黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ

葛塚城堀之内に住んでます。毎日歩いているひめちゃんとおかあさんの見て歩きです。時には遠くにも出かけます。

小俣城主渋川の家中板倉尾張という者(膳の桐生取り合いの事、付けたり、両家縁談の事・その 4)

2024-10-13 20:21:04 | 桐生老談記の世界

ひめちゃんは堀之内を西に出て、天神田(字天神の田んぼ)を歩いてきました

最近は一人散歩で、あまり遠出をしなくなりました。

山上城と別城一郭という膳城の膳城址公園にも、かつてはみんなで朝散歩に足を伸ばしていました

秋の気配になったので、近いうちに膳城址公園にもドライブでもしようか

 

2019年10月、実家に帰って4ヶ月の獅子丸は、ひめちゃんと一緒に七海ママの昼散歩に付き合いました。

ママも末っ子たちとの昼散歩を楽しんでいました

 

 

膳の桐生取り合いの事、付けたり、両家縁談の事・その 4(小俣城主渋川の家中板倉尾張という者)

大谷馬より飛びおり、馬を引き立てんとせし所に、敵大勢落ち来たりて、三重に取りかこまれ、徒士立ちに成りて防がんと云えども、多勢に無勢、終に続く味方もなく既に危く見えし所に、

小俣城主渋川の家中板倉尾張という者私用有りて、此の辺りに通り懸かりしが、二町計り主従七騎稲妻の如く、駆け付け、すはだにて大谷に加勢の所に流れ矢来りて尾張が右脇腹に野深かに立ちしが、敵は知れず、尾張は彼の矢をなぐりすて、ことともせず取り巻きたる敵を追い払い、漸やく大谷を伴い出し所、あっぱれ頼母敷く、流石(さすが)の勇者なり。これより尾張はちんばとなるこそ笑止なり。

難解語句です。

二町・・・・・・一町は109m
すはだ・・・・・・鎧兜を着用しない平常の服であること。
野深かに・・・・・・矢が深くささること
ことともせず・・・・・・問題にしない、なんとも思わない
ちんば・・・・・・片足が日自由で、普通に歩けないこと
笑止・・・・・・馬鹿馬鹿しいこと、気の毒に思うこと、困っていること、恥ずかしく思うこと



あらすじです。

(馬の足を射られた)大谷勘由は馬から飛び降りて、馬を立たせようとしたところに、敵が大勢押し寄せ、三重に取り囲んだ。
そのまま地上戦で戦ったけれど、なにせ多勢に無勢、後に続く味方もなく、危うしと見えた
その時、小俣城主渋川の家中板倉尾張という者が私用でこの辺りを通りかかった
主従七騎で、200メートルほどを、稲妻のように駆けつけ、すはだ(鎧を着ない)で、大谷に加勢した。
その時、流れ矢が尾張の右脇腹に深くささった。
射た敵はわからない。
尾張は矢をかなぐり捨て、傷など気にしないで取り巻いている敵を追い払い、大谷を救い出した
あっぱれさすがの勇者である。
この時から尾張が片足が不自由になったのは、誠に気の毒な事である



少し前の記述では、「手勢十四人笠野まで追いかけし所」とあります。
いつの間にか、単独行動になってます
そして、大谷勘解由を三重に取り囲む膳の兵士は大勢とあります
少し前では、「味方少数なれども敵の大勢に当たる事、危うきとて驚くべからず。惣て軍は勢の多少に寄らず只天命に任すべし。」と、膳の兵力は少数だといってます

「大谷危うし」となったところに出現した助っ人は、小俣城主渋川家中の板倉尾張です。
小俣の渋川家中と桐生・佐野家中は、仲が悪かったはずです

『新田老談記』によれば、「下野国小俣の城主、渋川相模守の領地は、佐野、桐生の領地と入り組んでいて、百姓たちの間で山や境界に関する争いが絶えなかった。そのため、佐野、桐生と小俣は、ことのほか仲が悪かった。」(芝蘭堂『新田老談記』)

うーん、小俣渋川家中が駆けつけて、桐生家中を助けることは、ありそうにないです



現在の小俣城は、ゴルフ場になっていてます。
ちょっと訪問不可能です
桐生側(くらみ沢)から見た小俣城跡です。

今年ここを再訪する機会がありました。

風景は同じですが、このゴルフ場の現在のオーナーは、あのシャトレーゼだと地元のおじさんから聞きました。

女の人は、ケーキは食べ放題とか

くらみ沢の古戦場2024



板倉尾張が、なぜ桐生・膳合戦しているところを通りかかったのか、私用とだけ記されています
どんな用事だったのでしょう?

