黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

後家の英断?(月夜野小川城)

2019-12-17 20:41:37 | 北毛紀行

雨の朝でした。

ひめちゃんと獅子丸はレインコートを着てのお散歩です。

昨夜から、みんなに犬用湯たんぽが入りました

これから春までお世話になります。

ひめちゃんちのガーデンでは、冬本番の花々が咲き始めました

楼蘭花(ろうらんか)の名札が残っている椿です

華やかだけど、ちょっと愁いの貴婦人という感じです。

枇杷の花も咲き始めました

今年の夏は、おいしい実をいっぱい付けてくれました。

昔々、実家では大きな枇杷の木があって、毎年たくさんの実をならせていました。

遠い遠い思い出です。

来年もよろしくね

 

 

名胡桃城に小川城のパンフレットもありました。

地図と縄張り図です。

一ヶ所右折するだけです。

中央の道路を左から行きます。

 

迷うことなく、到着です。

向こうに見える上越の山々は、もう白いです

道の反対側に、二の丸跡の表示があります。

地図にあったように、分断されてしまってます

 

赤い旗がいっぱいはためいている本丸跡の方へ行きます。

堀切がしっかり残ってます。

四阿(あずまや)が見えます。

公園になっているようです。

かなりよく整備されています

巨大な説明板があります

緑の支柱がたくさん有ります。

牡丹が植わっているのです

牡丹の名所になってるのかな?

その季節にも訪れたいものです

 

説明板はりっぱですけど、ちょっと文字が色あせてきました

名胡桃城で得たパンフレットによれば、

明徳2年(1492)、沼田荘田城主沼田景久が、西の備えとしてこの地に城を築城し、次男の小川次郎景亜紀に七百貫文の知行を與住まわせる。

永正2年(1505)、二代目城主小川三郎景祐は大峰山嶽林寺を創建。景祐死後、弟の秀泰が三代城主になる。

大永2年(1522)、秀泰の子景奥(興か)が四代目城主になる。

大永4年(1524)、9月四代景奥、火災により非業の死を遂げ、小川氏は一度断絶する。

天正年間初頭、上方の牢人赤松孫五郎と称する文武に秀でた者が来て大将のような振る舞いをしていた。後に入道し、小川城を嗣いで小川可遊斉(かゆうさい)と名乗り、五代目城主になる。

 

目をこらすと、説明板には、

四代景奥の子景季が若くして死んだ

景季の後家と女合わせ上杉謙信の裁可を得て名跡となり小川可遊斉と名乗る

そんな文字も見えます

四代景奥が死んだあと、一族間に跡目争いがあったようですね。

そんな中に、牢人赤松孫五郎がやって来たのです。

五代目になるはずだった景季には、妻がいたのです。

彼女は夫の死後も、小川城に留まっていたのです。

夫も舅も死んでしまったら、彼女が城主一族のトップですよね。

小川城・小川氏を存続するために、彼女は文武に秀でた上方の牢人赤松孫五郎を夫に迎える英断をしたのではないか?

戦国武将の妻達も、それなりの英断ができる女性がいっぱいいたことでしょう

そうでなければ、領地も家も持ちません。

 

花のない牡丹の城を歩きながら、ふとそんなことを思いました

 

大きな「小川城趾」の碑があります。

後ろにまわると、断崖絶壁の向こうに月夜野の町が見えます。

牢人赤松孫五郎は実在の人物なのですね。

いったいどうしてはるばる上野の山奥まで流れてきたのでしょう?

小川城の人々は、どうして彼を受け入れたのでしょう?

