「常識」の二重性・弁証法性
一つ、「常識」が常識である事とは?
それは、「常識」の意味・概念を常識になっている事。
それは、「常識とは普通の社会人なら、誰でも持っている筈の知識や考え方」という知識・考え方が普通の人の認識(常識)になっている事。
二つ、その個別・具体的な知識や考え方が、普通の人なら誰でも持っている認識(常識)になっている事。
二つ目の個別・具体的の二重性。
その言葉が「常識」。
その言葉の意味が「常識」。
例えば、「情けは人の為ならず」という言葉がある。
これは普通の人なら学校・教育や日常の中で聞いて知っている「常識」。
私が習い理解した、この言葉の解釈・意味は「人に情けをかけるのは、人の為ではなく周り回って自分の為になる」。
しかし、現代人の多くは「人に情けをかけては、その人の為にならない」と理解している、そうである(テレビの情報)。
これは、「情けは人の為ならず」という言葉は「常識」。
しかし、その言葉の意味・概念には通りあるが「常識」。
これは、この言葉が知識としては「常識」であっても…
その言葉の意味・概念は変化している…という事。
同様な事が、「ヤバい」にも言える。
ある知識・言葉が常識。
その知識の考え方(意味・概念)が常識。
「ある知識・言葉」と「その言葉の捉え方・考え方」は「相対的独立」関係と言える。
近い将来に…常識である「情けは人の為ならず」という言葉の意味が、
多くの人々が「情けを人にかけたら、人の為にならない」と理解せずに
「情けは人の為ではなく周りをまわって自分の為」に変わってしまい…
「情けは人の為にならない」が常識化するのだろう…
因みに、昔から…多くの人々が「常識」について思索していた…ようである。
以下は、ネットからの、その転写である。
常識について、例解新国語辞典[第二版]には以下のように書かれている。
「常識」とは、普通の社会人なら、誰でも持っている筈の知識や考え方。
常識(読み)じょうしき(英語表記)common sense
翻訳|common sense
日本大百科全書(ニッポニカ)「常識」の解説
常識
じょうしき
common sense
ある社会のある時期において、一般の人々がとくに反省することなく当然のこととして共通に認めている意見や判断のことであり、その社会の歴史のなかから自然に形成される。したがって常識というとき、なんらかの立場や方法論を前提し、しかもそれを自覚して成立する判断であるところの学問的な知識と、しばしば対立させて使われる。
ところで常識という語の原義は、通常の人間ならだれでもが共通にもっている感覚のことであり、この点、前述したある社会のある時期という限定を伴う普通の意味と多少異なっている。そしてとくにこの原義に近い考え方で常識に注目している哲学者としては、バークリーの主観的観念論やヒュームの懐疑論に反対した18世紀イギリスのトマス・リードがいる。すなわちリードは、通常の理解力のある人間ならだれでも、その人間の本性に基づいて当然自明なものとして認めるいくつかの根本原理(「常識の原理」)があると考え、諸科学の基礎としてこれらの原理をみいだそうとした。
なお、リードを中心としたJ・ビーティ、J・O・オズワルドらの一派は常識学派とよばれ、ドイツ、フランスの啓蒙(けいもう)哲学に影響を与えた。また19世紀アメリカの哲学者パースによっても、常識をだれでもがもつ一種の本能のようなものと考える考え方が採用され、展開されている。
[清水義夫]
[参照項目] | 常識哲学
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について
百科事典マイペディア「常識」の解説
常識【じょうしき】
英語common senseなどの訳。ある社会の共同の知識と経験の総合的集積で,その社会の構成員はだれでも受け入れざるを得ないような自明性をもっている。その意味では,知識の一つであるが,直接的に与えられ,一般の人びとに受け入れられている意見の総体でもある。したがって,常識は社会体制の変化に応じて変化する。また哲学的には,デカルトやロックの認識批判の方法をしりぞけ,推論過程に先行する判断(〈常識〉)に価値をおく,T.リードに始まる〈常識哲学〉の系譜がある。日本では,common senseの訳語は,1890年,福沢諭吉の《国会の前途》で〈人生の常情〉という言葉が使われたのが最初で,ほかに〈常見〉という訳語も使われており,〈常識〉の語が主として使われるようになったのは,明治24年―明治25年ころ。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「常識」の解説
常識
じょうしき
common sense
一般に学問的知識とは異なり,普通人が社会生活を営むためにもち,またもつべき意見,行動様式の総体をいう。これは経験の集積からなることが多く,時代や場所や階層が異なれば通用しないものもあり,多分に相対的なものである。本来は,「共通 (一般) 感覚」の意。アリストテレスは視,聴,触などの相異なる感覚を一つの対象に結びつけて意識させる「すべての感覚に共通な部分」をいった。近世初頭デカルトなどは,これをより積極的に万人が共有する真理感覚と解し,良識 (ボン・サンス) と呼んだ。 18世紀末に現れたスコットランド学派は,この真理感覚を「常識の原理」と名づけ,それを基礎に倫理説を立てたので「常識学派」と呼ばれる。 (→常識哲学 )
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
