新・悟りを求めて~

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体罰、暴力、いじめ…に想う~

2023-06-24 15:39:30 | 旧・「悟りを求めて…」ブログ記事
2013年02月03日
体罰、暴力、いじめ…に想う~


2月3日付け「朝日新聞」に以下の記事が載っていた。

……引用開始……

―(前略)-

市教委によると、1日午後の数学の授業に男子生徒らが遅れてきたため、教諭が「早く入れ」と促したが、複数の男子生徒が「うるせい」「ぱか」などと言い、笑い声も起きた。

 教諭は発言した生徒を問いただしたが名乗り出ないため、遅れてきた男子生徒16人全員を廊下に正座させた。再度、ただしたが名乗り出る生徒はなく、教諭は「卑怯じゃないか」と、16人全員を平手打ちしたという。

……引用終了……

上記の記事であるが…私自身の経験から、この教諭の考え、思いを想像してみた。

先ず、この生徒らが遅れて来た時の様子であるが…多分、生徒らは時間に遅れたにも関わらず『遅れてすみません』的表情も無く、たらたらと入って来たのだろう。

もし、生徒らが小走りに遅れない努力ある姿で教室に入って来たのであれば、この教諭の「早く入れ」の声も響きが穏やかで、男子生徒の「うるせい」「ばか」の反応も無かったのだろう。

 ここで、この教諭には「生徒は教師が来る前に教室に戻り待つべし」的考えが強くあったのだろう。それも「はげ」と言われている事から、年配の教諭だったらしいので、この考え=生徒の時間厳守は、絶対的なものだったのだろう

 次に教諭の「卑怯じゃないか」の発言から、彼は『自分の言動には責任を持て』的考えが強くあったのだろう。男子生徒が自分から名乗れないような発言そのものが、この教諭にとっては言語道断だったのだろう。

 以上のような、生徒らの、遅れたのに反省が無く、その注意に対して「うるせい」「ばか」と発言し、その発言を認める事もできない根性の無さに、この教諭は情けないものを感じて、思わず16連発の平手打ちと相成ったのだろう~

 彼の気持ち思い想いが、これに近いものであったなら…私にはとても共感できる。しかし…それでも平手16連発は、この生徒らにとって適切な指導だったか!?といえば、疑問であろう~

 生徒らが「うるせい」「ばか」と発言できてしまう事から、この教諭は生徒らにとって怖い存在ではなかった、と考えられる。

この教諭が日頃からこのような平手打ち的指導を頻繁に行っての上での「怖く無い」存在であれば、この平手打ちは教諭の自己満足的感情発散に終わってしまい、教育的効果は期待出来がたいものだろう。

しかし、常日頃から体罰的指導は皆無で、言葉かけ、理屈的指導に徹していた結果の「怖く無い」「煩い」的存在であり、その教諭が思いあまって平手打ちであるのなら、この教育的効果も期待できるのだろう~

 そう、ある行為が体罰として問題視されてしまうのは、その行為が児童・生徒にとって教育的体罰的指導とは映らずに、結果的に彼らにとってのその行為は、ただ単に教師によって身体に加えられた教師自身の自己満足的行為と思える、からなのだろう。

 教師、指導者であるからこそ「一般的に体罰容認」なんて呟いていないで、「体罰厳禁」の立場から、自己の指導過程を反省して、教師、指導者としての児童・生徒、被指導者との関係という大きな流れにおいての、その個々の児童・生徒、被指導者との個別的関係の流れで、自分のベストと思える指導を行うしかないのだろう~

 体罰、暴力、いじめ…と言われてしまうのは、それが体罰、暴力、いじめだから問題なのでは無く、その行為が体罰、暴力、いじめ…と思われてしまうその指導者の指導が問題なのであろう~

 また、児童・生徒、被指導者ならば「体罰禁止」等と叫んでいないで、体罰、暴力、いじめ…と、そこまでの行為を指導者にやらせてしまう被指導者自身の言動こそ反省すべきであろう~

 互いに相手の立場に立っての思考こそが必要であろう~に…

今の世の中、自己の立場だけからの自己主張、自己の正当化ばかり…

日本文化の優れた遺産たる「阿吽の呼吸」は、今~何処…






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