壮大な物語がありそうです

 

さあ、帰りましょう。

道の方に戻ろうとしました。

 

おや、横を見ると「本丸址」の文字が見えます。

藤棚やドライフラワーになった紫陽花もあります

地元の人々の力で、小川城は守られているのですね

花の季節が楽しみですね

 

奥に石宮があります

 

現役で活躍中のお宮のようです

静かに手を合わせます

 

二代目城主小川三郎景祐開基の大峰山嶽林寺にも、寄っていきましょう

 

 

 

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呉桃郡(くるみのこおり)の名胡桃城

2019-12-16 20:33:13 | 北毛紀行

ひめちゃん姉妹と両親は、シャンプーやさんに行ってきました

さっぱりして、見目麗しい美犬です

七海ママの面影を持ってます

やっぱ、ママの子です

ママが赤ちゃんの時から、ずーと同じシャンプーやさんに行ってます。

ひめちゃんは生まれる前から行ってます。

柴犬は、赤ちゃんの時から来てないとダメということで、獅子丸は自宅待機です

あとで、ドライシャンプーしようね

 

 

 

『桐生老談記』という本があります。

その中に、里見兄弟の悲劇の物語があります。

兄弟の父は、甲州の人で、武田信玄に領地を奪われ浪人して桐生にやって来ます。

そして、桐生領西部の仁田山城を任されるのです。

浪人が城主になったのです

 

普通では考えられないことですけど、実は浪人で城主になった人物がいます。

名胡桃城のすぐ近く、小川城の城主になった小川可遊斉(おがわかゆうさい)です。

もしかしたら、彼が里見パパのモデルではないか?

 

そうだ、雪が降る前に小川城に行こう

 

赤城南面から国道17号線にでて、ひたすら進みます。

どこかで休憩したいなあ

月夜野大橋(つきよのおおはし)で利根川を渡ります。

そうだ、名胡桃城(なぐるみじょう)でちょっと一休みしていこう

 

お久しぶりの名胡桃城です

前回は大河ドラマとの関連で、おおいに注目されているころでした。

今回、向こうにみえる山の事を初めて意識しました。

この名胡桃城に大いに関係ある山だったのです。

この派手な自販機も健在でした。

 

案内所にちょっと寄ります。

こんにちは

いっぱいの資料があります。

名胡桃城についてのビデオも見せてもらいました。

天正17年(1589)10月下旬、北条家家臣の沼田城代猪俣邦憲が名胡桃城を不法に攻略した名胡桃事件が、戦国時代を終わらせるきっかけになった。

名胡桃城は戦国時代を終わらせるきっかけになった城だと強調されていました。

 

展示資料も有ります。

やはりこれが目立ちます。

城趾にある徳富蘇峰書という碑の拓本です。

その石は、さっき見たあの山から、たくさんの人が力を合わせて、2日がかりで運んだそうです

ホラ貝もありました

この前はあったっけ?

 

ちょっとの休憩の予定でしたけど、やはり城内を散策して行きましょう

元気に旗めいてます

説明板があります。

左の赤図で、赤く囲まれた大きいところが名胡桃城で、右上に小さく囲まれたところが富士浅間砦です。

巨大な碑の石は、あの山から運んできたのです

『和名類聚抄には、この付近は「呉桃郡(くるみのこおり)」といわれたとあります。

それが名胡桃城の名前の由来だとあります。

全体の復元想像図です。

現在地は、丸馬出の上、三の郭(くるわ)です。

 

虎口を通って、二の郭に向かいます。

む、おじさん邪魔

でも、土塁の高さとか、虎口の大きさとかがわかります。

向こうに見える山は、三峰山です。

 

二の郭出口虎口から振り返って、三の郭を望みます。

 

虎口の木橋を渡って、本郭です。

名胡桃城趾の大きな碑があります

大きい

右の彼方に、赤城山が見えます

左には、はるか彼方に、雪を頂いた山が見えます

この石が、隣の山から2日がかりで運ばれたという石なのです

 

さらに進みます。

ささ郭の説明板です。

 

付近の城趾の案内もあります。

小川城、すぐそこです

三峰山の向こうに赤城山が見えています

上杉謙信は、赤城山の裏側を通って、佐野とか桐生にやって来たといいます。

ここから見ると、赤城山の裏側はを通るのは、自然な事のようにも思えます

 

では、小川城へ行きまーす

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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秩父路のミニパワースポット

2019-12-15 20:33:34 | 秩父紀行

寒い寒い朝でした。

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を北に出ます。

赤城山が、真ん中の地蔵岳と一番東の長七郎山が、白いです

雪を降らせた雲かな?