精選版 日本国語大辞典「常識」の解説
じょう‐しき ジャウ‥【常識】
〘名〙
① 一般人の持つ考え。普通の見解。
※童子問(1707)中「此常識之所下以必至レ此而与二聖人一自相違上也」
② (英 common sense の訳語) 社会人として当然持っている、持っているべきだとされる知識・判断力。〔哲学字彙(1881)〕
※彼岸過迄(1912)〈夏目漱石〉報告「常識(ジャウシキ)のない奴だと思はれる丈だから」
③ 哲学で、人類全体に共通する能力で真理、道徳をとらえる直覚をさす。常識学派(スコットランド学派)で真理の最終根拠とした。
[補注]common sense の訳語としては、他に「常見」「常情」なども用いられていたが、明治の後半から「常識」に定着した。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
デジタル大辞泉「常識」の解説
じょう‐しき〔ジヤウ‐〕【常識】
一般の社会人が共通にもつ、またもつべき普通の知識・意見や判断力。「常識がない人」「常識で考えればわかる」「常識に欠けた振る舞い」「常識外れ」
[補説]common senseの訳語として明治時代から普及。
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
世界大百科事典 第2版「常識」の解説
じょうしき【常識 common sense】
常識(英語でコモン・センス)とは,もっとも普通には,われわれの間に共通の日常経験の上に立った知,一定の社会や文化という共通の意味のなかでの,わかりきったものを含んだ知であると考えられている。つまりこの場合,それは,あれこれの立ち入った専門的知識にくらべてありふれた知識,また,厳密な学問知にくらべてあいまいさを含んだ日常の知だということになる。ところで,このようにとらえられた常識を〈出発点〉としての常識というならば,それに対して〈到達点〉としての常識と呼ばれるべきものがある。
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世界大百科事典内の常識の言及
【理性】より
…ライプニッツは〈事実の真理〉と〈理性の真理〉を認め,〈理性raison〉は諸真理の連関を覚知し推論する能力とし,C.ウォルフは悟性は知的なものを包括して意志に対立し,理性は諸真理の連関の洞察であるとした。また18世紀にはイギリスの〈常識common sense〉がドイツで悟性に結びつけられ,無反省に生活で使用される〈通俗的悟性gemeiner Verstand〉よりも〈論究的理性räsonierende Vernunft〉が上位に置かれるようになった。 カントは認識能力を諸対象を直観する受容的な〈感性〉と,諸対象を概念で思考する自発的な広義の〈悟性〉とに分かち,後者を狭義の〈悟性(概念・規則の能力)〉〈判断力(判断の能力)〉〈理性(理念・推論の能力)〉に分けた。…
【スコットランド学派】より
…正式にはスコットランド常識哲学学派Scottish school of common senseという。〈存在とは知覚されることである〉とのバークリーによる物質否定の論証や,ヒュームによる因果観念の否定という懐疑的結論によって哲学一般の基盤,とりわけ既成の教会の教義に及ぼすこの種の帰結の脅威を感じたT.リードは,デカルトやロック以来の〈観念〉を軸とする認識批判の方法をしりぞけた。…
【知識】より
…一般に,専門家と言われる人たちはその分野の手続き的知識をうまく使って効率的に問題を解くことができる(いわゆる,頭より先に手が動く,である)のに対して,素人はその分野の宣言的知識はもっていてもそれらを効率的に使えない(いわゆる,頭でっかち,である)と理解される。
[常識]
常識common senseももちろん知識の一部である。というより,人間のもつ知識のほとんどは常識であると考えられている。…
【知識表現】より
… 実際のシステム開発においては,単純な表現では対象問題を十分にモデル化できず,また,機能の豊富な表現には処理に膨大な計算量が必要となるというトレードオフの関係が存在する。この点については常識の扱いを含めて理論的な研究の進展が著しい。また,大規模な実用システムにおいては,複数の知識表現を統合して利用することもしばしば行われる。…
【理性】より
…ライプニッツは〈事実の真理〉と〈理性の真理〉を認め,〈理性raison〉は諸真理の連関を覚知し推論する能力とし,C.ウォルフは悟性は知的なものを包括して意志に対立し,理性は諸真理の連関の洞察であるとした。また18世紀にはイギリスの〈常識common sense〉がドイツで悟性に結びつけられ,無反省に生活で使用される〈通俗的悟性gemeiner Verstand〉よりも〈論究的理性räsonierende Vernunft〉が上位に置かれるようになった。 カントは認識能力を諸対象を直観する受容的な〈感性〉と,諸対象を概念で思考する自発的な広義の〈悟性〉とに分かち,後者を狭義の〈悟性(概念・規則の能力)〉〈判断力(判断の能力)〉〈理性(理念・推論の能力)〉に分けた。…
※「常識」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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一つ、「常識」が常識である事とは?
