新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

今日から 俺は 自由継正びと

2023-04-06 07:00:21 | ♬~我が悟りへの道程~♬
今日から 俺は 自由継正びと



始まりは、tadaさんの
「南郷弁証法≠弁証法」からである。
「自由びとには、南郷弁証法は至難」
といった以下の言説から

南郷学の墓標 壮大な失敗の体系

https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R3MQ7BL4PIOKYD/ref=cm_cr_arp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4874741827

2018年4月23日に日本でレビュー済み
 哲学・論理学原論新世紀編は 416ページ 4800円の大著であり 1932年生まれの86歳 南郷継正による哲学・論理学・弁証法・認識論の集大成である。そうであれば どのような批判をしても もはや言い逃れはできない。これはまたとない機会なので 長年にわたる 見当外れな滝村隆一批判に対してのお礼も含め 書評する。

 残念ながら 南郷継正は 弁証法がわからなかったというスキャンダラスなことを言わなくてはならない。南郷継正は 弁証法を自然・社会・精神の一般的な運動性に関する学問であるという。弁証法は論理学であることに気付かなかったのである。論理学・認識論・哲学・科学の順に「弁証法の抽象度」が変わっていくことに気付くことがなかった。ヘーゲルの大論理学の概念レベルから具体性レベルの個別科学、個別対象に対応するそれぞれの方法論においてまで 抽象化することで弁証法の論理的骨格で表わすことができることがわからなかったのである。例えば 科学的方法論、トヨタをはじめとする会社でのカイゼンやPACDといった手法をその論理構造でみると 問題の発生を端緒に 仮定ー実証実験ー解決・一般化のサイクルがある。そのサイクルの論理性を高度に抽象化すると普遍性ー特殊性ー個別性の概念弁証法を持っていることになる。弁証法という言葉を使わなくても 弁証法的思考つまり科学的思考をしている人は普通にいる。学的世界は自分たち南郷学派にしか構築できないと 彼らが弁証法を独占しているワケではないのだ。抽象化すれば 立派な弁証法があらわれるのである。お得意の森羅万象・世界認識についての弁証法とはどうか?普遍性ー特殊性ー個別性の抽象度を下げていくだけで 世界を過去ー現在ー未来の時間の流れでみることができる。もっと抽象度を下げると 自然ー社会ー精神の変化としてもみれる。これは一般的な歴史書レベルである。宇宙論・進化論・ホモサピエンス論など一般向けの教養書や一冊本の大項目式百科事典で良い本が何冊も出版されている。ここから歴史社会に対して具体化していけば 唯物史観が現れる。経済ー政治ー文化の三項の規定。ただ 注意したいのは 具体的レベルで世界認識をすることは 特殊性が増加することで 認識がむずかしくなっていくことである。滝村隆一社会構成理論・世界史の方法は ヘーゲル・マルクスの発想・方法論を実践的に 歴史社会に対して検証した末に手にいれたものであり 弁証法を打ち出の小槌のようにして 簡単に手にいれたものではない。南郷継正は滝村隆一が弁証法を捨てたと批判したが この社会構成理論・唯物史観に弁証法の論理的骨格があることがわからなかったのだ。対象世界に対してどのようなアプローチをとるか どのような方法論をとるかで 学的認識の抽象レベルが変わるのである。弁証法という特別な方法論があるのではなく 対象に対するそれぞれの方法論が論理性=弁証法性をもつだけのことである。これが弁証法の正体である。
 
 南郷弁証法は自然・社会・精神の一般的な運動性に関する学問つまり生命史観と対象を構造レベルで捉え返すための三法則の弁証法である。これは滝村国家論で言えば 社会構成理論と世界史の方法に対応している。南郷継正は世界史の方法に対して 世界史を古典古代・アジア・中世・近代と対象を区分することを批判している。区分することは南郷弁証法の運動性の連関を断ち切るからだ。しかし南郷「武道論」の方法論には「世界史の方法」と同じ構造がある。南郷自身はそれがなんであるか、わかっているのだろうか?区分したあと その特殊性を一般原理レベル(普遍性)、この場合は国家論一般論によって体系的に把握する概念弁証法について理解できないのだろうか?そうであれば 南郷理論は機能主義に陥っている。社会構成理論に対しての 生命史観はどうか?社会構成理論が歴史社会を統一的に説明することで 政治・経済・思想イデオロギーにおいて対象の規定性を与える。生命史観の「社会」の部分では 歴史社会を自然・国家(社会)・文化で統一的に説明すると述べている。社会構成理論での「社会」は自然を反映した社会。わかりやすく言えば経済として自然を取り込んでいるので ほとんど同じことを言っているとしてもよいだろう。しかし 先ほど指摘したように世界史の方法において 対象の構造を分析することにおいて 大きな違いが生まれる。特に指摘したいのはその思想性とイデオロギーの強さである。それは生命史観の自然―社会―精神がモノー生物―ヒトー人間―学問と認識の変化を本質にするからである。その認識重視の本質が強い思想性とイデオロギー性の規定性として 曲がりなりにも発展してきた歴史学を軽視し独善的に陥るものを持っている。(武道哲学講義第二巻P87、P88参照。一般論に刈り込まれた凡庸な南郷歴史観が読める。武技の体系化が武技の平均化と質的低下まねいた植芝合気道のようである。)
 
 それでは南郷認識論はどうなっているのか?認識を原基形態から説くと 認識は像であるという。しかし そこから先の論理的発展がない。それは認識の弁証法性、三浦つとむの「矛盾」、「観念の分裂性」を批判したことからくるのではないのか。本来ならば 像・観念が分裂・分身することを認識の本質としなければならない。像を創り使い、像に創られ使われる認識像を本質にしなければいけない。認識がこのような弁証法性を把持しているからこそ 認識は哲学、科学に技化することができるのである。認識も「方法論」で考えなくてはいけない。南郷認識論は対象の具体像を描くことに主眼がある。これは論ではないだろう。マンガ的絵解きの手法であり 表現技である。文学や映画などの芸術表現と同じである。認識と真の弁証法は現象と概念という形で共存している。こういう本質的構造を論じるのが認識論である。本来 原基形態とは特殊性にあたるものである。その特殊性を一般論(普遍性)として論じる南郷認識論が 学的認識の本質的構造(普遍性)を把握できないのは当然である。結局できたのは認識の発展過程(p381参照)だけである。予想通り現実羅列主義、即物実体論的把握である。
 
