大橋むつおのブログ

思いつくままに、日々の思いを。出来た作品のテスト配信などをやっています。

RE滅鬼の刃・19『我が街のことからを孫の目から』

2021-03-20 09:44:06 | エッセー

RE エッセーノベル    

18・『我が街のことからを孫の目から』   

 

 

 忘れているようなので、わたしが続きを書きます。

 

 年の割に……というと機嫌の悪くなるお祖父ちゃんなのですが、続きを書くのを忘れた、あるいは忘れたふりをしています。

 風呂上がりに話をすると、栞にとっての河内はどうなんだい?

 と、遠まわしに聞いてきます。

 これは「続きはお前が書け」ということだなあと筆を執ります。

 

「すごい家を見つけた!」

 小学校のころ、お医者さんから帰ってきたお祖父ちゃんが、興奮して言いました。

 今どきのタレントさんには興味のないお祖父ちゃんですが、まるで、憧れのアイドルに出会ったように頬を染めていました。

「え、なになに?」

 二人だけの家族なので、こういう時の感動は共有する習慣があります。

「司馬遼太郎の家を見つけた!」

 え?

 一瞬分かりませんが、コミックのネタにもなっている幕末物の小説をあげてくれてピンときました。

 司馬遼太郎さんは、大阪を代表する歴史小説家です。府知事や大阪市長よりも有名なのは小学生のわたしでも分かりました。

 わたしの好きなアニメに『ガールズアンドパンツァー』があります。

 主役は大洗女子学園の西住みほたち五人の戦車道部なんですが、競争相手に知波単学園の戦車道部があります。

 学園の戦車は日本の旧陸軍の戦車です。

 部長は西絹代という黒髪きりりの美少女なのですが、部員に小柄で眼鏡っこの福田がいます。

 ガルパンのキャラの中で、めずらしく下の名前が設定されていません。

 この福田は、戦時中戦車兵であった司馬遼太郎さんを被らせていると思っています。

 直近の映画版では、猪突猛進の突撃を諫めて、知波単学園に勝機をもたらします。

 司馬遼太郎さんの本名は福田定一です。そして丸眼鏡をかけた小柄な小隊長でした。

「その福田定一と表札にあるんや!」

「でも、同姓同名とか……」

 小学生の割には奇跡めいたことは信じない子なので、そう返しました。

「いっしょに書いてある奥さんの名前は『みどり』や!」

 奥さんの名前までは知りませんでしたけど、検索したら、お祖父ちゃんの言う通り『福田みどり』でした。

 お祖父ちゃんの興奮がうつって、自転車で見に行くと、その通りの表札が掛かっていました。

 とっくに司馬さんは亡くなって、お家を発見した前後に奥さんのみどりさんも亡くなって、お家は身内の方が相続されたようです。

 他にも今東光のお寺とか、書道家の榊莫山さんとか……それは、お祖父ちゃんも書いていますよね。

 ぼんやりテレビを見ていたら、バラエティー番組で河内弁の特集……というよりは、オモチャにしていました。

 河内は柄が悪いとか乱暴とかを前面に押し出した内容です。

「おい、われ!」とか「おんどりゃあ」とか「いてもたろか」とか乱暴な言葉やエピソードを満載して出演者が面白がっていました。

 正直、不快でした。

「おい、われ!」とか「おんどりゃあ」とか「いてもたろか」……こんな言葉は使いません。

 中高生なんか、どうかすると標準語をしゃべっています。アクセントは大阪弁で、文字に起こしたら標準語という子もいます。

「河内弁て、あんななの?」

 あんまりなんで、お祖父ちゃんに聞きました。

「本当の河内弁は……たとえば『夕べ』のことは『ゆんべ』という具合に濁音の前には『ん』が入る。それから『お尻』のことは『ケツ』の他に『おいど』ともいう。主に女の人やなあ……それから『だぢづでど』の発音が『らりるれろ』になることが多いなあ」

「らりるれろ?」

「うん、たとえば『淀川の水』は『よろがわのみる』、『仏壇の修繕』は『ぶつらんのしゅうれん』とかな」

「へえ……」

 テレビでは、そんなことは言ってなかった。

「まあ、テレビは面白かったらなんでもありやからなあ」

「えと、なにか当たってるようなことは?」

「そうやなあ……声が大きい!」

「え、そうなの?」

「二人以上の大阪の人間が東京で電車に乗るとな、なんでか、周りから人が居らんようになる……」

 この時のお祖父ちゃんの目は、ちょっと寂し気。きっと、昔の実体験なんだと思います。

 じっさい、お祖父ちゃんはお喋りだし、声も大きいですから。

 高校生の目から見た『河内』を書いてみようかと思ったんですが、また今度にします。

 あ、産経新聞のコラムにこんなのがありました。

「来ない」というのを関西弁ではどう言うのか。

 けーへん きーひん こーへん

 けーへんは大阪、 きーひんは京都 こーへんは神戸 と分類してありました。

 生まれて十七年の感覚では、三つとも使います。

 使い分けにルールはありません、気分次第です。

 多分、もともとは地域性があったんでしょうが、いつのまにか混ざってしまって、汎関西弁という感じになってるんだと思います。

 大人の判断基準て体験に基づいたものでしょうから、古いと思います。

 本当に若者の関西文化を知りたかったら、学校の先生にでもなってください。

 では、またお目にかかります。

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滅鬼の刃・18『我が街のことから』

2021-03-14 09:32:26 | エッセー

 エッセーノベル    

18・『我が街のことから』   

 

 

 阪神大震災の前の年に所帯を持って今の家に越してきました。

 

 行政区分で言うと、大阪府八尾市の高安あたりになります。

 俗な言い方をしますと河内のど真ん中です。ちょっと距離のある近所に中河内最大の前方後円墳である心合寺山古墳がありますから、古代から河内のマンナカなのでしょう。

 全国的な評判で言いますと、荒っぽいと言うか元気がいいと言いましょうか、平たく言いますと、日本でも有数のガラの悪い地域と認識されていましたし、今でもそういうイメージをお持ちの方が居られるでしょう。

 じっさい、心合寺山古墳よりはるかに近い近所に近東光が和尚をやっていたお寺がありますし、街ぐるみ今東光の『悪名』の舞台であったりします。

 軍鶏と書く勇ましい鶏がいます。肉にもしますが、河内では格闘用に飼育される鶏で、まさに軍隊の兵隊のように闘います。網で囲った輪の中に二羽の軍鶏を放って闘わせます。むろん、ただ闘わせるのではなくてお金を賭けます。闘鶏といいます。娯楽と博打を兼ねた河内の文化でもありました。『悪名』も、この闘鶏の描写から始まっていたように思います。河内のあちこちで行われていましたが、今はもう伝説になっていると思います。映画の『悪名』の他はNHKの『新日本紀行』の映像で見たきりです。

 大学生のころ、所用で、その近所のS女子高の先生を訪ねに行ったことがあります。その女子高は東光和尚に「嫁さんにするんやったら、S高校の卒業生やろなあ」と言わしめた学校です。

 訪ねた時間帯は、放課後をちょっと過ぎた時間帯で、下校する生徒の流れに逆らって歩きます。道は玉櫛川の沿道で、道幅は三メートルもありません。部活の用事で他校を訪れることはしばしばだったのですが、他校とは違う圧を感じたことを憶えています。制服も頭髪もきちんとしていて普通なのですが、吸って吐く空気の量が多い感じで、マンガ的大げさで言うと、彼女らに空気をとられて狭い道は摂津の優男には息苦しいという感じなのです。

 学校に着くと、先生の居られる化学準備室を訪ねます。

 ちょうど掃除当番が終わったところで、数人の生徒が掃除完了の報告に来ました。

「お、男!?」

「こら」と先生。

「せん、掃除終わったし」

「ごみほりやったか?」

「え、まだええんちゃうん?」

「半分でも溜まってたらほりに行く」

「はーい(横の相棒に)、ちょ、おまえ付き合え」

「え、あしも?」

「ったりまえじゃ、当番やろがあ」

「せん、また、なんか奢ってなあ(^▽^)/」

「駅前にケーキ屋できたしい」

「期末でオール5取れたらなあ」

「いやあ、死んでも無理!」

「いっぺん死んでこい」

「きっつー!」

「もう、さっさと行け」

「「「「失礼しました」」」」

 バタン(ドアが閉まる)。

 ドアの向こうでワイワイ賑やか「で、あの男なんやろなあ」「おまえ、趣味かあ」「おお?」的なお喋りがフェードアウトしていく。

 文字に起こすと乱暴なのですが、圧はあっても威圧感はありません。先生に喋る時も「あ、男!?」と感心を持つときも、しっかり対象物に目線が向いています。

 ちなみに「せん」と言うのは「先生」のことです。言っている本人は「先生」と言っているつもりなのですが、知らない人には「せん」と聞こえます。落ち着いている時は「せんせ」、甘える時は「せんせえ」と言います。

「あし」は「あたし」の意味で、時に「わし」になります。本人は「あたし」「わたし」と言っているつもりで、地元の人間が聞くとちゃんと「あたし」「わたし」と聞こえています。

 司馬遼太郎さんがエッセーで書いておられました。

 司馬さんは八尾の北方の八戸ノ里にお住まいでした。高安からは二つほど北隣の街になります。

 散歩の途中、近所の若奥さんに「こんにちは」とご挨拶された時の事です。

「河内に落ちてまいりましたが、近頃は……」

 と、最近は慣れてきたという話をされました。この若奥さんは東京あたりから来られた人で、河内の風土は、ちょっと堪えた風がありました。思わず「落ちた」という表現をなさいましたが、この人が感じたカルチャーショックを現すもので、司馬さんはそのショックのおかしさを愛でておられたように思います。