それは、「常識」の意味・概念を常識になっている事。
それは、「常識とは普通の社会人なら、誰でも持っている筈の知識や考え方」という知識・考え方が普通の人の認識(常識)になっている事。
二つ、その個別・具体的な知識や考え方が、普通の人なら誰でも持っている認識(常識)になっている事。
二つ目の個別・具体的の二重性。
その言葉が「常識」。
その言葉の意味が「常識」。
例えば、「情けは人の為ならず」という言葉がある。
これは普通の人なら学校・教育や日常の中で聞いて知っている「常識」。
私が習い理解した、この言葉の解釈・意味は「人に情けをかけるのは、人の為ではなく周り回って自分の為になる」。
しかし、現代人の多くは「人に情けをかけては、その人の為にならない」と理解している、そうである(テレビの情報)。
これは、「情けは人の為ならず」という言葉は「常識」。
しかし、その言葉の意味・概念には通りあるが「常識」。
これは、この言葉が知識としては「常識」であっても…
その言葉の意味・概念は変化している…という事。
同様な事が、「ヤバい」にも言える。
ある知識・言葉が常識。
その知識の考え方(意味・概念)が常識。
「ある知識・言葉」と「その言葉の捉え方・考え方」は「相対的独立」関係と言える。
近い将来に…常識である「情けは人の為ならず」という言葉の意味が、
多くの人々が「情けを人にかけたら、人の為にならない」と理解せずに
「情けは人の為ではなく周りをまわって自分の為」に変わってしまい…
「情けは人の為にならない」が常識化するのだろう…
因みに、昔から…多くの人々が「常識」について思索していた…ようである。
以下は、ネットからの、その転写である。
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「常識」とは、普通の社会人なら、誰でも持っている筈の知識や考え方。
常識(読み)じょうしき(英語表記)common sense
翻訳|common sense
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常識
じょうしき
common sense
ある社会のある時期において、一般の人々がとくに反省することなく当然のこととして共通に認めている意見や判断のことであり、その社会の歴史のなかから自然に形成される。したがって常識というとき、なんらかの立場や方法論を前提し、しかもそれを自覚して成立する判断であるところの学問的な知識と、しばしば対立させて使われる。
ところで常識という語の原義は、通常の人間ならだれでもが共通にもっている感覚のことであり、この点、前述したある社会のある時期という限定を伴う普通の意味と多少異なっている。そしてとくにこの原義に近い考え方で常識に注目している哲学者としては、バークリーの主観的観念論やヒュームの懐疑論に反対した18世紀イギリスのトマス・リードがいる。すなわちリードは、通常の理解力のある人間ならだれでも、その人間の本性に基づいて当然自明なものとして認めるいくつかの根本原理(「常識の原理」)があると考え、諸科学の基礎としてこれらの原理をみいだそうとした。
なお、リードを中心としたJ・ビーティ、J・O・オズワルドらの一派は常識学派とよばれ、ドイツ、フランスの啓蒙(けいもう)哲学に影響を与えた。また19世紀アメリカの哲学者パースによっても、常識をだれでもがもつ一種の本能のようなものと考える考え方が採用され、展開されている。
[清水義夫]
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百科事典マイペディア「常識」の解説
常識【じょうしき】
英語common senseなどの訳。ある社会の共同の知識と経験の総合的集積で,その社会の構成員はだれでも受け入れざるを得ないような自明性をもっている。その意味では,知識の一つであるが,直接的に与えられ,一般の人びとに受け入れられている意見の総体でもある。したがって,常識は社会体制の変化に応じて変化する。また哲学的には,デカルトやロックの認識批判の方法をしりぞけ,推論過程に先行する判断(〈常識〉)に価値をおく,T.リードに始まる〈常識哲学〉の系譜がある。日本では,common senseの訳語は,1890年,福沢諭吉の《国会の前途》で〈人生の常情〉という言葉が使われたのが最初で,ほかに〈常見〉という訳語も使われており,〈常識〉の語が主として使われるようになったのは,明治24年―明治25年ころ。
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常識
じょうしき
common sense
一般に学問的知識とは異なり,普通人が社会生活を営むためにもち,またもつべき意見,行動様式の総体をいう。これは経験の集積からなることが多く,時代や場所や階層が異なれば通用しないものもあり,多分に相対的なものである。本来は,「共通 (一般) 感覚」の意。アリストテレスは視,聴,触などの相異なる感覚を一つの対象に結びつけて意識させる「すべての感覚に共通な部分」をいった。近世初頭デカルトなどは,これをより積極的に万人が共有する真理感覚と解し,良識 (ボン・サンス) と呼んだ。 18世紀末に現れたスコットランド学派は,この真理感覚を「常識の原理」と名づけ,それを基礎に倫理説を立てたので「常識学派」と呼ばれる。 (→常識哲学 )