 概念についてはこう述べている。「論理的実質・実態を称するものであり 対象の把握の仕方によって その論理が異なるだけではなく段階・レベルが異なるのである。葉っぱを葉として捉える概念と、それを樹木レベルで捉える概念と、それ以上に植物として捉える概念と大きく異なる。具象レベル、現象レベル捉えた性質を概念化した場合の論理と、それを構造レベルで捉え返した場合の論理は、レベルが異なるだけに、同じ概念の実質・実態とはならないのである。具体の概念と現象の概念は異なり、というふうに、概念には論理としての階段・段階があることを忘れてはならない。」(p409参照 ちなみに中央公論版精神現象学序論翻訳者山本信の「ヘーゲルの概念」理解のほうが正しい)やはり ここでも同じである。概念の機能主義的把握しかなく 対象概念の把握の仕方に弁証法的把握をする意図が見えない。繰り返すがヘーゲル概念弁証法とは概念を普遍性ー特殊性ー個別性と媒介させながら統一するものである。普遍性・特殊性・個別性それぞれがお互いを内包していること。それが概念弁証法の真骨頂である。南郷には抽象を無限定にいじることはできても 活用する規定がないのではないか。

 そして 哲学論。哲学が積み上げてきた論理学(概念弁証法)・そこからの全体を把握する発想と方法は非常に大事である。これは滝村隆一も言っていたことであり 南郷継正も同じである。しかし 南郷が語る唯物論・科学では哲学を生かせないのだ。特殊性に踏み込むことをやめ 独自の一般性の世界で生きている。哲学は科学の前段階であり 科学の一部として認識することでその歴史的につちかわれてきた論理性(概念弁証法)・直観性・先行学説・仮説として取り込まれる。科学の礎・下支えがなければ 哲学を現在に生かすことはできない。

 すべては 弁証法に対する認識が間違いの始まりだったのである。科学で一世風靡した英傑が 最後にたどり着いたのが哲学者だったとは、嗚呼 無情なり。南郷ジャンバルジャン悠季コゼットの 夢やぶれ カーテンコールはもうないといいたいところだが 南郷継正はいまさら何も感じないだろうし 論研も微動だにしないだろう。なぜなら こんなことは70年代後半から滝村隆一が語ってきたことだから。彼らは百も承知なのである。彼らの考えは信仰なのだ。「すべてを疑え」否定の否定をする弁証法家ではないのだ。 

 滝村先生は浪曲 森の石松がお気に入りで 繰り返し聞いていたという わかるなぁ その気持ち 「バカは死ななきゃ治らない。」(笑)
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その時の私、「tadaへの不信感」
そんな中、久しぶりの以下のコメントのやり取りから不信がなくなった。


Unknown (tada)
2023-04-02 09:12:50
こんにちは 3月28日の深夜にコメントをお送りしましたが 届いていますか?
宜しくお願いします! (自由びと)



2023-04-02 10:21:48
ありがとうございます♪♪♪
コメント投稿気持ちは、今届きました。
ありがとうございました♪♪♪

でも「3月28日の深夜にコメント」は、
今だに届いていません。

お手数をおかけしますが……
再度の投稿を御願いします。



Unknown (tada)
2023-04-02 22:20:42
自由びとさん 久しぶりです。こちらは 一年間 地区の行政区長をやっていました。今月で引継ぎも終わり 余裕ができたので コメントします。
奥様のご逝去を悼み 謹んでお悔やみ申し上げます。いろいろと大変だったかと思います。自由びとさんの そのお人柄から 奥様も生前はお幸せでいらしたかと思います。今後とも 元気でブログを続けてくださいね。
ヘーゲルのミネルバのフクロウについて 一言。 南郷先生のお話 もっともだと思います。現実はどんどん先に行ってしまいます。そのたびに哲学や科学はそれを追いかけなければ なりません。ただ 本質的にとらえる 抽象の世界ではあまり 細かいことは問題にならないでしょう。 ミネルバのフクロウとは棺をおおいて事定まる。人間の解剖は猿の解剖のための鍵である。と同じ意味であり、最終的にまとめるのが哲学であり 成熟した事象を対象化することが科学的認識としても大切であること、先行しなければいけないことを示しています。
最後は学歴コンプレックスについてです。南郷先生がどういう形で言っているのかは わかりませんが 劣等感はそんなに悪いものではありません。これこそが南郷武道論・南郷教育論の核心・魅力です。裏返せば 主体性の確立です。 武道シリーズのルサンチマンにならない 現実的な方法論の提示。 南郷先生の文学的感性の凄さといえますが 文章にこめられた力。主体性を確立させる気になりますね。そんな気概をもって 人生を生きようじゃないですか。(2023年3月28日夜 2月9日のブログに対してです。)



感謝心を込めてtadaさんへ (自由びと)
2023-04-03 04:20:46
tadaさん

本当に、お久しぶりですね♬♬♬
滅茶滅茶嬉しいですよ♪♪♪


実は、数日前?数週間前?数ヶ月前?…かは不明ですが… Tadaさんに私が考えた「概念の弁証法」について、tadaさんの感想を頂きたく 「tadaさんへ」という手紙形式で書きたいと思っていたのですが… ふと「tada」のハンドルネームの表記を忘れていたのに気付き…それでも「tada」という音声は忘れていませんでした。それが ひらがなorカタカナor漢字…or「ROMAGI」表記か悩んで 過去のコメントから探せねば…と思っていた所だったので 本当にビックリですよ。Tadaさん本人からメールを頂けるなんて… 