結果として、尾張は身障者になってしまったのです
脇腹に矢が刺さったはずですけど、結果として片足が不自由になってしまったのです
鎧兜を着けずに素肌で戦ったのは、「膳城の素肌攻め」だけではないんですね

笑止はいくつか意味がありますけど、「気の毒に思う」がいいでしょう

 

 

 

初出  2019.10.11  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.10.13

 

(つづく)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

当家の運命はや今日に限りたり(膳の桐生取り合いの事、付けたり、両家縁談の事・その 3)

2024-10-11 15:34:40 | 桐生老談記の世界

このブログは、画像の残り容量がとても少なくなっています

画像いっぱいの記事は、「続・黒柴ひめちゃんの葛塚村だよりⅢ」になります

でも、画像を探す必要が生じたりして、画像ホルダーを丹念に見ると、大分同じ画像がダブって登録されています。

立ち止まって見返すことで、画像容量を少し復活できるかな

 

今日は久しぶりに新着画像です。

ひめちゃんは、堀之内を西に出て天神田を歩いてきました。

ここ数日、シラサギの姿がありません

どうしたんだろう

ちょっと寂しいね

 

 

 

 

膳の桐生取り合いの事、付けたり、両家縁談の事・その 3(当家の運命はや今日に限りたり)

互いに下知して東西に開き、南北に併せ、おいつまくりつ数刻相戦うといえども、城は大勢にて新手を入れ替え、寄せ手は少数、加勢もなかりし。

ややともすれば備えを乱し、其の時、因幡諸勢いに下知して、「味方少数なれども敵の大勢に当たる事、危うきとて驚くべからず。惣て軍は勢の多少に寄らず只天命に任すべし。当家の運命は今日に限りたり。勇めや勧めや」と百五十騎を二手になし、息を引き込みて懸かり、十文字に破り巴の如く追い廻し、相戦うというとも万卒(ばんそつ)に渡り合うというとも、

大将の勇猛に責め立てられ終に備えを崩され、因幡の乗りたる馬はつかれはて、徒立ち(かちだち)になりて引く所に、大谷解ヶ由は大将と見懸けて、手勢十四人笠野まで追いかけし所、

斉藤右近踏み止まり、大将を落とさん為防ぎやを打ち掛け扣(ひか)えしが、大谷が乗りたる馬のひざをのぶかに討たれて、かつはと伏せ、大谷馬より飛びおり、馬を引き立てんとせし所に


あらすじです。

相の原で、あちら戦ったり、こちらで戦ったり、数時間戦った。
桐生勢は大勢で、新手を入れ替えて戦い、寄せ手の膳方は少数で、加勢もなかった。
追い詰められた膳因幡守は、「我らは少数であるけれども、軍(いくさ)の勝ち負けは兵の多少に寄るのではない。天命に任せよう。当家(膳家)の運命は今日限りだ。頑張って進め。」と、150騎を二手に分けて奮戦する。
けれども、終に膳軍は総崩れとなり、因幡守の乗った馬は疲れ果て、彼は馬から下りて徒歩で馬を引いているところに、大谷解ヶ由は大将と見て、手勢十四人を連れ笠野まで追いかけた。
斉藤右近は踏み止まり、因幡守を落ち延びさせようと、防ぎ矢を打ち懸けた。
その矢は、大谷が乗った馬のひざ深くに刺さり、馬はガバッとと倒れた。
大谷は馬から飛びおり、馬を引き立てようとした所に、



膳方は少数と描かれていますけど、確か諏訪の森を出たときは500騎いたはずです。
新田義貞が生品神社(いくしなじんじゃ)で旗揚げしたときの、3倍強いたはずです
「軍は天命に任せるべきだ。当家の運命は今日限りだ。」とは、戦国の世の指揮官としてちょっとどうでしょう
そもそも復讐のために、攻め寄せたのでした。
戦国の世に復讐のために大勢の家中を引き連れて出撃するとは、ありえそうもない話です

結局、指揮官・膳因幡守は馬が疲れ果て、徒歩になっていくいて落ち延びていくのです

大谷解由が大将と眼をかけて追いかけますけど、主人を落ち延びさせようとした斉藤右近に、馬の足を射られてしまうのです。
「のぶか」は、矢が深くささることです。

「大谷は馬から下りて起こそうとしたときに・・・・・・」重くて難儀したことでしょう

原文はダラダラと続いて、切れ目がなかなかありません

「大谷は馬から下りて起こそうとしたときに」、何かが起こります


膳氏が桐生に攻め寄せ、相の原で戦ったのは、天文13年7月13日朝という事です。
事実とすれば8月の後半、猛暑の中です
真夏に復讐戦とは

 