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精選版 日本国語大辞典「常識」の解説
じょう‐しき ジャウ‥【常識】
〘名〙
① 一般人の持つ考え。普通の見解。
※童子問(1707)中「此常識之所下以必至レ此而与二聖人一自相違上也」
② (英 common sense の訳語) 社会人として当然持っている、持っているべきだとされる知識・判断力。〔哲学字彙(1881)〕
※彼岸過迄(1912)〈夏目漱石〉報告「常識(ジャウシキ)のない奴だと思はれる丈だから」
③ 哲学で、人類全体に共通する能力で真理、道徳をとらえる直覚をさす。常識学派(スコットランド学派)で真理の最終根拠とした。
[補注]common sense の訳語としては、他に「常見」「常情」なども用いられていたが、明治の後半から「常識」に定着した。
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デジタル大辞泉「常識」の解説
じょう‐しき〔ジヤウ‐〕【常識】
一般の社会人が共通にもつ、またもつべき普通の知識・意見や判断力。「常識がない人」「常識で考えればわかる」「常識に欠けた振る舞い」「常識外れ」
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世界大百科事典 第2版「常識」の解説
じょうしき【常識 common sense】
常識(英語でコモン・センス)とは,もっとも普通には,われわれの間に共通の日常経験の上に立った知,一定の社会や文化という共通の意味のなかでの,わかりきったものを含んだ知であると考えられている。つまりこの場合,それは,あれこれの立ち入った専門的知識にくらべてありふれた知識,また,厳密な学問知にくらべてあいまいさを含んだ日常の知だということになる。ところで,このようにとらえられた常識を〈出発点〉としての常識というならば,それに対して〈到達点〉としての常識と呼ばれるべきものがある。
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世界大百科事典内の常識の言及
【理性】より
…ライプニッツは〈事実の真理〉と〈理性の真理〉を認め,〈理性raison〉は諸真理の連関を覚知し推論する能力とし,C.ウォルフは悟性は知的なものを包括して意志に対立し,理性は諸真理の連関の洞察であるとした。また18世紀にはイギリスの〈常識common sense〉がドイツで悟性に結びつけられ,無反省に生活で使用される〈通俗的悟性gemeiner Verstand〉よりも〈論究的理性räsonierende Vernunft〉が上位に置かれるようになった。 カントは認識能力を諸対象を直観する受容的な〈感性〉と,諸対象を概念で思考する自発的な広義の〈悟性〉とに分かち,後者を狭義の〈悟性(概念・規則の能力)〉〈判断力(判断の能力)〉〈理性(理念・推論の能力)〉に分けた。…
【スコットランド学派】より
…正式にはスコットランド常識哲学学派Scottish school of common senseという。〈存在とは知覚されることである〉とのバークリーによる物質否定の論証や,ヒュームによる因果観念の否定という懐疑的結論によって哲学一般の基盤,とりわけ既成の教会の教義に及ぼすこの種の帰結の脅威を感じたT.リードは,デカルトやロック以来の〈観念〉を軸とする認識批判の方法をしりぞけた。…
【知識】より
…一般に,専門家と言われる人たちはその分野の手続き的知識をうまく使って効率的に問題を解くことができる(いわゆる,頭より先に手が動く,である)のに対して,素人はその分野の宣言的知識はもっていてもそれらを効率的に使えない(いわゆる,頭でっかち,である)と理解される。
[常識]
常識common senseももちろん知識の一部である。というより,人間のもつ知識のほとんどは常識であると考えられている。…
【知識表現】より
… 実際のシステム開発においては,単純な表現では対象問題を十分にモデル化できず,また,機能の豊富な表現には処理に膨大な計算量が必要となるというトレードオフの関係が存在する。この点については常識の扱いを含めて理論的な研究の進展が著しい。また,大規模な実用システムにおいては,複数の知識表現を統合して利用することもしばしば行われる。…
【理性】より
