[千葉勝浦の守谷海岸]
子どもの頃、小児喘息を患っていた私は
たびたび発作に襲われた。
ヒューという音が体に響き、肺の内部から
かろうじて外に吐き出すような、か細い息とともに
呼吸をしていた記憶がある。
20代前半の若かった父と母は、
大阪から空気の悪い東京に引っ越してきたせいだろうか?
などあれこれ心配をして看病に必死になっていた。
妹たち2人は、親の手を煩わせている
体の弱い姉を気遣いながら、
どこかで自分は迷惑をかけないようにしよう、と
幼心にガマンをしてきたようである。
******************************
その辛かった小児喘息も小学校高学年の頃になると
すっかりと峠を越して、中学に進学したあたりから
めきめきと健康な肉体に変化を遂げていったのだった。
そうなると昔、病弱であったことも
すっかりと忘れてしまうものである。
今となっては、ギックリ腰で立てなくなることが
4~5年前まではよくあったのだが、
ここ数年はどんなに調子が悪くてもなぜか翌日には
普通に起き上がれる強靭な肉体を手に入れるほど
仕事を休んだことがないカラダになった。
見かけは小さくで細いが、意外に強いのだ。
本当にありがたい話である。
******************************
小学校に上がる前にはひどい発作がたびたび
重なったらしく医者には「公害認定患者」にしましょうか?
と言われたほどだったのだという。
時はちょうど日本が高度成長期。
京浜工業地帯は灰色の煙を我が物顔で
モクモクと空に流していたころである。
幼ない私は、そんな風景を中学や高校の社会の
教科書で後から知ることになるのだった。
汚れた空気の東京から少しでも逃れるために
週末になると千葉県の房総に位置する勝浦の海へと
家族総出で連れ出してくれた。
安い民宿のふとんはホコリだらけで
いつも落ち着いていた発作がかえって悪化していたのだが
それでも両親は潮風と太陽を浴びれば
きっと元気になる、と信じて足しげく通い詰めた。
最初は病弱な娘のために、というきっかけだったが
ヒマをもてあました父が時間つぶしに“釣り”をするようになり、
じょじょに地元の漁師さんたちと仲良くなっていったのだった。
海に潜ったり、地引網などを楽しむようになった
父は、すっかり海に魅せられて釣果を自慢したり、
海の幸に腕を家族や来客に振るまっては喜んでいた。
(今思うと贅沢な話だが、当時はもうお刺身はいいよ・・・
というぐらい魚ざんまいでちょっぴりウンザリしていた)
******************************
父が亡くなってから早いもので13回忌を過ぎた。
年末年始にかけて、犬3匹を連れて一家で過ごした
天津小湊(あまつこみなと)は勝浦に程近い場所。
初日の出を拝んで、家路へと帰る途中、
せっかくだからあの懐かしい守谷海岸に行ってみることになった。
お正月の澄み切った空気と燦々と輝く太陽が
昔と変わらずに私たちを向かえてくれた。
何百年も前から海の守り神として御祭りした
赤い小さな鳥居のある通称“渡島”と呼ばれる小島には
ちょうど日の光がさしていて、
まるでスポットライトのようだった。
数分後には太陽の位置も移動していたから、
幻想的なシーンをカメラにおさめることができた。
******************************
家族にたくさんの愛を注いでくれた父が病を患って、
余命を宣告されてから、それまで以上にひたすら感謝の
言葉を口に出すようになっていった。
「ありがとう。ありがとう。」って。
もちろん元気な頃も、超ポジティブな父は年末になると
大阪弁で「いや~、今年もええ年やった!」と、
どんなことがあっても笑顔で言い切っていた。
そして、あと1年、6ヶ月、3ヶ月・・・と言われ続けても
騒ぐこともなく、乱すことなく、黙ってもくもくと
身辺の整理をしながら家族を見守ってくれていた。
最期はかくありたい、と私は親の背中を見せてもらった。
******************************
そして先日、祖母が天寿を全うした。
97歳で老衰。本当にお疲れさま。
そして寿命完遂おめでとうございます。
というに値する時間の長さである。
叔父や叔母のキメ細やかな心遣いで床ずれもなく、
どこも患うことなく静かに旅立ったのだそうだ。
明治生まれの祖母は激動の時代を生き抜いた
カッコいい「明治の女」。
凛とした中にいつも哲学があり、それでいてマイペース。
