黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

渋沢栄一書の碑(報徳太助神社)

2019-12-25 21:40:16 | 北毛紀行

思いきや ママとひめとの 昼散歩

獅子丸は、養家で養家のお父さんと天寿を全うする予定でした。

でも予定は狂いました。

今は実家に帰り、両親と姉妹とにぎやかに暮らしています

ひめちゃんと、七海ママの昼散歩に付き合うなんて、半年前まで思いもよらないことだったのです。

 

パソコンにある膨大な写真を整理しなければなりません

整理しながら、ベストショットで犬川柳を詠んで、今年を締めくくろうかなんて思いつきました




上毛カルタに、「沼田城下の塩原太助」とあります。

その塩原太助の故郷が、(茂左衛門地蔵尊から)そう遠くない所にあるようです

道の駅「太助の郷(たすけのさと)」をナビに入れて、茂左衛門地蔵尊に別れを告げます

さようなら、また来ます

 

ほどなく、国道17号線に突き当たり右折、17号線を走ります。

しばらく行くと、国道沿いに、道の駅「太助の郷」があります。

まず、隣の神社の方に行きます。

 

大きな碑と太助とあおの銅像があります。

おじさん邪魔

でも、おじさんと比べると、太助とあおは等身大でしょうか?

碑は本当に大きい

説明板があります。

19歳の時、あおを引いて家を出て、あおをつないで別れ、江戸に出ました。

炭商人・山口屋で一生懸命奉公します。

後に成功し大商人となりますけど、公共事業にも出資し、人々のために尽くしました。

榛名神社の参道に常夜灯の建てたとあります

そういえば、榛名神社の参道に塩原太助の名前がありました

 

なんとなく哀愁が漂ってきます。

隣の碑をよく見ると、む、子爵澁澤栄一書とります

塩原太助と澁澤栄一はどこでつながるのでしょう?

 

神社に参拝です。

鳥居の方から入ります。

報徳太助神社とあります。

報徳とは、請けた恩や徳に報いることです。

あの二宮尊徳が、提唱した思想だそうです。

秋10月に。二宮尊徳記念館や桜川陣屋跡にも行ってきました。

尊徳の思想を実践する人々がいたのですね

そういえば、澁澤栄一も報徳を実践した人でした

嶽林寺のお駒堂の前にあった「報徳観世音」も思い浮かびます

 

左右には狛犬がいます。

拝殿で2礼2拍1拍で参拝です。

 

脇に回ってみます。

拝殿の後ろには、ちゃんと本殿があります

 

 

左奥に、石造物があります。

小さいながらも、灯籠があります。

もしかしたら、ここの先住の神かも知れません。

 

拝殿前から、道の駅を望みます。

さあ、ちょっと道の駅に寄っていきましょう

この前の道・国道17号線は、新潟(越後)に行く道です。

あの上杉謙信が、越山してきた道なのです

 

 


 

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続・「もざ」で茂左衛門地蔵尊(農民歌人石田マツの記憶)

2019-12-23 20:54:57 | 北毛紀行

寒い寒い夜が明けました。

雪の朝になっているかも

窓を開けると、雨上がりの朝でした

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を北に出ます。

あれえ、赤城山が真っ白だ

むこうから、ちょうどミーナちゃんがやって来ます。

ワンワン、あたちのほうが強いんだぞ

何言ってんのよ

ひととおり吠え合って、バイバイ

 

新沼の少し下まで来ました。

真っ白な赤城山です

かなり降ったようです。

ここでハンターの獅子くんは、キジを見付けました。

声を上げながら横切っていきます。

後を追って、今朝はここから戻ります。

 

いつもより赤城山が近くに感じられます。

青い部分は雲の影です。

 

浅間山も、もちろん雪化粧しています。

 

 

 

 

茂左衛門地蔵尊で参拝を済ませて、境内を散策です。

どうしても確認しておきたい碑がありました。

それは、千日堂の正面から駐車場を隔てた所に、ひっそりとありました

うーん、判読は難しそうです

でも、歌碑の「真面目」と、説明板の「石田マツ」はわかります

みやま文庫『緑陰史話』によれば、ここの地元の人々によって建てられた歌碑には、

   どこにいても真面目に働けば青空と人の情けはわれに美し

と刻まれているはずです。

前掲書には、彼女は「若くして命を絶った 農民歌人 石田マツ」と紹介されています。

   二反五畝で七十四枚の我が家の田山坂越えて八ヶ所にあり

   ああ我も電気とラジオのある家で十日でいいから生活してみたい

   土にいき土に死にゆくと心きめ今日もはげめと地下足袋をはく

   百姓人夫女中季節労務者とこれが吾二十三年の歴史

   歌を詠み本読み日記書いたとて何になろう百姓の吾に

碑の歌と合わせて5首紹介されています。

彼女は昭和32年9月5日夜、23歳の若さで高崎の観音山で自らその命を絶ったという事です

 

今年の2月、ラオスの少数民族の村を訪ねる機会がありました。

その時に思い浮かんだのが、

   ああ我も電気とラジオのある家で十日でいいから生活してみたい

という歌でした。

 昭和32年でも群馬の山奥には、電気のない生活があったのです

ラオスの少数民族の村には、どこも電気がありました

なかには、TVもありました

なかには、スマホも見ました

マツの生家は大峰山の奥だそうです。

嶽林寺の山号は大峰山です。

嶽林寺後方の山奥でしょうか?