…ライプニッツは〈事実の真理〉と〈理性の真理〉を認め,〈理性raison〉は諸真理の連関を覚知し推論する能力とし,C.ウォルフは悟性は知的なものを包括して意志に対立し,理性は諸真理の連関の洞察であるとした。また18世紀にはイギリスの〈常識common sense〉がドイツで悟性に結びつけられ,無反省に生活で使用される〈通俗的悟性gemeiner Verstand〉よりも〈論究的理性räsonierende Vernunft〉が上位に置かれるようになった。 カントは認識能力を諸対象を直観する受容的な〈感性〉と,諸対象を概念で思考する自発的な広義の〈悟性〉とに分かち,後者を狭義の〈悟性(概念・規則の能力)〉〈判断力(判断の能力)〉〈理性(理念・推論の能力)〉に分けた。…
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コンプライアンス
たぶん自由びとさんには自由びとさんの「文章の必然性」というのがあるんだと思うんですけど、私には丸で理解できない文章ですね。
自由びとさんには「ウチの家庭のことに口出ししてくるな」と言われるかも知れませんけど、せっかく書いてくれたので私なりの感想も書いてみたいと思うんです。
それで、自由びとさんの文章が10年前から良く分からないのは、たぶん「自分が考えたそのままに書いてるだけで、他の人間が読んで解るようにとは意識せずに書いてるから」じゃないかと思うんです。
まあ、即自、対自の即自だということなんですが、もしかしたなら私が思うのとは別の理由で意図的にそのような文章を書いてるのかも知れませんけどね。
それで、自由びとさんは神庭純子が説くような「先ずは一般論」みたいな志向性があって?、ユークリッド幾何学で点や線を定義するようなところに行こうとするから、特定の具体像が丸で見えなくなるんですよね。それが、私が読んで理解できない理由だと思います。
それで、私は南郷さんが書いてるような「言葉が生活している。」ことを重視しますから、現代で自由びとさんの言う「普請」が使われているところがあるかな?と探したら、滋賀県の県庁の活動で道路の雑草だとかの処理に「普請」という言葉が使われているのを知ったんです。つまり、滋賀県で自動車を運転してるような人なら日常生活の中に「普請」という言葉は「有る」わけです。
調べてませんけど、東京だと同じような活動は入札で競り落とした企業にお金を払ってやって貰うんじゃないかと思います。だから「普請」って現代の良く聞く言葉でいったら「ボランティア」と同義なんだと思いました。
滋賀県って『自由學藝』を作っている寄筆一元さんや双子の弟の小学校の先生が住んでるとこですから、「まさか、自由びとさんって…」とも思いましたけどね(笑)。
それで、現代のボランティアに通じる「無料奉仕」の「普請」って、時の天皇の息子である聖徳太子が仏教を日本の思想的支柱に据えてから「慈悲、奉仕」って民族全体として受け継いできた宗教的な精神なんだと思いますね。
滋賀県も含めて関西なんかは特に神社仏閣が多いでしょ?信仰心も厚いんじゃないかと想像されるんです。そうした伝統的な宗教性というか心理性が「他者の労働を無料で奉仕させること」を「当然だ!」と感じる性質として持っている、とか?
生きた人間の言葉の使い方はかなり曖昧なところがあって「常識」という言葉の意味も一義的じゃないようですけど、狭い意味での「常識」って学識みたいな知識と違って「歯を磨かずに外出したら他人に臭い思いをさせる、髭ぼうぼうでむさ苦しい姿をしていたら他者を不快にさせる、風呂に入らずに外へ出かけたなら他人が臭くて気分を害する」といった「頭と心」みたいな分け方したなら「心」のほうに関わることじゃないかと感じますね。
まあ、「常識」より古い言い方だと「慣習」かも知れませんけど、私は数年前の史学会で「コモン・ローの前提となったカノン法」なんて講演を聞いたんですよ。九州あたりのメガネ美人の女の先生でしたけど。私は嫁さんがメガネ美人なので、メガネをかけた女子には興味がありましてね。
だから元々はカトリック教会の法令みたいなのを皆が守っていたのを、そこから独立したイギリスが国民が共同生活するのに必要な「皆が共通して守る必要のある法律」みたいな感じで「コモン・ロー」というのが出来て、そこから更に「明文化された法律までいかないけど、皆んなの共通した肌感覚」というか、お年寄りは大切にしろだとか、弱い者いじめはするなとか、そうした「皆んなが共通して知ってるべき、守るべきもの」としてのコモン・センスという言語表現が登場したんじゃないか?とストーリーを考えてみたんですけどね。
それが日本に輸入されて常識と訳された、みたいに。まあ、間違ってる可能性はありますから、正確に知ろうと思ったら大学院で研究するみたいにマニアックな勉強しないといけませんけどね(笑)
全体と部分・部分と全体。
結果と過程・過程と結果。
開始⇒途中・過程⇒結果。
結果⇒途中・過程⇒開始。
>いや~、奥さんとのちょっとした言葉のやりとりからネットの哲学用語の検索までいってしまったんですね(驚)。
↑
これって、「常識」を「絶対概念」的に理解できて…良いんじゃない!
>たぶん自由びとさんには自由びとさんの「文章の必然性」というのがあるんだと思うんですけど、私には丸で理解できない文章ですね。
↑
私の「文章の必然性」ですか?
あまり意識していませんね…なんなのでしょうね?
そもそも…そんな「必然性」なんて…あるのでしょうかね?
