親のいない子どもたち。
親に見離された子どもたち。
親からの愛をもらうことのできない子どもたち。
「孤児」ってなんて悲しい響きのする言葉なのだろう。
戦後の日本は、そんな状況下が
普通にたくさんあって、
親戚の家に引き取られたとか、
後妻さんが来た、とか
養子になった、とか
さまざまな話を耳にする。
親子の問題の相談を受けるとき
「うちの親は家庭が複雑だったんです。」と
声をひそめるように、恥ずかしげに、
または残念そうにお話くださる方が
いらっしゃるが、
60代~80代の世代は、
複雑でないほうが奇跡的で
なんらかの事情を抱えていて、
それが深い傷となっている場合が多い。
なにしろ社会背景も、戦争の混乱時期だから
さまざまな不信感や、猜疑心、悲しみを
抱えた大人たちに育てられた世代なのだ。
子ども時代に、子どもとしての
幸せな時間を送れた可能性は
とても薄い場合が大多数である。
それをバネに、高度経済成長期を作り上げて
パワフルな世代へと変化した。
もともと働き者の日本人のDNAが、
そんな底力を目覚めさせたのだろう。
外国人が不思議に思う日本をクローズアップする
バラエティ番組の中で
「立ち食いそば屋」のことを指摘したとき、
あるタレントが、
「江戸時代から立ち食いそば屋は存在していて、
職人たちは早く昼食を済ませて
仕事に戻る人が仕事の出来る人、と考えていたんです。」と
その歴史を紹介していた。
それを聞いたとき、なるほど~!と思った。
日本人は働きモノだから経済が発展するのだと
スプートニクの生徒さんが言っていた。
スリランカでは学生は、アルバイトをしないのだという。
学生アルバイトというシステムがない、
というのが正解かもしれない。
日本語学校はお昼で終わるので
その後、みんな何するの?と聞いたら
何もしない。と答えが返ってきたのだ。
学費も親が全部出すから、学生が終わるまで
社会でまるっきり働いたこともない状態なのだという。
日本人は若い頃から働くのが
当たり前になっているからすごい。と言われてびっくりした。
それが経済の発展と結びつけて
考えたことなかったからだ。
働かないことは良くないこと。怠けていること。
家庭や社会のお荷物になってしまうこと。
そんな目に見えない重圧があり、
たくさん働くことは良いこと。
働き者は賞賛に値すること。
たくさん税金を納めることは素晴らしいこと。と
いう社会ルールが知らず知らずの間に
常識となっているのが日本の現状。
だからニートやフリーターの存在は
これからの日本にとって由々しき問題なのである。
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そんな大和魂のDNAを受け継ぎ、
高度経済成長期、公害問題で騒がれる京浜工業地帯の近くで
羽田空港の騒音対策を経験した子ども時代を過ごし、
バブルの絶頂期に学生時代と六本木の花屋で過ごし、
華やかなお花の世界を経験した後、
シングルマザーとなって仕事と子育ての両立を
しながら、目いっぱいひたすら働いてきた私。
そして、ナニワの商人の血が流れる父と母が
東京に上京して盛り上げてきた商売人の家系。
日本人の持つ遺伝子プラス、血筋。
じっとなんかしていられるはずもない。
働かないはずがない。
アクティブじゃないはずがない。
だから、「孤児」たちは
機会があると募金や寄付をチャリン、とおこない
幸せを遠くから祈っているだけの
遥か遠い世界の存在だった。
時には、ホントに届くの?このお金…。と半信半疑。
誰かがフトコロにポッポナイナイしませんように。
なんて願ってしまったりして
不純な気持ちが入り混じり、
さらに「孤児」は遠くの肖像となってしまう。
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今まで生きてきた環境の中で
私の“非”現実世界に生きる子どもたち。
彼女たちの“真”現実世界を
この目で見て、その声をこの耳で聴き、
この肌で、この心で感じてみたい。
それは、折りしも
今までの生きてきた生き方そのものを
考え直さなくてはならない局面に
私自身が立たされたからだ。
前から行きたかったけれど、
まさにジャストミートな
タイミングが訪れたのだと思う。
冒頭に表現した
“悲しい境遇”の子どもたちに会いに行きたかった、
というよりも、
“与えられた境遇”の中で精一杯生きる子どもたちから
「真の生きる力」を教えてもらいたい、と
思ったのだった。
