「投球が止まって見える」とは?
ある有名な野球選手が、
「絶頂期には、バッターボックスでピッチャーのボールが止まって見えた」
と言っていた、と何かに書いてあったが…
認識と現実の絶対矛盾から考えるなら…
認識は、今のこの瞬間のボールの位置を同時に正確に認識できない…
なのに、そのバッターはボールを止めて見る事でホームランした。
これは、どういう事だろうか?
絶対矛盾=絶対に現実とは一致しない位置情報認識なのに…一致したとは?
ここに「弁証法認識能力」の実力が絡んでくる。
弁証法とは、変化・運動性の法則化である。
例えば、バッターがピッチャーの投球のスピード・コース・球質…の法則化・弁証法化が出来たなら、結果的に「そのボールの変化・運動」の予想が可能になり得る。
それは、今この瞬間の位置情報から、次の瞬間の正確な位置情報像を描きうる実力となりえる。
それこそが、南郷氏が哲学とは、学問の弁証法的駆使…という概念だろう。
個別科学の総括・統括である学問・一般科学問は、そのままでは、その瞬間の今の学問・一般科学にか過ぎない。
これは乾いたワカメであり、干からびたミイラ…といえよう。
そこで、「学問・一般科学」を「唯物弁証法認識論」を用いて駆使の状態にする事で、
今この瞬間の外界・情報で、瞬時に次の瞬間の予想像を描ける。
これは、現実界の乾いたワカメを、頭脳内の弁証法海につけて、生きたワカメ化して、その動きの予想が可能になり得る…と同様に。
ある有名な野球選手が、
「絶頂期には、バッターボックスでピッチャーのボールが止まって見えた」
と言っていた、と何かに書いてあったが…
認識と現実の絶対矛盾から考えるなら…
認識は、今のこの瞬間のボールの位置を同時に正確に認識できない…
なのに、そのバッターはボールを止めて見る事でホームランした。
これは、どういう事だろうか?
絶対矛盾=絶対に現実とは一致しない位置情報認識なのに…一致したとは?
ここに「弁証法認識能力」の実力が絡んでくる。
弁証法とは、変化・運動性の法則化である。
例えば、バッターがピッチャーの投球のスピード・コース・球質…の法則化・弁証法化が出来たなら、結果的に「そのボールの変化・運動」の予想が可能になり得る。
それは、今この瞬間の位置情報から、次の瞬間の正確な位置情報像を描きうる実力となりえる。
それこそが、南郷氏が哲学とは、学問の弁証法的駆使…という概念だろう。
個別科学の総括・統括である学問・一般科学問は、そのままでは、その瞬間の今の学問・一般科学にか過ぎない。
これは乾いたワカメであり、干からびたミイラ…といえよう。
そこで、「学問・一般科学」を「唯物弁証法認識論」を用いて駆使の状態にする事で、
今この瞬間の外界・情報で、瞬時に次の瞬間の予想像を描ける。
これは、現実界の乾いたワカメを、頭脳内の弁証法海につけて、生きたワカメ化して、その動きの予想が可能になり得る…と同様に。
それで、「ボールが止まって見えた」という話しに関わるんですが、早稲田大学の動体視力の研究で面白い話しがありました。それは動体視力の優れているアスリートと優れていない一般人の動体視力を調査したならば、目玉を動かさないで動くものを認知する能力はアスリートも一般人も大差ないということです。ですから、動くものを見慣れていて動体視力の優れたアスリートの高い能力は「対象を追って目玉を動かす能力」だということなんです。
川上哲治が「ボールが止まって見えた」のは、ボールを目で追いかける能力に優れていた可能性がありますね。
座ってばかりいて体を動かさない人が運動能力が低いのと同様に、座って本ばかり読んでるような人は目玉を動かしていないが故に動体視力が低いのでしょう。
自由びとさんも余り棘のある言葉はしないようにしていただけたなら有り難いです。
私は自由びとさんの「構造」という言葉の意味合いを探るべく自由びとさんが信奉している南郷学派の文章に思いを馳せたんです。
例えば瀬江千史さんの「常態論、病態論、治療論」という医学の三構造です。これを「構造」というわけは三角形を三つに区切ってそれぞれの部屋に常態、病態、治療を配置させるからで、建築物の構造と同様に「空間の配置」なんですね。
ですから、三角形の下側に常態があって左側に病態があり右側に治療があるとしたならば(そういう建物の構造・構成だとしたならば)患者さんの診察をして熱や脈拍が正常だとかの「事実」があったなら、それは三角形の下側に配置されるとか、MRIで撮影したら脳に腫瘍が見つかったとかの「事実」があったなら、それは三角形の左側に配置されるとか、治療のために放射線を当てたなら、それは三角形の右側に配置されるとかの「足幅の広い騎馬立ちは部屋の何処に置いたら良いか?」という「ソファはリビングへ、薔薇の花は応接間へ」みたいな部屋の整理みたいな話しなんだろうと思うんです。
これは唯物論的弁証法のマルクスだとかが「上部構造と下部構造(土台)」みたいな建築物のことを言って、「そのアダムスミスの話しは経済だから1階ね、そのビスマルクの話しは政治だから2階ね」みたいに整理して、重力の関係で2階は1階が無ければ成立しませんから、その建築物の1階と2階との関係で政治と経済との関係を語った、みたいな。