>自由びとさんには「ウチの家庭のことに口出ししてくるな」と言われるかも知れませんけど、せっかく書いてくれたので私なりの感想も書いてみたいと思うんです。
↑
「感想」ですか…
書いた当人が不愉快になるような感想を書く事は非常識でしょうね。
「…丸で理解できない文章」の分かる部分だけの感想は、
「全体から部分切り出し独立させたモノ」ですから…
それは、全体を含まない(知らない)「非弁証法的感想」ですね。
普通なら分からないモノなら「触らぬ神に祟りなし」で敬遠しょうね!
もっとも…お宅と私の関係が何でも
書き合える・言い合える関係ならば別ですが…
>自由びとさんの文章が10年前から良く分からないのは、たぶん「自分が考えたそのままに書いてるだけで、他の人間が読んで解るようにとは意識せずに書いてるから」じゃないかと思うんです。
↑
十年来の愛読者ですか!
感謝を込めて「ありがとうございます♪♪♪」を送ります。
十年来の愛読者なら、きっと記憶にあるでしょうが…
自由びとは何度も「このブログ・記事は私の精神世界…」と書いています。
それは、私は私の精神世界の言語化・文字化を試みであり、
それは、他人の為ではなく、己の認識・精神の客観視化の為。
>まあ、即自、対自の即自だということなんですが、もしかしたなら私が思うのとは別の理由で意図的にそのような文章を書いてるのかも知れませんけどね。
↑
「即自、対自の即自…」ですか?
私は、「敵を知り己を知れば百戦危うからず」ですかね。
それは、ブログ記事<「正-反-合」を考えていたら…>
<2021-05-22 11:16:48 | 哲学言葉シリーズ>
「正」=「即自・対自・即且対自」
「反」=「即自・対他・対自」
「合」=「即自・(対他・対自)・即且対自
即自⇒勝利を欲する己を知る
対他・対自⇒敵を知り己(戦い・勝ち方)を知る。
即且対自⇒己が敵に勝利する ですね。
>それで、自由びとさんは神庭純子が説くような「先ずは一般論」みたいな志向性があって?、ユークリッド幾何学で点や線を定義するようなところに行こうとするから、特定の具体像が丸で見えなくなるんですよね。それが、私が読んで理解できない理由だと思います。
↑
これって…お宅の誤解ですね。
初めに事実があり、その事実の論理化の為に「一般論」です。
初めに日々の眼前の事実があり、それを観念的に世界全体の一部に位置付ける為には「先ずは一般論」⇒世界全体論…です。
もっとも正確には…世界全体論の部分論が、その「事実の一般論」ですね。
特定の具体像は、目の前に展開されている事実の区別と連関から特定可能です。
それでも、特定の具体論は書けません。具体論は観念世界の話です。
それをする為の、観念世界⇒「一般論」なのです。
>それで、私は南郷さんが書いてるような「言葉が生活している。」ことを重視しますから、現代で自由びとさんの言う「普請」が使われているところがあるかな?と探したら、滋賀県の県庁の活動で道路の雑草だとかの処理に「普請」という言葉が使われているのを知ったんです。つまり、滋賀県で自動車を運転してるような人なら日常生活の中に「普請」という言葉は「有る」わけです。
↑
ならば…お宅も私も、教員八名も「常識」を知らない普通の人ではない人…ですね。
その他、大勢の「普請」を知らない人々は、常識を知らない普通でない人達ですね、
>調べてませんけど、東京だと同じような活動は入札で競り落とした企業にお金を払ってやって貰うんじゃないかと思います。だから「普請」って現代の良く聞く言葉でいったら「ボランティア」と同義なんだと思いました。
↑
言葉・「普請」ができた時代に「ボランティア」という概念はなかったでしょうね。…
この言葉は変わらず、その概念が変化…それも「常識」ですが…
でも「普請」の概念の変化は辞書には書かれていません。
それは、言うなれば、その「普請」と関わる世界の人々の常識(普通の知識)であり、関わらない人々には常識(普通の知識)でない。
↑
特定の狭い世界の常識を広く大きい世界の常識とするのは、常識的ではありません。
医学界の専門用語とは、医療関係者達の常識であっても、
医療と関係のない世界で生きている普通の人には常識ではありません。
これは、部分と全体の関係です。
「常識」や「普請」だとかいう言葉だけで会話は成立しません。その無数の言葉の全てを「◯◯とは何か?」「△△とは何か?」「□□とは何か?」と概念規定しようとしたなら時間がいくらあっても足りません。
南郷さんも概念規定をする場合と、「意味が分からなくても使っているうちに自得していく」なんて言ってる場合とありますでしょう?それこそ対立物の統一というか、弁証法的に。
実際、自由びとさんも自分が発言している全ての語彙に「これは何か?」とは問わないで何らかの自分の興味関心に任せて問うていく言葉を選択しているみたいですしね。
自由びとさんは「全体と部分」という言葉がお好きなようですけど、私にはそれが良く分からないんですよ。
それが具体的に「玄和会全体」だとか「南郷継正の全体」という表現がなされたなら、あるいは既述の「象の全体像」と言われたなら、それは「個物」ですから、そのものとそれ以外のものとは目で見て判断できるわけです。
ところが、これを「世界全体」とかにしてしまうと一気に分からなくなる。「その世界全体って何?どこからどこまでの範囲?」となる。
