常識について、例解新国語辞典[第二版]には以下のように書かれている。
「常識」とは、普通の社会人なら、誰でも持っている筈の知識や考え方。
「常識がない」・「常識に欠ける」というのは、
知識が少ない事をいうよりも、人との付き合い方や世間の習慣を知らない事をいう。また「常識がないために、人に迷惑をかけても気付かない事を「非常識」という。しかし、「常識的」というと、「平凡であまり面白くない」という意味になる。
例えば、以下のような問題である。
A-「1たす1は幾つ?」聞かれて
B-「それは2!」と答えたら、
A-「どうして?」と聞かれて、
B-「それは常識!」と答えたとしよう。
この「常識!」という言葉は正しいだろうか?
Aが大人なら一桁の数の計算は「誰でも持っている筈の知識」であるから正しい
しかし、Aが「数と数の計算を知らない」幼児なら間違い。
また、大人同士でも、その理由を聞かれて時に「常識!」と答えたなら、
それは、「人との付き合い方や世間の習慣を知らない事」だから「非常識」となろう。
そもそも…
普通の大人に、どうして「1+1=2」になるか?説明不能であろう。
「算数とは数の論理」である。
論理には、「始まり・過程・結果」がある。
「1+1=2」は計算結果。
そこに考え方・過程は現れていない。
因みに、数の始まりは「1」である。
その後、「0」の発見があった…そうである。
これは数字の知識とての常識。
普通の大人にとって計算結果は必要であり「知識としての常識」でも、
その過程の論理は、特に不要であるから常識化していない。
この場合の「常識!」と答えた大人には、そこに至る考え方が「考え方の常識」になっていない。
弁証法の結果は知っていても、弁証法の過程は知らない。
知識として弁証法は知っていても、論理として弁証法を使えない。
更に、算数の計算としてなら「1+1=2」は「常識」。
しかし、現実の問題解決の場合は、「1+1=2、とは限らない」という考え方は常識。
例えば、リンゴ一つとミカン一つ合わせて何グラム?
このような問いでは、算数計算では答えは出ない…という事は「常識」。
「1+1=2」は常識である。それは、算数の世界の常識である。
現実の世界での常識は、「物事を的確に数に変換してからの1+1=2」
算数の世界で、「1+1=2」が常識である為には、
数が「1」から始まり、「1」増えるごとに、2、3、4、5…9という知識、9に1増えると「10」になる「数の常識」が必要。
この場合に「何故か?」と聞かれたら、「算数ではそう決めた」が正解。
それでも…絵が数に、数が数字になるまでの歴史があるが…これは常識化していない。
そして、現実界から算数の世界へ入る前には、以下のような考え方の「常識」がある。
この場合の「1」と何か?「1つ」、「1人」、「1台」、「1キロ」…を決める必要がある。
更に「1+1=2」は常識であっても、「1個」+「1人」は、「2個」でも「2人」でない事も常識。
さてさて「常識の二重性」について考えるには「普請」ではなく、
「1+1=2」から始めたら上記のようになってしまった。
これって、常識の二重性「考え方と知識」の区別と連関(常識的考え方)であり、
この「区別と連関」という考え方は、弁証法の世界の知識・常識でもある。
それは、現実世界の物事を算数世界の「数」への変換過程の考え方(「1」の決定)。
量に基づいての数字の変化1から9、そして9から10…
(1文字表記から2文字表記への量質転化)…