12月26日にこのブログに投稿した「神武東征はありえない?!」に対して、1月8日にUnknown さんから次のご意見を頂いた(12月26日投稿に対するコメント参照)。
瀬戸内海を船で渡れなかったのなら、弥生時代の人はどうやって大陸から渡って来たのでしょうか?内海よりも外洋を渡海してくるほうがよっぽど危険だと思います。神武天皇が久米部の人々を率い、更に吉備の人々が合流して東征したわけですから、そんなに海に詳しくない人ばかりじゃなかっと思いますよ。奈良盆地の巻向型古墳から吉備由来の特殊器台が出土していることや、河内湾が実在したのにも関わらず、神武東征は無理だなんて結論が早くないでしょうか。
Unknownさんのご指摘はまったくその通りである。私も釈然としなかったので、投稿のタイトルに!印と?印をつけたのだが、改めて《古代史の謎は「海路」で解ける》(長野正孝著)を再検討してみよう。
同書の第六章「卑弥呼の時代、瀬戸内海を航海できる船乗りはいなかった」を要約すると、次にようになる。
(1) 瀬戸内海は潮の流れが激しいので、手漕ぎの刳り舟(丸木舟)では航海が非常に制約される。
(2) 岩礁も多く干満差が激しいので、あらかじめ水中の障害物を取り除いておかねばならない。
(3) 食糧の確保、漕ぎ手の休養も考慮せねばならず、さらに上陸すると高地性集落の住民から攻撃される恐れもあり、宿泊地を事前に確保しておかねばならない。
この(1)(2)(3)は理解できるが、一方Unknown さんご指摘の通り、当時倭国と大陸間には交易や公式訪問など各種の交流があったことは明白で、その交流は帆船によって行われたはずである。
その対馬海峡を渡った帆船を瀬戸内海で使用したとすれば(1)は簡単に解決する。また、(2)と(3)の、岩礁などの障害物を避ける水先案内の問題や、食糧・休養などの問題も、神武が日向を出てから大阪湾にたどりつくまでの途中、3ヵ所でそれぞれ何年も止まった時に逐次解決したと考えればつじつまが合う。
長野氏が言うように、瀬戸内海の航路が完全に整備されたのは雄略帝(5世紀)の頃だったとしても、それ以前でも刳り舟でなく帆船でなら、瀬戸内海の航海は可能だったのではないだろうか。
しかし、私は長野説が正しくないと批判しているのではない。長野氏の主張は「神武東征は帆船が考案される前は不可能だった」と言っているのに等しいから、神武東征が西暦紀元前600年以前のこととしている日本書紀の記述はありえないということになる。
ともあれUnknownさん、これですっきりしました。有難うございました。