格があり、嫌味なく学識を披露しながら吉田秀和先生の成し遂げた事柄を、心を込めて具体的に指し示し、間然とする所がない。
森生は高原で開催した音楽祭の会場で、一係員として吉田ご夫妻とほんの少し立ち話をしたことがある。
先生は音楽界の天皇と言われていたけれど、夫人と共に威張ったところなどまるでなく、本当に偉い人なんだ!、と思った。
丸谷才一先生の弔辞・祝辞・挨拶を集めた書籍はこちらをどうぞ。
120530B
以前から見たかったユリノキ(百合の木・別名半纏木)の花を見つけた▲
森林公園中央口を入ってから直ぐ目の前に、実物があった。
ユリノキは落葉高木のため、花にはなかなかご挨拶できない高嶺の花である。
日本中のユリノキのご先祖、とも言われるユリノキは東京国立博物館本館前庭に聳え立つ▼
森林公園の孫か曾孫は、既にかなりの高木だが、垂れ下がった枝先の花は背伸びすると、目の前にあった。
植物園へ行く大通りにあるユリノキ並木は、上の方で咲いていて、鳥にならないと見られません。
5月20日に写しました。
120530A
今年度第3回目になる「森林公園里山案内人講座」は、題して「次世代後継木の育成」といういかめしい内容だった。
最近、森生は天候とやる気に恵まれず、既に2回開催された講座はサボっている。
林内を歩きながらの観察だろうし、新人ばぁばが多かろう、と下ろしたての作業ズボンでめかしこみ参加した。
だが、集まったじじばばは男女半々僅か6人だぁ。
普段は名調子の職員氏は、何故か冷たい麦茶を用意して待ち構えていた。
そして傍らには作業道具が積んであるネコ(一輪車)があった。
普段から上天気の職員氏。今日は日本晴れだ。
「本日は雑木林を伐採した後の笹むらの中で、どういうことが起きているかを観察していただきま~す」、だと。
要するに、「じぃさんばぁさんは山で笹刈りをやって下さいね」、ということだった。
彫刻広場に着いた時、気温は既に25度を超え、最近珍しくなった春蝉が盛んに鳴いていた。
強い日差しが照りつける笹原での笹刈は、決して楽な作業ではなかった。
しかし発芽したばかりの小楢の幼木を、横暴な笹から助け出す作業は、キモチのいいものだった。
苦労人の職員氏は、「助けた小楢には記念に皆さんの名前を付けた篠竹を立てておいて下さい」、と気を使ってくれた。
森生は自分印を立てない代わりに、ごんずいや萩・紫式部・空木などの幼木から山百合までも救出してやった。
あと20年後、幼い子らはどう育っているやら........。
作業は昼前には終え、蛇が怖くて一人では到底入れない湿った林の奥へ、道無き道を職員氏は案内してくれた。
藪の中には初めて見たサイハイランの群落と、カンアオイのたった一株があった。
カンアオイは多峰主山で山野草博士が教えてくれたのよりも立派だった。
笹刈は鎌ではなく刈込鋏を使った。
刈込鋏は公園の備品とは思えないほど良く切れた。
草刈も笹刈同様、鎌より刈込鋏の方が作業がラクです。これからもそうして下さいね。
120529
ここ数年、当地にやってくる意気地の無い雷には不満があった。ところが昼飯時に続く2回目の雷雨は物凄かった。
雹が混じる猛烈な北風が新緑をもみくちゃにし、窓硝子にカチン・ピシッと当る雹の音に、思わず腰が浮かされた。
15年前ほどの被害がなかったのは、僅か5分くらいであったことと、庭木を大幅に切り詰めておいたためのようだ。
.....ん? やや! またピカゴロが始まったぞ。も・もう分かったから、東京スカイツリーへ行って下さいな、雷サマ。
きょう3回目の雷は、結局、音だけで済み、夕方4時には初夏の日差しが戻ってきた。ほっ。
暫くボーゼンとしていて、激しい雷雨の真っ最中は撮れませんでした
120528