だから自由びとさんの言う「構造」というのは、「その事実(ソファ)は家のどの部屋に置きますか?」とか「どういう引き出しに整理しますか?」みたいな外枠の話しなんだろうと思うんです。
親切ついでに「そのものに成り切る」ということを具体的に言えば南郷さんの『武道への道』の永平寺の僧侶ですよ。
修行者に成り切れなくてテレビの出演者としての自分を意識してしまうからダメだと南郷さんが指摘していた「あれ」ですよ。
「成り切るの構造」って、構造という言葉をどういう意味で使っているのですかね?恐らくは既に指摘したように南郷さんの本に「現象論、構造論、本質論」という武谷三段階論の言葉や「論理構造」という言葉が書いてあったから意味も分からずに丸暗記したのでしょうけれど(嘆息)。
私が考えるに「構造」というのは家や人体の構造と同じく「どういう部分がどのように構成されて全体を作っているか?」ということですよ。ですから「家の構造」でしたら玄関があってリビングがあって寝室があって応接間があって、それがどういう理由でどんな位置関係になっているか❓というのが構造ですよ。
だから南郷さんの武道論なら技を作るという稽古の箇所と実際に試合うという勝負の箇所という二大構造に分かれていて、足幅を広くとった騎馬立ちや前屈立ちはその稽古の初期の段階に位置づけられる、という位置関係が構造だと思いますけどね。
「成り切る」というのは禅ですから所謂「平常心、不動心」で「打てなかったらどうしよう」だとか「ストレートに山をはっていてカーブだったらどうしよう」だとかの迷いも無く「無心」で来たボールを打つだけということですよ。それが練習だとか試合だとかの関係性に分けられるのが「構造」じゃないかと考えますけど「成り切るの構造」ってどういう意味?
私のように己れの実力で対象の中や他者の文言の中に深く深く分け入ることが出来る人間ならば、その分け入っていることが直ちに「構造」なんてところに結びつかないことは自明のことでしかないが、南郷さんの本から「現象、構造、本質」という言葉だけ暗記している阿呆は、なんらかの事実を相手が述べたと判断したら、そこから直ちに構造へ行くものだと錯覚しているのだ。
だから、何の必然性があって如何なる話へ展開するか?ということを地道に冷静に追っていくことが出来ずに「構造」などという陳腐な(自由びとが言うから陳腐になるのだ!)、この阿呆は「構造」という意味さえ解らないに違いない。
基本の基本が解っていないように私には感じますね。弁証法の基本の「対立物の統一」ということが。
酸素と水素の化合を持ち出してきましたか。酸素と水素とは確かに違う元素です。ですが「違う」ということが即ち「対立関係」ではありません。対立関係とは「反対の性格」をいうものですから、国家論でも武道論でも「違うもの」は即座に見つかるものですが、対立関係=反対の性格は専門分野を究明して行く過程で次第に発見されるものですから、酸素と水素という「違うもの(元素)」がくっついた(化合した)という事実(知見)がそのまま「対立物の統一」だと判断されるはずはないのです。
水分子を構成している酸素と水素とが「対立関係」だと理解されるには、両者が陽イオンと陰イオンであり、一方が電子を余剰に放出していて他方が電子を余剰に受け取っているという、同じ「電子」を基準とした反対方向のものだという理解に至ってようやく「対立物」だと判断できるものです。
ですが、その対立物、反対の性格を持つものがくっついた、結合したことが果たして「統一」なのか?です。
私のように酸素と水素とをイオンという段階まで進めて電子を中心として対立関係を明らかにするのではなく、自由びとさんのように「違うものは対立関係」という阿呆な理解では、王様が冠を被っていたら王様と冠とは違う別のものだから、その別々のものがくっついている、接触しているということで「王様と冠とは対立物の統一」だという阿呆きわまる結論に至るのでしょう。
ですが、人間の認識は歴史的なものですから、「対立物の統一」なる認識は物質の分子間結合で初めて問われたわけじゃないんです。ヘーゲルだって肉眼で見えない顕微鏡下での分子の結合など問題にはしていません。
ならば、そうした顕微鏡下での分子間結合を先人が社会関係において問うた論理と同一視して構わないか?が問われるでしょう。
反対方向の異質なものを「対立物の統一」として捉える視点は、三浦つとむにあっては「あれも、これも」の組織論として「クラスを分けて両立させる」なんてことになり、それが「弱者のための空手、強者は弱者のために上達が遅れるのを我慢して貰いたい」という「あれか?これか?」の発想から「一般会員と達人コースの区分け」という「クラスを分けて両立させる」という方向に変化していったのだと思いますけど、その歴史的に導いてくれた人文学的な「対立物の統一」の構成・内容を、踏襲することなく「対立物がくっつくこと、酸素と水素とが化合することは対立物の統一なのだ!」と言える単細胞が理解できない。
酸素イオンと水素イオンという陽イオンと陰イオンとが水分子という形で電荷的には中和することは、弁証法的には「止揚」という両者のイオン的性格は否定されながらも上の段階に至ったことだと理解できないか?