 まあ、他の地方から見れば荒々しい気風であると思われて敬遠される風がありましたし、イメージとしては、まだそのままなのかもしれません。

 わたしは、河内に隣接する摂津の出身ですので、先述の若奥さんのようなショックを受けることはありませんでした。

 駅前には『美人館』という散髪屋さんがあります。ちょっと意表を突く屋号ですが、これは東光和尚が、店の女主人に頼まれて半世紀以上前につけたままです。

 悪名の主人公朝吉のモデルのおっさんは、この街が地元です。友人が地元の府立高校に通っていたのですが、ある日学校行事の講演会にやってきた爺さんが、このモデル氏だと分かって、生徒は男子も女子も大感激であったそうです。

 我が街の昔の空気から、現在(いま)を書いてみたいのですが、書き出すと、いろいろ出てきます。

 次回に続きます。

 

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RE滅鬼の刃・17『作ることが好きなお祖父ちゃん』

2021-03-07 08:57:56 | エッセー

RE滅 エッセーノベル    

17・『作ることが好きなお祖父ちゃん』    

 

 

 お祖父ちゃんは学校の先生をやっていましたが、わたしの勉強をうるさく言ったりはしませんでした。

 

 テストでいい点数がとれると「よかったね」とか「がんばったね」とか言ってくれましたが、悪い点をとっても「こんなこともあるさ」「また、がんばったらいい」と軽く優しく頭を撫でておしまいでした。

 テストの点数や学校の成績が人の将来に、それほど大きな影響がないことを良く知っていたんです。

 お祖父ちゃん自身、勉強が苦手で、高校を四年大学を五年かかって卒業しています。

 定期考査で爆睡してしまい、名前を書いただけでお終いになったことがあって、生まれて初めて0点をとってしまったことがありました。

 お祖父ちゃんの事ではなくてわたしの事です(^_^;)。

 この時も「これは記念に取っておこう!」と残してしまいました。

「俺の0点は捨ててしまったからなあ」とニコニコしていました。

 そんなお祖父ちゃんが、目の色を変えてわたしの宿題を取り上げ、自分でやってしまったものがあります。

 

 夏休みの工作の宿題です。

 

 なんでもいいから、自由な発想と工夫で作りましょう!

 そういう意味の事が宿題の一覧に書いてあって、工作の苦手なわたしは「あしたやろう」と言い訳して、とうとう来週から新学期という日になってため息をついていました。

「お、自由工作か!?」

 そう言うと、お祖父ちゃんはリビングのゴミ箱を漁って、薬の空き瓶やティッシュの空き箱を持ってきて作業を始めます。

「なにしてんの?」

「途中までやったげるから、仕上げは栞がやりな」

「おお、ラッキー(^▽^)/」

 甲斐甲斐しくお茶などを入れて、横で見ていると、あっという間にミッキーの貯金箱を作ってしまいました。

「……お祖父ちゃんの作品になっちゃったよ(^_^;)」

「あ……」

 けっきょく、塗装だけわたしがやって、辛うじてわたしの作品にして提出しました。

 

 とにかく、物を作ることが大好きなお祖父ちゃんです。

 プラモデルは完成品だけでも100ほどもあって、クローゼットの中には箱に入った未組み立てのが200ほどもあります。

 自分でも書いていましたが、還暦になって目覚めたペーパークラフト(紙模型とかカードモデルとかも言うらしいですが、わたしには区別がつきません(^_^;))

 近ごろ視力が落ちてきて、細かい作業がやりにくくなってきたとこぼしています。

 それでも紙模型やプラモデルの船の手すりや張線をやっているのを見ると、まだまだ大丈夫と孫娘としては嬉しく思います。手摺なんて、0.4ミリの真鍮線を3ミリの長さに切って1ミリを埋め込むなんて作業らしいです。

 いつまでも、元気でやってくださいね、お祖父ちゃん(o^―^o)。

 

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 ちょっと……パラノイアですわ(-_-;)

 同じ血が流れているのかと思うと、落ち込むことがあるぜ。

 前号で出してた紙の軍艦、信じられないけど、部品点数15000だよ。

 図面通りに作ると8000くらいらしいんだけども、あれこれ自作のパーツやら補強をやってると、それくらいになるらしい。

 こないだ、開きっぱのクローゼット見たら、未組み立ての紙模型が50冊(たいてい本の体裁になってる)ほどもある。

 他にもプラモとかいろいろあって、ほんと、どーすんだよ!?って感じ。

 プラモとかペ-パークラフトとかやる奴はキモオタだからね。エンガチョものなんだからね。

 クソジジイは「栞、たまには友だち連れておいでよ」って言うけど、とても人は呼べないよ。

 キモイもんが家中にあるんだからね。

 プラモって、軍艦とか戦車とか飛行機だって思うっしょ?

 ちがうんだよ。

 人体模型なんてのもある。

 クソジジイの部屋には、1/1サイズって人の首のプラモがある。皮は透明プラスチックなんだけど、その下に筋肉やら血管やら骨やら目玉とかもあって、もう、アブないんだ。

「いやいや、脳みそだってあるんだ」

 いや、開けなくていいから……。

「栞も、やってみりゃいいのに」

 奥から出してきたのは、スケールこそ1/5だけども、全身の人体模型のプラモ。

 それも女の体!

「これは、なかなか手に入らなくてなあ、中華製じゃなくてアメリカのキットでな……」

 中華でもアメリカでもキショク悪いから!

「ほら、お腹のパーツは二種類あって、なんと妊娠バージョンにも作れるんだ」

 か、勘弁してくれええええええええ!!

 

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滅鬼の刃・16『組み立て付録』

2021-03-02 09:13:19 | エッセー

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16・『組み立て付録』       

 

 

 始まりは、月間少年雑誌の組み立て付録でした。

 

『少年クラブ』とか『少年画報』の付録がよかったですねえ。

 米空母エンタープライズの洋上模型は一メートルほどの大きさがありました。シャーマン戦車や潜水艦、忍者屋敷や東京タワーなど、今なら、単独のペーパークラフトとして売っても十分商売になるレベルのものが、定価150円ほどの雑誌についているんですから、毎月楽しみでした。

 親に買ってもらえるのは『少年』だけでしたので、付録は貸本屋さんに買いに行きます。一つ三十円から五十円くらいだったと思います。雑誌の発売日には、近所の少年たちの取り合いになります。友だちの家に行って先を越されているのを発見した時は悔しかったですねえ。

 作って飾ってお終いではなく、使えるものもありました。

 ソノシートが付いたレコードプレーヤーなんてのもありました。

 厚紙のアームの先にペン先のような針が付いていて、ソノシートの端っこに割りピンを差し込んでクルクル回しますと、アームに張ってあるセロハンだったかが振動してかそけき音を奏でます。むかしの蓄音機というのは、こういう感じだったのかと子ども心にもワクワクしました。

 幻灯機というのがあって、セロハンのフィルムが付いていて、自分で調達した電球を仕込んで壁に映します。友だちを呼んで、暑いさ中「オオーー( ゚Д゚)!」と歓声をあげたものです。いまのLEDと違って白熱電球なので、セロハンのフィルムは数回でパリパリになって使い物になりません。幻灯機そのものも茶色く焼けてきて、今なら、絶対売れない、売ってはいけない代物でした。

 1/2000の連合艦隊、こいつは戦艦、空母だけでなく駆逐艦や潜水艦も付いていて、雑誌本体についている輪形陣の図などに並べてみると六畳の間一杯になりました。

 工作が苦手な子もいて(体育が得意な子は工作がヘタだったような記憶がありますが、偏見かもしれません)上手く作ると尊敬されました。

 勉強が苦手なわたしは、こういう工作系でアドバンテージをとっていました。当時は、たとえ勉強ができなくても、なにか一つできると一目置いてもらえるところがあって、まさに滅鬼の刃でしたねえ。そういう点では、いい時代でした。

 だから、運動オンチで付き合い下手なわたしでしたが、イジメにあうことはありませんでした。

 

 組み立て付録は、やがて、ゴム動力の飛行機、木製模型(プラモデルのタミヤが、まだ田宮模型で木製の艦船模型を出していました)、プラモデルに広がっていきます。

 校区の外に安い模型屋さんがあると聞くと、自転車に乗って遠征したもので、いつも四五軒の模型屋さんをハシゴしていました。

 オッサンになってからペーパークラフトをやるようになりました。組み立て付録の延長線ですね。

 プラモデルやソリッドモデルだと十万くらいになるスケールのものが一万円以内で買えます。

 手間暇は、並みのプラモデルの数倍から十倍以上ですが、処分するときはグシャリと潰して燃えるゴミで出せます。ペーパークラフト(紙模型とも言いますが)は軽いので、壊滅的な壊れ方はなかなかしません。いきおい、そのつど修理するので、本当に処分したものは地震によるクラッシュや、中にゴキブリが住み着いたもの以外はありません。

 写真は、1/200の戦艦扶桑です。ポーランド製で通販で6000円ほどでした。

 キットは冊子の形になっていて、数十枚のシートでできています。

 正直、表紙の絵は上手くないのですが、ポーランド製なら間違いないとポチリました。

 実は、日本海軍の研究は日本ではなくポーランドが一番だと思います。

 意外に思われるかもしれませんが、ポーランドは日露戦争以来、大の親日国であります。第一次大戦でポーランドの戦災孤児たちが行く先を失った時も日本は数千人の孤児たちを引き受け、あちこち、移住先が決まるまでお世話をしました。

 だから、紙模型も、ひょっとしたら日本製を超えていると予想したら、そのとおりでした。

 

       

 

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RE滅鬼の刃・15『横並び』

2021-02-24 14:37:11 | エッセー

RE滅 エッセーノベル    

15・『横並び』       

 

 

 日本人て横並びですよね。

 