まだ、山の上にありますね。

 

 

 

(椋神社から)自宅をナビに入れて出発です。

帰りに、小さいながらもいくつかパワースポットに、導かれたというのか、ちょっと立ち寄りました

 

 

坂を下ると、石の鳥居があります。

さっきは通過しましたけど、ちょっと道端に駐車です。

脇に付近の略図があります。

この鳥居の上に、細い路があるのです。

そこに山犬の居る赤い鳥居があるのです。

古い境内の案内もあります。

かなり古いもののようで、右の坂を上った貯水池の辺りが、現在の駐車場です。

まだ、黒い鳥居はありません

本来は、この石の鳥居を登って、参拝していたのでしょう。

 

石宮があります

山の神、おいぬ様、火防の神です。

おいぬ様は、御朱印にもあったし、お札(おふだ)も社務所で売ってました

心をこめて合掌

 

 

坂を下ります。

気になる赤い屋根の建物があります。

なんとか駐車して、探索です。

む、おじさん邪魔

でも、大日如来ですね

お堂の額にも「大日如来」とあります。

一応木鼻も装飾されています

 

扉の穴からちょっと失礼します。

大日如来が鎮座されています

現役のお堂です

心をこめて合掌

お堂の脇を見ると、「大日山胎蔵院大日堂」とあります。

「未(ひつじ)・申(さる)年生まれの、守り本尊」とあります。

まあ、未年生まれでも申年生まれでもないけど、よろしくお願いします

 

さあて、道の駅竜勢会館に寄っていこう。

ところが、どうも竜勢会館に出ません

来た時は通ったのですけど、ナビは違う道を選んだようです。

ナビの指示通りに進みます。

 

 

しばらくして川を渡りました。

あの橋を渡ってきたのです。

荒川の支流だと思いますけど、清流でした

 

 

ナビの指示どおりに進みます。

左折の指示が出て、信号待ちです。

 

 

ふと横をみると、「国神神社」

急遽立ち寄ります。

皆野町の観光案内図があります。

北の方に本庄の文字があります。

本庄を通って帰るのです。

よかった

 

さて、参拝です。

社殿の彫刻が見事です

あれ、琴平神社の時代もあったんですね。

まさに木の芸術です

心をこめて、2礼2拍1礼で参拝です

 

 

県道44号線に戻ります。

ひたすらの山道を北上します。

児玉町に入りました。

すごいヘアピンカーブです

 

行きにも気になった神社に、やっと駐車して参拝です。

黄色い銀杏の葉のじゅうたんです

「明神様の大曲り」ですか

2度も拝殿が焼失しているのです

参道の階段を登って、ヘアピンカーブの先を見下ろします。

心を込めて、2礼2拍1礼で参拝です

神社やお寺を造りたくなるような地形です

いかにも物語がありそうな地形です

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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続・椋神社に行ってきました

2019-12-14 21:26:41 | 秩父紀行

ひめちゃんと獅子丸は、堀之内を北に出て、諏訪神社西の田んぼ道にまわりこみました。

ふと西の空を見ると、有明の月です

昨日七海ママの夕方のお散歩時に、東の空に赤い大きな月が昇り始めました。

帰ってから、カメラを持って月を見ると、雲が懸かりゆがんでしまってました

また、逢えるてよかった

 

 

 

山犬の狛犬に魅せられて、たくさんの写真を撮りました

椋神社の御由緒があります。

日本武尊(やまとたけるのみこと)が道に迷ったときに、持っていた矛の先から一条の光がさして、その先に大きな椋(むく)の木があった。

そこには猿田彦大神が立ち、その導きで大勝を得た。

そこで、矛をご神体として、猿田彦大神を祀ったのが、創建である。


それで、椋神社なのですね

永禄12年(1569)、侵入した武田勢に焼き払われたとは

天正3年(1575)、鉢形城主北条氏邦が再建したのですか、よかった

 

 

さあ、本殿に参拝です。

赤い鮮やかな社(やしろ)です

狛犬も、さっきの山犬さまほどではありませんけど、ちょっとはクラシックです

 

木鼻の彫刻も見事です

 

拝殿で、2礼2拍1例礼で参拝です。

 

脇にまわって、本殿を確認です。

さっき、御由緒に、脚元の細い蟇股(かえるまた)とありました。

確かに細い

 

 

隣の覆屋の中に八幡宮があります。

かなり古そうです。

でも、よく見ると見事な彫刻です。

扉や壁には、かつては絵が存在したようです。

秩父平氏が館の鎮守に勧請したものと、説明板にはありました。

 

 

秩父氏が畠山に進出したときに、この椋神社を勧請したのが、畠山(深谷市畠山)の井椋(いぐら)神社だったのです

1年経ってしまいましたけど、やっと訪問できました

 

いただいた御朱印です。

竜勢の絵と山犬の絵があります

 

 

 

 

 

 

 

 

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椋神社に行ってきました(魅せられて山犬)

2019-12-12 21:49:10 | 秩父紀行

朝ひめちゃんと獅子丸は、諏訪神社向こうの高台を歩いてきました。

帰り道、むむ、ひめちゃんが立ち止まりました。

ちょうど小学生の登校時間に逢ってしまったのです

後ろ向きになって逃げようとします。

ちょっと待っていれば行っちゃうよ。

でも、不安でいっぱいです

ひめちゃんとののこねーちゃんはが、子どもが苦手です。

タバサねーちゃんと獅子丸は、平気です。

同じ両親から生まれたのに、どうして違うのかわかりません。

 

 

昨年の12月、深谷市畠山の井椋(いぐら)神社に行きました。

伊椋神社は、畠山氏が秩父の椋神社を勧請したものということでした。

 

嵐山紀行番外編総集編・井椋神社とうぐいすの瀬

 

では、椋神社へということでしたけど、やった先日行って来ました

 

伊勢崎市役所の脇を通り、板東大橋で利根川を渡ります。

あれ、いつか通った道です。

関東管領の城・雉岡城の脇を通ります。

それから、ほとんど道なりだったような気がします。

途中からは、もちろんそれなりの山道でした。

途中のコンビニで一休みの予定でしたけど、なかなかコンビニがありません

おなじみのコメリがありました

コメリで一休み。

さあて、あれコンビニがある

まあ、そういうこともあります

 

 

やっと到着です。

黒い鳥居です

 

後ロの山には、不思議なものがあります。

あれが有名な農民ロケット・竜勢の発射台ですね

 

 

付近の観光案内があります。

ちょっと見にくいけど、秩父市館跡や万葉歌碑も近そうです。

そのうちに行ってみましょう。

 

 

社務所を探します。

御朱印をお願いして、境内の散策です。

 

 

あの秩父事件の碑やらがいくつもあります。

そういえば昔、自由民権運動とのからみで大分注目された時期がありました。

秩父困民党三千余名は、明治17年(1884)11月1日、ここ椋神社の境内に集まって武装蜂起したのです。

 

 

赤い鳥居の方に行ってみます。

おや、狛犬がなんとなくひめちゃん似です

山犬(やまいぬ)なのです

「魅せられて山犬」とでもいいましょうか、この山犬風狛犬の写真をいっぱい撮りました


 そういえば、さっき社務所にこの山犬ふう狛犬のお札(ふだ)がありました

 

鳥居を出て、入り直しです。

手すりはありがたい

山犬さんこんにちは

鳥をくぐります。

この後ろ姿というか、背中の丸み、よく犬を観察しています

 

 

竜勢の見本でしょうか?

都合で2枚になってしまいましたけど、長いです

竜勢の説明板もあります。

最初に入った黒い鳥居のむこうの山に発射台がありました。

 

さて、いよいよ本殿に参拝です

(つづく)

 

 

 

 

 

 

 

 

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