空虚な単語を羅列している自由びとさんに私が説いていることは理解できまいが、他の読者で心ある方に伝わってくれれば幸いです。
自由びとさんのいう「水に対立は無い」というのは、同じ組織に属したならば喧嘩・言い争いは無い、ぐらいの阿呆な中身のない文言なのだと私には理解できている。
>その意味ではマルクスの「歴史の土台は経済」だというのは的を射ていると考えられ、自由市場の競合他社に抜きん出て新聞の売り上げを伸ばした「活字の威力」「読んで面白い言葉の力」というものの中に「ボールが止まって見えた」という逸話を位置づけることが出来ると思います。
↑
どんなに事実を広く・多く求めて事実の性質は分かり得たとしても…
更に、その性質の変化・構造・過程を知るのは至難でしょうね…。
2023-03-08 06:47:26
>ただ、ねえ、私の知っている武道家で川上哲治の逸話を出して集中力を発揮するように説いていた人がいるんですけどね、
>生身の人間が他者との闘争でそんな激烈な集中力を発揮し続けたらどうなると思いますか?
>精神が高ぶって睡眠薬を飲んだりしないと眠れなくなったりするんですよ。
>だから「壊す」と「癒す」は表裏一体で、私は退役軍人のための認知処理療法の勉強もしておかなければならないんです。法則がどうのこうのの問題じゃありませんよ。
↑
有名なスポーツ選手の言葉に、
「練習は試合の如くに、試合は練習の如くに」がある。
この言葉を当て嵌めれば、雲海お宅の阿保さ加減が見えてくるでしょう。
↑この言葉も「対立物の統一」ですが…
この雲海お宅コメント記述は、
当人は「対立物の統一」だと確信しているようですが…
その単純すぎる構造論が、
とても参考・勉強になっていますね。
↑~
この雲海お宅って、
自分の間違いを正解と誤解して、児童に誤答を自信を持って教えている最悪・教師の現実・見本だね。
↑
「それだけに成り切った」とは、どのような構造か?
そこが問題なのです。
だから、私は思惟し続けるのです。
>昔、千葉県の病院に勉強に行ってたとき、千葉大で薄井先生の教えを受けた婦長さんから「科学的看護論は入院している患者さんなら兎も角、外来の患者さんには使えない」と聞いたんですね。
>薄井先生の「ヘンダーソンはどうして「患者さんの皮膚の下が透けて見える看護」なんて言ったのか?「患者さんの心の中が透けて見える看護」と言わなかったのか?」というお考えも、あれか?これか?の敵対的な関係でなく、どちらも必要だという非敵対的な関係ですよ。薄井先生にも神庭さんと同様に弁証法的な観点が欠けていたのだと思います。
>入院している患者さんの生い立ちからの繋がりが必要な看護的関わりもあるでしょうが、外来でその日その時だけの一期一会の関わりの看護もあるのだと思います。
>その多様な機能を持っている病院の現実が正に弁証法的なのであり、「生成、生々、衰退、消滅」の全過程が弁証法だという神庭さんの非弁証法的=形而上学的な考えは現実に一致しない臨床から離れた象牙の塔の発想で、あらためてビックリしましたよ(笑)
病気の過程の二重性、
一つ、初めに肉体が病んで、次に心・精神が病んでいった。
一つ、心・精神が病んで、そこから肉体が病んでいった。
肉体が病んでいる患者には、先ずは「患者さんの皮膚の下が透けて見える看護」から、でしょうし…
心・精神が病んでいる患者なら、先ずは「「患者さんの心の中が透けて見える看護」から、でしょう。
決して「弁証法的な観点が欠けていた…」のではないのでしょう。
必要なのは、「対立物の統一的な弁証法的観点」から、
その患者には何から始めるか?