 

現在、膳因幡守の居城・膳城の一角は、遊具もある膳城址公園になっていいます

かつては、ひめちゃんとタバサねーちゃんは、朝散歩でここまで足を伸ばすことがありました

獅子丸がいた頃は、3名で歩いて行きました

膳城は、山上城から見える極めて近い城だったのです

 

 

初稿  2019.10.07   FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.10.11

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

間の原にて両勢互いに入り乱れ(膳の桐生取り合いの事、付けたり、両家縁談の事・その 2)

2024-10-09 20:08:59 | 桐生老談記の世界

降り続いたも、夕方には止みました。

ひめちゃんは張り切って堀之内を南に出て、中学校の信号の辺りまでいつものコースをお散歩です。

誰にも会わないかな

帰り道、庚申塚古墳の辺りから、見たことあるおじさんと小さな影がやってきます

黒柴のデナちゃんが、おじさんとやってきたのです。

お互いに、「アタチの方が強いのよ」と吠え合いながら、バイバイです

今日は虹が出なくて、残念だったね

 

2020年10月の黒柴家族の写真をを探します。

この日、ひめちゃんと獅子丸は、高縄の集会所を廻ってきたのです。

  

花いっぱい運動の人たちが、集会所に花を植えたり、岩神沼の沼下にひまわり畑を作っていました

最近は、ちょっと寂しくなってます。

 

タバサねーちゃんは、小次郎パパとお散歩でした。

 

パパは14歳、まだしっかり尻尾が上がってます

 

 

 

膳の桐生取り合いの事、付けたり、両家縁談の事・その 2(間の原にて両勢互いに入り乱れ)


此の事四方に隠れなし。

桐生も驚き忽ちに勢を催し、要害をかこみて待つべしとて、里見上総介を大将にて、大谷勘ケ由、二渡り右京、小川出雲、其の子随見、桐生六之介、八木伝七郎、長岡道催、根津采女、坂上兼松、奥布木宮内、小曽根安芸、おなじく筑後、塩野谷周左衛門、村岡お婚、飯篠長閑、小林平八郎、松井金五郎、栗原又三郎、柳田縫殿、細淵金弥、宮寺左近、畑山庄兵衛、中嶋主膳、其の子喜八、小宮山一学、桑原内記、舎弟源左衛門、同源次郎、稲鍋彦兵衛、岩崎大六、今泉弥七郎、村上市九郎、飯篠采女、安沢播磨、同五平衛、新藤弥兵衛、宗徒人々三十六騎、上下三百人にて、鶴谷、関口を先陣にて七十騎ばかり、川を押し渡り、其の日巳の刻より間の原にて両勢互いに入り乱れ、

 



あらすじです。

膳因幡守が出撃したということは、知れ渡った。
桐生方も驚いて直ちに軍勢を整え、要害を囲んで待つべきだと、里見上総介を大将として、大谷勘ケ由、二渡右京、小川出雲、其の子随見、桐生六之介、八木伝七郎、長岡道催、根津采女、坂上兼松、奥布木宮内、小曽根安芸、おなじく筑後、塩野谷周左衛門、村岡お婚、飯篠長閑、小林平八郎、松井金五郎、栗原又三郎、柳田縫殿、細淵金弥、宮寺左近、畑山庄兵衛、中嶋主膳、其の子喜八、小宮山一学、桑原内記、舎弟源左衛門、同源次郎、稲鍋彦兵衛、岩崎大六、今泉弥七郎、村上市九郎、飯篠采女、安沢播磨、同五平衛、新藤弥兵衛、など主だった人々三十六騎を筆頭に上下併せて三百人体制で迎えた。
膳方は鶴谷、関口を先として七十騎ばかり、川を押し渡って、その日の御前10時前後から、間の原(あいのはら)で両軍入り乱れて戦い