静かに手を合わせます

 

大きな義人杉木茂左衛門之碑です。

茂左衛門の名字は杉木なのです。

 

さて、千日堂の隣に見えるお堂に行ってみます。

二十三夜様、「勢至」の文字が見えるので、月待ち講ですね。

 

千日堂の裏に回ってみます。

石造物がいっぱいです

最初はどこに2猿がいるか分かりませんでした。

包容力のありそうな青面金剛です

地蔵菩薩です。

長い間お疲れ様

聖観音おがけをした聖観音、初めておめにかかりました

おがけをした如意輪観音、初めておめにかかりました

皆さんに静かに手を合わせます、合掌

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
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「もざ」で「茂左衛門地蔵尊」

2019-12-22 20:37:27 | 北毛紀行

ひめちゃんと獅子丸は、諏訪神社の西の道を下ってきました。

鳥居のちょっと手前で、獅子くん、はいポーズです

今年はいろいろあったけど、穏やかな目をしています

西の方には、かすかに榛名山と妙義山が見えます。

いつも見ていた左の山が、やっと最近、妙義山だと知りました。

ひめちゃんたちは、上毛三山が見える土地に住んでいるのです

 

 

 

月夜野の嶽林寺で、千日堂(茂左衛門地蔵尊)への道を教わりました。

帰りに寄ろうと思いましたけど、ひめちゃんたちのお散歩の時間が気になります

翌日(12月14日)、出直しました。

自宅からナビをいれます。

「もざ」まで入れると「茂左衛門地蔵尊」と出ます

行き先に決定して、赤城南面から国道17号線に出ます。

ひたすら進んで、指示どおり右折、利根川左岸(東)を北上します。

みなかみ町役場の脇を通って、月夜野橋で利根川をまた渡ります。

少し行くと、大きな石碑があります。

義人茂左衛門刑場址です

ここで、処刑されたのですか

奥さんまで殺されたということですね

広い駐車場になってます。

あれ、この先にも駐車場があるようです。

では、そちらに移動しましょう。

向こうに見えるお堂が目指す千日堂(茂左衛門地蔵尊)のようです。

 

けっこう細い道でしたけど、案内にしたがって到着です

入り口脇に、小さなお地蔵様がいっぱいです

 

「茂左衛門地蔵尊由来記」を確認です。

真田伊賀守の圧政に苦しむ領民のために、将軍に直訴したのです。

直訴は成功して、真田伊賀守は改易になりました。

けれども、江戸幕府の社会体制の中では、直訴は許されないことだったのです。

さっきの刑場址ではりつけになったのです

 

さて、参拝です。

こんにちは

茂左衛門地蔵尊、大切に守られていますね

合掌

 

天井絵があります

受付の人は、「うまく撮ると竜の目が光ります

残念、光ってません

 

御朱印をお願いします。

「本日は書き置きのみになります。」

いろいろな図柄の御朱印があります

あれこれ迷って、やっと2枚決めました。

 

かわいいマグカップもあります。

「売上金の一部は、被災地へ寄付されます。」との事です。

それでは、少々高めでも納得です

後ろに、「令和元年 上州月夜野」とあります。

ということは、令和2年は違うデザインかな?

違う御朱印もほしいし、違うデザインのマグカップもほしいし

また、来ましょう

 

さて、境内を散策です。

実は、どうしても見付けたい碑があるのです

 

 

(つづく)

 

 
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続・月夜野嶽林寺(霊場本尊は十一面観音)

2019-12-20 19:39:38 | 北毛紀行

ひめちゃんと獅子丸は、岩神沼(いわがみぬま)に着きました。

昨夜ひめちゃんちのあたりは雨でしたけど、赤城山の一部は雪だったようです。

丸い地蔵岳と一番東の峰が、しっかり白いです。

雪を降らせた雲かな?

まだ、二つの峰の上にあります。

岩神沼には、鳥の姿はありません

 

ひめちゃんと獅子丸は、さらに奥の新沼(しんぬま)まで行きます。

こちらには、たくさんの鳥がいます。

おや、いつものサギさん2名がいます。

カップルかな?

ここに住み着いているのかな?

