旧水戸街道が萬満寺の前で右折するのなんでだろう?
千住宿から松戸宿までほぼ坂道のない平坦道も
この馬橋から坂を上りまた下り再び上って
小金宿に行くルートになったのだろうか?
左折して今の新松戸の方から坂一つ上れば行けるのに
あえて難所の道を選んだのか?
下総台地の入口はこの萬満寺前からはじまる
万満寺門前町はほぼ南北を結ぶ直線
浅草寺の雷門前も旧水戸街道で右折するのと似ている
浅草寺と同じ役割が万満寺にあったのだと思える
右折すると
バス停のところに『厳島弁財天』がある
小字名『弁天』という地名が残るほどの神社だけど
池もなくなり小さくなってしまった
ここから坂を上っていく
江戸見坂と言われるが、江戸はかなり左の方
最近だとスカイツリーの方角が江戸城
富士山の方が見えたのではないかと思われる
(坂の上から萬満寺方面、11.9m).
八ヶ崎の交差点に『水戸街道』の道標がある
ここで印西に行く道と水戸に行く道に分かれる
壱里塚もあり『蘇羽鷹神社』までは国道6号と同じ道
二ツ木の交差点辺りが坂の頂点(標高24m)
昔は三ヶ月もここと同じくらいの丘だったようで
土地開拓で坂道にしたもよう
蘇羽鷹神社前で国道6号と分れる
ここから下り坂
この蘇羽鷹神社を通る意味はあるのだろうか?
神社のところは縄文遺跡でかなり古くからある
2つめの道路標識
ここで八ヶ崎・三ヶ月・二ツ木の台地が終わる
わざわざこの高台を上ったのが今回の謎
ここから下りまた小金の坂を上がる
直線ではなく少しカーブして下る
国道6の方は人工だけど、この道は自然にできたものなのか?
ここが坂の一番下、ここから再び上り坂になる
スリバチの底はだいたい水路がある
ここまでなら平坦道で来れるルートがある
この道が古道
国道で遮断されて通れなくなった道
萬満寺を左から三ヶ月の丘を迂回するルートは存在していた
なのに、一山超えるようなルートにしたのだろうが?
なるべく楽で安全なルートの方がいいと思うのだが
ま、平面の地図だと右から行っても左から行っても
距離的には大差はないように見えるけど
高低差からいったらなるべく坂は上りたくない
下るのも大変
萬満寺の裏は城山とよばれる高台になっていた
60年代に宅地開拓で山が削られた
そこに千葉頼胤の館があったとされるが遺跡はなかったらしい
(元祖小金城はここだったともいわれる)
萬満寺(大日寺)、蘇羽鷹神社、三日月神社は鎌倉時代創建
旧水戸海道は鎌倉街道の下ノ道だともいわれる
萬満寺の横にある王子神社に当時の馬橋の様子が記されている
『馬橋一帯は砂丘で水が乏しかったため諏訪神社を歓請』
砂丘なのに水が乏しい?というのは砂漠のようなイメージか??
この先の横須賀まで砂洲だったら歩けないから坂を上がっていったのかも
江戸時代とは地形が違っていたと思われる
(長津川があるので津の可能性もあり茜津驛の候補地)
江戸川じたいも江戸時代に人工に造られた川という
古くは太日川(ふといがわ)と呼ばれていた
太日の由来が大日寺だったら?ここ馬橋は重要な地なはずだけど
鰭ヶ崎の東福寺の方が歴史は古いので違うかも
新しい情報が入り次第追記
では
千住宿から松戸宿までほぼ坂道のない平坦道も
この馬橋から坂を上りまた下り再び上って
小金宿に行くルートになったのだろうか?
左折して今の新松戸の方から坂一つ上れば行けるのに
あえて難所の道を選んだのか?
下総台地の入口はこの萬満寺前からはじまる
万満寺門前町はほぼ南北を結ぶ直線
浅草寺の雷門前も旧水戸街道で右折するのと似ている
浅草寺と同じ役割が万満寺にあったのだと思える
右折すると
バス停のところに『厳島弁財天』がある
小字名『弁天』という地名が残るほどの神社だけど
池もなくなり小さくなってしまった
ここから坂を上っていく
江戸見坂と言われるが、江戸はかなり左の方
最近だとスカイツリーの方角が江戸城
富士山の方が見えたのではないかと思われる
(坂の上から萬満寺方面、11.9m).
八ヶ崎の交差点に『水戸街道』の道標がある
ここで印西に行く道と水戸に行く道に分かれる
壱里塚もあり『蘇羽鷹神社』までは国道6号と同じ道
二ツ木の交差点辺りが坂の頂点(標高24m)
昔は三ヶ月もここと同じくらいの丘だったようで
土地開拓で坂道にしたもよう
蘇羽鷹神社前で国道6号と分れる
ここから下り坂
この蘇羽鷹神社を通る意味はあるのだろうか?
神社のところは縄文遺跡でかなり古くからある
2つめの道路標識
ここで八ヶ崎・三ヶ月・二ツ木の台地が終わる
わざわざこの高台を上ったのが今回の謎
ここから下りまた小金の坂を上がる
直線ではなく少しカーブして下る
国道6の方は人工だけど、この道は自然にできたものなのか?
ここが坂の一番下、ここから再び上り坂になる
スリバチの底はだいたい水路がある
ここまでなら平坦道で来れるルートがある
この道が古道
国道で遮断されて通れなくなった道
萬満寺を左から三ヶ月の丘を迂回するルートは存在していた
なのに、一山超えるようなルートにしたのだろうが?
なるべく楽で安全なルートの方がいいと思うのだが
ま、平面の地図だと右から行っても左から行っても
距離的には大差はないように見えるけど
高低差からいったらなるべく坂は上りたくない
下るのも大変
萬満寺の裏は城山とよばれる高台になっていた
60年代に宅地開拓で山が削られた
そこに千葉頼胤の館があったとされるが遺跡はなかったらしい
(元祖小金城はここだったともいわれる)
萬満寺(大日寺)、蘇羽鷹神社、三日月神社は鎌倉時代創建
旧水戸海道は鎌倉街道の下ノ道だともいわれる
萬満寺の横にある王子神社に当時の馬橋の様子が記されている
『馬橋一帯は砂丘で水が乏しかったため諏訪神社を歓請』
砂丘なのに水が乏しい?というのは砂漠のようなイメージか??
この先の横須賀まで砂洲だったら歩けないから坂を上がっていったのかも
江戸時代とは地形が違っていたと思われる
(長津川があるので津の可能性もあり茜津驛の候補地)
江戸川じたいも江戸時代に人工に造られた川という
古くは太日川(ふといがわ)と呼ばれていた
太日の由来が大日寺だったら?ここ馬橋は重要な地なはずだけど
鰭ヶ崎の東福寺の方が歴史は古いので違うかも
新しい情報が入り次第追記
では
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