 いいか悪いかは別にして、周りの人と同じであることで精神の安定を保っていると思うんです。

 お祖父ちゃんは、1953年生まれですから、団塊の世代の尻尾の先だと思います。

 職場は公立の学校でしたから、同僚の先生たちは日教組です。

 あ、日教組という括り方をすると「それは違う」とお祖父ちゃんは言います。

 お祖父ちゃんは府の教職員組合が分裂してゼンキョウというのが出来た時に組合を辞めています。

 ゼンキョウ……全日本教職員組合? よく分かりませんが、1991年に日教組から分離した組合組織で、日教組とは一線をひいている……だそうです。

 日教組も全教も、まあ左派の組合です。高校生のわたしには、違いがよく分かりません。

 立憲民主党系と共産党系? アハハ、立憲民主と共産党の区別もついていません(*ノωノ)。

 その中で日の丸賛成! 卒業ソングは『蛍の光』と『仰げば尊し』を叫ぶんですから勇気があります。

 お祖父ちゃんも最初は組合には入っていたようです。

 最初の学校に新任で入った時、諸手続きの中に組合加盟の用紙があるし、説明してる人は一緒だし、なんか「皆さんそうなさってます」的な空気の中で入ってしまったんだそうです。

 なんで辞めたのかを面と向かって聞いたことはありません。なんか古傷っぽいですしね。

 お祖父ちゃんはFacebookをやっています。

 毎日、お友だちの投稿を見ては「ほう」とか「へえ」とか言ってます。

 友だちの友だちは、みんな友だちだ! という感覚でフレ承認していたら、いつのまにか300人ほどお友だちができたようです。

 リアルのお付き合いは、ほとんど無くなったお祖父ちゃんですので、たとえSNSでも人の繋がりがあるのはいいことだと思います。

 ただ、歳の割には左翼っぽくないお祖父ちゃんなので、お友だちの投稿が間違っていたり見当違いだったりすると、きっちりと反論を書きます。

 たとえば――総理は記者たちの呼びかけを無視して去っていきました――という書き込みがあったとします。

 お祖父ちゃんは、色々調べてファクトチェックします。確認の結果以下のようなことを知ります。

 総理は、記者たちに呼び止められて振り返りましたが呼び止めた記者は手を挙げません。それで、総理は再び去ろうとしますが、再び「総理!」と声が掛かり、再び振り返りましたが、やっぱり名乗り出る記者はいませんので、三度立ち去ろうとします。すると、三度目の「総理!」の声が上がりますが、三度目は振り返らずに、そのまま立ち去りました。

 この三度目の時だけを取り上げて――総理は記者たちの呼びかけを無視して去っていきました――と非難するのです。

 そこまで調べて反論するのですが、反論された方は、やっぱり不愉快ですよね。

 たいていの人は反論された中身が問題ではなく、反論されたということに戸惑いと反感を持つんですよね。

 もう、現役のころのしがらみも無いのですから、思い切りやればいいと思います。

 でも、健康にだけは気を付けてくださいね。このごろ血圧も血糖値も高いんですからね。

 

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 開き直るんじゃねえよ。

 人生100年とかいう時代だぜ、友だちがいねえことを自慢すんじゃねえよ!

 夜中にひっくり返ったって、あたししかいないんだぞ。

 クソジジイだから長生きだと思うけどさ、死ぬまで無事でさ、なんも患うこともなしにポックリいってくれたらいいよ。

 何回もひっくり返って、救急車呼んだり、度重なる入院とかで付き添いだとか看病だとか介護とか勘弁してよ!

 あたしだって、自分の人生あるんだからね。クソジジイのことで青春台無しにしたくねえよ。

 なんか、そういう予感がするからさ、頼むよ、ちゃんと、これからのこと準備しといてくれよ( ノД`)!!

 年末の事だったよな。

「しおり、もう年賀状やめようか」

 ミカンの皮剥きながら背中で聞いたよな。

「好きにすればあ……」

 そう言ったけど、本心は――クソジジイ、とうとう来やがった――て思った。

 年賀状たって、50枚無いじゃん。

 みんな義理で出してくれてる年賀状だけどさ、それでも、やっと残ってる人間関係じゃん。

 SNSだってさ、いちち反論とかみっともないよ。適当に『いいね!』押しまくって、かわいらしくしときゃいいんだよ。ひまでYouTube観まくりなんだろうけど、安倍さんとかトランプを贔屓にすんじゃねえよ、年寄りのトレンドは『安倍政治を許さない!』だからな。世間の年寄りは、総理辞めたって安倍総理許さねえんだからな! 右に、いや、左に倣っとけよ。

 失った人間関係は、取り戻せないんだからさ。

 だいたいさ、適当に世間に合わせときゃよかったんだよ。

 学校に勤めていてさ、日の丸とか君が代とか言ってんじゃねえよ!

 はいはい言って付き合っとけば、ここまで孤立してねえと思うよ。

 あたしだって、家の外じゃイイコしてるよ。

 ご近所の人に遭ったらきちんと挨拶するしさ、ゴミ出しだってやるよ。

 回覧板回すときだって、時候の挨拶だけじゃなくってさ、「腰の具合どうですか?」とか「夕べの地震びっくりしました!」とか「つまらないものですが」とか言って年に一回くらいは出かけた時のお土産添えたり、町会の運動会にも進んで出たりとか、クソジジイに万一のことがあった場合のセーフティーネットの構築に勤しんでるよ。

 学校じゃ『着かず離れず深入りせずに』をモットーにしてさ、クラスのどのカーストからも「おはよう」とか「オッス」を言い合えるような関係保ってるよ。

 制服の改造とかはしないけど、ブラウスの第一ボタンは外してリボンはルーズを心がけてるよ。

 ローファーの踵は踏みつぶさないけど、スカートは校則よりも三センチ上にして、アクセとかはしないけど、左手のミサンガは外したことがない。

 しおりは緩め方がうまいよなって、生活指導の竜崎に言われた時はギクってしたけどさ、まあ、生活指導部長に、そう言わせるくらいには気い配ってる。

 ジイチャンも、頼むよ。

 元気でいてよ、あたしが玉の輿に乗るまではさ。

 

 

 

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滅鬼の刃・14『遺品の写真』

2021-02-18 08:48:51 | エッセー

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14・『遺品の写真』   

 

 

 2011年に亡くなった父の遺品を整理していた時の事です。

 

 うわあ……

 姉が『えらいものを見つけた』という声をあげました。

「え、なに?」

 姉の手元を見ると、丸まった卒業証書……と思いきや。

 開いて見せてくれたのは天皇陛下御成婚のお写真でした。

 天皇陛下と言っても今上陛下ではなくて、先年退位された上皇陛下のそれです。

 上辺の中央に菊の御紋があって、鳳凰が向かい合って、長い尻尾の羽根がお二人のお写真を縁取っています。

 父の遺品は仏壇を除いて全て処分しました。

 でも、このお写真は捨てられません。

 これは、子どものころに額装されて居間の長押の真ん中に永年勤続の賞状と並んで掛けてあったものです。

 姉は、特段、皇室に思い入れがあったり、古い日本を懐かしがるような性格をしていないのですが、軽々とゴミ箱に突っ込んだり古紙回収に出していいものではないという感覚なのです。

 いまの若い人なら平気なのかもしれませんね。

 おそらくは、新聞社かなんぞが昭和33年の御成婚記念に作って頒布したものでしょう。

 それなら、古新聞と同じじゃん。若い人なら、これでおしまいでしょう。

 姉も私も躊躇しました。

 結局、わたしが仏壇と共に引き取って、車ダンスの一番上の引き出しにしまいました。

 孫には「お祖父ちゃんが死んだら棺桶に入れておくれ」と言ってあります。

「え、あ、うん……」

 孫娘の反応はそれだけでした。

 

 数年前に、友人に誘われて日帰りの温泉に行った時のことです。

 増改築を繰り返した温泉宿は、男湯の入り口から脱衣場まで五メートルほどの通路になっています。

 宿の主人の趣味なのか週刊誌大の写真のパネルが数十個かけてあります。

 昔の菊人形、運動会、街の景色や街の人たちの日常を切り取った趣味の写真のようでした。

 順繰りに見ていくと、中年のオッサンとオバハンの大写しの顔写真が目につきました。

 写真の技術は分からないのですが、広角と言うんでしょうか、真ん中が強調される写し方で、端に行くほど小さく写って、それだけ広い面積が撮れるやり方です。

 そういう撮り方なので、鼻の下が強調されて顎や額などの周辺は小さく写っています。

 浮世絵で言えば大首絵という感じです。不思議の国のアリスの挿絵にあるハートの女王と言ったらイメージしてもらえるでしょうか。

 鼻の下は髭剃り後の毛穴まで分かる精細さです。

 二人とも、ニッコリ微笑んでいるのでしょうが、そういう撮り方をしているので、ひどく間の抜けた、ちょっと醜い写り方をしています。

 これは誰だろう……?

 数十秒見て気が付きました。

 昭和天皇と香淳皇后の、おそらくは、昭和三十年代。植樹祭かなにかの行事にお出ましになられ、子どもか若い人の挨拶をにこやかに聞いておられるときのものかと思われました。背後にボンヤリとテントの端っこや、礼服姿が見て取れるのです。

 昔なら不敬罪でしょう。

 個展を兼ねているのかなあ……とも思いましたが、脱衣場に繋がる通路ではやらないでしょう。

 よく見ると、焼けているものや、パネルの上に埃が付いているものもあり、相当前からかけっぱなしにしてあるものと思えました。

 フロントに言いに行くのも大人げなく……というか、右翼のオッサンと思われるのも業腹だし、一緒に行った友人まで変な目で見られては困るので、そのままにしました。

 こんな写真があったでえ!

