【ルリマツリ(プルンパーゴ)】
ちょうど今ごろ、友人のモリモ一家は
オーストラリアに向かって雲の上を飛んでいる頃。
昨日の夕方、モリモからお別れのメールがきた。
「お世話になりました。
たくさんの楽しい思い出を作ることができました。
この3年間は私達にとってかけがえのないもの♪」
***********************
おととい、3家族が集まって最後のお食事を楽しんだ。
モリモは17年前、フラワーデザインを
習い始めたばかりの頃の同じ生徒仲間。
お花の仕事で体調をくずし、単身オーストラリアに渡った。
そして出会った、トムクルーズ似(?)の8歳年下の
オーストラリア人、クリスと恋に落ちた。
1度は海外生活にピリオドを打ち
日本に戻ってきたのだが、
なんとクリスが追いかけてきたのだそうだ。
そんな、日本人なら誰でもがあこがれる
シンデレラのようなラブストーリ-を持つふたりと
超カワイイ、ハーフの息子。
8年前、一家の住む西オーストラリアのパースに
同じく生徒時代の同期、マリちゃん親子と2家族で旅をしたこともある。
3年前に高校の英語教師として一家は日本にやってきた。
そして出発前夜、私達は再び隠れ家のような居酒屋に集結した。
8年前、クリスの車にちょこんと乗って
フリーマントルという港町の海岸へ
遊びに行った子ども達は今やすっかり背丈が伸び、
青年へと移行中である。
***********************
私は仕事を終えて、息子は夏期講習を終えて、
ダッシュするように駅に向かった。
けれども、電車は事故のためにストップしていた。
復旧のメドが立たず、かなりの遠回りでいつもの倍の時間を要して
ようやく待ち合わせの店にたどりついた。
そして帰りはタイミング悪く、接近する台風が
バケツをひっくり返したような雨を連れてきた。
びしょびしょになった衣服を気にしながら、
近づくバスの発車時刻に追われて
ゆっくりとお別れができなかった。
でも、バタバタとしていてよかった。
泣かずにすんだ。
ものすごい風雨とむせ返る湿気。
ずぶぬれになって駆け込む人であふれる
駅の雑踏の中で、しんみりと別れを惜しむような
雰囲気とは縁遠いものだった。
翌日届いたお礼の言葉と「See you!」のメールに
突然、実感が湧いてきて涙があふれてきてしまった。
夕食の準備をしながらぐすん、ぐすんとしばらく泣いていた。
いつの、どんな時でもさよならは悲しいものだ。
また会えるってわかっていても、やっぱり淋しい。
近所だったらすぐ会えるから、
じゃあまたね!って気軽に手を振る。
距離が離れれば離れるほど、心のどこかで
ホントにまた会えるかな?って思いつつ、
でも日本にいるからね、その気になればいつでも会えるわ、と
少し重い気分を振り切って、明るくさよならをする。
またこっちに来たら連絡してね!を合言葉に。
でも、海の向こうとなるとまた会おうね、
という言葉がズシっと重みを増す。
これがもしかしたら最後かも、との思いが
頭のどこかを否応なくチラチラっとかすめていく。
きっと遠ければ遠いほど、その距離に比例して
淋しさも深くなっていくのではないだろうか。
「別れの淋しさは距離に比例する。」
そんな公式も立てられそうな気がするが、
実際問題どうだろう。
近所なのに、ある時ばったりと
会えなくなってしまうこともある。
会おうと思えばすぐにでも話せる距離なのに、
なにかのきっかけで疎遠になってしまい、
そのままずっとチャンスを逸することだって
誰しも経験することだろう。
でもどんなに遠くても、
お互いに会いたいという気持ちがあれば
たとえ海の向こうであっても必ず再会できるもの。
わざわざ会うチャンスをお互いに作り出す。
つまり、淋しい思いは距離に関係していても
実際には、距離は関係なく必要があれば会える、
ということのようだ。
そして愛する人との永遠とも思えるお別れが来た時でさえ、
やはり現実、時空は関係なく必ず再会できるようである。
思わず距離と比例させて悲しみに暮れてしまうが、
この法則は意外と広範囲で活用されている。
何千年もの間、きっと私達はこんな風に
別れを繰り返しているのだろうと思う。
それでも、法則は理解しながらも、
やっぱりいつでも涙あふれて、旅の別れを惜しむ。
でもその行為こそが人間の心に宿る根っこの部分なのだ。
そしてそれは、きっと未来にも変わることがないだろう。