こないだ参加した哲学者の会合でも著名な先生が興味深いことを話されていましたけど、「何ぬき(概念の無い)の世界を言語化するのは無理」みたいなことなんですね。未熟な私の感想ですから見当違いかも知れませんけど、あれはカントのコペルニクス的転回から実存主義への流れを踏まえた話しじゃなかったか?と思ったわけです。
つまりは「モノ自体には到達できない」というか三浦の本の「対象の人間化」ですが、その先生は「個体化」という表現をしてましたから「人それぞれに個性的に反映する」という「吉田くんなら吉田くん的な反映」「山田さんなら山田さん的な反映」という「人間」という類的なことより「個的な反映」を考えてたのかも知れませんけど。
それがウィトゲンシュタインの「語り得ぬものには沈黙しなければならない」となるのかも知れませんけどね。
だから、おそらくは真なる意味での「全体」というのは人間には認識できないのだと思いますね。認識して言語化した段階で既に全体でなく何かしらの観点から切断された部分になっている。
だから、想像するに自由びとさんの言う「全体」というのは三浦の「弁証法とは何か?」という論文にも書かれていたように「弁証法はヘーゲルにとっては思惟法則」だという、思考を進めていく上で必要となっている形式的な論理学上の「何か」じゃないかという気がします。
まあ、そこまで根本を極めようとする思考は自由びとさんには有りませんし、既にある「全体と部分」といったフレームを使っているだけだと思いますけど。
自由びとさんと同じく南郷さんと関わりのある悠季真理なんかは「全体と部分」という表現を使っていたか記憶には無いんですけど、「括る」という言葉を使っていた記憶はありますね。
認識の基軸を定めるということだったかも知れませんけどね。
一部から全部へ、
個人から社会人へ、
分からないから分かるへ、
不明から明確化へ
社会性を含む個性。
社会性を含まない個性。
知らない事を知っているつもりで書くコメント。
知らない事を知っていて書くコメント。
>いえね、普通に考えたなら旦那と奥さんとが会話する場合は無数の言葉を発するんだと思うんですよ。
↑
だから…その確認の為の口論です。
>「常識」や「普請」だとかいう言葉だけで会話は成立しません。その無数の言葉の全てを「◯◯とは何か?」「△△とは何か?」「□□とは何か?」と概念規定しようとしたなら時間がいくらあっても足りません。
↑
事実を知らないね!
言葉だけの会話の裏に私達の数十年の「喧嘩する程に仲がいい」的生活の事実があります。
>南郷さんも概念規定をする場合と、「意味が分からなくても使っているうちに自得していく」なんて言ってる場合とありますでしょう?それこそ対立物の統一というか、弁証法的に。
↑
「自得」する為には、辞書や現実(まずは私の周囲から)で調べのです。
>実際、自由びとさんも自分が発言している全ての語彙に「これは何か?」とは問わないで何らかの自分の興味関心に任せて問うていく言葉を選択しているみたいですしね。
↑
当たり前でしょうが…
何度も書きますが「ここは私の精神世界」です。
極論するなら、私の記述は私が読み直して分かればOKなのです。
しかし残念な事に…
後から読んで分かりづらい記述。
分かっても間違っていると思う記述。
これは、今の私は書かない記述…色々とあります。
>ところが、これを「世界全体」とかにしてしまうと一気に分からなくなる。「その世界全体って何?どこからどこまでの範囲?」となる。
↑
簡単です。
世界の範囲は、無限が唯物論。
世界の範囲は、有限が観念論。
事実的には、人類には世界の範囲は分らない。
だから、先ずは自分が世界と認識した有限な世界から徐々に無限な世界へと広げていく。
あれあれ…以下では、似たような事を書いてしますね。
いや、それは正確ではありませんね。ここはGooが運営しているgooブログに自由びとさんが間借りして書いている記述ですよね。
GooってNTTグループの企業がやってるポータルサイトですし、企業ですから単なるボランティア、お遊びでなく「利益、収益」に繋がっていかねばなりません。
それで自由びとさんは単に無料で好きなこと綴っているだけかも知れませんけど、他の人は有料サービスとかも利用してNTTグループに利益をもたらしてる人もいるわけですし、そのブログには色々な企業だとかの広告が貼り付けてありますから、その広告を見て商品だとか製品だとかを購入した人がいたなら、アフィリエイト契約してる人には収入が入るわけですし。
だから、やはり「経済活動」は生活の基盤ですし、このブログの利用規約にも「ブログ主と来訪者とでコミュニケーションをとってもらうのが目的だ」と書いてあるわけです。人が集まればお金が動くし、そこに経済が成立しますからね。
このブログの「コメント欄」もそういう意味で必然性があって、自由びとさんが自分独りで自分を表現して悦に入るだけだと大本のNTTグループは嬉しくないでしょう。
ブログ主が記事を書く、それを読んでコメントしたい人間が集まってくる、そしてそこで経済活動が生じるというのが資本主義の根幹ですから。
その意味じゃ自由びとさんも「SNS社会」というものをご理解してないのだと思われますね。
分からないですねぇ、今の地球上の現象を見ても「物質性」というのは「全体」ではなく「部分」でしかありませんしね、どうして「唯物論」というのが「無限」となって「全体」となるんでしょうか?