 風呂上がりの友人に言うと『あっそ』という表情で話題を変えられました。

 いま振り返ると、こういう感性も滅鬼の刃なのかもしれません。

 

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RE滅鬼の刃・13『お祖父ちゃんは凄いです』

2021-02-11 10:06:01 | エッセー

RE滅 エッセーノベル    

13・『お祖父ちゃんは凄いです』   

 

   

 いやはや、お祖父ちゃんは精力的な人です(;^_^A

 

 三学期も真ん中に差し掛かったわたしは、進路希望調査票にどう書こうかとか、進路に関わって評定をどう上げるかで、ちょっと一杯です(^_^;)。

 わたしは『けいおん』とか『女子高生の無駄づかい』とかのアニメが好きです。好きな声優さんが、ぜんぜんキャラの違う役の声をやってらっしゃって(律の声優さんがリリー、ゆいの声優さんがロボを、とか)興味深いこともあるのですが、女子高生の日常をほのぼのと肯定的に描いているところが好きです。

 実際の女子高生の日常なんて、不安とかシンドイことやめんどくさいことの連続で、アニメのように楽しくはないんですけどね。

 ふたつとも、進路希望調査の話が出てきます。

『けいおん』ではゆい(ギター)と律(ドラム)の二人が、『女子高生の無駄づかい』ではバカとヤマイがまともな進路希望調査票が書けなくて、本人たちだけでなく、仲間や先生たちもヤキモキします。

 進路……そんな未来の事は分からないって書いたキャラがいたように思うんですが、同感です。

 わたしのリアルって、アニメのように面白くはないし、ウィットも無いし、根性もありません。

 だから、無難に文系進学。できれば特推。

 受験勉強なんて御免だし、お祖父ちゃんも「学費ぐらい任せとけ」と言ってくれますので甘えています。

 正直、専門学校や就職も頭の中にはあります。じっさい、ゆいや律やバカ、ヤマイのようにフワフワしてるんです。

 文系特推から専門学校、就職への乗り換えは楽にできるんです。祖父との二人暮らしという環境なので、そういう変更をしても「お祖父ちゃんのことや生活の事を考えると……」と言葉を濁しておけば、友だちも先生方も「そうか、栞も大変なんだよな……」と同情してもらって、変更できます。どう転んでも、栞はいい子だって思われていたいんですよね。

 けっこう卑怯者なんですよ。

 お祖父ちゃんは凄いです。

 だって、学校の先生ってサヨクばっかじゃないですか。ちょっとネトウヨっぽく生徒に言う先生もおられますけど、それって、今の高校生が右っぽいから、それに合わせたポーズです。職員室に行ったら組合の掲示板というのがあって、下にロッカーがあります。その上に、月替わりみたいに署名用紙が載っていて、ネトウヨ先生の名前もあったりするからです。先生だって、人に嫌われたくないんです。学校で人って言えば生徒と同僚ですからね。ま、世間に合わせるというか恭順の意を示す的なことも必要なんでしょう。

 あ、非難じゃないですからね(^_^;)、世の中って、こういうことでうまく回ってるんだと思います。

 昔は、もっとすごかったと思うんですよ。それこそ、入学式に日の丸も揚げられないくらいに。

 そんな中で、ずっと、自分の思うところを貫いてきたお祖父ちゃんは偉いと思います。素敵です。

 

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 言ったら傷つくから言わねえけどさ、クソジジイって、ほんと友だち居ないのよ。

 もう七十だからな……。

 それとなく言ったら、そーゆー言い訳すんのよ。

 昭和28年生まれだよ、70なわけないじゃん、まだ67だよ。そーゆー四捨五入って悲しくね?

 昔は居たらしいよ。一回だけだけど、小学校の時、クソジジイの友だちがやってるイタ飯屋ってのに連れてってもらったことがあっけどお。その人は五年前に亡くなっちゃってさ。

「いい奴は、みんな先に逝っちまう……」

 て、葬式帰ってから喪服のまんま指折んなよ!

 せまい学校の中でさ、職員会議とかでさ、日の丸演説したって虚しいだけっしょ、そりゃ、友だち失くすわ。

 黙って俯いてりゃ、頭の上通り過ぎんのにさ。

 学校が左っぽいなんて、近所の犬だって知ってる。「お手!」ってゆったら左手挙げるもん。

 で、世間が学校よりも右っぽいことも知ってる。

 で、フツーの人の生活って、そーゆー右とか左とか言わないで回ってるぞ。

 あたしが進路に臆病なのはね、このごろクソジジイの肝臓と糖尿と血圧の数値が悪いから……血液検査の結果、むき出しのままテーブルに置いておくのは無しだぜ。

 あたしが好きなのは『女子高生の無駄づかい』のバカ。

 知らない人はいっかい見てよ、きっとおもしろいから。

 

 

 

 

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滅鬼の刃12・『卒業ソング』

2021-02-07 06:48:22 | エッセー

 エッセーノベル    

12・『卒業ソング』   

 


 今年(2021年)も卒業式のシーズンがやってきました。

 日本全国四万校あまりの、小学校から大学まで、学校の数だけ卒業式が行われます。
 中には、卒業式とは言わずに、卒業証書授与式というところもあります。

 ちょっとしっくりきません(^_^;)。

 わたしのいる大阪などは、公には卒業証書授与式となっていますが、みんな卒業式と言っています。

 卒業式で歌う歌を「卒業ソング」とか「卒業生の歌」とか言います。
 ちなみに検索してみると、以下のような歌が出てきました。

 〇贈る言葉         海援隊

 〇卒業写真         松任谷由実

 〇My Graduation       SPEED

 〇3月9日          レミオロメン
 
 〇道            EXILE

 〇桜の栞          AKB48

 〇Yell           いきものがかり

 〇旅ダチノウタ       AAA

 〇Best Friend        西野カナ

 〇振り向けば…       Janne Da Arc(ジャンヌダルク)

 〇桜の木になろう     AKB48

 〇10年桜         AKB48

 〇手紙 〜拝啓 十五の君へ〜 アンジェラ・アキ

 〇Best Friend        Kiroro

 〇遥か           GReeeeN(グリーン)

 ○卒業          斉藤由貴

 〇卒業          尾崎豊

 〇卒業-GRADUATION-   菊池桃子

 たいていの学校では、卒業生が候補曲をいくつか出して、投票で決めるケースがほとんどでしょう。だから、240人の卒業生がいて、候補曲が7曲ほど出て、50人ほどの賛成で決まってしまうこともあります。そう言う場合、残りの190人は不本意で、斉唱するときにも意気が上がらないこともあるのではないでしょうか。
 
 これらの卒業ソングの中には、定番と言っていい言葉があります……。

 桜 友 友だち 思い出 旅立ち 別れ 春 卒業 君 果てしない 道 喜び 懐かしい 涙 等々。

 逆に、ほとんど出てこない言葉があります……。

 師 教え 先生

 師に至っては、このエッセーを書くにあたり聞いた卒業ソングの中には出てきませんでした。学校生活で、もっとも濃密な関係は、友だちと先生でしょうね。
 わたしが小学生のころは、『仰げば尊し』と、在校生や先生、保護者、来賓の方々の『蛍の光』と決まっていた。今でも地方や私学では、この二つの曲を大事にされているところがあります。公立の学校ではほぼ絶滅してしまったように感じます。卒業ソングで検索しても、この伝統的な二曲は、ほとんど出てきません。

 昭和30年代までは、この二曲は定番でした。

『ビルマの竪琴』という映画があります。
 水島上等兵が、ビルマの僧侶になり、捕虜収容所の仲間たちのところに会いに行く有名なシーンです。
「水島、水島じゃないか。いっしょに日本に帰ろう!」
 仲間達は、鉄条網の中から、水島に呼びかける。
 水島は、一言も語らず、竪琴で『仰げば尊し』を奏でます。それで全てが伝わります。水島は日本人であることさえ卒業して、戦争で亡くなった人たちの冥福を祈ることに、残った人生をかける。その想いと決意が、この曲を奏でることだけで通じます。
『二十四の瞳』の中でも、校庭での卒業式のシーンは、この『仰げば尊し』です。この曲は明治17年から歌われ、長年作者不詳となっていましたが、『The Song Echo: A Collection of Copyright Songs, Duets, Trios, and Sacred Pieces, Suitable for Public Schools, Juvenile Classes, Seminaries, and the Home Circle.』の中にあるアメリカの楽曲の中にあるということを一橋大学の桜井雅人名誉教授が2011年に突き止められたそうですが、まだ作者不詳と紹介しているものもあります。
 いずれにしろ、これは日本軍国主義が作ったものではないことは確かなようです。
「仰げば尊し」と歌いだした、この曲はわたし達日本人が歴史の中で育んできた感性の発露であると思うのですが、どうでしょう。

 授業前の「起立・礼・着席」などに、その名残が残っています。また師を「先生」と呼ぶ言い方もそうでしょう。わたしは現職のころ心配しました。「先生」という呼称が「教育士」などにならないかと。

 ここまで読んで、大橋というのは「なんというアナクロ!」と言われるかもしれませんね(^_^;)。師の恩とは何事かと。
 よく、命の大切さを教えるときに「人の命は山よりも重い」と校長先生が言いますね。これは、その「アナクロ」そのものであることに先生自体が気づいていないように思います。この言葉の大元は司馬遷の報任少卿書の中にあります。
「人の命は泰山より重く」からきています。そして、この言葉には下半分があります「鴻毛より軽し」
「人の命は泰山より重く、或いは鴻毛より軽し」が正しいのです。
 我々は、『君が代』を取り戻しました。式典で起立斉唱しない教職員は、ほとんど皆無になってきましたね。そして皆無になったことを嘆く日本人もほとんどいないのではないでしょうか。
 
 もう、ナショナルスタンダードとして、『仰げば尊し』を思い出してもいいのではないでしょうか。

 むろん、いわゆる卒業ソングは否定しません。Graduation ceremonyに続くプロム(舞踏会=パーティー)のようなところで大いにハジケればいいと思います。アメリカでは、公の卒業式が終わった後、生徒達自身で企画して、こういうイベントをやります。型を決められた卒業式で、わずか数分意気の上がらない卒業ソングを歌うのではなく、自分たちで、自分たちのためのイベントを企画してはどうでしょう。それとも、そんな自由も発想も、今の若者にはないのでしょうか。スタンダードでトラディッショナルな卒業式は、きちんと受け継ぎ、自分たちがハジケルためのものは、自分たちでやればいいとオッサンは思います。

