丸谷才一先生の「袖のボタン」を、やっと購入した。
本は飯能の本屋で買うが、どういう訳か、江原啓之サンのものはたっぷり置いてあるのに、こういう面白い本はなかなか店頭に現れない。(スピリチュアル・江原も面白いですよ)。
袖のボタンは月1回、今も朝日新聞に連載されている。
その都度読んで、う~ん、と感心納得驚嘆しているのだが、やはり纏まったものはそれなりに持ち重りがある。
内容に就いて、下手な紹介をするより、腰巻から転記します。
思いがけない清新なものの見方
いちいち納得のいく論旨の展開
言葉と思考の芸の離れ業による現代日本文明への鋭い批評
大学入試によく出るのも当たり前
朝日の書籍出版編集部か出版販売部か知らないけれど、簡にして要を得て、流石秀才揃いの方々ですね。お陰でラク出来ました。
全部が気に入っているけれど、特に唸らされた二つを、以下、簡単に評論します。
1.「歌会始に恋歌を」
先ず詩人の大岡信さんが歌会始の召人(めしうど・招待客)になって詠った、御題「幸」による詠進歌の紹介から始まる。
いとけなき日のマドンナの幸ちゃんも孫三たりとぞ e メイル来る
森男なんぞは、な~んだ、大岡センセともあろうものが.......、と思うのだが、丸谷先生によると、
言葉の藝があざやかだし、水際立った機智の遊びだし、それに、ここが一番
大事なところだが、歌会始の歌の詠みぶりに対する果敢でしかも粋な批評が
ある、
となる。そして、
日本文学の中心は和歌であり、その中心は天皇の恋歌である。代々の帝は
恋歌を詠み、国民に恋歌を勧めることによって国を統治した。
ところが明治政府は軍を天皇のものとし、天皇を大元帥に祭り上げ、武張っ
て神々しい感じにしなけれぬと考え、天皇が恋心を詠むことを禁じた。
日本人の俳句や和歌など短詩への関心の高さや、皇室で毎年行われる歌会
始は他国には無い優美な文明であり、誠に誇らしい。
しかるに何事か。(丸谷先生はもっと婉曲に、ユーモラスに書いていますが)。
軍国主義の縛りが無くなった戦後の歌会始でも、一向に恋歌が詠われない。
無学な藩閥政府が始めた文学統制がまだ生きている、歌会始という折角の祝
祭が昔日の宮廷文化と較べて、輝かしさ、花やかさが足りず、点睛を欠いてい
て残念だ。
と憤慨していて、森男も残念です。
2.「石原都知事に逆らって」
この項では、伯父の名声のおかげで帝位に就いた陰謀好きの愚物、と思っていたナポレオン3世のことを、鹿島茂著「怪帝ナポレオンⅢ世」(講談社)で、パリ大改造をした人物と知り、尊敬に値する傑物と評価を改めた、と前書きする。
話変わって、丸谷先生は、
日本の都市の醜さに言及すると、自虐的都市論と言われて嫌われるが、諦
めてはいけない。
と説き、石原都知事の発言を紹介する。
以下は丸谷先生が、やけのやんぱち、と呆れている都知事の発言です。
「東京は救いようがないよ。これを都市計画が出来る街にしろとか、外人が来て
びっくりするような街にしろとか。そりゃ大地震でも来て焼け野原になりゃ、多少
そりゃ、建て直すんだろうけれども.....」
この発言を、都知事はもっと冷静、着実、具体的に対処すべきだ、と批判する一方、芦原義信の名著「街並みの美学」(岩波現代文庫)に言及する。
日本の商店街で街並みを決定しているものは建築の外壁ではなく、外壁から
突出しているものである。この種の突出物を少なくすれば、街の景観がすっき
りして、豊かなかんじになる。
と、芦原の主張を支持。更に、
都市部では、防災上からも、美観上からも、看板、広告塔、電柱、電線等を撤
去しよう。
「芸術作品としての都市」は差し当たって高嶺の花だろう。しかしそれなら、醜さ
を極力減じた「実用品としての都市」を作ろう。そういう、いわば最初期のインダ
ストリアル・デザイナーのような抱負を、日本人全体がもたなければならない。
と結ぶ。
杉並の住宅街のけたたましい楳図邸についても、丸谷先生のご意見をお聞きしたいですね。勿論、先生は顔を顰めると思います。(→8/6「楳図邸の騒色」)
この他、マクナマラ元国務長官を上げたり下げたりの「東京大空襲のこと」や、小泉、安倍氏の言葉使いをこき下ろした「政治家と言葉」(→10/4<同題)>)など、腰巻の惹句どおり、「植木に水をあげる?」(→2/17「敬語で水やり」)以外は、いちいち納得のいく内容でした。
多分この本も、いずれ文庫本化されるだろうが、固い表紙のしっかりした本で読んだ方が、脳味噌に直接、油を注したようで得した気分になれる、と思ふ。
▲装丁・画 和田誠
建築家芦原義信著「街並みの美学」(正・続)は79年、83年刊。
大分以前の出版物だけれど、未だに古くならない「名著」です。
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