ちょうど今ごろ、友人のモリモ一家は
オーストラリアに向かって雲の上を飛んでいる頃。
昨日の夕方、モリモからお別れのメールがきた。
「お世話になりました。
たくさんの楽しい思い出を作ることができました。
この3年間は私達にとってかけがえのないもの♪」
***********************
おととい、3家族が集まって最後のお食事を楽しんだ。
モリモは17年前、フラワーデザインを
習い始めたばかりの頃の同じ生徒仲間。
お花の仕事で体調をくずし、単身オーストラリアに渡った。
そして出会った、トムクルーズ似(?)の8歳年下の
オーストラリア人、クリスと恋に落ちた。
1度は海外生活にピリオドを打ち
日本に戻ってきたのだが、
なんとクリスが追いかけてきたのだそうだ。
そんな、日本人なら誰でもがあこがれる
シンデレラのようなラブストーリ-を持つふたりと
超カワイイ、ハーフの息子。
8年前、一家の住む西オーストラリアのパースに
同じく生徒時代の同期、マリちゃん親子と2家族で旅をしたこともある。
3年前に高校の英語教師として一家は日本にやってきた。
そして出発前夜、私達は再び隠れ家のような居酒屋に集結した。
8年前、クリスの車にちょこんと乗って
フリーマントルという港町の海岸へ
遊びに行った子ども達は今やすっかり背丈が伸び、
青年へと移行中である。
***********************
私は仕事を終えて、息子は夏期講習を終えて、
ダッシュするように駅に向かった。
けれども、電車は事故のためにストップしていた。
復旧のメドが立たず、かなりの遠回りでいつもの倍の時間を要して
ようやく待ち合わせの店にたどりついた。
そして帰りはタイミング悪く、接近する台風が
バケツをひっくり返したような雨を連れてきた。
びしょびしょになった衣服を気にしながら、
近づくバスの発車時刻に追われて
ゆっくりとお別れができなかった。
でも、バタバタとしていてよかった。
泣かずにすんだ。
ものすごい風雨とむせ返る湿気。
ずぶぬれになって駆け込む人であふれる
駅の雑踏の中で、しんみりと別れを惜しむような
雰囲気とは縁遠いものだった。
翌日届いたお礼の言葉と「See you!」のメールに
突然、実感が湧いてきて涙があふれてきてしまった。
夕食の準備をしながらぐすん、ぐすんとしばらく泣いていた。
いつの、どんな時でもさよならは悲しいものだ。
また会えるってわかっていても、やっぱり淋しい。
近所だったらすぐ会えるから、
じゃあまたね!って気軽に手を振る。
距離が離れれば離れるほど、心のどこかで
ホントにまた会えるかな?って思いつつ、
でも日本にいるからね、その気になればいつでも会えるわ、と
少し重い気分を振り切って、明るくさよならをする。
またこっちに来たら連絡してね!を合言葉に。
でも、海の向こうとなるとまた会おうね、
という言葉がズシっと重みを増す。
これがもしかしたら最後かも、との思いが
頭のどこかを否応なくチラチラっとかすめていく。
きっと遠ければ遠いほど、その距離に比例して
淋しさも深くなっていくのではないだろうか。
「別れの淋しさは距離に比例する。」
そんな公式も立てられそうな気がするが、
実際問題どうだろう。
近所なのに、ある時ばったりと
会えなくなってしまうこともある。
会おうと思えばすぐにでも話せる距離なのに、
なにかのきっかけで疎遠になってしまい、
そのままずっとチャンスを逸することだって
誰しも経験することだろう。
でもどんなに遠くても、
お互いに会いたいという気持ちがあれば
たとえ海の向こうであっても必ず再会できるもの。
わざわざ会うチャンスをお互いに作り出す。
つまり、淋しい思いは距離に関係していても
実際には、距離は関係なく必要があれば会える、
ということのようだ。
そして愛する人との永遠とも思えるお別れが来た時でさえ、
やはり現実、時空は関係なく必ず再会できるようである。
思わず距離と比例させて悲しみに暮れてしまうが、
この法則は意外と広範囲で活用されている。
何千年もの間、きっと私達はこんな風に
別れを繰り返しているのだろうと思う。
それでも、法則は理解しながらも、
やっぱりいつでも涙あふれて、旅の別れを惜しむ。
でもその行為こそが人間の心に宿る根っこの部分なのだ。
そしてそれは、きっと未来にも変わることがないだろう。