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滅鬼の刃・11『滅鬼 メッキ』

2021-02-06 09:55:38 | エッセー

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11・『滅鬼 メッキ』   

 

 

 滅鬼の刃とは、流行りのアニメに便乗した安直なオヤジギャグのようなタイトルですなあ。

 始めるにあたっては、パクリのそしりを受けるだろうと思いながら、あえてそのままにしました。

 わたしの人生そのものが、どこかパクリでうさん臭くて、それなら第一印象パクリの『滅鬼の刃』で上等とした次第です。

 滅鬼とはメッキと読みます。

 わたしが、あれこれ考えたり考えの結果としての駄文はメッキであります。本を読んだり人の話を聞いたりして、自分の考えとか感性だとか思い込んでいるものがほとんどであります。

 なんだかいいことめいたことを書いても、ああ、こいつの書いていることは所詮メッキなんだと思っていただいたほうが気楽だという、あらかじめの言い訳であります。

 もう一つの意味は、自分の中に住み着いた鬼を、人目に晒すことで滅ぼす……まではいかなくても、弱らせることができたらという意味があります。

『山月記』という小説があります。戦前、中島敦という人が書いた小説で、自分の中の虎(鬼と同義だと思います)の始末に困って、本当の虎に変身してしまい、あやうく旧友を食い殺しそうになるというお話です。

 中島敦ほどの学識も知恵も無いのですが、まあ、そういうベクトルなのだと思っていただければ幸いです。

 

 第三回で日の丸について書きました。

 

 昭和四十年くらいまでは、正月とか祝祭日に日の丸を掲揚する家が多かったように思いますと書きました。日の丸の掲揚をしなくなったのは、日の丸はファシズム大日本帝国の象徴であって、国の内外に及ぼした戦争の災禍の反省をしないままに大日本帝国の象徴を掲げるのは間違っているという風潮というか空気が社会に蔓延したからであります。

 当時の大人たちは(MT世代)は日の丸を目の敵にするバカバカしさを肌感覚で知っていましたが、戦後20年。戦後生まれが成人し、戦時中にひどい思いをさせられた軍国少年少女たちは三十歳を超え、日本社会の正面に立つようになってきました。この若者たちが、ザックリ言って、コミンテルン(当時はコミンフォルム)やリベラルの影響で、戦前の日本を丸ごと悪者と断じて、その象徴としての日の丸をまさに親の仇にした観念の現れでした。

 戦後の十年で江戸時代の百姓一揆の数を上回る労働争議がありました。労働争議の場では必ず赤旗が林立しました。組合旗やスローガンの横断幕も、大方は赤地であったように記憶しています。

 通っていた小学校の向かいが府立高校で、年に一二度校門の両脇に赤旗が掲げられ、高校というのは赤組しかおらへんねやろかと、赤と言えば体育の時の赤白帽しか知らない小学生は思いました。

 こういう社会環境の中では、なかなか日の丸は揚げられません。

 でも、日の丸を厭う気持ちは、どこかメッキめいていると感じます。

 職場の学校で卒業式・入学式の日の丸掲揚が問題になった職員会議で、掲揚に反対する意見に反対して、わたしは、こう発言しました。

「沖縄が復帰する前、当時琉球政府の主席であった屋良朝苗(やらちょうびょう)氏が復帰のことで本土に渡られた時、沖縄には本土復帰に向けて掲げる日章旗が足りなくて困っていると言われ、日本中から日の丸が集まったことがあります。屋良氏は本土で日の丸が粗末に扱われているので驚いたという話もなさっています」

 そう述べますと「屋良さんは、復帰闘争の道具として日章旗を求めておられるのであって、日の丸と、それに象徴される日本を許しているわけではない」と組合の先生から反論をくらいました。

 ちょっと唖然としました。

 わたしの理屈も元はメッキなのですが、組合の先生のはわたしの百倍もありそうなメッキでした。

 天皇制というのは、元来は共産党用語なのですが、当時は普通名詞だと思って使っていましたので、当時の空気感で語りたいので天皇制と書きます。

 天皇制を無くして共和制にしなければ、日本の真の民主化は成し遂げられないという、分厚いメッキでありました。

 日本史を教えていた割には日本史の授業は嫌いでした。授業中は寝ているかノートに落書きをしているかでしたので。テストも欠点ギリギリしか点がとれません。

 日本史は独学でした。

 中央公論の『日本の歴史』から始まって、司馬遼太郎を始めとする歴史小説ばかり読んでいました。岩波歴史講座も全巻持っていましたが、面白くないので、ほとんど読んでいません。

 二千年の歴史の中には、並の国家なら分裂したり消滅したりする恐れのある危機が何度もありました。

 出雲や九州勢力との対立 平将門の乱 摂関政治末期 鎌倉幕府の滅亡 室町幕府の滅亡 戦国時代 明治維新 大東亜戦争敗戦……などなど。

 この時、日本が滅んだり分裂しなかったのは天皇制があったからです。世俗の権力(幕府や政府)が力を失ったり滅亡した時、我が国は天皇の元にまとまって、新しく世の支持を受けた権力に正統性を与えます。

 日本史を冷静に見て振り返るなら天皇制、正しくは皇室の存在と皇室にたいする日本人の畏敬が柱だと言えます。

 司馬遼太郎氏だったと思うのですが『日本史の思い出し現象』と述べておられます。新しい権力が生まれる時に『天皇』という古い権威を思い出し、それを立てることによって、権力の正当性を保証するのです。思い出し現象というおとぎ話めいた言葉を使っておられますが、要は天皇制でなければ日本は成り立たないということをおっしゃったのだと思います。

 つまらないメッキが戦後の長きにわたって、この日本人の冷静さを覆ってきましたが、メッキはメッキ、ようやく剥げてきたかと感じる今日この頃です。

 すみません、なんだか硬い話になってしまいました(^_^;)。

 次は、もっと柔らかいメッキの話をしたいと思います。

  

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RE・滅鬼の刃・10『街とスキンシップ』

2021-02-02 08:47:02 | エッセー

RE滅 エッセーノベル    

10・『街とスキンシップ』   

 

 自然と言うものは、海や山や堤防なので囲っていない川のことだと思っていました。

 お祖父ちゃんの書いたものを読むと、街の中に『自然』と言ってもいい風景が広がっていたんだと感心します。

 土がむき出しの、お祖父ちゃんが言う『地道』は十分に自然です。

 デコボコしていて、雨が降ったら、それこそ海のようになってしまった地道を長靴履いて、時には上級生のお兄さんお姉さんにオンブしてもらって登校なんて、ちょっと牧歌的です。

 近ごろはセクハラとかがうるさくって、それは大人が子どもに対してのことだけじゃなくて、子ども(高校生のわたしも含めて)の間でもセクハラの問題は大きいのです。

 お祖父ちゃんに聞くと、昔の男の子は平気でスカートめくりしていたとか。信じられません。

 中学のころ「用もないのに威勢の顔を五秒以上見たらセクハラ」とか先生が言っていました。五秒ルールとか言ってました。保育所のころ、床とか地面に食べ物を落としても三秒以内ならセーフって三秒ルールがありました。「四秒、セーフ!」なんて遊んでいる男子は居ましたけどね。

 お祖父ちゃんの時代は、そういう自然なスキンシップがあったんですね。

 水たまりを渡るためのスキンシップ。不便なことにもいいことってあったんですね。

 話を聞くと、友だちが「ちょっとしんどいよ」と言ったらオデコを合わせたり、手をオデコに当てたりして熱を計り。擦りむいたと言っては傷口に唾を付けたり。遊ぶにしても『おしくらまんじゅう』とか『おすもう』とか『プロレスごっこ』とか、スキンシップが当たり前の遊びが多かったとか。

 舗装のない地道とか、雨が降ったら出現する水たまりとか、それは街の素肌だって思うんです。お祖父ちゃんたち、昔の子どもは、街の素肌と触れ合って、街とスキンシップで育ってきたんですね。

 ちょっと羨ましいかもしれません。

 

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 暗い……

 暗いよね! 水たまりだよ? 

 浮かんでくるよ、60年前のクソジジイ!

 あ、クソジジイが水死体で浮かんでくるってことじゃねえから。

 そんな連想するほどヒトデナシじゃねえし。

 水かさに怯んでオタオタしてたら、「オンブしたげよう」って六年生のオネエサンが背中を貸してくれてさ、「う、うん……」とか卑屈にうなづいて、オンブされたオネエサンの温もりに劣情かき立ててるやらしいクソジジイ!

 え、まだ子どもだろうって?

 あいつはね、生まれた時からのゲスなのよ。

「どんな上級生がオンブしてくれたの?」って聞いたら。

 目線を避けてさ「ま、いろんな上級生がな……」ってさ。

 目線避けて頬っぺた染めてんじゃねえよ! 遠い目なんかすんなよ!

 水たまりをピチャピチャ歩いたり、自転車でビシャーって走ったり、それ、きっと一人でやったんだ。

 今でも、健康のためって、クソジジイは散歩にいくんだけどね、散歩っていっても自転車がほとんど。で、いっつも一人だよ。

「栞もどうだい?」

 なんて聞かれてもソッコー断るけどさ。

 あ、雨降ってきたから、洗濯物取り込むんで、ここまでな。

 栞も律儀?

 んなんじゃねえよ! 自慢じゃねえけど、小6の時から洗濯物は別々だってこと!