なんか…とてもお忙しい ようですね。
でも、「地区の行政区長」という 現実社会の仕事の中でこそ弁証法の弁証法的適応が 可能なのでしょうね♪♪♪

>奥様のご逝去を悼み 謹んでお悔やみ申し上げます。<
↑という…とても素敵な言葉づかい…私には真似できない言い回しですね。

私には「真似できない」・「発せられない言葉」です。そもそも…よく「ご愁傷様です」という定型句がありますが…
私には この言葉にもなんか違和感がずっとありました。 しかし 今回の家内の死という体験から 今後 「ご愁傷様です」と他人に言う ような状況になったら 「家内の死」の感情を思い出し その感情を込めて「ご愁傷様です」が使えそうな気がします。そうなんです。 言葉には その人の感情が込められている筈なのです。 他人の言葉には その人の感情がこめられている筈なのですが…しかし現代教育では その言葉の感情・概念を確り定着させる指導よりも より多くの言葉を教える事が優先されているように私は感じています。以下に転写した歌詞読んでみて下さい。


命の別名 歌詞
歌:中島みゆき
作詞:中島みゆき
作曲:中島みゆき
発売:2005-09-22 12:47:02
知らない言葉を覚えるたびに
僕らは大人に近くなる
けれど最後まで覚えられない
言葉もきっとある

何かの足しにもなれずに生きて
何にもなれずに消えて行く
僕がいることを喜ぶ人が
どこかにいてほしい

石よ樹よ水よ ささやかな者たちよ
僕と生きてくれ

繰り返す哀しみを照らす 灯をかざせ
君にも僕にも すべての人にも
命に付く名前を「心」と呼ぶ
名もなき君にも 名もなき僕にも

たやすく涙を流せるならば
たやすく痛みもわかるだろう
けれども人には
笑顔のままで泣いてる時もある

石よ樹よ水よ 僕よりも
誰も傷つけぬ者たちよ

繰り返すあやまちを照らす 灯をかざせ
君にも僕にも すべての人にも
命に付く名前を「心」と呼ぶ
名もなき君にも 名もなき僕にも

石よ樹よ水よ 僕よりも
誰も傷つけぬ者たちよ

くり返すあやまちを照らす 灯をかざせ
君にも僕にも すべての人にも
命に付く名前を「心」と呼ぶ
名もなき君にも 名もなき僕にも

命に付く名前を「心」と呼ぶ
名もなき君にも 名もなき僕にも

現代社会では、「最後まで覚えられない言葉」は、ないでしょうね。
でも、「最後まで感情を込められない言葉は、きっとある」でしょう。

ここでは「言葉=命の別名」とかかれていますね。 言葉⇒認識⇒頭脳活動⇒人間の脳細胞活動⇒動物である人間の脳細胞活動⇒生命活動⇒「いのち」


>ヘーゲルのミネルバのフクロウについて 一言。 南郷先生のお話 もっともだと思います。現実はどんどん先に行ってしまいます。そのたびに哲学や科学はそれを追いかけなければ なりません。ただ 本質的にとらえる 抽象の世界ではあまり 細かいことは問題にならないでしょう。 ミネルバのフクロウとは棺をおおいて事定まる。人間の解剖は猿の解剖のための鍵である。と同じ意味であり、最終的にまとめるのが哲学であり 成熟した事象を対象化することが科学的認識としても大切であること、先行しなければいけないことを示しています。<

上記の記述に感動です♪♪♪
その本質を捉えたら それを一次関数的にとらえられたら延長線上にアバウトな未来像が予想可能…「成熟した事象を対象化することが科学的認識」とは、眼前の事実・現象を それ自体・専門的に捉える言語化する事?

>劣等感はそんなに悪いものではありません。これこそが南郷武道論・南郷教育論の核心・魅力です。裏返せば 主体性の確立です。 武道シリーズのルサンチマンにならない 現実的な方法論の提示。

俺は俺!劣等感は俺の個性!なんか文句あるか!?
俺は俺!他人言うことなど聞きて従いたくない…
でも 強くなる為に他人の方法論に従って頑張る!


>南郷先生の文学的感性の凄さといえますが 文章にこめられた力。主体性を確立させる気になりますね。そんな気概をもって 人生を生きようじゃないですか。


同感!張・超・長・蝶・同感です♪♪♪♪
コメントを読む前以上に元気になりました!
tadaさんの御言葉に、私心からの感謝の言葉を
感謝感激雨霰…すみません…なんか冗談ぽくなりましたね。
それは、tadaさんのコメントで冗談が言える・書ける程に元気を頂いたという事ですね。

そうそう誰か(青雲さん?)が 「元気を頂いた」は、おかしいと書いていた記憶がありますが…「(私が更に元気になれるような励ましの感情が込められた)元気(と言う言葉)を頂いた」と考えれば「おかしく」ないですよね。 言葉の不思議ですが 初めは「感情・言葉」の筈が 変質・劣化して 無感情の「言葉」と変化してしまうのでしょうね…


「命の別名」>けれど最後まで覚えられない言葉もきっとある<
>武道シリーズのルサンチマンにならない 現実的な方法論の提示。

この言葉から 強者への「憤り・怨恨・憎悪・非難」ではなく、強者に憧れを抱いて彼らに負けない現実を創る為に、その現実な方法論に従って真面目な努力を続ける…

疲れたので、自由忍法「ありがとうございました」です。
tada 忍法ドローン 憧れます コメントには感謝です。

おやすみなさい




今後の宜しく♪♬♪ (自由継正びと)
2023-04-04 23:26:27
・コメントが届いた記事のURL
https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong/e/ac2b96f1b1a69b73fd00424bd00c1e39

・コメントを書いた人
雲海

・コメント
中島みゆきに「命の別名」という歌があるのは知りませんでした。勉強になりましたね。

生前の家内は、中島みゆきのファンで、私もよくCDを借りて聞いていました。 tada氏の 「奥様のご逝去を悼み 謹んでお悔やみ申し上げます。」という御言葉から <「けれど最後まで覚えられない」「言葉もきっとある」> 歌詞を思い出たのですが 曲名を覚えてなく、この言葉からネット検索してやっと見つけました。 現代のスマフォは 非常に便利ですね。いくら台詞・言葉でも 辞書で調べる事は無理ですね。





>実際、この歌が発表されたのは2005年ではないにも関わらず、2005年とついているのは自由びとさんが故意に何かを示唆するために書いたのかと思いきや、このように書いてあるサイトがあるのですね。

