黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

女地頭・寒川尼の記憶

2021-05-16 15:43:56 | 下野国

今朝は、どんよりとした今にも泣き出しそうな空でした

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を北に出ます。

 

岩神沼には、いつものカモさんはいませんでした。

お客さんのカモさんです。

深く垂れ込めた雲に、赤城山は西の端をちょっとだけ見せています。

 

雨だと夕方の散歩が短くなるので、今のうちに足を延ばしておきます。

 

上の新沼(しんぬま)に到着です。

水位がずいぶん下がってます。

でも今朝も、アオサギとシラサギがいます

さてシャッターチャンスを狙いましょう

ところが、自転車のライダーズが4、5名ほどやって来ます。

ひめちゃん達が事故に遭わないように除けてるうちに、シャッターチャンスは去ってしまいました

 

ついでだから久しぶりに隣の童沢貯水池(どうざわちょすいち)も見ておきましょう。

やっぱり、カモさん少ないです。

赤城山には雲が垂れ込めています。

一級河川蕨沢川(わらびさわがわ)は、ここから流れ出しています。

ひめちゃんたちは、蕨沢川にかかる2番目の橋・くるみだはしを渡って帰ります。

 

橋のたもとの竹藪の中に、石宮があります。

秋葉宮、愛宕宮、水神宮とあります。

山火事があったり、蕨沢川が氾濫したことがあるのかな?

 

ひめちゃんの背中のハゲは、ほとんど目立たなくなってきました

早く帰ろうよ

そうだね、お腹すいたね

 

堀之内に戻って、巨大なポピーに元気をもらって帰りました。

 

 

 

 

乙女河岸跡から、乙女大橋を渡って、思川沿いに北上します。

 

石造物がまとまってます。

向こうの土手は、乙女河岸跡の対岸少し北の網戸(あじと)河岸跡辺りです。

延命地蔵です。

合掌

寿命延びるかな?

こちらは、文字が削られています

でも、見ざる・聞かざる・言わざる、かわいい

 

 

網戸神社の参道脇に、寒川尼(さむかわに)の墓です。

大きな石碑がありますけど、全くと言っていいほど、判読できません

真ん中の一番大きいのが寒川尼の墓標のようです。

当山開基の文字が見えます。

寒川尼は、この寺を開基したのでしょう。

 

ウィキペディアによれば、

宇都宮氏や小田氏の祖、八田宗綱の娘で京都で生まれたと思われる。女房として近衛天皇に仕えた経歴を持っていたという。頼朝の乳母の1人となり、やがて小山政光の後妻となったと考えられる。

治承4年(1180年)8月の頼朝による半葉池の挙兵時、大番役で当主政光が在京中であったため、寒川尼は10月に当寺14才の末子(朝光)を伴って武蔵国隅田宿の頼朝の宿所を訪れた。尼は頼朝と往時を語り、末子を側近として奉公させたいと願い、頼朝は自ら烏帽子親となって元服させ、末子は小山七郎宗朝と名乗った(のち朝光に改名)。夫の不在中は妻がその権限を取り仕切るのが慣習であり、この尼の行動によって下野最大の武士団小山氏が頼朝側についたことになり、このことは北関東の武士団の去就に決定的な影響を与えたと見られる。寿永2年(1183年)2月、小氏氏の参戦により、頼朝方は野木宮合戦で勝利する。

文治3年(1187年)12月、寒川尼は「女性たりといえども、大功あるによる也」として下野国寒川郡ならびに網戸郷の地頭職に任ぜられ、女地頭となった。

すごい女性だったんですね

 

野木宮合戦の勝敗に、大きな影響を与えたんですね。

彼らが戦った相手の中に、足利俊綱・忠綱父子がいたのです。

忠綱は、上野国山上に潜伏した後、山陰道に落ていったともいいます。

その忠綱が潜伏したのは、ひめちゃんちのある上野国山上の葛塚城(くずづかじょう)だとも言われています。

 

奇縁ですね

 

石造物は集められた感じもします

向こうに回ってみます。

 

新しいお地蔵様が2体有ります。

合掌

大きな忠魂碑です。

ムム、希典(まれすけ)書ですって

乃木希典さん、いろいろなところに筆跡残しています。

戦場で指揮するだけでなく、戦死者を弔う気持ちも、しっかりお持ちだったんですね

 

ここには、小さいながらも現役らしい堂于があります。

地図では、ここは称年寺とでます。

廃寺ではなく、どこかの寺が兼務しているのでしょう

 

すぐ裏の網戸神社を目指します

 

コメント
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