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【ガールズホームの外観】
(手前は若いヤシの木をヤシの葉で囲って養生している様子)
スプートニクの授業が終わった
お昼過ぎ、スーツケースをまとめて
トゥクトゥクで5分ほどのガールズホームへ。
一番小さな5才の“チィタナ”が
あどけない顔で、少しはにかみながら
迎えてくれた。
しばらくして、学校を終えた
17人の子どもたちが帰ってきて
ホームは一気ににぎやかになった。
真っ白な制服から、色とりどり、
それぞれの洋服に着替えて、
突然の訪問者に興味深げに近づいてくる。
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数日前から滞在していた
インド系のカナダ人の女性 Savi(サヴィ)は
大富豪なのだという。
世界中あちこち孤児院に
多額の寄付をして、数日から数週間滞在し
数ヶ所、時には数カ国の孤児院に寝泊りして
カナダのトロントに帰る生活を
送っているのだそうだ。
宝石も毛皮のコートも、高価なものも
何にもいらないの。
だんなはなぜ?って理解してくれないけれど
こうすることが一番幸せなの。とSaviは言う。
敬虔な仏教徒の彼女は、
子どもたちと一緒に、
仏陀の像に向かっていつも祈っては泣いていた。
なぜだかわからないけれど
涙がでちゃうの。
そう言っては、静かに頬をぬぐっていた。
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子どもたちは、一息つくと
「Come!」「Come!」と口々に言いながら
私の手をつかんで、テラスに引っぱった。
一番背の高い子が歌い始めると、
みんなも声を合わせ、彼女の振りに合わせて
みんなも一緒に輪になって踊り始めた。
Saviも私も、子どもたちの動きを
真似ながら踊った。
歓迎のダンスだったのかな。
シンハラ語はわからないけれど、
同じ動きをすることで
すぐに仲間に入れてくれたような気がした。
毎日の生活は「アンマ」と呼ばれる寮母さんが
18人の子どもたちのお母さんがわりだ。
3つのグループに分かれて
それぞれリーダーがまとめている。
その中でも、ボス的な立場の子がいて
彼女がいつもみんなのことに気を配り、
アンマにしっかりとついて
報告したり、指示を仰いだりしていた。
食事は、食事の寮母さんが3食作ってくれる。
ガスはなく、昔の日本のような
竈(カマド)になっていて薪で火を起こす。
定期的に子どもたちも薪割りをするという。
包丁も使わない。小さい木のイスにナイフのような
刃物がついていて、腰掛けながらニンニクや野菜を
小さく切っていく。みじん切りはできないのだそうだ。
ココナッツの内側、白い部分を細かく
こそげ落とした「ココナッツ サンボル(SAMBOL)」も
同じように専用のイスに座って
ガリガリと削って作る。
ごはんのように、カレーをかけて食べると
とてもおいしい。
水も、薪の香ばしい香りがして
キャンプの時を思い出す。
食事時になるとお腹をすかせた子どもたちが
台所の細長いベンチに一列に腰をかけて
寮母さんの動きをじっと見つめながら、待っている。
出来上がるとそれぞれの席に運び
自分たちの班が揃い、アンマの許可がおりるのを待って
いっせいに食べ始める。
スリランカのスタイルは、手。
上手に5本の指を使って、
ポロポロでシャバシャバなカレーを
口に運び、最後は手も汚れていない。
舐めたり、拭いたりしたわけでもないのに、
見事な手さばきである。
私も何度かチャレンジしてみた。
コップとビンとカンで飲むコーラやビールの味が違うように、
手で食べるカレーはおいしいのだが
最後、カレーとごはんやココナッツまみれになり
何度も手を洗う結果となり
ホテルに移動してからは
スプーンとフォークの生活に戻ってしまった。
メニューは毎日変わり、毎食数種類のカレーが出る。
できるだけ、野菜は自分たちが畑で
育てるようにしているのだという。
ナスやピーマンなどが綺麗に整備された
小さな畑にたわわに実っていた。
ココナッツやバナナは、庭に植わっている。
肉は食べず、ベジタリアンの生活。
毎食、手作りのごはんは、
空港よりも外のレストランよりも
ずっとずっとおいしかった。
すっかりインスタントやレトルトやコンビニや
ファーストフードで簡単に手早く済ませる
現代の日本と、どちらが健康的で豊かなのだろうか。
答えをあえて言うまでもないが、
人間が一番辛い“飢え”の危機にさらされることなく
添加物も入っていない、