いや~感謝です。 全く「2005年」には気づきませんでした。
これは、「歌は、その時代の社会精神の表現」と言う事ですね♪
歌詞の部分だけのコピーは面倒だったので、全部コピーしました。

「>歌と言えば、一時期長渕剛の「RUN」を弁証法の唄と狂ったように聞きまくりました。家内から「キチガイになるから、もうやめて!と言われていました」。 最近は、中島みゆきand吉田拓郎の「永遠の嘘をついてくれ」と吉田拓郎「流星」に嵌っています。その理由は、これらが現在の私の認識・感情にしっくり きている、から。」

これは引用ではなく、全て私事であり私の体験・経験の言葉です。
tadaさん本当に感謝・校正を感謝。 雲海上人and南郷師範、誠に失礼しました。
雲海上人は さて置き、師範・〇〇会の顔に泥を塗ってしまいました。
また、南郷・継正自由びとの顔にもドロですね。


×「>歌と言えば、…」
〇「歌と言えば、…」

>詞を読解して色々と感じることがありました。
2005年は自殺者が物凄く多く、自殺の割合が高学歴者よりも低学歴者のほうが多かったというのもデータを取っている専門家に聞かなければ知り得ないことです。

確かに、データは必要でしょうが…
何が高学歴で、何が低学歴かは、決めるのは難しいでしょう…
当時の日本社会で 高学歴者を求め始めた時期だったのでしょうか?。
そう言えば、知人が言っていましたが、「企業が高学歴者を求めるのは、
その人物の努力・能力度=「難関大学卒業力」と考えている…と言うような事。


>「覚えられない言葉」というのは中卒止まり、高卒止まり、大卒止まりといった学歴を示唆しており、それが不景気の際に自ら命を断つことに繋がるというのは知識を共有しておくべきでしょう。

成る程…おっしゃる通りですね♬♬♬

>中島さんは自分の歌詞を解説されるのがお嫌いだと言ってましたから、私のような解釈は好まれないかも知れませんけどね。

作者は好まなくても、その歌詞の解釈は 聞き手側の自由です。
その歌曲誕生と当時の社会状況の対比・統一は、とても重要だとおもいます。

詩は歌にならなかった言葉であり、音楽は言葉にならなかった詩である。ヘルマン・ヘッセ
人は幸せだから歌うのではない。歌うから幸せなのだ。

雲海さんへ

実は私、最近 お宅に感謝を感じているのです。2チャンネル玄和スレッドの「ドラGON拳ちゃん」⇒「ドラゴン」・「拳ちゃん」・「ちゃん」⇒自由びと⇒悟りびと⇒悟得びと⇒自由びと⇒継正自由びと・自由継正びと⇒???まで、長々と付き合って頂いて感謝です。

この過程は、私にとっては「ネット界常駐の滅ぼし合う対立物の統一」でした。
そうそう…「ヘーゲル哲学の道」蔦屋に取り寄せ頼みました。
貴重な情報を感謝なのです。

ここからは、お宅の得意技⇒妄想・幻想・想像ですが…
私の知っている「お宅」は、多重人格的なHDと感じています。
彼・彼ら?は、玄和会批判を私のブログで繰り返し続けています。
また、彼・彼ら?は 論研の話をしています。
そんな事から私は 考えました 妄想・幻想・想像です。
これは、お宅達は 論研の幹部で ネット界で 私を手助けしてくれて 私の南郷弁証法体得の為の援助…
または、私の認識が体系化され、私自身が 過去の体験を体系的に 一つにまとめようしている。
確かに実感しています。体がゴムのようにしなやか 走る感覚が元気に走れた 以前の感覚。
身体感覚の相違は、整体へいった成果かも知れませんが…
息子も言っていました「パパ変わった…でも春だからしょうがないよ」
私も感じています。確かに、大きく変わっていると…
㈠  過去 教職について一週間での変化。
㈡  母が亡くなった時の変化。
㈢  家内との婚約破棄を、その母親から、突然手紙で知らされた時。
私の私へ出した「人生の課題」です。

お宅が誰であろう…と、私はお宅とのやりとりで、大きく変化・成長出来て来たのは、私の主観的な事実です。
この後、4月11日からの仕事が楽しみです。
今後の実社会・小学校での私は、どうなのでしようか?
そうそう~私は2000年から今は無き「小学館ホームパル」で数学の塾講師を初めて、やっと軌道に乗り始めた時期。


Unknown (tada)
2023-04-05 06:36:36
4月3日に送付したのですが 届いていないようなのでもう一度送ります。「成熟した事象を対象化することが科学的認識」とは、眼前の事実・現象を それ自体・専門的に捉える言語化する事? ここでは成熟した事象が問題になります。歴史で言えば 歴史の始まりから探求するのではなく 歴史が一番隆盛な時から探求していくことです。人間を考察するのに 赤ちゃんを考察し始めるのではなく成人の考察から始めるということです。認識論でも同じ。もちろん始原をないがしろにするわけではないですよ。そのあとには両方から考察していくことになります。
 中島みゆきさんの歌 ありがとうございます。命の名前は心なんですね。心はそのままでは見えない、わからないものです。それは とらえどころのない、最後まで覚えられない言葉なのでしょうか。人間の業(ごう)や性(さが)・人間社会の不条理性を強く感じます。
PS ヘルマン・ヘッセの詩と歌の定義 同感です。コロナ禍 私が聞いていたのは  若いときから聞いていた 大貫妙子のアルバム「サンシャワー」 サマーコネクションと都会が好きです。特に今回は くすりをたくさん が気になって聞き返していました。狂っているのはあなただけじゃな。アレンジは坂本龍一。


公式の適応でしたね…残念… (自由・継正びと)
2023-04-05 09:26:06
tadaさん

またのコメントをありがとうございます。
とても嬉しいです。

tada
>「コメント
4月3日に送付したのですが 届いていないようなのでもう一度送ります。「成熟した事象を対象化することが科学的認識」とは、眼前の事実・現象を それ自体・専門的に捉える言語化する事? ここでは成熟した事象が問題になります。歴史で言えば 歴史の始まりから探求するのではなく 歴史が一番隆盛な時から探求していくことです。人間を考察するのに 赤ちゃんを考察し始めるのではなく成人の考察から始めるということです。認識論でも同じ。もちろん始原をないがしろにするわけではないですよ。そのあとには両方から考察していくことになります。」<