そんな祖母も最期はひたすら家族に感謝をしつつ、
旅立つ直前は、今まで通り急に周囲を一括したという。
毅然とした姿勢も忘れずに指し示してくれたのだと思う。
******************************
父と祖母。
ふたりは自宅介護だったために
納棺し、送り出すという貴重な経験をすることができた。
父の時には、黒い服の男性が体を拭いて棺に体を納めてくれた
かすかな記憶しかないのだが、今回の祖母には本当にビックリした。
ワンボックスカーが家に横付けになり、
介護用のお風呂とシャワーが部屋に運び込まれる。
準備が整い、呼ばれていくと黒いエプロン姿の
20代の男性と茶髪の女性。
今どきの若者風のふたりは穏やかに手順を説明し始める。
「来世に旅立っていただくために、この世の煩悩を捨て、
悲しみや苦しみをすべて洗い流すための
儀式を今からとりおこないます。
もしよろしければご覧いただいてもいいですし、
お辛かったら席をはずしていただいても構いません。」と
話し終えた後、お風呂に体を移動して洗い始めた。
まずは家族が一杯ずつ手桶の湯をかける。
その後は、石鹸を泡立てて髪の毛や顔、足の指、
背中に至るまで全身を丁寧に丁寧に洗ってくれる。
そして、最後はゆっくりゆっくりとシャワーで洗い流し
タオルで水気をふき取っている。
長い時間をかけて、肉体最後のお風呂に入る祖母は
本当に気持ちよさそうで、ピカピカになっていた。
棺に納める時、母や叔母があれこれと手に持って
茶髪の女の子に交渉を始めた。
「これはおばあちゃんが自分で縫った浴衣なの。
これを着たいって言っていたんだけど、いいですか?」
「そうですね・・・、こちらで用意したものがあるのですが
・・・わかりました。一番上になるように着させて頂きます。」
「この布団を棺に入れてくれって生前に言われたんだけど・・・」
じっとあれこれ眺めて、
「はい、ではこちらを使わせて頂きます。」
「おばあちゃんが長いこと集めた善光寺さんのお札、
これも足元に入れてやってくれないかな?」
すると、今度は男性が、
「う~ん、ではこれはせっかくですからご家族おひとりづつが
ご挨拶とともにお納め下さい」
幼児のひ孫たちも小さな手におばあちゃんが集めた
色とりどりのお札を握り締め、布団の上に置く。
祖母の選んだ純白の布団はまるで花びらを散りばめたような
あでやかな模様へと彩られた。
「大阪ではね、足袋は逆にするのよ。
こちらはそのままなのね。」と言うと、
静かに微笑みながらやんわりと
「色々な土地の風習がありますから。」と
きっぱり言い切った。
若いふたりは丁寧にそつなく、
でも故人や遺族の心を汲み取りながら臨機応変に対応しつつ、
土地の習わしを重んじる姿勢を貫き通し
“儀式”と呼んでいた作業を鮮やかに終えていった。
******************************
一段落した後、同年代のいとこ達と
すっごく若くてビックリしたよね~。
あの人たちは正社員?派遣?パート?・・・
お金がいいの?それにしてはそれだけじゃないよね?
プロフェッショナルな動きだったよね!と
ひとしきり議論となった。
******************************
そんなできごとをあるところで話たら、
その一連の作業を別名「エンゼルケア」というのだそうだ。
そういえば、あの茶髪の女の子の表情。
まるで、マリアさまのような、観音様のような、
お釈迦さまのような微笑を浮かべながら洗っていた。
そして、天使がまわりにいるようだった。
過去世も来世も信じている人ばかりではないと思うが
あんな風に自然に「来世のために・・・」と言われたら
きれいな旅じたくをさせて、心から見送りたいという気持ちになる。
******************************
「たつ鳥あとを濁さず」
という格言は旅行に行く前に
昔から母が言っている言葉。
旅に出る機会の多い私も、家を出る前には
そのセリフが頭にこだまし、時間のゆるす限り部屋を片付ける。
人生もまた長い旅路。
ふたりの先輩が見せてくれた生き様と
次の未来へと向かう旅じたくは、
私の今回の旅の道のりの指標になるにちがいない。
子どもの頃、小児喘息を患っていた私は
たびたび発作に襲われた。
ヒューという音が体に響き、肺の内部から
かろうじて外に吐き出すような、か細い息とともに
呼吸をしていた記憶がある。
20代前半の若かった父と母は、
大阪から空気の悪い東京に引っ越してきたせいだろうか?
