黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

長楽寺大通庵の面影を訪ねて・前編

2021-05-20 19:34:11 | 群馬県・東毛

今朝は雨が上がっていました。

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を西に出ます。

あれェ、黄色い帽子の集団だ

急遽、脇道に避難です。

子どもが苦手なひめちゃんは、まだ落ち着きません

もう一組黄色い帽子の集団がやって来ます

こちらに曲がらずに行ってしまいました

よかったね

やっと獅子丸と情報収集です。

大好きなケンくんちの畑で、はいポーズです

ルピナスの種、もうじきはじけそうだね

 

 

 

世良田の長楽寺文書に、次のような文書があります。

沙弥道羸寄進状案(しゃみどうるいきしんじょうあん)

上野国山上保窪井村善昌寺事、依其志候、為現当二世之世良田長楽寺塔頭大通案末寺、奉寄進永代之處也、然者弥々造営御興行段、可為本意候、若於子々孫々中、違儀申輩候者、可為不孝之仁候、仍為後日状如件

応安六年二月九日    沙弥道羸 在判

大通庵主妙珪都寺禅師

つまり、山上保窪井村(やまかみほくぼいむら)の善昌寺は、応安6年(1373)世良田長楽寺の大通庵に寄進されていたのです。

そして、大通庵は江戸時代の長楽寺の絵図にもあります。

じゃあ行ってみよう

 

新田荘歴史公園の駐車場に駐車です。

この方に挨拶してから、長楽寺に向かいます。

こんにちは

 

まず、史跡普光庵跡を確認です。

長楽寺第五世法照禅師の墓所です。

その徳を慕って建てられた普光庵跡です。

長い間、その所在がわからなかったのですか

法照禅師は、弘安5年(1282)に、長楽寺の第五世住職となったのですね。

上野国山上の行仙上人は、弘安元年(1278)に亡くなってますから、逢ってませんね

 

長楽寺改宗の時に、普光庵は最初に圧力に屈し、天海側に帰順してしまったということですね。

それなのに、場所が長い間分からなかったなんて

 

いつもはなにげなく通過してしまうスポットですけど、今回はちょっと感無量

 

 

普光庵跡の前には、史跡真言院井戸です。

ここでは専ら密教をつかさどり灌頂を行った。

灌頂とは、真言密教の儀式の一つで、頭の頂に水を濯がれ、それによって僧侶として一定の資格を得る事である。この時使用する閼伽(水)は極めて神聖なものとして重視された。真言院井戸は、この灌頂に用いる浄水を汲むために設けられたものである。この水で灌頂を受けるために諸国からここに参集した。

 

ここは、そんなすごい井戸だったんですか

今まで見過ごしていました

 

 

世良田東照宮の案内板です。

普光庵跡、真言院井戸、左の端にあります。

 

開運稲荷社を過ぎて、拝殿です。

今日は開け放たれています。

今日は東照宮に拝観料を払って参拝することが目的ではありませんので、拝殿前から2礼2拍1礼です。

初詣の時には、多分無料で奥の本殿まで行けたと思います。

 

御黒門を出て、長楽寺大通庵があったあたりに向かいます。

 

 

長楽寺太鼓門が見えてきました。

右斜め前方が大通庵のあったあたりです。

太鼓門の向こう・文珠山には、新田氏累代の墓があります。

今回はパスです。

 

右の三仏堂に出ます。

 

光り輝く巨大な三仏が祀られています。

数年前の初詣の時にお目にかかりました

 

元三大師の疫病退散の大きなポスターがあります

 

 

三仏堂の斜め前方に、石造物です。

うっそうたる木立の中に、何かもの悲しそう

この後ろ(北側)が、大通庵跡です。

僧形の墓石が、無造作に半分埋没しています

こちらは元気そうな青面金剛です。

この前を何度も通っているはずです。

でも、今回初めて、なぜここにあるのか、気になりました

たぶん後ろの住宅地にあった、大通庵の遺物なのでしょうね。

 

付近を、もう少し散策です

 

(つづく)

コメント (2)
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