詳しい解説をありがとうございます。 私のやった事は、言うなれば 「公式を使って問題を解いた」事なのですね。 師範は「自分で公式を創れ・実力を養成しろ…」でしたね。なのに… 自分の実力だと勘違いしていました。自分勝手に「公式を使える自分にキョウガイして…」少々恥ずかしいです。でも…それとなく自覚はあったのです。ここでの「公式=生命の歴史の物語」の論理ですね。私のこのような行為は 師範の夢講義の「第五編 第二節 心理学科学生からの手紙」に学んでのものなのでしょう。でも私には その自覚は全くありませんでした。

 昔、武道哲学 第一巻 第三編 を読んで 『なんで…この修行者が私ではないのか、おかしい…』と師範にお手紙を書いた事を思いだしました。ここ最近 「夢講義」を第一巻から六週目の再読を始めました。そんな中で、私の始まり(?)は「武道講義」からだと痛感しました。そこで、過去の「私の歴史の日記・歴史」から始めよう・ブログに書こうと思いました…でもまだ書けていません。

私の事。私の事実の羅列。ですね。これって雲海お宅と一緒ですね。
ただ私と彼の相違は、私には私の人生は事実です。
でも、雲海お宅にとっては、私の人生を事実として確認不能です。

だから「張?」と、聞いてきました。…最近は時々思っていました。
彼が師範なのでは?師範が私の指導為に?
確か、「学城」で師範は、一つ一つの論文を添削する。直接or弟子にさせる…と書いていました。
お宅は、一人ではなく、弟子達であり、私の実力に合わせて、同レベルの弟子=取り立て稽古ですね。
だから「梅雨さん」焦ったのですね。私は梅雨さんの中に師範を見ました。

そして、雲海お宅には、反師範を見ました。それらは、私の中の師範なのですね、
私は七歳の柴犬マロンを飼っています。数年前に、散歩のリード繋ぎの時に、唸るので、頭を叩いて睨み付けました。
睨み続けている時に、マロンの目の色・光が変わりました。以前に買っていたゴールデン犬の「マファ」は私が睨むと目を逸らせていまして…

今の私は、tadaさんの中に、師範を見ています。
だから、本来は確りと丁寧な書き方を、だろうでずが…
本当は、後日書こみます」と返答とも思いましたが…
「禅問問答」では、即答です。
禅問答の正解が分かりました。「禅師を納得させる言葉」です。それは「禅師が返答不能」「弁証法・ディベート」…これも師範公式の適応ですね。
ただ…今確信しているのは、私の「悟りへの道としては正しい」でも、まだ公式適応レベル。それでも…現実界の生活は以前より自由、楽になっています。

すみません!肩が凝っています。…今日はここまで、本当にありがとうございます。
私のこのような思考は、昔に読んだ漫画本の影響です。


私と玄和会の出会い、南浦和本部での師範との出会い、私が誰かは師範なら思い出して頂けると思います。そう~昨日、師範が夏合宿で「人間には敗者復活はありえる」、「現在の中国の指導者如何でありえる」と言われていました。それって「中国人の私への御言葉だったのですね」そうです。時々合宿で 初めて師範に質問して思いっきり叱られて事を時々思い出します。他人の専門に首突っ込んでの質問でした。その時、叱られ、足がブルブル震えているのに気付きました。隣の古知屋さんが、見ているのも分かりました。その後師範への質問に苦しみました。色々と浮かぶのですが…「この質問したら…また叱られる」…二回の質問は「私の技が軽いと言われる理由」でした。三回目が、「私は狂いそう…」でした。三回目の後、都築さんから、電話で「あのような他の人にわからない個人的な質問は控えろ!」と くぎを刺されました。そこで私は「それは師範が言ったことですか?と、尋ねたら」、「違う!」と言われ、安心しました。あの時、師範は、人間ないやらしさ…ような事…、葬儀では心が変化する「嫌いなモノがすきになる…」と言った…確か、その前に井上先生に「師範の電話番号を尋ね、師範が忙しいから…」言われ…考えて結果の行動でした(記憶が今一つ)。



現在の私は、知的障害のある児童の特別支援学級の補助員四年、情緒障害児特別支援補助員五年、通常級の補助員三年目…そこで客観的に現実の「教育課程」が、見られます。


私の真の始まりは、「月刊 空手道誌」連載の「武道講義」なのです。

あまりの嬉しさ・興奮で、心のままに書き綴っていますね。
これは、私の心を纏められない、からです。








 >(tada) 中島みゆきさんの歌 ありがとうございます。命の名前は心なんですね。心はそのままでは見えない、わからないものです。それは とらえどころのない、最後まで覚えられない言葉なのでしょうか。人間の業(ごう)や性(さが)・人間社会の不条理性を強く感じます。
PS ヘルマン・ヘッセの詩と歌の定義 同感です。コロナ禍 私が聞いていたのは  若いときから聞いていた 大貫妙子のアルバム「サンシャワー」 サマーコネクションと都会が好きです。特に今回は くすりをたくさん が気になって聞き返していました。狂っているのはあなただけじゃな。アレンジは坂本龍一。

心=感情=変幻自在=個性=名前…コロナワクチン一度も打ちませんでした。
家内と息子は打ちました。家内は病院の入浴補助の仕事で強制的。
息子に、聞いたら 「打っておいた方が 都合がよい」と言っていました。
子育ての時に、師範が勧めていた育児書を読んで、息子を抱いて散歩しました。
「サンシャワー」買って聞いてみます。

ありがとうございます…
そして、すみません、でした。

早々…師範からいい事を教える「火傷の話は、神経の話」と、
捉えよ!教わりましたが…まだまだ公式の応用が未熟です。
だから、「三浦氏の弁証法を丸ごと頭脳につめた」ように、
取り敢えずは、南郷継正の著書・言葉を丸ごと頭脳に入れた!