それなら南郷さんも「認識、実体論」などとは言わずに「唯物論、実体論」だけで良かったんじゃないですか?
「逆噴射」なんて比喩も不要だったでしょうし、「弁証法的唯物論」なんて区別も必要なかったでしょうね。
もっとも南郷さんの「認識論、実体論」なるフレームは「存在と思惟の問題」という哲学の、デカルトの「われ思うゆえにわれ在り」という二元論を拝借しただけでしょうしね。
時代的に戦後のマルクス主義の流行に乗っかっただけですから「唯物論」だと言うのも理解できなくは無いですけど。
それで「全体と部分」と言ってた自由びとさんの「全体」というのは「物質という全体から常識だとか普請を語ろう、と?」。それこそ私にはどうでも良い、設問として、問いとして成立してる話しなのかも疑問ですけどねぇ。
>その意味じゃ自由びとさんも「SNS社会」というものをご理解してないのだと思われますね。
>「ブログ主と来訪者とでコミュニケーションをとってもらうのが目的だ」
>ブログ主が記事を書く、それを読んでコメントしたい人間が集まってくる、そしてそこで経済活動が生じるというのが資本主義の根幹ですから。
↑~
要するに…人が集まればいいのでしょ!ならば、
私が、ここを「私の精神世界」と思おうが…
私が、記事の内容を自分の好きなように書こうが…
それを他人が理解しようがしまいが…
結局は…
人が集まってくれば~全てOKという事でしょうが…
お宅って、多くの言葉や一般的な事は知っていて博識ですが…
それを具体的・事実的に駆使する事は苦手のようですね。
>GooってNTTグループの企業がやってるポータルサイトですし、企業ですから単なるボランティア、お遊びでなく「利益、収益」に繋がっていかねばなりません。
↑
直接、ブログ使用料はなくても、ここに掲載されている広告料で収入は0円ではないしょ!
それに、現代では企業のボランティアは、その企業イメージ・知名度増加…損はしていませんよ!
そもそも…
「お宅の度重なるコメント」と「私のレスコメント」の
やり取りって…一種の「コミュニケーション」じゃないの?
最近の記事の更新の回数増加の為か、
お宅とコミュニケーション・コメントの為か…
ブログの先週(10月24日~10月30日)のアクセス数をハイライトでお届けします。
ページビュー数885 PV(先週比 8%増)
訪問者数406 人
喜ばしい事に、ここの来訪者も増加中です!よ♪♪♪
↑
世界は世界で、現象は現象です。
物質性とは物質の性質とするなら、世界の中の一部の物質の性質です。
世界が無限と考えるなら物質も無限です。
そもそも…人間は宇宙全体の物質を知っていますか?知らないでしょう。
ならば、その「物質性」とは、人類が知り得る限りある物質全体の物質性、ですね。
>「逆噴射」なんて比喩も不要だったでしょうし、「弁証法的唯物論」なんて区別も必要なかったでしょうね。
お宅って、南郷氏の言説の中身を事実との関りの中で理解していないでしょう!
「逆噴射」とは、環境に従って移動して生存するしかなかった状態の生物が、
人間に至ってはが、その不可能な環境に働き掛け生存可能にした行為に対して…。
人間・人類は、
初め「生物が自然からの噴射(働きかけ)で生存の為に移動していた」状態から
「人間から自然に噴射(働きかけ)で生存の為の移動を無くした」…
その表記された言葉の中身・概念が変われば、
その言葉の表記を変える、のは「科学の世界の常識」では?
>それで「全体と部分」と言ってた自由びとさんの「全体」というのは「物質という全体から常識だとか普請を語ろう、と?」。それこそ私にはどうでも良い、設問として、問いとして成立してる話しなのかも疑問ですけどねぇ。
「普請」は、言葉・表現の世界・全体の中の部分です。
それを「物質全体」から考えてたとは…
私は、思いも考えもしませんでしたよ。
非常なるビックリ!
現代風に言えば「ヤバい!その理解…」ですね。