 

さあおうちに帰って、朝ご飯にしましょう

堀之内の西側を下ります。

十月桜というか寒桜というか、桜が咲いています。

赤城の白い峰と寒桜のコラボです

秋から咲いている、花期の長い桜です

 

 

 

お駒堂を後に、山門を目指します。

りっぱなだけど、ケバケバしくない山門です

 

山門脇に社(やしろ)があります。

「雷電宮・天満宮・土地神 三社合同社殿」とあります。

「土地神」という表現は、懐かしいです

 

本堂へは、この階段を登らなければなりません

あれ、両脇に狛犬だ

神仏習合してる


本堂のご本尊もお姿がよく拝めません

とりあえず、合掌。



本堂前には石造物があります。

左には基本的に古い石造物です。

松の根元に、こんな形であると、まだ現役の感があります

右には、寝釈迦と十六羅漢です。

さりげなく置かれています

 

 

鐘楼堂もクラシックです

ここに嶽林寺の由緒がありました。

永正二年(1505)、小川城二代小川次郎景祐によって開基された。

天下の義人茂左衛門や白子屋お駒の菩提寺である。

 

 

庫裏に寄って御朱印をお願いします。

霊場本尊は十一面観音です

嶽林寺の案内と共に、霊場ご本尊のお姿もいただきました。

十一面観音は、たくさんの人を救ってくれるということですね。

白子屋事件では、お駒の外にも処刑された人々がいました。

お駒堂には、やはり十一面観音です

 

 

新上州観音霊場三十三ヵ所の案内書に、千日堂(茂左衛門地蔵尊)が飛び地にあるとあります。

「こちらの飛び地という事ですけど?」

「法事とかは、うちでやってます。外のことは、あちらの人達が管理しています。御朱印も色々ありますよ。」

それでは、ぜひ行ってみなくてはなりません

 

 

 

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月夜野嶽林寺(白子屋事件のお駒堂)

2019-12-19 20:18:44 | 北毛紀行

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を西に出ました。

今朝は、ひめちゃんが南回りを主張します。

あれえ、怖い

ひめちゃんは、集団登校する小学生の列を見付けたのです。

大丈夫よ、行っちゃうの待ちましょう

少し待って山上城の方に向かいます。

左上の森が山上城です。

上野第四の碑「山上の多重塔」の案内があります。

左下には道標があります。

東・鶴谷大間々、南・膳田面。

今では細い道だけど、かつては幹線道路だったのです

 

 

 

小川城の後、嶽林寺(がくりんじ)に向かいます。

小川城が城跡として残ったのは、地元の人々の努力と共に嶽林寺の協力も大きいとありました。

嶽林寺は、開基家を忘れなかったのです

開基家没落後、新たな開基家を探したり創作したりしなかったのです


上毛高原駅を回り込んで、細道をゆきます。

あ、駐車場だ

赤城山が見える

裏側から見る赤城山は、見慣れた姿とは全く異なります。


むむ、よく見ると「上毛高原駅駐車場」とあります

確かに駅がよく見えます。


すぐ近くには墓地が広がり、歳月を刻んだ石造物があります。


もう少し奥に駐車場がありそうです。

車を移動させて、境内の駐車場に入れます。

赤城山がよく見えます。


坂道を山門目指して登ります。

途中にお堂があります。

お駒堂です。

新上州観音霊場三十三ヶ所とあります。

大間々の光栄寺を第一番とする、新上州観音霊場の霊場第二十七番のご本尊があるのですね

目をこらして覗きましたけど、霊場ご本尊のお姿は見えません

でも、心を込めて合掌

説明板があります。

小川出身の市兵衞が娘お駒(熊)の供養の為に建てたものである


白子屋騒動って?

肝心な事件が分かりません

ウィキペディアによると

享保11年10月17日の早朝、就寝中であった新材木町の材木問屋「白子屋」の娘・くまの夫である又四郎が、白子屋の下女・きく(当寺16歳)に頸部を剃刀で切りかかられて抵抗したところ、頭部に傷を負った。又四郎の傷は浅く、きくを取り押さえた後助けを呼んだため、大事には至らなかった。

白子屋側は、婿養子である又四郎の実家に示談を持ちかけたが、又四郎の実家は、又四郎・くま夫婦の不仲が噂になっていること、きくの犯行動機が不明であることから、白子屋を怪しみ、10月20日に、町奉行所に事件の調査を訴え出た。奉行所が下手人であるきくを取り調べたところ、きくは店主・庄三郎の妻でくまの母であるつねに犯行を教唆されたことを自白した。きくの証言を得た奉行所が、つね・くま母子を問い詰めると、又四郎の殺害計画を自供した。

そもそもくまと又四郎の婚約は、当時資金繰りに苦しんでいた白子屋が、大伝馬町の資産家の息子であった又四郎の結納金目当てで取り決めたことであった。くまは夫を嫌い、結婚後も古参の下女・ひさに手引きをさせて手代の忠八と関係を持っており、母のつねも娘の密通を知りながらこれを容認していた。くまは離縁を望んでいたが、又四郎と離縁すれば金を返さなければならず、「又四郎を病死に見せかけて殺せば、金を返さず忠八と血痕できる」と考え、共に殺害計画を練るようになった。

 

そんな事件があったのですか

そして、父・庄三郎は江戸所払い、きくは死罪、ひさは市中引きまわしの上死罪、母・つねは遠島、忠八は市中引きまわしの上獄門、くまは市中引きまわしの上獄門と大岡裁きがくだったといいます

父・庄三郎は、小川(月夜野)に帰ってきたのですね。


お堂の階段下にあった鬼瓦が、気になりました。

階段の反対側にもあります。

強い魔を除ける必要があるのでしょう。

「報徳観世音」の文字があります。

霊場ご本尊はどんな方なのでしょう?



 (つづく)

 

 


 




 

 

 

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