「私は南郷継正だ!」と叫んだ当時の思い込み・心の叫びの実現を目指して~


そして、今朝 気付きました。

南郷弁証法は、「南郷認識論=絶対概念の弁証法」
今南郷氏の絶対精神⇒絶対概念⇒絶対理念⇒「ヘーゲル(南郷継正)哲学の道」へ

結局・たぶん…私は、南郷師範直々に取り立て稽古を付けていてくれいた、ようです♪♪♪
それに、全く気づけず・気が付かず…でいたのでした。
 


  今ここで宣言する~じゃじゃじゃ~ん

「俺は ついに 南郷継正になったぞ!」
「俺は ついに 夢を叶えたぞ!


自由継正びとは、南郷師範が できなかった一般社会で修業・修行を
南郷継正に足りなかったモノを「自由びとvs師範」認識ともに歩んで…

後は、南郷精神⇒南郷絶対理念へ野道だろうか?


これら、全てが 無想・幻想・妄想 なのかも しれない
しかし、ここは ネット世界 無想・幻想・妄想…何でもありの世界
後は、みなさんが 自由びと言説を信じて 歩むor歩まない だけであろう。

信じる・信じないは、みなさんの自由です

今後

新・悟りを求めて~
自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

を宜しくお願いします。



























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Unknown (tada)
2023-04-06 23:23:12
雲海上人が紹介した 中島みゆきと拓郎の永遠の嘘をついてくれは名曲です。ここでこれ かなり 皮肉が効いていると思ったのですがどうですか?つまり 南郷弁証法信仰家に対しての歌。学城愛読者に対しての歌。私にはそう 聞こえているのですが…。私にとっては 南郷先生の弁証法理解は間違いですから。それを信じてきたみなさんにとっては 「永遠に嘘をついてくれ」と思っているのではと。人生をこれに賭けてきた人にとっては 大変なことです。それこそ その間違いが「夢」であってほしいと思っているのではと。そもそも三浦先生の弁証法と認識論の理解の仕方にも 無理がありますから。それを修正していないから おかしくなったわけです。
滝村先生への見当違いの批判がなければ 私もそのまま そっとしておいたのですが 仕方がありませんでした。私としては みなさんそれぞれ 自分を信じていかれれば 良いと思っています。正に 最後の自由びとさんの言葉と同じになります。
信じる・信じないは、みなさんの自由です
返信する
穴が合ったら 入りたい (ブログ主)
2023-04-07 10:18:45
tadaさんの書かれている通りです。
ついついtadaさんなら分かってくれる…
と思い込んでいて…

tadaさんの立場を忘れていました。
相手の個々の言葉ではなく、
相手の立場・読み手の立場を言葉・記述全体から考え・言葉を選び書くべきでした。

「自分の事を書いている」という安心感から、
記号「>」の確認を怠りました。

「>」だけで、立場・意味…が、反転してしまう…
恐ろしく便利な記号ですね。

また、一つ勉強になりました。
「穴が合ったら入りたい」気持ちを無視して、
tadaさんの私へ指摘・指南をありがとうございました。
今後も より一層 精進を重ねていきます。
ありがとう ございました 親愛なるtadaさんへ
返信する
Unknown (雲海)
2023-04-08 06:22:19
いつの間にか上人にされていたのですね。確かに私は剃髪していてスキンヘッドなのですが酒を嗜む生臭坊主に過ぎません(汗)

色々な人が色々な意見を持っていて構わないと考えますから、私は強く誰それは間違っているなどと強弁することはありません。ただ、私個人の見解としては南郷先生の「物自体」に関する考えとは異なります。「物自体」というのはカントが言った言葉ですから、それから切り離されて「南郷先生の独自の概念は」などという話しにはならず「カントが如何に理解されているか?」という問題だと考えます。

私の考えでは、カントの「物自体」というのはプラトンの対話篇で語られている「理性にとって肉体が邪魔なのだ、肉体がなければ至高の観念(イデア)を獲得できる」というようなことの否定なんです。

人間の認識というのは人間的であり肉体的なものであり、それは視覚的・聴覚的・嗅覚的・味覚的・触覚的だということを本質としていて、それとは切り離された「物自体」ということには決して至れないということです。

つまりは「純粋理性の批判」というわけで、ア・プリオリでなくア・ポステリオリだという話しになるのだと思います。カントの研究から始めたという廣松渉さんは、おそらくは「物自体」を踏まえて「現象世界の四肢的構造」なんてことを説いていますが、これはカント以降の現象学で「知覚」が問題視された哲学史の流れに乗った発言だと思います。

その「純粋理性の批判」「人間の肉体から切り離された物自体なるものには至れない」ということが『純粋理性批判』の冒頭にフランシス・ベイコンの『大革新』が引用されている理由だと考えます。

確かに南郷先生は「五感情像」なる言葉を使っているのですが、諸所の文章の細部までそれが系統化されておらず(南郷先生的に言ったなら「神経が切れて繋がっていない」)、例えば「重力」といった概念が小学生の理科教育において「バネ測りの長さ」という「視覚的なもの、肉体的なもの」として認識されていることへの反省がありません。
返信する
まだ途中です… (自由びと)
2023-04-08 11:02:44
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・コメントを書いた人
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・コメント
>いつの間にか上人にされていたのですね。確かに私は剃髪していてスキンヘッドなのですが酒を嗜む生臭坊主に過ぎません(汗)

いや~!
このタイミングでの雲海上人の登場・ナイス・タイミングそのモノです。
また過去から現在まで、不思議な事に、全く気を遣わずに本音を書けたのは雲海上人だけなのです。




>色々な人が色々な意見を持っていて構わないと考えますから、私は強く誰それは間違っているなどと強弁することはありません。ただ、私個人の見解としては南郷先生の「物自体」に関する考えとは異なります。「物自体」というのはカントが言った言葉ですから、それから切り離されて「南郷先生の独自の概念は」などという話しにはならず「カントが如何に理解されているか?」という問題だと考えます。

全く上人の言われる通りです。今さっき気付きました。
独り言のメリッド・デメリッドを~
独り言の二重性―
「自分vs自分」=「自分から自分を考えて―「自分vs自分」「肯定vs肯定」
  「自分vs他人化自分」=他人の言説から考えた自分と」―「肯定vs否定」

