~弁証法性と弁証法~
「弁証法性とは、事物・事象に変化・運動性」。
「弁証法とは、弁証法性の法則化したモノ」。
弁証法性は、どこにあるか?
それは事物・事象の変化・運動的な現象形態の中に!
弁証法は、どこにあるか?
それは、対象の弁証法性を法則化できた人物の認識の中に!
他の動物と違って、100%本能的ではない人類は、
その生活の過程で、その人的な弁証法を体得・修得して生きている?!
大自然の中で生活している人類は、自然の弁証法性から、その人レベルの自然の弁証法を~
人工的な都会の中で生活している者は、半自然・半人工的な弁証法を~
集団で生活してきた人類は、時々の社会から、社会の弁証法を~
集団で多くの人々のとの関わり合いの中で、精神の弁証法を~
なんて~書いていると、
分かっているようで、分かっていない弁証法だろう。
自然・社会・精神が持ち得ているのは、
自然の弁証法性・社会の弁証法性・精神の弁証法性~
それらを法則化し得た人の頭脳の中に弁証法が存在している。
言うなれば、「弁証法=(人類の)認識・頭脳活動の実態」と言えよう~
南郷氏の著作は、彼の中の森羅万象・万物のレベルの弁証法性の法則に即した認識・頭脳活動の言語化をしているのだろう…
そんな著作に刺激されて、私も自由びと的な弁証法を修得・体得し得ている?ようだ!
自由びとは、ここで、何をしたいのか?何を書きたいのか?
それは、自己の頭脳内の「弁証法像」の文字化・言語表現化!
その言語表現の為に、
南郷氏の駆使している言語を使う事は、言うなれば南郷氏技・言語・認識の盗用と言えよう。
もっとも…弟子が師範の技を盗み・盗用するのは…大きな問題とは言えないが…
それでも、その技・弁証法の修得・体得の為の盗用ならギリセーフだろうが…
しかし、その技を盗用して出した結果を己の実力・成果として誇示してしまうなら、それはそれで問題であろう。
そこで…弁証法性を「人類の柔軟性」例えて書いてみよう。
赤子・幼児・子供…成長期の真っ只中の人間は、「弁証法性豊か」・「豊かな弁証法性」と言えよう。
この「弁証法性」とは、本能的な成長過程での「全身の柔軟性」のもたらすモノである。
でも…成長期が終了して成人・大人になり得た人間には、そのような「自然・本能的な柔軟性」はもうない!
それでも、人によっては、赤子レベルの局所・局部的な柔軟性の維持はあり得る。
では、…その人物のそのような「柔軟性」は、どのように体得・修得したモノだろう…
それは、訓練・練習…目的的・意図的・意識的な訓練・練習の結果であろう。
または、その人物の生後の環境・生活過程での自然成長的なモノかも知れない…
それは、自然成長的なカン・コツ的な、狭い環境内での事物・事象の弁証法性の法則化…?
その自然成長的であるという事は、当人にとって、
それは「法則(弁証法)」意識ではなく、ただの生活・行動様式に過ぎないモノなのだろう?
さてさて…上記のよう途中「16時14分」から、愛柴犬マロンの散歩(庭でキャンキャン…)
帰宅して今「17時32分」書き始めている~
散歩中も私の弁証法認識を見つめ続けていて…以下のような事に気付いた~
自然の弁証法と言われている「いのちの歴史の物語」について…
始まりは、真ビックバンによる「前宇宙の崩壊・消滅」即「現宇宙の生々生成」一つの現象の両面。
そこから…太陽系(星々)誕生⇒地球の誕生⇒地球の分裂・月の誕生⇒……生命現象の発生⇒…
地球上の始まりは、生命現象・可逆的な変化…だけだったのに…
その一つから、今のような地球へ~何を書きたいのか…
それは、一つの現象には多角的な面がある。
あるモノコトの消滅は、同時に他のモノコトの生々だったり、同時の他のモノコトの発展、同時に他のモノコトの衰退…
部分の消滅は、その全体にとって発展だったり、
部分の発展は、全体の衰退だったり、
全体の衰退は部分の発展だったり、
全体の発展は、部分の消滅だったり、
一つの「事実・変化・運動」の持ち得る意味には、多面・多角的意味合いがある。
弁証法は個々の法則の体系化~
~未完~!と思ったが以下の事を書き忘れて…
つしでに書いておくことにした!
私の今のモヤモヤについて…私の妄想レベルで書くなら~
今まで過去の私の認識・頭脳活動の運動性に変化が生じて…
結果的に今まで記憶している過去の認識像と現在の認識像の間に微妙にズレを感覚している…
その、微妙なズレ感覚が、このモヤモヤなのかも…しれない…
そう思う理由の一つに、最近、学校での児童との「関わり合い」の中で…
自分が自分でビックリするような「的確な発言」を児童にしてしまっている事に気付いた。
これは、授業中の学習指導ではなく、休み時間のチョットした児童との会話の中での話…
「え!俺って…こんな事を思っていたの?」
「へ~俺って…こんな事を言えるんだ!」
そんな感じである。
まあ~これは、新一年生と四年間も関わり続けての私の認識変化であろうか…
私のジジイ的な認識が、幼い一年生的な認識に弄られて…
より正確には、私は、私の認識を、私の感覚した一年生的な認識で四年間弄り続けた結果…
ジジイ認識中に、ガキ認識が芽生えた…のだろう~