その患者の治療にとって必要な事・情報は何か?を分かった上での実践でしょう。
もっとも…「皮膚の下」・「心の中」が透けて見えたとして…
そこに至った過程・要因・原因…まで見えない…ね。
その為の手段が「神庭氏の弁証法概念」ですね。
>その多様な機能を持っている病院の現実が正に弁証法的なのであり、「生成、生々、衰退、消滅」の全過程が弁証法だという神庭さんの非弁証法的=形而上学的な考えは現実に一致しない臨床から離れた象牙の塔の発想で、あらためてビックリしましたよ(笑)
「この雲海お宅は、神庭氏の「ビックリ(笑)」には、悲しいものがあります。
そもそも…「弁証法とは、弁証法性の法則化」です。
それは、現実の性質の法則化ではなく、「『現実の性質』の性質の法則化」なのです。
だから、「生成、生々、衰退、消滅」の全過程が弁証法」で間違いないのです。
そして、その現実性が生々・生成の過程性か、衰退の過程性か、発展の過程性か、消滅の過程性か…を的確に捉える必要があります。
これは、雲海お宅の弁証法概念と神庭氏の弁証法概念の相違ですね。
自分の確信している弁証法で、他人の弁証法を批判・否定するモノではありませんね。
もっとも…真の弁証法を理解できていれば、他人の弁証法のレベルが理解可能ですが…
より具体的には以下です。
「変化・運動は対立物の統一」の結果です。
目の前の水には、酸素と水素の対立はありません。
それでも、水を創り出す時には、酸素と水素を対立物として統一する必要があります。
また、水を「H2O」として考える時には、
「H2」と「O」は、対立物となります。
↑
私が思惟しているのは「運動しているボールが止まって見える」事の構造なのです。
現実に動いているボールを、認識内で止められている頭脳・認識の構造を思惟している、のです。
お宅のように、
能天気に「ボールを見て打っている」なんて、
言え切れる幸せ者とは違いますね。
その意味ではマルクスの「歴史の土台は経済」だというのは的を射ていると考えられ、自由市場の競合他社に抜きん出て新聞の売り上げを伸ばした「活字の威力」「読んで面白い言葉の力」というものの中に「ボールが止まって見えた」という逸話を位置づけることが出来ると思います。
生身の人間が他者との闘争でそんな激烈な集中力を発揮し続けたらどうなると思いますか?
精神が高ぶって睡眠薬を飲んだりしないと眠れなくなったりするんですよ。
だから「壊す」と「癒す」は表裏一体で、私は退役軍人のための認知処理療法の勉強もしておかなければならないんです。法則がどうのこうのの問題じゃありませんよ。
それよりも戦後の経済復興期にプロ野球というお金を取って試合を見せる興行で「打撃の神様」「赤バット」「弾丸ライナー」といった人を惹きつける言葉の数々に加えられるのが「ボールが止まって見える」という逸話だと思います。
この逸話は打撃練習を何時間も繰り返していたときのものだとされていますけど、人間はそんな何時間も集中し続けることは出来ませんし、私自身の経験でも空手の突きや蹴りの反復練習を続けていると体は動かしていても頭の中では別のことを考えてしまっていたりします。場合によっては打撃投手が打ちやすいように呼吸を合わせて投げてくれることを繰り返していたときに川上さんが見た幻想・幻影だった可能性もありますね。
さっきアマゾンで発注の手続きをしたところです。
自由びとさんは神庭さんの新刊があるということを教えてくれた以外に何らの有益な示唆も与えることは出来ずにいますが、コンニャク問答のように勉強している私の中では自由びとさんとは無関係に頭脳が独りで活動していってるんですね(笑)。
神庭さんの新刊は私にとって極めて重要だと思います。それは私のライフワークの〝一つ″である弁証法の理解を深めるための否定の否定として重要です。
それは南郷さんが『弁証法・認識論への道』で三浦の『弁証法はどういう科学か』を学んだ後で滝村の著書でそれを深めたと書いているが如くの重要性ですね。
ポイントは三浦の著書に書かれている「相対な独立、繋がっていないながらも繋がっている」という関係性の《専門分野における理解》でしょうね。
一体全体、何が問題なのか?という区別も判然としない未分化の段階から、その問題性がハッキリと区別・判別されてきた後の、「そーだったのか!」という驚駭でしょう。
薄井先生がヘンダーソンの「患者の皮膚の下が透けて見える看護」という観点に異を唱えて「患者の心の中が透けて見える看護」を訴えたところには、現代の現象学的看護論で「Disease疾患」と「Illness苦痛」とを区別するように、対応するところの違いを直感していたのだと思います。
