表紙カバー
77年に発売されて直ぐに買った本が、みつかった。
本の名は「好きな歌・嫌いな歌」である。
作曲家の團伊玖磨が書き、読売新聞社が出版した。
買ったままだったのは、あの頃は滅茶苦茶に忙しく、本なぞ読んでいられなかったからである。
今、暇を本当は持て余し、歌ったり読んだりする暇はたっぷりあるのに忙しいのは、結局貧乏性なのだ。
本当は「歌の翼」カテゴリーをもっと充実したい。だが書きにくくて困っている。
人気がある歌や音楽を書くのならいいが、臍が曲がっていて流行らない歌が好き。
しかも音楽の専門用語を知らないこともあり、感想を書くのが難しい。
中身の表紙は五線譜
そこへゆくと團伊玖磨は凄い。
専門知識を生かして縦横に説明して、説得力がある。
読売新聞が付いているから、資料は十分にあり、信頼できる。
育ちが良く顔が広いので、話題が豊富である。
文章が巧みで、作曲家として大きな実績があり、書きたい放題でも許される。
本では全部で59項、約100曲の歌を思う存分批評している。
嫌いな歌の嫌いな点を遠慮会釈無く分析していて気持ちがいい。
團伊久磨は書いている。
・平均的日本人の誰もが知っている古今東西硬軟両様の歌に、100曲を対象にした。
但し、寮歌・軍歌は歌として考えられない程粗野だから外した。
・また、これまで歌の考現学は歌詞にばかり気を取られていいた。
自分はメロディーの大切さも知っている。
だから従来とは異なるアングルからこの本を書いた。
例えば、小山明子作詞作曲(歌)の「あなた」は、メロディーは褒め、歌詞はコテンパン。
面白いから以下に短縮転記した。
旋律は通常のポピュラーのものより一段とリファインされたところがあった。
ややたどたどしいが、転調的な変化和音も何ヶ所かあり、和音感がある事がすぐに頷けた。
ピアノの弾き語りをする少女が作ったと聞き、成る程と思った。
(以下中略)
ところが惜しい事に、歌詞を聞いて読んでみて、全くうんざりした。
(以下、コテンパンの7行は中略)
結局、この歌詞を僕が好かなかった理由は、貧しさにある。
建売住宅の宣伝のような何とも陳腐でいじましいマイホーム主義などを、
どかんと一発、ぶっ毀したところに歌はありたい、とそう感じたのである。
裏表紙カバー
まさに言いたい放題ですね。
だが「林住記」と異なる点は、連載中から多くの読者を怒らせたことである。
面白いので、以下に転記しました。
連載中から、僕は随分方々からお叱りのお手紙を戴いた。
自分の大好きな歌を、貴兄は大嫌いだと書いて怪しからぬ、というものや、
祖父の作詞を詰まらぬ作詞だと書かれて憤慨したというものや、
自分の嫌いな歌を、貴兄が好きだと書いてあるのを読んで呆れた、
というものなど、まさにさまざまだった。
そしてここからが團伊玖磨先生らしい。
これらの手紙を下さった方は、皆、飛んでも無い勘違いをなさっていると思う。
人間、一人一人、考える事、感じる事は異なって然る可きなのであり、
同じ思想、同じ感覚で一億人以上の人間が暮らすなどいう事は、
少しも嬉しい事でも何でも無い。
僕が好きで、貴方が嫌いな歌が幾らあっても良いのだし、
貴方が好きで、僕が大嫌いな歌がどんなに沢山あっても、
それはその歌を少しも害う事では無く、
ましてや、貴方を害う事でも、僕を害う事でも無いのである。
白秋が歌ったように「私は私、罌粟は罌粟、何のゆかりもないものを」と、
クールに突き離し合ったところに、歌の素晴らしさは立ち昇るのだと言いたい。
偉いものですね。流石、團先生。
森男も爪の垢を煎じて飲んで、今後は嫌いな歌についても、大いに書いちゃおう。
この「林住記」は誰も読まないからお叱りのコメントが来る筈が無い。
と開き直り、勝手気侭に鼻歌を書いてゆこう。
團伊玖磨
團伊玖磨作曲で森男の好きな歌。
歌曲「花の街」、童謡「ぞうさん」、歌劇「夕鶴」。
映画「無法松の一生」(三船・高峰主演)は映像の美しさと、ステレオ録音の管弦楽による映画音楽は圧倒的だった。
湘南地方の風物を書いた随筆「エスカルゴの歌」は抱腹絶倒。
アサヒグラフ連載「パイプのけむり」は36年間で全27冊にもなる人気だった。
本の題名の付け方も面白い。