わらび餅は随分勉強になったけれど割合簡単にできたので、虹鱒の塩焼きを手伝うことになった。
どういうわけか、おばぁたちが今日は少なかったからである。
家でししゃもや塩鮭を焼いたことは何回かあった。乾燥気味の切り身や干物なら大丈夫だった。
しかし尾頭付きの魚に向き合うのは、憚りながら初めての体験である。
むむっ、20のつぶらな片目が森生を見上げている。既に絶命しているし、はらわたは魚屋に削除してもらってある。
何を恐れることがあろうか。
水道水でジャブジャブ洗い流し、腹の中を指先で充分に洗い、塩を振りかけ、腹の中にも塩を詰めこんた。
虹鱒はぬるぬるして持ちにくい。尾鰭には特にたっぷり塩を振りかけてね、と教えてくれるおばぁがいた。なるほど。
グリルは4箇所のガス台を使い、焼け具合はバンダナおじぃが忙しく巡回し、点検してくれた。
このご同輩、かき揚げ天麩羅は上手いし、昼食会には一番乗りしてお茶を用意する。並みのおばぁは敵わない。
出来上がった料理は、蕗が筋張っていた以外は、美味かった。ま、蕗は全てが筋で成り立ってるようですが。
味噌汁やおからや酢の物はしっかり味が付いていた。生活習慣病など今更恐れることはないわぃ。
森生は出されたものは一期一会。全てをその場で食い尽すという哲学があり、ご飯粒一つ残さなかった。
寝る前の体重は、多分、68kに達しているだろう。
カーじぃはいつものようにお喋りに忙しく、今日も大分残してしまった。
夕飯に、と残りものをタッパーに入れて持ち帰った。
120525
わが町は坂の町だから石垣が多い。
築30年。黒ずんだ石垣を水洗いして、新品同様にしたお宅があった。
今回は石垣に騙し絵を描いて、更に騙し絵を描いたお宅です。
大したものです。ご苦労さま。
現在はエッシャーの「滝」▼ですが、少し前まではマチュピチュ遺跡の絵でした。
また別の絵になったら、改めてご報告しますね。
120523
たんぽぽの綿毛を眺めていると、遥かなる旅への熱い想いがふつふつとこみ上げてくる。
かの芭蕉翁(45歳だよ!)も、新暦に換算して5月16日・「旅の日」に、曾良を伴い奥の細道へ旅立たれた、とか。
ああ、千の風に乗って諸国をさすらいたいものだ。
巨大地震も大竜巻も、ギリシャ危機も、この際、神の思し召すままだわ。
と、そこへ幼稚園児が大挙して乱入してきた。
あっという間にたんぽぽは踏み荒らされ、ただの原っぱ哉。
ねぇボクたち。ボクたちにはあと80年は残ってるんだろぅ?
少しはじじぃに遠慮したっていいじゃないか。じじぃにはあと何年も.......
・・ 行く春や子啼きじじぃの目は泪 ・・
........... 森生
120522
予報が外れて晴れてたので早起きし、金環蝕を見るために団地の周辺を徘徊した。
朝食はまだ摂ってはおらず、ジュースとビスケット一枚だけ。ガス欠であまり遠くには行けないからね。
TVでは何日も前から話題にして、今朝は早朝から大騒ぎだ。
けれども高麗の里では、堅気の人は既に出勤途上であり、普段と変わらない穏やかな朝だった。
団地の住民が借りている菜園で金環蝕を堪能し、小一時間後に猫額亭に戻り朝食にした。
日テレはテリー伊藤さんを中心にまだ騒いでいた。愛を告白するなど、猿山の猿よりもおっちょこちょいが多い。
小学生低学年の頃、皆既日蝕があった。確か真夏だった。暗くなり涼しい風が吹いてきたのを覚えている。
当時、「日食グラス」は無く、硝子のカケラを蝋燭の煤で黒くして日蝕を見た。フィルムの端っこや下敷きの子もいた。
今回は文科相が直々に太陽の見方を実演し、国営放送は市販の「日食グラス」を何度も勧めてた。
近頃の子どもは手先が不器用で、目が弱くなったのだろうか。
今回マスコミは「日食・金環日食」とする。森生は「日蝕・金環蝕・皆既日蝕」と覚えている。文科大臣、ダメですか?