その「心の問題」が、体の痛みとして感じられるところまで進行してしまったのが現代でいう「心因性疼痛」ということで、それは元々が心の痛みであって体の痛みではないとハッキリと区別されたものであったものが、心の痛みが体の痛みとして感じられてしまうという「相対的な独立」つまりは繋がっていなかったものが繋がってしまったという弁証法的な問題で、
その「心の問題・痛み」は体の生理学的な問題のような万人共通の普遍性・再現性がなく、何を苦痛に感じるかはその人その人の個人的な経験の過程の中にあって、それは精神医学の医師や心理カウンセラーのように患者(クライエント)が悩みを持ちかけて来て自分の過去を語るような場合でもなければ知り得る機会は無いのだと認知行動療法の研究をしている理学療法士の先生から私は教えられたように思います。
私には自由びとさんの正体が全く想像できないでいますが、言ってることが事実なら同じ時期に青空塾にいて自由びとさんはその流儀においては先輩だったわけです。
「ボールが止まって見えた」という川上哲治さんについて色々と情報を集めていますが、「禅」との関わりの強さが印象的ですね。
本には現役引退して監督になるまでの間に禅を学び出したとありますが、もしも想像的な仮説が許されるなら、現役時代から禅に関わりがあったのだ!と。
禅には「三昧」だとか「止観」だとかの叡智が伝えられていますが、三昧とは一つのことに打ち込むことで余計な?雑念が消えて集中力が高まることとされており、止観とは余計な雑念が消えて物事を有りのままに見えることだとされています。
それを川上哲治のバッティングに当てはめるならば、ボールが止まって見えた=禅の止観=カーブかフォークか、内角か外角かなどといった余計な?先入観・推測を無くして単に来た球を打つ、それだけに成り切った、ということになるかも知れませんね。
スマホが勝手に削除してしまったようで(汗)。
昔、千葉県の病院に勉強に行ってたとき、千葉大で薄井先生の教えを受けた婦長さんから「科学的看護論は入院している患者さんなら兎も角、外来の患者さんには使えない」と聞いたんですね。
薄井先生の「ヘンダーソンはどうして「患者さんの皮膚の下が透けて見える看護」なんて言ったのか?「患者さんの心の中が透けて見える看護」と言わなかったのか?」というお考えも、あれか?これか?の敵対的な関係でなく、どちらも必要だという非敵対的な関係ですよ。薄井先生にも神庭さんと同様に弁証法的な観点が欠けていたのだと思います。
入院している患者さんの生い立ちからの繋がりが必要な看護的関わりもあるでしょうが、外来でその日その時だけの一期一会の関わりの看護もあるのだと思います。
その多様な機能を持っている病院の現実が正に弁証法的なのであり、「生成、生々、衰退、消滅」の全過程が弁証法だという神庭さんの非弁証法的=形而上学的な考えは現実に一致しない臨床から離れた象牙の塔の発想で、あらためてビックリしましたよ(笑)
それも素晴らしい三浦つとむの『弁証法はどういう科学か』の「対立物の統一された「対立物の両立」という非敵対的な現実が真理」だという考えを否定する持論ではありますね。
南郷さんも『城学』の最新号で「三浦弁証法は、もう関係ない」みたいなことを書いていましたけど、「恩師、恩師」と呼んでいて「恩師の役に立つように論文を書く」と説いていた過去との矛盾は気になるところではありますね。
それは玄◯会という自分が頂点の組織において、組織を統括=総括する必然性から組織外部の三浦を切り捨てたと判断されますね。
私は南郷さんの玄◯会や論理学研究会の会員ではありませんから、お宅との関係は「組織内部の上意下達=統括」ではなく、国家間の外交のように「統括されない流動的な話し合い」なのだと認識していますが、
お宅=自由びとの正体が京都の寄筆さんだとしたならば、臨床心理士である彼は「スーパーヴィジョン」という後進を育てる活動もしているようなんですね。
スーパーバイザーがスーパーバイジーに心理臨床の事例に則して如何なる考え方をするべきか、如何なる指導をするべきかを教え育むらしいのですが、私が今、生活のためにアルバイトをしている職場にも「スーパーバイザー」という職務はあります。
それは京都の寄筆さんがやっている心理臨床のスーパーバイザーとは異なり、初心者・初学者に
道を導くといった意味合いは無く、
その経験的な理解から、自由びとさんが2ちゃんねるで自信満々にリンクを貼った「専門分野を無視・等閑視した一般言語としての「達人=熟達」という国語辞典の意味合いから肉付けしていこうというやり方の駄目さ加減が認識されたということでもあります。
自由びとさんとは全く無関係に頭脳活動が働いている私にとって、今回は「相対的な独立」という関係性が非常に流動的であることを具体的な事例から悟ることが出来たので有益でした。
「ボールが止まって見えた」という川上哲治のエピソードも調べてみたならば「練習のときのバッティングピッチャーのボールに対して」だったという事実が分かり、必死に打者を打ち取ろうとしている投手の球でなく
打者の調子を良くするために呼吸やテンポを合わせて投げてくれる打撃投手の球だという「区別」があったわけです。
川上哲治の現役時代の打率を見てみると毎年毎年3割打者で、7割は打ち取られているんです。「何時でも何処でも球が止まって見えた」わけではなく、練習のときにそう感じた瞬間があったというわけです。
でも、まあ自由びとさんが言いたいことは川上哲治の打撃のことではないのかも知れませんね。私は一流の打者は「予測=ヤマを張って打っている」のではなく、「ボールを見て打っている」と考えています。
>雲海
>・コメント
私が気ままに綴っている文章を自由びとさんが公開してくれ
るかは分かりませんけど、今のところ「ここ」にしか外化・文字化できない事柄と、別の場所で論文化すべき事柄とがあって、南郷弁証法に纏わる事柄は「ここ」に書くのが相応しいと思えるんですね。
>ただ、まあ、齋藤孝さんの本に『余計な一言、その失言が人生を終わらせる』というのがあるように、私と自由びとさんの関係が終わってしまう可能性もありますが(汗)。
>私は神庭さんが書いているように「運動を扱うのが弁証法」だとは考えていないんです。
私が考える弁証法の核心というのは「運動」ではなく「対立物の統一」という哲学的な視座にあります。それは滝村隆一が書いている「対立両項の把握」というのと同じことで、その視座からするならば「上」といったら「下」だとか、「右」といったら「左」というように必ず対立両項で認識するということです。
>このことは南郷さんの高弟の東京大学関係者が紹介していた論文読解の本に「人間の認識の本質」だと説かれていた、正にその意味で必須のものだと考えています。
>ですから、「弁証法的」だというのは、神庭さんのような「運動が弁証法的で、出生から死亡までの生成・生々・衰退・消滅の全過程で捉える」というのは私にとっては無前提に弁証法的ではなく、「生の全過程と一瞬とを対立物の統一として把握して、真理として成立する条件内で利用する」という、三浦つとむの弁証法的体系から言うならば「こう考えるのが正しい」という認識論ということになります。
>そのことが弁証法の核心の一つだといって過言でもない「相対的独立、繋がりながらも繋がっていない、繋がっていないけれども繋がっている、の中の《独立性》」換言すると「《区別と連関》の《区別》」の重要性であり、「個別科学」の個別性の適切な捉え方だと考えます。
>専門科学の専門知識を学んでいく必然性は、弁証法的体系性からいうならば「相対的な《独立性》」を把握するためであり、自由びとさんが以前いっていたような「専門知識は不要」だとすると、神庭さんのような「相対的な独立」ならぬ「絶対的な連続」として理解しかねないと私には感じられますね。
↑
現実の運動は、「対立物の統一」の結果です。
だから、現実の運動を見た時、その対立物はもうありません。
南郷氏も、変化・運動の構造が「対立物の統一」と、書いています。
弁証法は、眼前の変化・運動の結果である現実・事実から、自然の対立物、社会の対立物、精神の対立物…を見て取る事。
ここのもう存在しない対立物を見て取り言語化するためのモノが「専門知識」なのです。
「群盲象を撫でる」の群盲に「象」が分からなかった理由は、
象の全体像を知る盲人がいなかった。
個々の象の一部象を全体的に総括・統括可能な盲人・能力がなかった。
未来の現実は、若者でない我々のような老人には、未知の世界なのです。
若者なら、若さ・認識の柔軟性で、現実の個々の情報からアバウト的な正しい未来予想を描く事は可能です。
でも…老人には、年相応の先入観・思い込み…から、
正しい未知の未来像の正しい予想を難しいのです。
だから、老人に必要なのは、ヘーゲル的な「絶対精神の運動」…
そして、「いのちの歴史の物語」の論理的理解・把握…だと私は確信しています。
何度も書きますが…自由びとは、「専門知識は不要」だとは思っていないし…書いてもいません。
敢えて書くなら、自己の専門外の「専門的知識の正しい理解は至難」ですかね。
例えば、発達障害についての専門用語の理解ですが…
初めて「発達障害児」と関わった時のその理解と、
それから数年間わった時点での理解は大きく異なっています。
仮に今のような発達障害児との専門的な関りがなかったなら、
発達障害の専門用語の理解は、自己満足レベルだったでしようね。
お宅のように専門用語・知識を多く持っていると…
それらを区別と連関で、統括・総括=己の精神の弁証法・絶対精神的運動化は、至難でしょうね…
雲海お宅のコメントの節々に、お宅の専門的知識への自己満足が現れていますね♪♪♪
>雲海
>・コメント
>川上哲治のバッティングに限っていえば、「ボールが止まって見えた」というのは周辺視でなく中心視で物凄く集中してボールを見ていた可能性があると思いますね。
>ですが空手だとかのように突きがくるのか蹴りがくるのか左なのか右なのかも分からぬものに一点集中で凝視するのは得策ではありませんから周辺視になるように思いますね。
>弁証法を対象の究明に使えるようになってみると「法則」だとは言い難いと私には感じられます。
↑
ヤッパリ…私とは違うな!
人間の認識・像は、現実より遅れて反映される。
ボールが止まって見えるには、頭脳にそのボールが認識・像化された瞬間、
その運動線上にあるだろうボール像が描けているから、
そして、その像が現実のボールと一致したから、「ボールが止まって見える」なのに…
達人は、相手の目の変化、身体の微妙な変化…から、次の動きが予想可能でしょうね…。
それは、多くの実践・勝負…から体得した法則・認識・能力でしょうね…
弁証法の三法則は、弁証法そのモノではなく、弁証法を法則として捉えたモノです。
本来の弁証法は、
観念論・ヘーゲル的に書けば、「絶対精神の自己運動」。
唯物論的には、世界誕生が現代までの自然・社会・精神の進化・発展・全ての一体的な法則化…ですね。
>・コメント
>おそらく、それは違うでしょうね。
>「動いているボールの法則」ではなく「動いているモノを捉える人間の能力」でしょうね。
ですからそれは「物理学」の問題ではなく「スポーツ医科学」ないしは「身体科学」の問題だと思いますよ。
>早稲田大学のスポーツ科学部だとかでやられている動体視力の研究だとかの話しでしょう。
↑
分かっていないね!
法則と人間の能力の区別と連関が…。
法則は対象にあり、能力は人間にある事。
人間の能力に関係なく、法則は存在している。
もつもと…お宅のような論理能力のない人間には、法則はない目見て取れない…のですが…
ピーチャーの投げるボールには、その投手の意志(球種・スピード・コース)が込められている。
また、その投球フォームには、その投手の癖があり得る。
空から落ちてくる石には自然の法則。
バッターボックスに飛んでくるボールには、投手の意志と自然の法則に則ったモノがあり得る。
そして、その法則を見て取るのが、その人の能力。
難しいのは、まぐれ?or実力?の見分けかな…
るかは分かりませんけど、今のところ「ここ」にしか外化・文字化できない事柄と、別の場所で論文化すべき事柄とがあって、南郷弁証法に纏わる事柄は「ここ」に書くのが相応しいと思えるんですね。
ただ、まあ、齋藤孝さんの本に『余計な一言、その失言が人生を終わらせる』というのがあるように、私と自由びとさんの関係が終わってしまう可能性もありますが(汗)。
私は神庭さんが書いているように「運動を扱うのが弁証法」だとは考えていないんです。
私が考える弁証法の核心というのは「運動」ではなく「対立物の統一」という哲学的な視座にあります。それは滝村隆一が書いている「対立両項の把握」というのと同じことで、その視座からするならば「上」といったら「下」だとか、「右」といったら「左」というように必ず対立両項で認識するということです。
このことは南郷さんの高弟の東京大学関係者が紹介していた論文読解の本に「人間の認識の本質」だと説かれていた、正にその意味で必須のものだと考えています。
ですから、「弁証法的」だというのは、神庭さんのような「運動が弁証法的で、出生から死亡までの生成・生々・衰退・消滅の全過程で捉える」というのは私にとっては無前提に弁証法的ではなく、「生の全過程と一瞬とを対立物の統一として把握して、真理として成立する条件内で利用する」という、三浦つとむの弁証法的体系から言うならば「こう考えるのが正しい」という認識論ということになります。