表現が女性的ですね。優しく心に染み入ります。喜んで受け入れます。





>私の考えでは、カントの「物自体」というのはプラトンの対話篇で語られている「理性にとって肉体が邪魔なのだ、肉体がなければ至高の観念(イデア)を獲得できる」というようなことの否定なんです。

「肉体のない観念」とは、否定とは、個人名の記述がない、
ネット界でのHD主観的記述のようなモノ?もっとも「イディア」ではありませんが…



>人間の認識というのは人間的であり肉体的なものであり、それは視覚的・聴覚的・嗅覚的・味覚的・触覚的だということを本質としていて、それとは切り離された「物自体」ということには決して至れないということです。

確かに、私は、「物自体を、ものになる以前モノ…」と解釈していました。
そして、「胎児(モノ自体)」と認識していました。本当は、「胎児(生命体)」でしたね。
でも…「生命の物語」の論理は知っていました。


>つまりは「純粋理性の批判」というわけで、ア・プリオリでなくア・ポステリオリだという話しになるのだと思います。カントの研究から始めたという廣松渉さんは、おそらくは「物自体」を踏まえて「現象世界の四肢的構造」なんてことを説いていますが、これはカント以降の現象学で「知覚」が問題視された哲学史の流れに乗った発言>だと思います。

この事を私に教えたくて、
あの時のお宅(師範)は、「廣松渉さん」の名前を出したのですね。

その「純粋理性の批判」「人間の肉体から切り離された物自体なるものには至れない」ということが『純粋理性批判』の冒頭にフランシス・ベイコンの『大革新』が引用されている理由だと考えます。

ありがとうございます。
私も師範の御著書に書かれていたので、『純粋批判』を読もうとして買ったのですが…
少し読んで断念・ギブアップしました。


>確かに南郷先生は「五感情像」なる言葉を使っているのですが、諸所の文章の細部までそれが系統化されておらず(南郷先生的に言ったなら「神経が切れて繋がっていない」)、例えば「重力」といった概念が小学生の理科教育において「バネ測りの長さ」という「視覚的なもの、肉体的なもの」として認識されていることへの反省がありません。

そうなのですよ!
先生の言う通りに、小学生、中学生の教書を読んでも、現象・言葉の意味は分かっても、繋がりが…
それは、個々の記述は正しくても、神経が繋がっていない…
成は度…このブログでのコメントの数々は、私の言説に神経・一貫的な論理性の有無の確認ですね。


小学生という言葉を出たので書かせて下さい。
子供への教育とは、当人のその時点の認識に働き掛け、その認識をレベルアップさせる教師の言動。
教える者が、教わっている・学習者への働きかけ。
それは、叱りながら褒め・褒めながら叱る⇒「気付かせる教育」
以前に、叱らない教育について考えました。

この実践を私は、小二の算数授業でやりました。


一番前の席に座いる児童、
授業中、先生がプリント配り用意の時、
椅子を(横に動かして)右隣の児童と話していた。
それを発見しての以下の会話

私  ―「前を向いて 」
児童―「前向いている」

私 (全身を確認)横向いた椅子確認)
私 (机も横にして、机と椅子の方向の一致)」
私 ―「じゃ~これで勉強して!」
児童―「無言でプリントを解き始めた」

……時間の経過……
児童―(机・椅子の移動なく、無言でプリントを解いている)
私 「お~真面目にやってるじゃん!」と言いつつ
私 (椅・机を前へ向けた)

その後に前の意味を調べたら


(例解新国語辞典 第四版)

「まえ」とは、空間上の「まえ」と、時間上の「まえ」とがある。
……中略…
①  自然な姿勢でたったときに顔がむいている方向。
……後略……

この児童にとっての「前」とは、①自然姿勢での「前」。(正しい)
この時の私の「前」とは、<前にある黒板の方向>、(違う)でした。

その後、色々と考えて、私は気付きました。
私の「前」に向いては、彼にとっての前」向いて、ではなかった、のです。
でも、その時には、気付いていません、でした。

でも…経験的に、多くの子供は、自分の認識を自分の正しさで言葉にしている。
そんな経験から、「俺は正しいお前は間違い!」…
強制的に椅子の移動または叱る×だと…

そこで、彼の椅子を横向きにして、
周囲の児童の「机・椅子」は黒板方向、でも僕は横向き。
気付けているとよいのですが…

そう言えば、師範は、以前私の同輩だった松〇さんの癖?未熟?を直すのに、彼に型を演じさせました。
あれも、気付かせる為の教育、私は。ここでのコメントのやり取りが、私の認識トレーニングだと思っています。
もっとも…そうで、ないかのかもしれません。その事実確認は非常に至難です。

確認しても本当の事は言わない…かも…
唯の私の妄想の連続なのかも…
私の中の「南郷継正的な認識」で相手の言葉を理解して納得して「〇〇会」の認識トレーニングと解釈している…かも…

それが、昨日から今日までの私の「非正常な認識」なのです。
そして、〇〇会が、宗教カルトだったら、
確かめにいったら怖い…でも「確かめたい」
師範は、自分みた景色が本物かどうかの確認へ大地に木から降りた…
と言っていました…確認へ行ったら、私はサル的人間から、真の人間的人間に慣れる…のかな?