その土地の、旬のものを食べる、という
憧れの食生活をものの見事に、
普通に送っているのだ。
孤児たちに同情するどころか
逆にとてもうらやましい。
庭先では、地面を掘った際に出た
赤い土を窯で焼いてレンガにする作業を
のんびりと男性たちがおこなっている。
焼きあがったら、塀に使うのだそうだ。
「田舎暮らし」「自給自足」で
ナチュラルライフを送るのが
今や日本のトレンド。
ナチュラリストたちの目指すライフスタイルが
ここではしっかりとあたりまえに息づいている。
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【かわいい色にペイントされたダイニングルーム】
昼食後は、宿題をしたり
遊んだり、お昼寝をしたり。
それぞれ自由に過ごして
夕方6時になったら、ラジオから流れる
仏教のお経のような音楽に合わせて、一緒に祈る。
そして夕食後、すぐに
「おやすみなさい」と言って9時ごろ就寝。
毎朝、4時に起床。
まだ暗い午前5時に
子どもたちの歌声で目が覚めた。
急いで階下におりると
まだ本格的なお祈りは始まっておらず、
一瞬だけ、ラジオに合わせて
歌うようなお経を合唱しただけのようだった。
ダイニングルームではアンマが
人数分に並べたアルミのカップに
あたたかい紅茶を注いでいる。
KAORUも飲む?と聞かれて
一緒に甘いミルクティーをいただいた。
外はまだほの暗い。
朝のティータイムがとても大切なのだと
アンマは教えてくれた。
あたりは少しずつ白んできて
夜明けもまもなく始まろうとしている。
その後、子どもたちは
手で衣服を洗濯し、グループごとに分けられた
中庭のロープに干し、掃除をしたあと、
シャワーを浴びて真っ白い制服に身を包んだ。
玄関には、きっちりと並べられた学校用の靴。
午前6時少し前。
庭にジャスミンを摘みにいったのは
私の手元に届いたハガキに
アヒルの絵を描いてくれた
10才のSachini(サチニ)。
仏陀に供えるために
平たいお皿にのせた
純白のジャスミンには
朝露がキラキラと輝いていた。
そしてお香に火を灯し、6時を待つ。
大音響で始まるお経に
子どもたちは小さな手を合わせ、大声で唄う。
どんな思いを込めて
そんなにも一生懸命、無心になって祈るのだろう。
幼い子どもたちが
神にひざまづき、頭(こうべ)を垂れて
自分自身の幸せを信じ、願う姿は
なんだか切なくもある。
それでも、屈託のない明るい笑顔で
おしゃべりを楽しみ、
言葉のほとんど通じない
異国の訪問者を迎え入れても
動じることなく話かけてくる。
日本の子どもの方が
淋しげな目つきや表情を
していたりする子もいる。
ここでは、学校の行き返りにも
かならず大人がついて送り迎えをし、
ひとりぼっちで食事を取る
「個食」なんていうこともない。
虐待に怯えることもなく
安全に暮らせるように配慮されている。
豊かで幸せなのはどちらなのだろう。
毎日祈り、感謝し、
自分のことは自分で行い、
一日なんども掃除をして清潔な家屋で
生活をしている姿を見ると、
親の愛と比べることはできないけれど、
複雑な気持ちになる。
朝食はキッチンの外でとるらしく
にぎやかに食べてから、学校の身支度。
髪の毛をお互いにとかしたり、結わいたり、
年頃の子は、リボンを何度も結び直して
おめかししている。
午前7時過ぎ、
5才のチィタナをのぞいて
小学生、中学生が「行ってきます!」と手を振り
学校に向かって出発した。
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お揃いの制服を着た、真っ白い天使たちのような姿が
緑色の絨毯のようなライスパティ(水田)の間の
土の歩道をのどかにゆっくりと歩き、
だんだんと小さくなっていく。
私は見えなくなる直前まで、
その背中を見送っていたが、ふいに走り出した。
やっぱり私も学校の門まで送りに行こう。
途中で、誰かが走っている私に気がついたのだろう。
みんなが振り返り、足を止め、
そして待っていてくれた。
追いつくと、
そのうちの一人が、手に持っていたピンク色の花、
ジニア(百日草)を手渡してくれた。
すると、ボス格の子が
私の横について歩きだし
少しの英語で話しかけてきた。
いつのまにか手をつないできて、
道ばたに咲いている赤いハイビスカスを
2回、摘んでは
ハイ!ともう片方の手に渡してくれた。
そうか。
みんなを束ねていくしっかり者でも
やっぱりまだ子どもなんだもんね。
アンマには見せないような
子どもらしい表情で、
繋いだ手を離さず歩き続けた。