などあれこれ心配をして看病に必死になっていた。
妹たち2人は、親の手を煩わせている
体の弱い姉を気遣いながら、
どこかで自分は迷惑をかけないようにしよう、と
幼心にガマンをしてきたようである。
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その辛かった小児喘息も小学校高学年の頃になると
すっかりと峠を越して、中学に進学したあたりから
めきめきと健康な肉体に変化を遂げていったのだった。
そうなると昔、病弱であったことも
すっかりと忘れてしまうものである。
今となっては、ギックリ腰で立てなくなることが
4~5年前まではよくあったのだが、
ここ数年はどんなに調子が悪くてもなぜか翌日には
普通に起き上がれる強靭な肉体を手に入れるほど
仕事を休んだことがないカラダになった。
見かけは小さくで細いが、意外に強いのだ。
本当にありがたい話である。
******************************
小学校に上がる前にはひどい発作がたびたび
重なったらしく医者には「公害認定患者」にしましょうか?
と言われたほどだったのだという。
時はちょうど日本が高度成長期。
京浜工業地帯は灰色の煙を我が物顔で
モクモクと空に流していたころである。
幼ない私は、そんな風景を中学や高校の社会の
教科書で後から知ることになるのだった。
汚れた空気の東京から少しでも逃れるために
週末になると千葉県の房総に位置する勝浦の海へと
家族総出で連れ出してくれた。
安い民宿のふとんはホコリだらけで
いつも落ち着いていた発作がかえって悪化していたのだが
それでも両親は潮風と太陽を浴びれば
きっと元気になる、と信じて足しげく通い詰めた。
最初は病弱な娘のために、というきっかけだったが
ヒマをもてあました父が時間つぶしに“釣り”をするようになり、
じょじょに地元の漁師さんたちと仲良くなっていったのだった。
海に潜ったり、地引網などを楽しむようになった
父は、すっかり海に魅せられて釣果を自慢したり、
海の幸に腕を家族や来客に振るまっては喜んでいた。
(今思うと贅沢な話だが、当時はもうお刺身はいいよ・・・
というぐらい魚ざんまいでちょっぴりウンザリしていた)
******************************
父が亡くなってから早いもので13回忌を過ぎた。
年末年始にかけて、犬3匹を連れて一家で過ごした
天津小湊(あまつこみなと)は勝浦に程近い場所。
初日の出を拝んで、家路へと帰る途中、
せっかくだからあの懐かしい守谷海岸に行ってみることになった。
お正月の澄み切った空気と燦々と輝く太陽が
昔と変わらずに私たちを向かえてくれた。
何百年も前から海の守り神として御祭りした
赤い小さな鳥居のある通称“渡島”と呼ばれる小島には
ちょうど日の光がさしていて、
まるでスポットライトのようだった。
数分後には太陽の位置も移動していたから、
幻想的なシーンをカメラにおさめることができた。
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家族にたくさんの愛を注いでくれた父が病を患って、
余命を宣告されてから、それまで以上にひたすら感謝の
言葉を口に出すようになっていった。
「ありがとう。ありがとう。」って。
もちろん元気な頃も、超ポジティブな父は年末になると
大阪弁で「いや~、今年もええ年やった!」と、
どんなことがあっても笑顔で言い切っていた。
そして、あと1年、6ヶ月、3ヶ月・・・と言われ続けても
騒ぐこともなく、乱すことなく、黙ってもくもくと
身辺の整理をしながら家族を見守ってくれていた。
最期はかくありたい、と私は親の背中を見せてもらった。
******************************
そして先日、祖母が天寿を全うした。
97歳で老衰。本当にお疲れさま。
そして寿命完遂おめでとうございます。
というに値する時間の長さである。
叔父や叔母のキメ細やかな心遣いで床ずれもなく、
どこも患うことなく静かに旅立ったのだそうだ。
明治生まれの祖母は激動の時代を生き抜いた
カッコいい「明治の女」。
凛とした中にいつも哲学があり、それでいてマイペース。