 じゃあな。

 

 

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滅鬼の刃・9『水たまり』

2021-01-28 09:43:01 | エッセー

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9・『水たまり』   

 

 

 昔は、あちこちに水たまりがありました。

 水たまりと言うのは沼とか池とかいうものではありません。沼とか池なら天気に関わらず存在します。

 水たまりは、雨が降らなければ出現しません。

 ちょっとした大雨が降った後など、ここはベニスか!?というくらい風景が一変したものです。

 

 低学年のころ、家から小学校までの舗装道路というと、学校の前の150メートルほどだけでした。

 学校までは一キロ近くありましたから、ほとんどが明治のころからそのまんまというような地道でした。

 地道と言っても、二車線半くらいの道幅で、地域に中小企業も多くあって9時ごろには、けっこうな交通量になります。

 小中学生の登校は、その三十分ほど前には完了しているので、交通安全的には黄色い帽子を被る程度の事でした。先生たちが通学路に立つことも、PTAや地域の人たちが交通安全の旗を持って横断歩道に立っていることもありません。そもそも横断歩道がありませんでした、横断歩道の縞模様というのは舗装道路がなければ描けませんしね。横断歩道が、あると、ちょっと都会だなあという感じがしたものです。

 横断歩道があるようなところには水たまりは少なかったように思います。道を舗装するということは、下水や排水の設備も充実させることだったんでしょう。地道には下水の存在を示すマンホールは無かったように思います。

 その地道でも、登校時間を外れた時間帯にはけっこうな交通量です、車が通るので道路にはけっこうな凹凸がありました。

 そこに雨が降ると、ここは川か湖かというくらいの水たまりができました。

 途中に五十メートルほど暗渠工事がされていない昔の農業用水路が残っていて、近隣の雨水が、そこをめがけて流れ込んでいきます。ひどいときは、水没した道路と旧農業用水路との区別がつかなくなって、いささか危険でした。高学年のニイチャンやネエチャンが手を引いてくれたりオンブしてくれたりということもありました。

 ときどき、車が脇を通って盛大な水しぶきをあげます。とっさに傘を傾けるのですが、腰から下に水を浴びるのはしょっちゅうでした。

 女の子は、すかさずハンカチを出して拭いたりしていましたが、男子は、構わずにそのままにして、乾くと、迷彩のシャツのようになることもあります。靴は、学校に着くころにはグチュグチュと小動物の鳴き声のような音をあげたりしました。

 当時の校舎は木造で、教室も廊下も板張りです。板張りと言うのは、けっこう吸水性があるので、傘や靴から(時にはずぶ濡れになった服から)漏れ出た雨水で濡れることはあっても、後年のリノリウムのように滑ることは無かったように思います。

 後年、自分が教師になったころは完全なリノリウムになり果てていて、大雨が降った時は、昇降口から階段にかけて何度もモップ掛けをしたものです。日ごろ、ていねいな掃除をしていないこともあって、あちこちに黒くなったジュースのシミができていて、雨水を吸ったモップはシミを拭うのにもってこい……ズボラなことをしていたものです。

 雨にはニオイがあります。

 軽い雨だと、埃のニオイ。雨が微細な砂や埃を舞いあげるので、今のように湿っただけのニオイではありません。

 片仮名でニオイとしたのは『臭い』と『匂い』の両方の意味があるからです。

 わたしには『匂い』でしたね。

 激しい雨になると、地面や建物に染みついアレコレが溶け出てきて、ちょっと妖めいたニオイになります。日ごろは、穏やかなすまし顔でいる街が、その身に秘めた、大げさに言うと古代のヤマト時代からの本性を現したようで、ちょっとワクワクしました。

 水たまりというのは絶好の遊び場にもなるもので、わざと長靴で水たまりに入って、水を蹴飛ばしたり、長靴を通して感じる水圧やヒンヤリと足が冷やされるのを楽しんでいました。

 運動場や近くの公園などは、半分以上が海のような水たまり。

 学校の運動場は無理でしたが、近所の公園には家に帰ってから自転車で出撃して、まるで大海原を最大戦速で突っ走る駆逐艦みたいに水しぶきあげて喜んでいました。

 昔の水たまりは、こんなもんじゃない。

 高校の時、大雨が降った日の授業で先生が言いました。

 先生は台湾からの引揚者で、わたしが通っていた高校の卒業生でもありました。二期生とおっしゃっていましたので、入学は昭和29年ごろでしょう。

 学校は、校舎こそできていましたが、塀をつくる余裕がありません。グラウンドの周囲は道路との境が判然としていなくて、生徒たちは、好きなところから校舎に入ってきました。

 むろん、雨が降ると、あちこち水たまりだらけです。

 日直で早く来た先生は、そんな雨降りの風景を三階の窓から見ておられました。

 もう、ほとんど雨は止んでいたのですが、女生徒たちは制服が濡れるのを気にして傘をさしています。男の傘は、たいてい黒一色ですが、女子の傘は、赤やピンクや色とりどりで、きれいなものです。

 その傘の一つが、突然水たまりに花が落ちたように浮かんでしまいます。

 瞬間で傘の持ち主が異世界に転送されて傘だけが残されたようになりました。

 アニメならここからワンクール13回のドラマが始まるでしょう。

 直後、周囲の生徒たちが騒ぎ始め、男子二人が上着を脱いで腕まくりして水たまりに腕を突っ込みます。

 やがて、全身水浸しの女子が助け上げられ、女子は、少し逡巡したあと、男子にお礼を言って、そのまま家に帰っていきました。

 その水たまりは、空襲で出来た穴で、日ごろ人の通る道筋でもないので埋め戻しが遅れていたもののようでした。

 さすがに、わたしたちのころは、そういう気合いの入った水たまりは無かったですね(^_^;)

 

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RE・滅鬼の刃・8『REを付けることにしました』

2021-01-21 16:11:11 | エッセー

RE滅 エッセーノベル    

8・『REを付けることにしました』   

 

 読者の方から、ややこしいというメッセを頂いたので、わたし(栞)の回は頭にREを付けることにしました。

 

 昭和二十八年生まれのお祖父ちゃんは十分に年寄りです。

 でも、お祖父ちゃんのお友だちなどに伺うと、その昭和二十八年前後生まれのお友だちからしても古いのだそうです。

 高校で日本史を教えていたということもあるんでしょうが、よその地方を言う時も~県と呼ぶよりは~の国という旧分国名で言った方がピンとくる人なんです。

 ちなみに、大阪は摂津・河内・和泉の三国です。

 摂津というと、ちょっと文化的な印象で。河内というと、元気というかけんかっ早いというか、ちょっとヤンチャな感じ。和泉というと泉州と言う方がピッタリで、タオルとかの織物工業、堺とかでは鉄砲づくりが早くから世界的な発展を遂げ、鉄砲が廃れてからは、その技術を生かして包丁とかの刃物や自転車の生産が発達したところ。岸和田とかのダンジリとかもあって、高校生のわたしには、やっぱ、ちょっとやんちゃな感じ。

 一口に大阪と言っても、なかなか一色(ひといろ)ではないことが分かります。

 お祖父ちゃんは、MT世代はお節介なくらい面倒見がいいと言いますが、お祖父ちゃんはMT世代に好かれる人なんだと思います。

 たかが部活繋がりの若者に、そうそう就職の世話まではしてくれないと思います。

 孫のわたしから見ても、お祖父ちゃんの考え方とか感じ方は、いい意味で古いと感じます。

 以前、お祖父ちゃんと小旅行をしていて、青森の方と知り合いになりました。

 青森と言うと、ねぶた祭りやリンゴしか思い浮かばないわたしですが、お祖父ちゃんは、青森の人にこう聞きました。

「津軽ですか、それとも南部ですか?」

 そう聞くと、青森の人は「はい、津軽です」と笑顔で答えられ、急に話が膨らんでいきました。

 あとで聞くと、青森は旧津軽藩と旧南部藩の北半分をむりやりくっつけた県で、文化が違うんだそうです。

 あとは調べてごらんと言うので、調べてみると、秀吉が天下を取った時、南部藩の家老であった津軽氏が主家の南部を乗り越えて秀吉と交渉して独立の大名と認められたので、南部の人たちは「あの津軽めが!」と思うところがあるんだそうです。

 その確執をしった上で、廃藩置県の時に一緒にして青森県にしたのは、明治政府の意地悪だと思いました。

 その機微を知った上で、南部か津軽かを聞いたお祖父ちゃんは、やっぱり戦後生まれのMT人なんだろうと思いました。

 もうちょっと書きたいのですが、学年末試験にそなえて勉強……三年になったら特推受けられる成績にしたいので(n*´ω`*n)。これで失礼します。

 

http://wwc:sumire:shiori○○//do.com

 Sのドクロブログ!

 

 おう、またアクセスしたんだ。

 来たんだったら話すけどさあ。

 なんだよMT世代ってさ!

 もう、ほとんど死んじまってるじゃん。

 ギリの大正15年生まれでも、ええと……95才?

 考えてもみてよ、クソジジイって友だちいねえのよ。

 だからさ、昔は良かった風に、ことさらMT世代を懐かしがったりしてんのよ! ったく!

 あたしってさ、クソジジイの唯一の身内だからさ……分かんでしょ、老後の世話すんのあたしなわけよ。

 30前後で結婚するとしてさ、クソジジイは80代の前半よ!

 ひいジイちゃんもひいバアちゃんも、そんくらいで死んだんだよ。二人とも死ぬ5年くらい前からは完ぺきのボケ老人でさ。

 クソジジイといっしょに見舞いに行ったら、ひ孫のあたしのこと忘れててさあ。

「アハハ、お婆ちゃん、栞のこと忘れてたなア」

 で、つぎ行ったら、クソジジイのことも忘れてていい気味だっかけどお。

 結婚するくらいの歳になって、ボケられるなんてごめんだしい!

 もっとさ、広い世代のお友だちとか、知り合いとか作っとけよな。ガッコの先生やってたんだしさあ。

 ネットニュースとかで、たまに出てるじゃん、卒業生とかが恩師の心配とか世話とかしてんの。

 そーゆー老後の事なんか考えてないんだから、いい気なもんよ、思わない!?

 そーそー。

 三分と四分、なんて読む? 宿題にしといたわよね。

 あたしは、サンフン ヨンフンって読むよ。あんたは?

 でしょでしょ、やっぱ、サンフン ヨンフンだよね(^▽^)/

 クソジジイは、サンプン ヨンプン だよ!

 どーでもいいけどお、そいういうので、孫に突っかかるのは、ほんとカンベンしてほしいのよ。

 じゃね。

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滅鬼の刃・7『MT世代』

2021-01-20 08:58:54 | エッセー

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7・『MT世代』   

 

 

 明治大恋歌(歌:守屋浩 作詩:星野哲郎 作曲:小杉仁三)というのがありました。

 日露の戦争大勝利 まだうら若き父と母……という歌いだしです。

 テレビの歌謡番組で観た記憶があるので、たぶん小学校のころに流行った歌です。

 坊ちゃんみたいなコスの守屋青年が歌っていました。美空ひばりが『やわら』を歌った時に、ああ、守屋青年と同じ衣装だと感じましたから、『やわら』以前なのでしょう。

 すごいですね、父と母が日露戦後……だから、1905年~1910年ぐらいのことでしょう。

 今からだと110年くらい昔の事です。

 1953年生まれのわたしの祖父母がこれくらいの生まれです。歌の二番に『十九歳の母』とありますから、まさにこの世代。

 今は、明治生まれも稀ですね。明治末年の生まれでも112歳を超えてしまいます。

 子どものころは、大正生まれが働き盛りで、明治生まれも人によっては現役で働いておられました。

 よっぽどの年寄りと言うと元治とか慶応とかの年号がつく江戸時代の人間でした。

 

 で、なにを懐かしんでいるのかと言うと、年寄りのありようなんです。

 

 グ-タラ人間のわたしは、きちんと就職したのは28の歳でした。

 職場には組合の青年部というのがあって、入ると同時に青年部なんですが、一年後には青年部ではなくなりました。

 高校を四年、大学を五年、そして就職浪人を三年、よく親が許していたものです。

 アルバイトはやっていました。

 運送会社、着ぐるみ、テレビのエキストラ、ビラ撒き、選挙の運動員、学校の賃金職員、非常勤講師などなど……

 言い訳として「学校の先生になる!」と言って、毎年受かりもしない採用試験を受けていました。

 で、明治大正生まれです。略してMTとします。

 MTの人たちは、お節介というか、面倒見がよかったですねえ。

「大橋、こんな仕事があるぞ」「こういう募集があるぞ」「こんなやつが居るから会ってこい」

 いろいろ勧めていただきました。

 大学の四回生の時に母校であるA高校の先生から電話がかかってきました。

「大橋君、郵便外務員の募集があるけど、資料とりにおいでよ」

 教員採用試験を二回落ちていたわたしは「ありがとうございます」と電話に頭を下げて母校の進路指導室に行きました。

 A4のプリントに要項が印刷されていて、一つ下の後輩といっしょに梅田の中央郵便局に申し込みにいきました。

 当時は、まだまだ実験段階だったハイビジョンテレビが展示してあったのを憶えています。受験も仕込みをしたことよりも、試作品のハイビジョンに感動していました。まだ液晶など無かったので、おそらくはブラウン管。どんな造りになっていたんでしょう。

 そして、試験を受けて……落ちました。

 後輩は無事に合格して、数年前定年を迎えました。

 もし、あの試験に受かっていたら、わたしも定年まで郵便屋さんをやっていたでしょう。きっと、その後、カミさんと出会うこともなく、従って、息子も生まれておりません。

 もし、息子が、わたしに似て凡庸を絵に描いたようなニイチャンなのですが、息子の子どもが学者になってすごい発明をしたり、総理大臣とかになったら、わたしが採用試験に落ちたのは、未来人がタイムリープして細工をしたから!?

 アハハ、これは売れない作家の妄想ですなあ(*ノωノ)。

 大学に行きながら母校の部活にはマメに通っていました。

 六時間目の終わりに部室に入って、現役たちが授業が終わるのを待っていました。

 今だと、変な卒業生というので、生徒や先生からも警戒されたでしょう。わたしも後に教師になりましたが、こういう卒業生がいたら――ちょっと危ない奴――と認識して注意したでしょう。

 先生たちは、そんな――ちょっと危ない奴――を放置しておくだけなく、いろいろと声をかけてくださり、産休実習助手の仕事さえ世話してくださいました。

 それが終わると保健の統計員、そして非常勤講師、さらに、採用試験の指導までしていただきました。

 他にも本職の手前まで行ったアルバイトがいくつもありました。

 グータラな、今風に言うとニートのニイチャンを世話してくださり、その人たちの大半がMTでありました。

 

 十数年後、複数の家庭訪問をこなすために職場から自転車を漕ぎ、ショートカットのために四天王寺の境内を走っていました。

 初夏には間がありましたが、もう三十分も走っていたので、自転車を止めてお茶のペットボトルを開けました。

 すると、五十メートルほど離れた回廊の戸から特別な法会でもあったのかキラキラの法衣を身にまとった老僧が従僧を連れて出てこられ、わたしの方を向いてニコニコとしておられます。

 すぐに、高校生のころ部活の連盟の会長をなさっていたS高校のT校長先生であったと思い出しました。

 当時の連盟の会長というのは名誉職というか、対外的な連盟の看板でありました。

 連盟の生徒役員をやっていたわたしは、二三回お会いしたことしかありません。

 噂では四天王寺の管主というかトップにおられることを知っていましたが、まさか二三度しか顔を観ていない他校の生徒を憶えておられるとは思いもしません。

 これは、わたしの近くに居る他の人を見ておられるんだと思い、でも、こちらを見ておられるならご挨拶……思っているうちに、お堂に入ってしまわれました。

 挨拶し損ねてから思い出しました。

 五回生の秋に、そのS高校で働かないかとS高校のF先生から話がありました。いろいろあって実現はしませんでしたが、私学の教師が自分の繋がりで若い教師をとろうとする場合、必ず、管理職や理事に話しを通しています。

 おそらく、S先生もご承知であったことなのでしょう。

 MT世代と言うのは、とにもかくにも若い者の面倒をよく見てくださいました。

 この面倒見の良さというか、人によってはお節介と感じるものが、若い人にはうろんなことのように見えるかもしれませんが、わたしの周囲に居たMT世代は、文句を言うことはあっても見返りを求めるようなことはされませんでした。

 書いているうちに、いろいろMT世代のことを思いだしましたが、また稿を改めて書きたいと思います。

 

 

 

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滅鬼の刃・6『500枚のイラスト教材』

2021-01-13 14:20:13 | エッセー

 エッセーノベル    

6・『500枚のイラスト教材』   

 

 

 勉強はせんかったなあ……。

 

 わたしが学校の勉強を投げ出したくなった時に、ことのついでのように言います。

 こころは『俺も勉強嫌だったし、しなかったけどなんとかなったぞ、気にするな』という、お祖父ちゃんなりのフォローなんです。

 お祖父ちゃんは、病気で辞めるまで三十年近く高校の先生をやっていました。

 本当に勉強はしなかったようで、高校を四年、大学を五年行っていました。

 まともに就職したのも二十八の歳だったようで、まあ、豪傑です(;^_^。

 わたしは留年なんかしたら、ぜったい心が折れてしまうので『テヘペロ(#^_^#)』的なリアクションしておしまいにします。

 お祖父ちゃんは地歴公民の先生だったのですが、生徒や学生のころの成績は無残なものです。じっさいに通知表を見せてもらったんですが社会科でも欠点を取っていました。

 でも、高校で教えていたのですから、どこかで勉強はしていたんです。

 お祖父ちゃんの部屋にはたくさん本があって、そういう本を読んで勉強の代わりにしていたようです。

 専門書とかじゃなくて、ほとんどが文庫本とか新書本の類です。中には『マンガ日本の歴史』みたいなのがあって、手に取ると、かなり読み込んだ形跡があります。

「生徒に教えるのには、マンガ的なアプローチの方がいいんだけどな」

 そう言いながら開けたクローゼットの中には岩波とか中央公論とかの歴史の本もありましたが、あまり読み込んだ形跡はありません。

 数年前には『岩波歴史講座』の日本史・世界史をまとめて捨てていました。

「本屋の営業が可愛そうだから買ったんだけどな、これは悪書だ」

 岩波って、学校の図書館にもあって、たまに先生が読んでいます。左翼っぽい本なのかなあ……ちらりとめくってみると、新鮮なインクの匂いがして、ペッタンコになった紐の栞、ページに跨って挟んだままの発注伝票。まるで本屋さんのデスストックという感じでした。

 いつだったか、年末の掃除をしていたら、お祖父ちゃんが授業で使っていた手作りの教材がいっぱい出てきました。

「こういうのを見せると、一瞬だけだけど、生徒は前を向く」と言うのです。

 歴史上の人物だけで三百枚ほどあります。

「黒板に名前を書いたら、その横にマグネットで貼り付けるんだ」

 なるほど、これなら人物がビジュアル的に記憶に残ります。

 人物は、たいてい二頭身で、顔が強調されています。

 教科書に載っている挿絵的なものではなくて、マンガ日本歴史的……いえ、今どきのアニメキャラ的でした。

 いろいろ面白いんですが、笑っちゃったのは徳川家康。

 三方ヶ原の戦いの姿だそうで、武田信玄に追い回され、方法の態で城に戻って、眉を寄せて爪を噛んで、ほんとうに困ったというかビビった姿。

「ああ、これは見本がある」

 そう言ってパソコンを開くと、お祖父ちゃんが見本にしたのがありました。

「自分が、いちばん困ってみっともないところを絵師に描かせたんだ。自分に対する教訓だな」

 なんだそうで。

「信玄に追いかけられて、ほんとうに怖くてな。城に戻った時には馬の鞍にウンコを漏らしてしまったんだ」

 と言います。

「で、口の悪い家来が『これは、ウンコを漏らすほどに怖かったんですなあ(^▽^)/』とからかたんだ!」

 すると、

「ばか、それは腰に付けた味噌が零れたんだ!」と強がります。

 それで、アハハと笑っちゃったんですが、疑問が残ります。

「でも、お祖父ちゃん。当時はヨロイとか着て、袴とかフンドシとかもしてたんでしょ、どうやって漏れるの?」

「それはな……」

 そう言うと、戦国時代のフンドシの事情を身振りを交えて教えてくれて、転げまわって笑い死にしそうでした。

 そう言えば、あんな鎧兜を身に着けてトイレとかはどうしていたんだろうて大河ドラマ見て、子ども心にも思ったものです。実に面白い話なんですが、又にします。

 お夕飯の用意をしなくちゃ。

 あ、今夜はカレーの予定でした(-_-;)。

 

http://wwc:sumire:shiori○○//do.com

 Sのドクロブログ! 