膳方を迎え撃った総大将が、里見兄弟の父・里見上総介だったのです

たくさんの人名が出てきます
実は桐生氏の当主の実名が分かるのは、1名だけだったといいます。
それなのに、こんなにたくさんの人名、ちょっと抵抗感があります

さて、合戦の場所・間の原(あいのはら)は、どこでしょう
『桐生の地名考』によれば、間の原は「下新田村との境にある原野で且つ両村(如来堂村と下新田村)を結ぶ道の通っている区域。119番地から126番地の区域」とあります。
現在は桐生市相生町1丁目ということで検索すると、渡良瀬川に懸かる桐生大橋の南側・マーケットシテイのあたりです
いつもたくさんの人が集まっています

 

膳方は、渡良瀬川をまだ渡っていません。

県道3号線の付近を東に進んで、渡良瀬川を渡るところで、待ち受けていた桐生方と戦ったと言うことになりそうです

膳から桐生・柄杓山までのコースはいくつかありますけど、一番南のコースをとってます。

そしてこのコースは、現在でもよく利用されていると思います。

かく言うひめちゃんちのおかあさんも、東の桐生市内に行くときはこのコースです

県道3号線、もっと気にしなくてはいけませんね

 

 

初稿  2019.10.01  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.10.09

 

 

(つづく)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

諏訪の森に集まり、夫より馬煙を立てて乗り出す(膳の桐生取り合いの事、付けたり、両家縁談の事・その 1)

2024-10-07 21:41:07 | 桐生老談記の世界

膳城付近の諏訪の森の諏訪神社は、上野国山上(こうずけのくにやまがみ)つまりひめちゃんちの近くの諏訪神社だと思われます

ひめちゃんたちは、よく通りましたけど、実は境内にあまり入っていません

お正月なら寄ってるかな?

諏訪神社の写真を、2021年の1月の画像の中に、やっと見つけました

その中で見つけた、2021年の1月の黒柴家族です

 

 

東の牧場に、ヤギさん家族もいました

 

 


膳の桐生取り合いの事、付けたり、両家縁談の事・その 1(諏訪の森に集まり、夫より馬煙を立てて乗り出す)

さる程に、上州膳の城主因幡守は細川内膳の室の見えなければ、「まさ敷く兄弟の家をゆうゆうと亡ぼされる事、縁者の恥辱なり。妹の敵なれば其の遺恨浅からざる。折を以て、桐生を一矢うらみん。」と、おいおい余韻を催し候。

既に出馬と聞こえけり。

先手の大将には斉藤右近、鶴谷玄蕃、野村弾正、関口友之助、此の者は若年なれども四人の家老なり。

赤石右京、子息喜太郎、青木平蔵、舎弟源太夫、小畑市之介、和田九郎左衛門、五貫主水、熊谷四郎左衛門、長根主殿、村上清輔、樋口治郎右衛門、荒井陣内、工藤内記、金子縫殿、上泉一学、大塚源内、此の二十一騎にて五百騎を添えて、天文十三年七月十三日朝、勢を揃え、諏訪の森に集まり、夫より馬煙を立てて乗り出す。



あらすじです。

上州膳の城主因幡守は、細川内膳の奥方の姿がないので、「兄弟の家をたやすく滅ぼされたことは、縁者の恥辱である。妹の仇であるので、深く恨むものだ。折を見て桐生に一矢報いよう。」と、恨み続けた。
そうこうするうちに、もう出馬ということだ。
先手の大将には、斉藤右近、鶴谷玄蕃、野村弾正、関口友之助で、みんな若いけれども、4人の家老である。
赤石右京、子息喜太郎、青木平蔵、舎弟源太夫、小畑市之介、和田九郎左衛門、五貫主水、熊谷四郎左衛門、長根主殿、村上清輔、樋口治郎右衛門、荒井陣内、工藤内記、金子縫殿、上泉一学、大塚源内、この21騎に500騎を添えて、天文13年(1544)7月13日朝、軍勢を揃え、諏訪の森に集って、馬煙を立てて乗り出した。



細川内膳の奥方の実家は、上州膳の城主だったのです。
細川家は下野菱の領主でした。
細川家の領地は、古河公方に泣きついてもらったものでした
膳氏は、基本的に関東管領方でした
縁組として、不自然な感じもします
「妹の敵なれば」とは、領主として視野が狭いと思います
「桐生に一矢報い」るだけでは、ちょっと心配。

521騎で、諏訪の森に集まって出陣したのですか
諏訪の森は、膳氏の居城・膳城の北にある諏訪神社付近だと思われます




2021年1月の諏訪神社です。

 

