
「五輪なう」と同じ日、同じ新聞の5頁、「耕論・オピニオン」頁に姜尚中先生と蓮實重彦先生の意見が載っていた。
お固い先生だろうなぁ、と思ってたお二方のオピニオンズ。これが意外に面白かった。
ロンドンでオリンピックを開催することについて、先ず姜尚中先生。
五輪は伸び盛りの新興国の檜舞台として機能してきた。
ロンドンには首を傾げざるを得ません。新味も驚きもありません。
世界が変わっていく予感も興奮も沸き上がってこない。
ただ、成熟した先進国が持つ伝統の力を世界に示せるなら、ロンドン開催にも意義はある。
日本では今も選手たちに国を背負わせメダルの数と国力を重ねて見るようなところがある。
しかし経済大国となった今もメダルの数に一喜一憂するのはナショナリズムというよりコンプレックスです。
国が英才教育した選手が欧米の選手に勝ち、国威を発揚させる。
そういう中国・韓国も、いずれ国が選手を丸抱えできる時代じゃなくなります。
メダルが増えなくても、誰もがスポーツを楽しめる豊かな社会。それがスポーツのあり方として健全です。
と一刀両断。次、蓮實重彦先生。
いまロンドンで開催して何の意味があるのか。
「五輪老いたり」の印象が際立つのみです。
そして蓮實先生は選手らの実名を挙げて具体的。更に面白い。
国を背負わずひたむきに走った野口みずきには神が降臨した。
「ただ投げればいい」ディーン元気や卓球の丹羽孝希にもそんな雰囲気がある。
母親の遺影を掲げた井上康生などオリンピックに親が出てきて事態が好転したためしがない。
父親がセコンドにつく吉田沙保里に不吉な予感を覚える。
女子サッカーへの国民的期待には不吉なものを感じる。世界3位の彼女らにW盃優勝の再現期待は酷です。
幸い野球はなくなったけれどテニスやバスケットボールやサッカーなどメジャーなスポーツは必要ない。
別の時期に最高のパフォーマンスを発揮すべき場所が設定されているんです。
複雑な利権構造に支えられた国際オリンピック委員会は簡単にはなくならないだろう。
しかし五輪の存在をアタリマエと思い込むと、退廃の気配が忍び込む。
スポーツは永遠ですが、オリンピックはそうじゃない。そう意識することが重要です。

そうですそうです。お二人のオピニオンズに森生は賛成です。
森生は北島康介のように泳げなくてもいい。着衣のまま50メートルの川を泳げればいい。
ウサイン・ボルトのように走りたくもない。50メートル全力疾走し、路上で刃物を振り回す奴から逃れられればいい。
毎回お定まりの祖父母や両親や母校の人々の喚声やアナの絶叫は、ただ喧しいだけ。
タラレバ評論家による、試合前の楽観論なんぞは聞きたくない。なう。
2回目の東京オリンピックについて、お二人にオピニオンを聞いて欲しかったですね。
120716