 

 クソジジイに関わるとろくなことが無い。

 つい、三方ヶ原の家康なんか思い出すから、結末の鞍ツボのウンコまで思い出してしまってさ!

 晩ご飯のメニューはカレーだよ、カレー!

 責任とれよ、クソジジイ(`Д´)!

 三百枚のイラストだよ!?

 人物以外にもイラストとかあってさ、総数五百はあったね。

 んなもん、さっさと捨てとけよ!

 自分では『面白い授業』を実践した、栄光の歴史とか錯覚してんのかもしれないけどさ。

 こんなヨタ話とかばっかで、ちっとも授業は進まなかったんじゃないかと思うよ。言わないけどさ。

 教材だって、江戸時代以前のがほとんどでさ、近現代史とか公民的分野のものってほとんど無いわけよ。

 本人は、孫に気の利いた話をしてやってるつもりなんだろうけどさ。

 しょーじきイタイよ。

 もしさ、すてきな授業とかできていたんなら、なんで、退職してからは教えに行かないわけ?

 五十代で辞めたからさ、希望すれば、講師とか、いっぱい口があるっしょ? 講師登録しとけよ!

 産休講師とか育休講師とか、この頃じゃ介護休業ってのもあるんだしさ、行ってる学校でも、そんな講師の先生いっぱいいるし!

 昔は良かったとか言うのは、もっと人生枯れてからだと思うよ。

 家の事情だってさ、仕事辞めて一年もすれば落ち着いたんだからさ、行けばよかったじゃん。

 それがさ「これも、孫娘のためなんだ……」なんて、背中で言われたら、ほんっと! むっかつく!

 ケリ入れたくなるからさ!!

 ほんと、ウザいっしょ!

「栞のカレーは、いつも美味しいねえ」

 孫に媚びんなよ!

 だいたい、カレーの日に家康のウンコなんて、思い出さすなっちゅーの!

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滅鬼の刃・5『うかつな思い出』

2021-01-11 13:23:26 | エッセー

 エッセーノベル    

5・『うかつな思い出』   

 

 

 準急に間に合わせるため、三つ手前の信号から走りました。

 

 十五年ほど昔の事です。

 平年よりも五度ほど高い気温だとは天気予報で知っていたのですが、ソメイヨシノが終わって、造幣局の通り抜けの八重桜には間があると言う四月の半ばごろの事なので走っても汗にはならないだろうとタカをくくっていました。

 混んでいるエスカレーターを尻目にホームへの階段を上がると、ちょうど目当ての準急が出たところでした。

 上着を脱いで額の汗を拭こうと思ったらハンカチがありません。

 脱いだ上着でゴシャゴシャと汗を拭いて、カミさんは、こういうの嫌がったなあと反省。

 やっときた各駅停車に、オッサンが気楽に腰を下ろせるほどの空席がありません。

 しかたなく、隣の車両に移動して、六人掛けのシートに三人しか座っていないのを発見して腰を下ろしました。

 すると、視野の端に入っていたオバサンが間合いを詰めてきます。

「おおはっさん」

 呼ばれて顔を向けると、初任校でいっしょだったM先生です。

「あ、ああ、お久しぶりです(^▽^)」

「走ってきはったんですか?」

「アハハ、準急を逃してしまって。M先生、いまはどこの学校に?」

「○○高校に、去年から」

 ○○高校は、わたしの勤務校よりも偏差値で15ほど上の学校です。

――あ、ええなあ――

 思いましたが、むろん声には出しません。

 ほとんど十年ぶりに会う方なので、精一杯の笑顔で受け答えします。

「S先生といっしょなんですよ(o^―^o)」

 S先生という名前に、わたしの精一杯は吹っ飛んでしまいます。

「去年退職しはって、今はH短大で教えながら非常勤で来てはりますよ(^▽^)」

「Sだけは許せんのですよ」

 反射的に言ってしまいました。

 M先生は、S先生がわたしの恩師であることを承知していて、久々の邂逅の話のタネにしようと思われただけなのは「Sだけは……」の「だけは……」で思って、しまったという気持ちになります。

 M先生は、よく言えば鼻白んで、公平に見れば傷ついて憤慨されてしまわれました。

 可愛い子犬と思って頭を撫でようとしたら噛みつかれたみたいな感じです。

 M先生に罪は無いので、すぐに挽回しようと思うのですが、とっさには間に合わず、二つ向こうの目的の駅に着いて、わたしは降りてしまいました。

「それじゃ」とか「失礼します」とか言ったのか、無言で降りてしまったのか記憶にありません。

 それほど、S先生の名前は、わたしの脳みそを瞬間で沸騰させてしまったのです。

 S先生は、こんな先生でした。

 一時間目の授業には来られません。

「おれ、一時間目は来ないけど、ぜったい職員室に呼びに来るなよ」

 一年生で学級委員長になったわたしを廊下に呼び出して言い含めました。

 せいぜい、次の一時間目の授業だけかと思ったら、連休前になっても一時間目の授業に来ません。

 たまたま、教室の前を通りかかった担任がS先生の不在に気が付いて「おい、委員長」と廊下に呼び出され、「五分たっても先生が来られない時には呼びに行くようにいっただろう!」と叱られます。

 子ども心にも本当のことを言ってはまずいと思い「すみません」と、その場は謝っておきました。

 その次の一時間目もS先生は来なかったので、さすがに職員室に呼びにいきます。

 そこで知れました。S先生は一時間目に間に合うようには出勤していないのです。

 ちょっと問題になって、わたしはS先生に𠮟られました。

「おい、呼びに来るなって言っただろうが!」

 ちょっと不貞腐れるように謝った記憶があります。

 授業はヨタ話というか余談の多い先生でした。学生時代の話や、学校の噂話などで、一時間目に来ないこともあいまって、総授業数の半分ほどしか実質の授業がありません。

 連休明けになると、真面目な生徒は自分で勉強していたように思います。

 テスト前の四時間……三時間ほどでしょうか、大慌てでテスト範囲の内容を黒板の端から端まで三回ほど書いて早口で説明されていました。

 主要教科ではなかったので、それ以上に問題になることはありませんでした。

 幸か不幸か、二年生になるとS先生は学年が異なったこともあって、授業を持っていただくことはありませんでしたが、こんな出来事がありました。

 S先生が予備校で授業をしていると噂が立ったのです。

 進学校でしたので、現役の生徒でも塾や予備校に行っているものが居て、その関係で噂が広まったようです。

 放置しておくわけにはいかなくなって、同僚の先生たちが「ちょっとまずいよ」的な注意されますが、今風に言うと「それはフェイクです」と突っぱねました。

 先生たちの中には、S先生が高校生だった頃の恩師もおられ「ちょっとS君、いやS先生」と差しで話しているのを図書室で目撃しました。

 ああ、これはヤバいなあと思いましたが、S先生の恩師は、それ以上注意することを控えて、腕組みしたまま図書室を出ていかれました。

 強い喜怒哀楽というものは言葉にしなくても溢れてきます。例えば殺気ですねえ( ゚Д゚)。

 殺気を感じて振り返ると、隣接する司書室からI先生の怖い顔がガラス越しに見えます。

 I先生は、正義感の強い先生で、なんと、放課後S先生の後を付けて行きました。S先生の向かった先は、噂通りの予備校で、窓の外からS先生が講義をしていることを確認。勤務を終えて出てきたS先生に「おい、S、やっぱりやっていたじゃないか!」と詰め寄られ、S先生の予備校勤務は白日の下に晒されました。

 でも、ここまでであれば、まだ校内のもめ事ですみました。

 なんとS先生はI先生に匿名の……なんというか、強い意志表明の手紙を出しました。

「大橋君、あいつ、こんなもの寄こしてきやがったヽ(`Д´)ノ」

 見せていただきましたが、恐ろしくて「強い意思」であったことしか覚えていません。

 ここまでくると、穏やかに事は運びません。

 新聞社に情報を漏らした者が……生徒か、保護者か、教職員の誰かか、今となっては知る由もありませんが、法律で禁じられている兼職をやっていることや授業をロクにやっていないことが新聞に書かれました。

 いまなら免職ものでしょう。

 教師には甘い時代でした。

 生徒でしたので、詳細は分かりませんでしたが、どうやら戒告程度で済んだようで、勤務はされていました。

 しかし、すでに学校関係者や世間の知るところとなり、府議会でも問題になり、府議会の文教委員の議員数名が随時査察にやってきました。

 これはこれで面白い事件だったのですが割愛いたします。

 S先生は、翌年、府内でも指折りの困難校に転勤になりました。離任式の日に図書室に寄られて、他の先生にグチっておられるところを、また目撃してしまいました。

 子ども心にも――どの面下げて――と思ってしまいました。

 S先生は、わたしが所属していた部活の顧問でもあって、部活でもいろいろあったのですが、ここでは触れません。

 とにかく、この先生は許せないと思ったのですが、M先生と電車で会ったのは、それから四十年近くたっています。

 ちょっと呑み込んだら「ああ、S先生ですかあ……懐かしいなあ、お元気にやっておられますか(o^―^o)」くらいに言えたのですが。

 信号三つ分走って、準急に間に合わなかった悔しさと汗で、スイッチが入ってしまったんでしょうねえ。

 あれから、十余年、思い出しては汗が出てきます。

 うかつな思い出は、不用意に人を傷つける刃になります。

 こんどM先生にお会いする機会があったら、ちょっとフォローしておきたい失敗でありました。

 

 

 

 

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