この日、ひめちゃんと獅子丸は、神社の裏手から境内に入り、拝殿で参拝して階段を前向きに下りて鳥居を出ました。



うーん、521騎集まれるかな?
ちょっと無理のようです

膳城のすぐ東に八幡神社があります。
膳氏の勧請ということで、こちらに戦勝祈願して、出陣するほうが自然です

江戸時代の桐生の人には、諏訪神社の方が馴染みがあったのでしょうか

 

 

初稿  2019.09.28  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.10.07

 

 

(つづく)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

誠は家老右京盗み取りて、売買の沙汰あり(桐生代々の事、付けたり、細川滅亡の事・その 6)

2024-10-05 14:51:56 | 桐生老談記の世界

今日も雨の一日です

ひめちゃんとタバサねーちゃんは、今日もおうち犬してます。

小雀観音の写真を探して、2020年4月の写真を見ていると、笑顔のひめ&獅子丸タバサねーちゃんが出てきました

16歳間近の七海ママも、末っ子のひめちゃんと獅子丸とのちい散歩を楽しんでました

 

 

 

 

桐生代々の事、付けたり、細川滅亡の事・その 6(誠は家老右京盗み取りて、売買の沙汰あり)

時に細川の家中、公方軍役には八十二騎なり。

小川出雲、其の子随見、八木伝七郎、奥布木宮内、根津采女、村岡右近、細淵金弥、畠山庄兵衛、松井金吾、稲垣彦兵衛、新藤弥兵衛、小宮山一学、これ細川の十二騎なり。

此の外軽率ども二十人ばかり桐生に隨身す。

されば細川小家なれども、公方軍役に十二騎なり。

また、細川にさまざまの家の宝あり。住吉、隈の、諏訪、宇都ノ宮、北野八幡、高尾、八王子、鞍馬、津嶋これ十二社の神系図あり。聖徳太子自鋳奉る黄金一寸八分多聞天、阿満国の小脇差、国綱の小長刀、細川の系図に添えて桐の箱にこめて秘蔵せしに、此の度破れ見えず。

向かいたる諸士にかくしたる由と常陸之介讒言に依って、さまざま吟味あれども更に出ず。甚だ過役として、其の人々を半地せらるるこそ無法なり。

誠は家老右京盗み取りて、売買の沙汰あり。所々にて買い取り寺社の宝物となるこそ分明なり。



あらすじです。

細川家の公方軍役は82騎でした。
そのうち、小川出雲、其の子随見、八木伝七郎、奥布木宮内、根津采女、村岡右近、細淵金弥、畠山庄兵衛、松井金吾、稲垣彦兵衛、新藤弥兵衛、小宮山一学、の十二騎と此の外の軽率ども二十人ばかり桐生氏に寝返りました。

細川家には、様々な家宝がありました。
住吉、隈の、諏訪、宇都ノ宮、北野八幡、高尾、八王子、鞍馬、津嶋これ十二社の神系図、聖徳太子自鋳奉る黄金一寸八分多聞天、阿満国の小脇差、国綱の小長刀、細川の系図に添えて桐の箱にこめて秘蔵していましたが、行方不明です。

寝返ってきたやつが隠したのだという讒言で、大将の津布久常陸之介が調べましたけれど、宝物の行方は分かりませんでした。
ひどいことに、その人々は、支配地を半分にされました。

本当は、家老の有坂右京が、盗み取って売ってしまったのです。
あちこちの寺社が買い取って、宝物となっているのはあきらかです。



あっけない細川氏の滅亡です
具体的な戦闘場面はありません

館が戦火に包まれ焼け落ちたともありません
「細川を追いちらし名馬を奪い取り」、その後家臣の裏切りが書かれます
名馬小雀がどうなったかは、書かれていません

細川内膳の屋敷跡は、菱郵便局の付近だったようです。
昭和45年に出された『菱の郷土史』に内膳の館跡の縄張り図があります。

この郵便局の隣に、小雀を祀った小雀観音があります。

細川内膳の物語・総集編(名馬小雀と八条殿)


もとは菱支所のあたりにあったけれど、道路の拡張で、現在地に移ったということです。

菱カルタがあります



「小雀は主君の後を追って舌をかんで死んだ」とあります


それにしても、裏切り者が目立ちます
戦国時代の価値観だと、自己の利益優先の行動をとるという選択肢も普通にあったようですね
細川家の家宝を買い取った寺社はどこでしょう?

 

 

初稿  2019.09.24  FC2ブログ「黒柴ひめちゃんの葛塚村だより」

改稿  2024.10.05

 



( 桐生代々の事、付けたり、細川滅亡の事・終 )

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする