
新聞には、間違いが多い。
朝日新聞火曜日朝刊埼玉頁に「ふるさと散歩 作家たちの描いた埼玉」という連載がある。
8/26は曽野綾子の小説「百済観音」を取り上げた。記事はかなり雑な内容である。
なお( )内は森男が付け足しました。
65(昭和40)年に発表された「百済観音」は、この連載記事によると以下のように始まるそうだ。
・真言宗智山派光徳寺は、埼玉県日高町の南端、天覧山に近いところにあり......
そしてこの後は、
・地元の最大名所、高麗神社の縁起や来歴に触れている。
と書いてある。小説の粗筋は、
小さな荒れ寺光徳寺で、定朝作らしい阿弥陀如来像が見つかり、一躍有名に。
隣の浄法寺は伽藍は立派。住職の人望も厚かった。しかし光徳寺への嫉妬に苦しむ。
遂に、工作して火事を誘い、光徳寺も如来像も焼いてしまう。
そのあと、焼けた如来像の胎内からは、金色の百済観音像が出てきた。
一方、理性を取り戻し火災から如来像を救出しようとした浄法寺住職は大火傷を負い、56歳の命を終えた。
と、なっいるそうだ。「工作して火事を誘い」とはヘンな文章で、「放火した」とでもいうのだろうか。
記者は作者・曽野綾子や地元の人々から取材している。
①作者には、ヒントになったモデルや出来事、小説の狙いなどを文書で問い合わせた。
その結果、文書で回答が来た。内容は、
・一度書いた後は、どの作品もきれいに忘れてしまう。常に次の作品のことを考え ているので。
・(小説で言いたかったことは)読者に自由に解釈して頂くのが礼儀。(だから答えられない)。
だそうで、これはこれで作家としての見識であり、モデル騒動を避けるためでもあり、流石、曽野綾子先生である。
②高麗神社祭神直系の60代目高麗文康宮司41歳にも面会した。宮司は、
・曽野さんのファンで「百済観音」は学生時代に読んだ。
・主人公の内面の葛藤を書いた作品だった、と記憶している。
・執筆に当たり曽野さんは神社を訪れたようだが「参拝諸氏芳名」簿にその名は無い。
と、大した成果は無かった。だが、
・作家の取材は、ヒッソリと目立たないように行うのが原則です。
と宮司が作家になったような発言をしていて、ここは記者の創作だろう。
③「高麗郷歴史散歩の会」会長にも会っている。会長から得た情報は、
・日高には、大きな災害も小説のような大事件も無かった。
以上①②③から、記者はこう結論付けている。
・③の言を待つまでも無く、物語はフィクションだ。
・第一、光徳寺と浄法寺の所在地自体が「天覧山に近い」などと、飯能市内かともとれる書き方をしている。
・モデルの寺も「これだ」といえるものは一帯にはなさそうだ。
・作者のいいたかったことは、ご想像にまかせる、と作者が言っている。
これは随分イイカゲンな結論ですね。
記者は高麗神社の周辺を歩いたのに、何も見ていないし、感じてもいない。
小説が発表された頃の高麗一帯のことを想像していない。
また何故か、高麗神社隣の聖天院住職からは取材していない。これは怠慢です。
どうも、記者は神社と寺院の区別が出来ていなかったようだ。
何故なら、高麗神社隣の聖天院に行き、高麗神社宮司のご先祖にあたる高麗王若光の廟を撮影させているが、掲載写真の説明文は、
・高麗神社近くには小説にも出る聖天院が建ち、御祭神・高麗王若光の墓がある。
御祭神とは神社に祭ってある神のことであり、寺院の場合は御本尊と言う。
だから、記者は聖天院を「高麗神社の別棟に過ぎない」と錯覚していたのだろう。
実際、そう勘違いする観光客は多く、拝観料を無料にする正月三が日でさえ、聖天院を素通りする。
また聖天院に来て「高麗神社って広いなぁ」なんて言うおバカさんが多い。