片方の手には
一輪のジニアとハイビスカス。
本当に嬉しくて、幸せだった。
道すがら、どこかの庭に
満開に咲いている白い花を指差し
誰かが「ビューティフル!」と言うと
何人もが私の顔を見て、
「ビューティフル!」と口々に言う。
私はうんうん、とうなづいて
「ホントね!ビューティフル!」と言いながら、
そう思えるみんなの心こそ、
美しくて本当にビューティフルだよ、って
心の中で思って感動していた。
学校の門まで来ると
みんな一斉に走り出し、
何度も私を振り返っては
笑顔と一緒に何人もの手が高く上がり
私に向かって手を振ってくれた。
「いってらっしゃい~!」
思いっきりの日本語で私もみんなの姿が
見えなくなるまで両手を振り続けた。
シンハラ語をしゃべれない私は
子どもたちがお話してくれる
わずかな英語だけがたより。
それでもお話はできなくても、
通りすがりに、目を合わせ、ニコっと笑って
ちょこっと私の体のどこかを触っていく
子たちがたくさんいた。
歓迎の意味なのか、それとも
人肌恋しくてスキンシップを求めているのだろうか。
両親と死別しているケースは少ないのだという。
ほとんどのケースは生活の事情から育てられないが
親は健在で、冬休みや週末には故郷に戻るのだそうだ。
一番甘えたい年齢を、親と過ごすことができない子どもたち。
そして、生活のためとはいえ仕事に追われて
いつも忙しくて、母として充分ではなかった、と
心のどこかで反省し、
知らず知らずのうちにいつも自分を責めていた私。
その両者の隙間をほんの少しでも
埋めることができるような気持ちになるのは、
単なる自己満足なのかもしれないが、
それでもやっぱり、
心のどこかが軽くなっていくような気がした。
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2日間の時間はあっという間に過ぎ、
ランチを食べたら、もう出発の時刻が迫ってきた。
ふたたび荷物を整え、
車の準備を待っていると
数人の子どもたちが
私の周りを取り囲んだ。
そして、私の爪を指差して
「ビューティフル!」と言い始めた。
驚いて自分の爪を見て
「NO!NO!」と言うと
やっぱり
「ビューティフル!」とみんなが言う。
どこかキレイなの?
体調を崩した私の爪には縦の線が無数に入り
とても健康な状態ではない。
「Why?」と聞くと
「White !(白いから)」と
指と爪をさわりながらいう。
え~…こんなシワだらけの指なのに。
みんなのほうが
チョコレートみたいな指と、
小さな桜貝みたいなピンク爪で
ずっとかわいいよ~!と
言いたかったけれど、
うまく英語で伝える自信がなくて
心の中でそう、つぶやいた。
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「うちの子どもたちは
先日、学校で成績がよくて表彰されたんです。
学年で1、2番の子たちがいるし
図書をきれいに借りることができた、という表彰も
されました。
アンマがしっかりとお世話をしてくれるおかげです。」
スプートニクの理事長さんは
嬉しそうに、そして誇らしげに話していた。
ガールズホームは18才までだけれど
その後の職業訓練的な施設と居場所となる家を
日本人の夫妻が現在
“終の棲家(ついのすみか)”を兼ねて
少女たちがいられる場所を
敷地の正面に建設中だった。
過酷な運命に向き合っているとは
思えないぐらい、
子どもたちはピュアで本当に“天使”だった。
そして、本当の親ではないけれど
多くの人々に愛され大切にされていることを知っていた。
それをしっかりと受け止めていた。
たくさんの“エンジェルちゃん”たちが
たくましく強く、純粋に生きる姿を
無言のうちに教えてくれた。
「マタ キテ クダサイ」と日本語で言ってくれた。
温かな思いを胸に、
子どもたちと最後のバイバイをして
次の目的 KANDY(キャンディ)にある
「HOTEL TREE OF LIFE」に向けて
車は静かに走り出した。
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皆さまからお預かりしていました
文具や衣服を確かにお届けいたしました♪
ひとりひとりに手渡して、
最後はお礼に、日本語で
「幸せなら手をたたこう」を全員で
合唱してくれました。
【チィタナ】
【ガールズホームのリーダー】
【サチニと一緒に】
【設立時に寄付した「JAPANESE DONORS」に
刻まれた「KAORU SHIMIZU」の名前】