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「真理は二つ」とは?

2020-03-08 13:00:19 | 弁証法
「真理は二つ」とは?


昨日から、
「南郷師範の武道哲学 著作・講義全集 第三巻」
を読み始めた。

そんな中で、
初めの「読者への挨拶」から度肝を抜かれた。
正しくは、今までの自分の先入観に矢を射られた、とでも書こうか…

私は、「真理は一つ」だと信じ、思い込んでいた。
でも、南郷師範は
「真理は一つではなく、必ず二つ(二面性・二重性)なのです。」
と書かれている。

その理由・訳は以下である。

~~~~引用開始~~~~

……前略……

 弁証法的に考えるとは(弁証法を学ぶとは)、全ての「モノ・コト」に関わる変化を知り、識ることですので、変わる面(変わらない面)、変わる性(変わらない性)を、必ず二面性(二重性)が分かることがとても大事なのです。

 しかし論理学としては、対象の変わる「面」・「性」を、変わらない「面」・「性」を、必ず二面性(二重性)で捉えること!が大事なのです。真理はは一つではなく、真理は必ず二つ(二面性・二重性)なのです。ですから、初学者は自然の性質も、社会の性質も、精神の性質も必ず二面性・二重性だと分かることから学習を始めるべきです。

……以下省略……


ここから、同じ「二面性・二重性」でも、「弁証法」と「論理学」では違っている事が分かった。

「弁証法」では、対象と関わる過程で、その「二面性・二重性」を見つける・発見する。
「論理学」では、対象と関わる前から、対象を「二面性・二重性」で捉えようと試みる。

その違いは、
弁証法は、対象・事実から「二面性・二重性」・論理へであり、
論理学は、論理・「二面性・二重性」から事実・対象へである。


だから、師範は、
論理学の以前に
弁証法学の学び・習得・修得の
必然性を強く主張している、のだろう。


例えば、今勤務している小学校で、
中学年のクラスが、ほぼ学級崩壊状態化して、
担任が長期病欠となり、急遽、他の教員が担任となった。


その力量の凄い事と言ったら、驚異的である。
新たな担任の授業では、全く立ち歩き・離席もなく、静かに学んでいる。
しかし、他の教員の授業では、離席・立ち歩き、無駄な私語…授業崩壊的…である。


この場合の「二重の面・二重性」とは?

過去の担任と現在の担任の授業での子供達。
新たな担任と他の教員の授業での子供達。

過去も今も、同様に静かに真面目に授業を受けている児童。
今は、過去と違って静かに真面目に授業を受けている児童。

担任の授業も他の教員の授業も静かに真面目…
担任には真面目、他の教員には不真面目…

新たな担任の授業を見ていて、痛感・実感するのは、
その時々の不真面目でない児童の反応・言動を的確に捉えつつ…
その時々の授業の方向性・意図・目的から大きくが外れないよう、
個別的に対応している。

この不真面目でない児童達も、
教師の指示・教えに不真面目であっても、
自分の思い・快感…に真面目に従っている。


それは、
「面倒くさいからやらない」、
「分からないからやらない」、
「出来ないからやらない」、
「嫌いだから聞かない」、である。


新たな担任の指導の一つに、
児童・子供は、
「面倒・面倒くさい」とは、言ってはいけない、
とい指導がある。


自分の面倒くさいは、他の人の面倒くさい、とは限らない。
自分のできないは、他の人の出来ない、とは限らない。
自分の分からないは、他の人の分からない、とは限らない。
自分の嫌いは、他の人の嫌いとは、限らない。


面倒な事に慣れれば、面倒でなくなる。
出来ないから、出来るようにしょう。
分からないから、分かるようにしよう。
嫌い・嫌いも好きなうち。


児童・子供は、好きな先生・人の言葉には素直になれるモノ。
子供・児童によっては、好きな先生・人の言葉にも素直になれない時もある。
嫌いな先生・人の言葉でも従える児童・子供もいる。


その違いは、その子供・児童の中の、
価値観・思い…の相違だったり、
その量質転化化のレベル・質だったり…であろう.
















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2 コメント

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Unknown ()
2020-03-08 15:52:16
「真理が無数」ではなく「真理が二つ」というところがポイントでしょうね。
虚心に考えても真理はいくらでもあるものですから、そこを言語表現したならば「真理は無数、無限」でしょうけれど「2」という数字がポイントです。すなわち「南郷さんにとっての2という数」というのを読み取る必要があると考えますよ。
それで南郷さんに纏わる数で「2」といったなら「カントが世界を二本柱まで収斂させた」という南郷さんの「いわゆる」「構造論」というわけです。
南郷さんの学問体系は武谷三男の三段階論から拝借した「本質論、構造論、現象論」なわけで、そこから演繹したならば「無数、無限」というのは「現象」だという解釈となり、「2」という数字は「本質にあと一歩の「構造」」だという理屈になりますね。
ですから真理を「二つ」と述べたのは持説の「本質論、構造論、現象論」というフレームに呼び込むための「蟻地獄」というか「知的フェイント、知的罠」だと考えますよ。
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Unknown (伏龍)
2020-03-10 07:09:30
「真理は二つ」を分かっていなかった、と。

自身も(自由びとさんと同じく?)真理は一つと思い込んでおりました。

更に悪いことに、自身においては「真理は二つ」を分かっているつもりで感情的としては「真理は一つ」と思いこんでいました。

『全集第三巻』を読む中で、東洋医学(に関わって根本療法と対症療法)について説いていただいていることで、そのことになんとなく気づいていってはいたのですが、自由びとさんのようにしっかりと分かれていませんでした。

再度『全集第三巻』の「読者への挨拶」を学びなおします。かつ「真理は二つ」の実践を自身の専門でおこなっていきます。(対症療法の実践)

そのあたりのことを自身のブログでも書こうと思います。

『全集第三巻』の読みかたをご示唆いただけたと心から感謝です。

ありがとうございました。

青龍改め伏龍
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