錯覚してなければ、モデルの寺は一帯に無さそうだ、なぞと書くはずが無い。
聖天院は高麗神社よりも大きな伽藍を有しており、見えないとしたら、目は節穴である。
・第一、所在地自体が「天覧山に近い」などと、飯能市内ともとれる書き方をしている。
と記者は書いているが、天覧山とは「日和田山」のことである。
曽野綾子がモデル問題を避けるために、飯能の天覧山の名前を敢えて使った可能性がある。
小説が主人公の内面の葛藤を書いたものなら、キリスト教徒である曽野が、日和田山を「天覧」山に置き換えたのではなかろうか。
聖天院は日和田山(天覧山)に近く、小説にあるとおり聖天院はまさに「真言宗智山派」に属する古刹である。
この小説が発表された65年当時は、聖天院には江戸時代から二層の山門(雷門)があり、また寺格は高いが質素な田舎寺だった。
現在の壮麗な伽藍と庭園は、前住職が陣頭指揮をして造営し10年過ぎた現在も工事は続いている。
当時は高麗神社も同様に冴えない神社だったようだ。
戦後暫く、初詣は高麗神社より、国道299沿いにある「滝不動」(聖天院末寺の別院)の方が遥かに混雑したそうだ。
しかし、記事にあるとおり現在の高麗神社は地元の名所として有名で、観光客や参詣客を多数集めている。
集客数は恐らく聖天院の十倍以上だろう。
それは高麗神社が広報や集客に熱心であるのに対し、聖天院はむしろ観光客を拒むという姿勢にあると思う。
現在の高麗神社は埼玉県では2番目の初詣客を集めており、皇族、政財界、文化人、韓国政財界人等有力者の参拝が多い。しかし、それらは檀家に較べれば、後々までアテにはならない。
氏子や参詣客に頼る高麗神社より、檀家制度に支えられた聖天院は財政的には安定しているのだろう。
境内を荒らす他所者なぞ必要ないのだ。
明治以前の宮司は祈祷師をしていた、と書いた本を読んだ記憶がある。
神社が公開している資料にもそれをうかがわせる来歴が書いてある。
一方、聖天院は廃仏毀釈令以前は、寺院として神社の上に格付けされていた。幕府からの扶持米も聖天院の方が多かった。
前住職は近年ますます盛大になる高麗神社に対して、屈折した感情を持っていたようだ。
共に、旺盛な計画力と傑出した行動力決断力を持つ前住職と前宮司。
片方は伽藍や池泉の整備に、他方は宣伝と集客に向かった。
年齢も近く、似たもの同志の二人は、互いに最大のライバルだったのだ。
曽野綾子が、出世をご利益にし渡来人を祭神とする高麗神社に来ながら、聖天院に寄らなかったはずが無い。
当時から隣にある聖天院は目立ったのだ。
美的感覚が優れ、プライドが高く、血気盛んな頃の前住職にも会っているだろう。
そして小説家としての第六感で、聖天院住職と、高麗神社の宮司の間の微妙な確執を感じ取った、と思う。
当然、高麗の隣にある飯能市にも行き、「天覧山」という名前を知っただろう。
もっとも、「天覧」は明治天皇が巡幸し、山頂から周囲を見下ろした、という事実によるものだが。
したがって、光徳寺は実は高麗「神社」であり、浄法寺は高麗山聖天院勝楽寺、通称「聖天院」といわれている「寺院」である。
また「真言宗智山派」は聖天院から剥がし、光徳寺に貼り付けたのだ。
モデルもヒントもあったのである。
勿論、阿弥陀如来の発見や、その後の火災、住職の死は全くの作り事だ。
たまたま先生が暖めていたテーマを、聖天院と高麗神社の関係に当てはめ、想像を膨らませ、小説「百済観音」を創作したものである、と考えるべきではないだろうか。
以上、モデルの詮索は、曽野綾子先生のお考えのとおり愚。
肝心の小説を読んでもいないのに、意見するのはそれ以上に愚
写真は聖天院雷門です。
小説「百済観音」は曽野綾子選集第7巻にあるようです。