そんな祖母も最期はひたすら家族に感謝をしつつ、
旅立つ直前は、今まで通り急に周囲を一括したという。
毅然とした姿勢も忘れずに指し示してくれたのだと思う。
******************************
父と祖母。
ふたりは自宅介護だったために
納棺し、送り出すという貴重な経験をすることができた。
父の時には、黒い服の男性が体を拭いて棺に体を納めてくれた
かすかな記憶しかないのだが、今回の祖母には本当にビックリした。
ワンボックスカーが家に横付けになり、
介護用のお風呂とシャワーが部屋に運び込まれる。
準備が整い、呼ばれていくと黒いエプロン姿の
20代の男性と茶髪の女性。
今どきの若者風のふたりは穏やかに手順を説明し始める。
「来世に旅立っていただくために、この世の煩悩を捨て、
悲しみや苦しみをすべて洗い流すための
儀式を今からとりおこないます。
もしよろしければご覧いただいてもいいですし、
お辛かったら席をはずしていただいても構いません。」と
話し終えた後、お風呂に体を移動して洗い始めた。
まずは家族が一杯ずつ手桶の湯をかける。
その後は、石鹸を泡立てて髪の毛や顔、足の指、
背中に至るまで全身を丁寧に丁寧に洗ってくれる。
そして、最後はゆっくりゆっくりとシャワーで洗い流し
タオルで水気をふき取っている。
長い時間をかけて、肉体最後のお風呂に入る祖母は
本当に気持ちよさそうで、ピカピカになっていた。
棺に納める時、母や叔母があれこれと手に持って
茶髪の女の子に交渉を始めた。
「これはおばあちゃんが自分で縫った浴衣なの。
これを着たいって言っていたんだけど、いいですか?」
「そうですね・・・、こちらで用意したものがあるのですが
・・・わかりました。一番上になるように着させて頂きます。」
「この布団を棺に入れてくれって生前に言われたんだけど・・・」
じっとあれこれ眺めて、
「はい、ではこちらを使わせて頂きます。」
「おばあちゃんが長いこと集めた善光寺さんのお札、
これも足元に入れてやってくれないかな?」
すると、今度は男性が、
「う~ん、ではこれはせっかくですからご家族おひとりづつが
ご挨拶とともにお納め下さい」
幼児のひ孫たちも小さな手におばあちゃんが集めた
色とりどりのお札を握り締め、布団の上に置く。
祖母の選んだ純白の布団はまるで花びらを散りばめたような
あでやかな模様へと彩られた。
「大阪ではね、足袋は逆にするのよ。
こちらはそのままなのね。」と言うと、
静かに微笑みながらやんわりと
「色々な土地の風習がありますから。」と
きっぱり言い切った。
若いふたりは丁寧にそつなく、
でも故人や遺族の心を汲み取りながら臨機応変に対応しつつ、
土地の習わしを重んじる姿勢を貫き通し
“儀式”と呼んでいた作業を鮮やかに終えていった。
******************************
一段落した後、同年代のいとこ達と
すっごく若くてビックリしたよね~。
あの人たちは正社員?派遣?パート?・・・
お金がいいの?それにしてはそれだけじゃないよね?
プロフェッショナルな動きだったよね!と
ひとしきり議論となった。
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そんなできごとをあるところで話たら、
その一連の作業を別名「エンゼルケア」というのだそうだ。
そういえば、あの茶髪の女の子の表情。
まるで、マリアさまのような、観音様のような、
お釈迦さまのような微笑を浮かべながら洗っていた。
そして、天使がまわりにいるようだった。
過去世も来世も信じている人ばかりではないと思うが
あんな風に自然に「来世のために・・・」と言われたら
きれいな旅じたくをさせて、心から見送りたいという気持ちになる。
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「たつ鳥あとを濁さず」
という格言は旅行に行く前に
昔から母が言っている言葉。
旅に出る機会の多い私も、家を出る前には
そのセリフが頭にこだまし、時間のゆるす限り部屋を片付ける。
人生もまた長い旅路。
ふたりの先輩が見せてくれた生き様と
次の未来へと向かう旅じたくは、
私の今回の旅の道のりの指標になるにちがいない。