だって「日食」では学校給食のパン屋さんみたいではないか。
玄関先でこれから登校する中学生たちが、「わっ、凄げぇ!」、と騒いでいた。
日蝕が勢揃いしていて確かに凄かった。
記憶が曖昧だが、「日本で皆既蝕が見られるのは30年後」と教えられた。
「へ~そんな先のこと!」と驚いたが、既にその2倍は生きた。あの頃は埼玉県や高麗の里などは全く知らなかった。
いま、家に蝋燭は無く、目は酷く衰えた。思えば遠くへ来たもんだ。
120521
森生はこれでもいっぱしの植木職人であり、弟子こそいないが親方である(つもりでいる)。
庭木を刈り込む時は、何度も前後左右ばかりか2階からも樹形を観察し、鋏や鋸は慎重に使うことにしている。
電動トリマーでガガーッと刈り込む、その辺でちょろちょろしているシルバー人材時間給じじぃとは心掛けが違うのよ。
今日も、慎重に観察と刈り込みを繰り返していたら、自慢の紅梅は変わり果てて、さっぱりした姿になっていた
う~む........、丸坊主ですな、いや、ただの棒っ杭か(と少し後悔している)。
しかし昔から言われているではないか。
「桜切るバカ、梅切らぬバカ」
ここまで徹底して枝を伐ってしまえば、樹は小さくなり脚立や梯子は使わないで済む、というもんだ。
今後、転落・骨折事故は起きっこなく、高嶺者の庭弄りはこうあるべきなのである
勢い余って、開花前の皐月も刈り込んでしまった(とほほ)
120518
西武鉄道社員と家族が植林した西武の森。数年前の細い苗木はしっかり成長し、いま、若葉が輝いている。
辛夷、姫空木、雪柳、下野.......。月初め、丸裸になった荒地に、森生が植えた小苗も雨のおかげで根付いたようだ。
こぼれ種から芽生えてくる山躑躅や小紫陽花に混じって、十年後、白い花々が咲く景色を想像すると嬉しくなる。
120517
高い空に眩しい日差し。爽やかな風。やっと初夏らしい朝が来た。
新緑に染まりたくて、久し振りの山歩きをした。
団地の端から少し入るといきなり視界が広がる。谷間を操車場の残土で埋め立てた人工の高原である。
そして「飯能西武の森」の中心地である。少し前に、西武鉄道社員と家族による植樹祭が盛大に開催された。
最近、埼玉県の事業で、周囲に鬱蒼としていた杉檜林を大胆に伐採した。
そのため操車場の先に飯能の市街地が、坂の上の笹山からは高麗峠方面の新緑の海が見渡せるようになった。
笹山には多峰主山山系でいちばん見事な雑木林がある。
五月にもなると、濃い緑で日差しは遮られ、まるで海底を歩いているようだ。
針葉樹林帯には作業用の林道が縦横に開鑿され、伐採した杉や檜が災害の後のように散乱している。
密林は明るくなったけれど、林床は見るも無残な姿になった。これが新たな災害の始まりにならなければいいが.....。
山は住宅街のすぐ隣にあり、一周およそ一時間。山の向こうにあるスーパーへ行く人しか入らない。
独り占めできるけれど宝の持ち腐れで、勿体無いなぁ、とも思ったりする。
現在、社有地である「飯能西武の森」は立入禁止であるようなないような.........。微妙な状態です。
しかしその中を通る山道は公道で、通行禁止にはできないはず。
ただ、伐採作業中なら危険なので、通行は遠慮しましょうね。
それに、伐採作業用に作った新しく広い道は崩れやすいので、森生以外は歩かないで下さいね。
120516
ここ暫く、順調に動いていたグーブログの編集画面。
今夜は全く言うことを聞きません。
2日休んで、いい写真を沢山揃えて、さぁ、と始めたらこのテイタラク。
泣く子とグーブログには勝てないや。
草臥れた。もう寝ますね。
120514