劇作上の飛躍と省略 初出;2012-04-18 14:33:50
晩年の手塚治虫さんが、こう言っておられました。
「このごろマルがかけないんですよね、さっと一筆で……」
手塚さんのマンガの出発点にはディズニーがあり、ミッキーもアトムもマルからできています。
思い切って、さっと書いたマルが基本の技術です。素人が見ると実に簡単に描いているように見えます。実際速いのですが、そこから絵としてのマンガのリズムと力が出てきます。素人がトレースすると、このリズムと力がでません。
劇作の上で、これに当たるものが、台詞としての言葉。そして、作劇上の適度な飛躍と省略です。
『ロミオとジュリエット』 シェ-クスピアの特徴で、台詞はやたらと長いですが、ストーリー上の飛躍と省略は、すごいものがあります。二人は、たった一度の舞踏会で恋に落ちます。で、有名なバルコニーのシーンで二人の愛は確定的になります。この間に「愛してる」という直裁な言葉は出てこなかったと思います。そしてロレンス神父の前で、二人だけの結婚式。ティボルトを過って殺してしまったことで、ロミオはベロ-ナを追放され別れ別れに。ロレンス神父のはからいで42時間仮死状態になる薬を利用してジュリエットは墓場へと運ばれ、行き違いにロミオは、その墓場へ。で、ジュリエットが本当に死んだと思ったロミオは毒を飲んで死に、その死体を見つけたジュリエットは、ロミオの剣で胸を刺し息絶えます。
で、この物語はたった3日間で終わります。舞台化すると3時間ほどで終わってしまいます。
この間、沢山の飛躍と省略があります。下手な劇作家がこれを書くと、台詞は短く、話しは、もっと長いものになったでしょう。42時間の仮死状態になる薬なんか、アザトサと紙一重のように思えます。しかし、シェ-クスピアは軽々と飛躍させます。この飛躍により、観客は若い性急な二人の恋を自分のことのように感じます。手塚治虫でいうと軽々とマルを描いています。
このオマージュとして『ウェストサイドストーリー』があります。よくできたミュージカルですが、この物語から歌と踊りを取ってしまったら、『ロミジュリ』の単なる二番煎じにしかなりません。逆に言えば、数百年後に翻案させるだけの力を持っているのです。
『プリィティープリンセス』というディズニーの映画があります。原作はメグ・キャボットの『プリンセスダイアリー』で、全十巻の長編です。映画では、ジェノビアの皇太子である主人公ミアの父が急死して、急遽ミアがプリンセスにさせられる。ラストはミア自身の決意でプリンセスになることを決意してハッピーエンドになります。
原作では、ミアの父親は健在で、睾丸にできたガンのため子どもを作れない体になってしまい、プリンセスに指名されます。原作は原作で面白く、長編小説としては大成功。アメリカでは『ハリーポッター』に次ぐ人気と売り上げがありました。
しかし映画化にあたっては、バッサリと父親を死なせています。すごい省略です。映画のライターの腕のスゴサを感じます。
『坂の上の雲』という司馬遼太郎さんの長編小説があります、先年NHKが3年の歳月と莫大な制作費を使ってテレビドラマ化しました。当然飛躍と省略がありました。そして余計な付け加え、改編がありました。結果的には、私感ではありますが、原作が持っていたダイナミズムと日本という国へのシンパシーを損ないました。
今『男はつらいよ』を全巻観ているところです。今2/3を見終わったところです。印象は偉大なマンネリズムです。
寅さんの夢落ちから始まり、恋や家族のことで、あるいは生き方に悩んだ、たいてい若くてきれいな女性がでてきます。お決まりなので「マドンナ役」と言われます。そのマドンナの苦しみ、悲しみを寅さんは意識的に、あるいは無意識、偶然によって解決し、ラストではマドンナとの決別があります。そして傷心の寅さんは再び旅に出て、旅先から寅さんのヘタクソな手紙が虎屋に来て、寅さんの元気な様子で大団円になります。たいがいの作品が1時間40分ほどです。映画としては短い部類に入ると思います。この中に寅さんとマドンナ以外の人や家庭の話しが出てきます。詳しくは出てきません。すごい飛躍や省略があります。
何回目かの作品に森重久弥が出てきます。冒頭とラストに合計で10分ほどの登場です。しかし、この間に、父親としての娘への愛情、愛情ゆえの突き放し、一人暮らしになった父の寂しさと、そこに到までの父の葛藤を、ほとんど台詞なしで背中の演技で見せています。作者であり監督である山田洋次と森重久弥という役者が、演技や映像として省略はしていますが、キチンとイメージとして持っている。ひょっとしたら、レジーする前の本には、あったのではないかと思います。
作家ではありませんが、俳優の宇野重吉さんが、こんなことを言っていました。
「役者は十の演技をやってみて、九つは捨てるんですよ。時によっちゃ十全部捨てるんだ」
わたしは、高校演劇や若い人の劇団がやれる芝居を30本ほど世の中に残せたらいいと思っています。自分で言うのもなんですが、わたしの本に出てくる人物は饒舌なわりに存在感が希薄です。適度な飛躍と省略をやるためには、飛躍、省略するだけのものが書けなければなりません。
ここ大事です。表現しきれない中身があって、初めて飛躍、省略ができるんです。
黒澤明やスタニフラフスキーは、机があったとしたら、引き出しの中の手紙まで用意させました。ちゃんと本編のツジツマが合うように書かれた手紙です。でも、本番中、その引き出しは開けられません。むろん手紙が読まれることもありません。こういうことが飛躍と省略を分かっていただく手がかりになるのかと思います。