そのことが弁証法の核心の一つだといって過言でもない「相対的独立、繋がりながらも繋がっていない、繋がっていないけれども繋がっている、の中の《独立性》」換言すると「《区別と連関》の《区別》」の重要性であり、「個別科学」の個別性の適切な捉え方だと考えます。
専門科学の専門知識を学んでいく必然性は、弁証法的体系性からいうならば「相対的な《独立性》」を把握するためであり、自由びとさんが以前いっていたような「専門知識は不要」だとすると、神庭さんのような「相対的な独立」ならぬ「絶対的な連続」として理解しかねないと私には感じられますね。
ハッキリ言うと弁証法を説きながら弁証法を否定しているようなものです。
非常に興味を持ちました。単行本を買って読んでみます。
これは自由びとさんが紹介していた単行本の元になった連載ですね。私は『城学』が届けられると南郷さんと悠季真理の文章だけ読んで、あとは気分次第でしたから神庭さんの文章は今まで読んでなかったんですね。
いや、興味深く拝読しました。単行本を買って読む気が湧いてきましたね(笑)
ですが空手だとかのように突きがくるのか蹴りがくるのか左なのか右なのかも分からぬものに一点集中で凝視するのは得策ではありませんから周辺視になるように思いますね。
弁証法を対象の究明に使えるようになってみると「法則」だとは言い難いと私には感じられます。
「動いているボールの法則」ではなく「動いているモノを捉える人間の能力」でしょうね。
ですからそれは「物理学」の問題ではなく「スポーツ医科学」ないしは「身体科学」の問題だと思いますよ。
早稲田大学のスポーツ科学部だとかでやられている動体視力の研究だとかの話しでしょう。
全体的を一つの法則として捉えたモノ。
対象の法則化がなされれば、その法則に則って、その対象の変化・運動の予測が可能になり得る。
優秀な打者が、その投手の投球の法則化をなし得た時~
それに則って、投げられた球を認識した時、
その予測・認識像と現実のボールの運動・変化が、打者の認識内で合致した時、ボールは打者にとっては「止まって見える・認識可能」なのだろう。
これは真面目に読んでいただきたいのですが、仮にも自由びとさんは他人の指導者・教育者のお立場ですから他人が主体性をもってシッカリとした自分の考えを持てるようになることを大切にしなければならないと思います。
私には自由びとさんが私(他人)を自分の意のままに操りたいと欲しているとしか思えませんが、それでも自由びとさんは大切なキーワードを書いたと思います。
それは「共感」ということですが、「共感」という言葉は「共」と「感」という二つの漢字から出来ています。
この「感」を私は「感じる」とか「感覚」と思ってみたのですが、自由びとさんが述べたのが事実なら私と自由びとさんは「共感」できる過去を持っているはずなんです。
それは玄◯会の本部道場で稽古していたという事実で、まず持って共感とは「同じものを見ている」ことが必要で、道場の入り口はどうで、道場の間取りがどうだったとか、南郷師範の講義はどこで行われていたとかの「あー、そうそう!」と同感できる情像です。
感性に対立するものは理性だともされていますが、共感とは決して「共理」ではないと私は考えるのですけれどね。
例えば『学城』の表紙の構成に名前が記載されている高橋剛という名前を見ると私などは昔、飛翔隊ジュニアにいて上手いサバキを見せていた高橋剛を想起したりするのですが、自由びとさんは実は青空塾にいなかったのでは?と私には感じられますね。
いわゆる心理学のリフレーミングというやつで、「運動=弁証法=良い、静止=個別科学=悪い」みたいな南郷さんの記述から枠組みを変えて「静止=ホームラン、大成功」みたいな方向にしているのだ、と。
ますます自由びとさんの正体が京都の寄筆さんだと思えてきました。
ですが、この「運動を止める」というのは最近の『城学』で南郷さんだか悠季真理だかが問題にしていたものでもありますから、寄筆さんだとも断定できない微妙さもありますね。
まあ、ここで言ってるのは川上哲治のバッティングを直接に問題にしたいのではなく、エンゲルスの『反デューリング論』の流れで「専門科学は静止だ」→転じて専門家・専門科学の知見を持つことがホームラン=大成功なのだと言いたいようにも受け取れますね。
そうすると「ヘーゲル→マルクス、エンゲルス」の流れではなく、近代哲学ないし近代科学の祖ともいえるデカルトやスピノザを評価する流れになりそうですが、そうすると寄筆さんの今までの主張とは相当に食い違う(笑)。