ひめちゃんとタバサねーちゃんは、堀之内を西に出ます。
民家の陰には、まだたっぷりの雪です。
諏訪神社前は、きれいに溶けていました。
ひめちゃんとタバサねーちゃんは、神社の向こうの高台を目指します。
高台の上からの赤城山です。
まだまだ雪が残ってます。
前方には、白い浅間山とうっすらと白い榛名山が見えます。
高台の中央から右折して、薬師の道に入ります。
薬師様達の前で、はいポーズです
帰り道、ひめちゃんは叫びます。
「不審者じゃ」
リーダーひめちゃんは、周りの状況にも神経を使いながらお散歩しています
1月24日、「犬の散歩お断り」の場所が続いて、タバサねーちゃん車で待機が続きました
実力発揮できない白柴タバサちゃんは、高津戸橋を渡って、渡良瀬川東の阿弥陀堂を目指します
まもなく到着です。
説明板を確認です。
大きな五輪塔は山田氏のもの、小さな五輪塔群は里見勢の墓とあります。
では、五輪塔群の方へ行きましょう。
あれぇ、スッキリしてます
以前は、うっそうたる木々に囲まれていました。
入り口のお地蔵様、今回初めてじっくりとご対面です
合掌
一番奥の大きめのが、山田氏のですか?
猪用かな?
鹿用かな?
野生動物の捕獲用の檻が目立ちます
向こうに見える山・要害山に高津戸城はあったということです。
ワンコ様お断りでなくってよかったですわ
のびのびとお散歩出来ます
あれ、裏もスッキリしている
大間々には、説明板にあるように、「高津戸城悲話」が伝わっています。
里見勝正・勝安兄弟は、桐生氏に謀殺された父の仇を討つため、上杉謙信の支援を受けて高津戸城を再興して立てこもった。
しかし、由良氏に攻められ、用命の砦に野州をかけたが失敗、弟が討死兄は切腹して果てたと言うことです。
『大間々町史通史編上巻』では、
山田氏という豪族についても平安・鎌倉期に存在したということは確実な史料では実証できない。ただし、高津戸を含む地域は平安時代末期以降、須永御厨と称されており、武士団が居住したことは考えられる。鎌倉期に須永御厨地頭として薗田一族がいたことは事実で、高津戸には武士団の跡を忍ばせるものとして角塔婆(自音寺)・五輪塔(阿弥陀堂)・板碑(森家井戸)がある。~中略~結局、高津戸城の歴史について確認できることは、謙信の仁田山攻め以降に城が築かれ、その死後、後北条氏から由良氏に与えられたことである。ただし、それ以前にも砦のようなものがあった可能性は否定できない。
素直に解釈すると、この里見兄弟の話は創作と言うことになりそうです
でも、多くの人々の心を捕らえた高津戸城ロマンです
『南総里見八犬伝』のブレイクと関係あるかな?
近くに「里見まんじゅう」のお店がありました。
いつか食べてみたいと思っていましたけど、閉まってました
さて、阿弥陀堂に参拝です。
(つづく)
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