晩年の手塚治虫さんが、こう言っておられました。
「このごろマルがかけないんですよね、さっと一筆で……」
手塚さんのマンガの出発点にはディズニーがあり、ミッキーもアトムもマルからできています。
思い切って、さっと書いたマルが基本の技術です。素人が見ると実に簡単に描いているように見えます。実際速いのですが、そこから絵としてのマンガのリズムと力が出てきます。素人がトレースすると、このリズムと力がでません。
劇作の上で、これに当たるものが、台詞としての言葉。そして、作劇上の適度な飛躍と省略です。
『ロミオとジュリエット』 シェ-クスピアの特徴で、台詞はやたらと長いですが、ストーリー上の飛躍と省略は、すごいものがあります。二人は、たった一度の舞踏会で恋に落ちます。で、有名なバルコニーのシーンで二人の愛は確定的になります。この間に「愛してる」という直裁な言葉は出てこなかったと思います。そしてロレンス神父の前で、二人だけの結婚式。ティボルトを過って殺してしまったことで、ロミオはベロ-ナを追放され別れ別れに。ロレンス神父のはからいで42時間仮死状態になる薬を利用してジュリエットは墓場へと運ばれ、行き違いにロミオは、その墓場へ。で、ジュリエットが本当に死んだと思ったロミオは毒を飲んで死に、その死体を見つけたジュリエットは、ロミオの剣で胸を刺し息絶えます。
で、この物語はたった3日間で終わります。舞台化すると3時間ほどで終わってしまいます。
この間、沢山の飛躍と省略があります。下手な劇作家がこれを書くと、台詞は短く、話しは、もっと長いものになったでしょう。42時間の仮死状態になる薬なんか、アザトサと紙一重のように思えます。しかし、シェ-クスピアは軽々と飛躍させます。この飛躍により、観客は若い性急な二人の恋を自分のことのように感じます。手塚治虫でいうと軽々とマルを描いています。
このオマージュとして『ウェストサイドストーリー』があります。よくできたミュージカルですが、この物語から歌と踊りを取ってしまったら、『ロミジュリ』の単なる二番煎じにしかなりません。逆に言えば、数百年後に翻案させるだけの力を持っているのです。
『プリィティープリンセス』というディズニーの映画があります。原作はメグ・キャボットの『プリンセスダイアリー』で、全十巻の長編です。映画では、ジェノビアの皇太子である主人公ミアの父が急死して、急遽ミアがプリンセスにさせられる。ラストはミア自身の決意でプリンセスになることを決意してハッピーエンドになります。
原作では、ミアの父親は健在で、睾丸にできたガンのため子どもを作れない体になってしまい、プリンセスに指名されます。原作は原作で面白く、長編小説としては大成功。アメリカでは『ハリーポッター』に次ぐ人気と売り上げがありました。
しかし映画化にあたっては、バッサリと父親を死なせています。すごい省略です。映画のライターの腕のスゴサを感じます。
『坂の上の雲』という司馬遼太郎さんの長編小説があります、先年NHKが3年の歳月と莫大な制作費を使ってテレビドラマ化しました。当然飛躍と省略がありました。そして余計な付け加え、改編がありました。結果的には、私感ではありますが、原作が持っていたダイナミズムと日本という国へのシンパシーを損ないました。
今『男はつらいよ』を全巻観ているところです。今2/3を見終わったところです。印象は偉大なマンネリズムです。
寅さんの夢落ちから始まり、恋や家族のことで、あるいは生き方に悩んだ、たいてい若くてきれいな女性がでてきます。お決まりなので「マドンナ役」と言われます。そのマドンナの苦しみ、悲しみを寅さんは意識的に、あるいは無意識、偶然によって解決し、ラストではマドンナとの決別があります。そして傷心の寅さんは再び旅に出て、旅先から寅さんのヘタクソな手紙が虎屋に来て、寅さんの元気な様子で大団円になります。たいがいの作品が1時間40分ほどです。映画としては短い部類に入ると思います。この中に寅さんとマドンナ以外の人や家庭の話しが出てきます。詳しくは出てきません。すごい飛躍や省略があります。
何回目かの作品に森重久弥が出てきます。冒頭とラストに合計で10分ほどの登場です。しかし、この間に、父親としての娘への愛情、愛情ゆえの突き放し、一人暮らしになった父の寂しさと、そこに到までの父の葛藤を、ほとんど台詞なしで背中の演技で見せています。作者であり監督である山田洋次と森重久弥という役者が、演技や映像として省略はしていますが、キチンとイメージとして持っている。ひょっとしたら、レジーする前の本には、あったのではないかと思います。
作家ではありませんが、俳優の宇野重吉さんが、こんなことを言っていました。
「役者は十の演技をやってみて、九つは捨てるんですよ。時によっちゃ十全部捨てるんだ」
わたしは、高校演劇や若い人の劇団がやれる芝居を30本ほど世の中に残せたらいいと思っています。自分で言うのもなんですが、わたしの本に出てくる人物は饒舌なわりに存在感が希薄です。適度な飛躍と省略をやるためには、飛躍、省略するだけのものが書けなければなりません。
ここ大事です。表現しきれない中身があって、初めて飛躍、省略ができるんです。
黒澤明やスタニフラフスキーは、机があったとしたら、引き出しの中の手紙まで用意させました。ちゃんと本編のツジツマが合うように書かれた手紙です。でも、本番中、その引き出しは開けられません。むろん手紙が読まれることもありません。こういうことが飛躍と省略を分かっていただく手がかりになるのかと思います。