このコメントが、あまりにも、ナイス・タイミングでした。
ちょうど…上記のような事を書こうと「、tadaさんと雲海上人」あての書こう…と悩んでしました。

そんな中、上〇ちゃんから電話があり…
返信する
Unknown (雲海)
2023-04-08 12:47:25
>このことを私に教えたくて

以前に自由びとさんに廣松渉さんの名前を出したことありましたっけ?記憶にありませんけど。

私が今回、廣松渉さんの名前を出したのは「廣松渉」という名前は日本を代表する哲学者の名前で、しかも南郷先生の著書では「このボケぶりを見よ!」と罵倒されているからでもあります。

「餅は餅屋」というように哲学のことは哲学者に聞くべきで、本業の哲学者よりも南郷先生のほうが優れているなんてことは現実には無いからです。
返信する
今後の指導も宜しくお願いします♪ (自由びと)
2023-04-08 16:30:38
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雲海

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>いつの間にか上人にされていたのですね。確かに私は剃髪していてスキンヘッドなのですが酒を嗜む生臭坊主に過ぎません(汗)

いや~!
このタイミングでの雲海上人の登場・ナイス・タイミングそのモノです。
過去から現在まで、不思議な事に、全く気を遣わずに本音を書けたのは雲海上人だけなのです。




>色々な人が色々な意見を持っていて構わないと考えますから、私は強く誰それは間違っているなどと強弁することはありません。ただ、私個人の見解としては南郷先生の「物自体」に関する考えとは異なります。「物自体」というのはカントが言った言葉ですから、それから切り離されて「南郷先生の独自の概念は」などという話しにはならず「カントが如何に理解されているか?」という問題だと考えます。

全く上人の言われる通りです。

今さっき気付いた独り言のメリッド・デメリッドです。
独り言の二重性―
「自分vs自分」=「自分から自分を考えて―「自分vs自分」「肯定vs肯定」
  「自分vs他人化自分」=他人の言説から考えた自分と」―「肯定vs否定」

表現が女性的ですね。優しく心に染み入ります。喜んで受け入れます。





>私の考えでは、カントの「物自体」というのはプラトンの対話篇で語られている「理性にとって肉体が邪魔なのだ、肉体がなければ至高の観念(イデア)を獲得できる」というようなことの否定なんです。

「肉体のない観念」とは、否定とは、個人名の記述がない、
ネット界でのHD主観的記述のようなモノ?もっとも「イディア」ではありませんが…



>人間の認識というのは人間的であり肉体的なものであり、それは視覚的・聴覚的・嗅覚的・味覚的・触覚的だということを本質としていて、それとは切り離された「物自体」ということには決して至れないということです。

確かに、私は、「物自体を、ものになる以前モノ…」と解釈していました。
そして、「胎児(モノ自体)」と認識していました。本当は、「胎児(生命体)」でしたね。
でも…「生命の物語」の論理は知っていましたが……認識論は無かった…ですね。
認識がうぶ声なら、それは生命体の発生、
生命体の発生後は、「生命の歴史の物語」…

確か、誰かが、生後の胎児は、論理的に「生命の歴史」を歩む、言ってor書いていました。



>つまりは「純粋理性の批判」というわけで、ア・プリオリでなくア・ポステリオリだという話しになるのだと思います。カントの研究から始めたという廣松渉さんは、おそらくは「物自体」を踏まえて「現象世界の四肢的構造」なんてことを説いていますが、これはカント以降の現象学で「知覚」が問題視された哲学史の流れに乗った発言>だと思います。

この事を私に教えたくて、
あの時のお宅(師範)は、「廣松渉さん」の名前を出したのですね。

その「純粋理性の批判」「人間の肉体から切り離された物自体なるものには至れない」ということが『純粋理性批判』の冒頭にフランシス・ベイコンの『大革新』が引用されている理由だと考えます。

ありがとうございます。
私も師範の御著書に書かれていたので、『純粋批判』を読もうとして買ったのですが…
少し読んで断念・ギブアップしました。


>確かに南郷先生は「五感情像」なる言葉を使っているのですが、諸所の文章の細部までそれが系統化されておらず(南郷先生的に言ったなら「神経が切れて繋がっていない」)、例えば「重力」といった概念が小学生の理科教育において「バネ測りの長さ」という「視覚的なもの、肉体的なもの」として認識されていることへの反省がありません。

そうなのですよ!
先生の言う通りに、小学生、中学生の教書を読んでも、現象・言葉の意味は分かっても、繋がりが…
それは、個々の記述は正しくても、神経が繋がっていない…
このブログでのコメントの数々は、私の言説に神経・一貫的な論理性の有無の確認ですね。


小学生という言葉を出たので書かせて下さい。
子供への教育とは、当人のその時点の認識に働き掛け、その認識をレベルアップさせる教師の言動。
教える者が、教わっている・学習者への働きかけ。
それは、叱りながら褒め・褒めながら叱る⇒「気付かせる教育」

以前に、叱らない教育について考えた事があります。
ある保育園で、徹底的に叱らない教育・躾…の話を読んで考えました。

この実践を私は、小二の算数授業でやりました。

一番前の席に座いる児童、
授業中、先生がプリント配り用意の時、
椅子を(横に動かして)右隣の児童と話していた。
それを発見しての以下の会話

私  ―「前を向いて 下さい!」
児童―「前向いている!」

私 (全身を確認、椅子が横向け、その上の体も横向きを確認)
私 (机も横にして、机と椅子の方向の一致)」
私 ―「じゃ~これで勉強して!」
児童―「無言でプリントを解き始めた」
彼の目の前には、黒板方向を向いて勉強している、さっきは話し相手の姿あり。

……時間の経過……
児童―(机・椅子の移動なく、無言でプリントを解いている)
私 「お~真面目にやってるじゃん!」と言いつつ
私 (椅・机を前へ向けた)「よく、出来てるね。ガンバ!」

その後に前の意味を調べたら


(例解新国語辞典 第四版)

「まえ」とは、空間上の「まえ」と、時間上の「まえ」とがある。
……中略…
①  自然な姿勢でたったときに顔がむいている方向。
……後略……

この児童にとっての「前」とは、①自然姿勢での「前」。(正しい)
この時の私の「前」とは、<前にある黒板の方向>、(違う)でした。

その後、色々と考えて、私は気付きました。
私の「前」に向いては、彼にとっての前」向いて、ではなかった、のです。
でも、その時には、気付いていません、でした。

でも…経験的に、多くの子供は、自分の認識を自分の正しさで言葉にしている。
そんな経験から、「俺は正しいお前は間違い!」…と…強制的に椅子の移動または叱る×だと…

そこで、彼の椅子を横向きにして、
周囲の児童の「机・椅子」は黒板方向、でも僕は横向き。
気付けているとよいのですが…

そう言えば、師範は、以前私の同輩だった松〇さんの癖?未熟?を直すのに、彼に型を演じさせました。
あれも、気付かせる為の教育、私は。ここでのコメントのやり取りが、私の認識トレーニングだと思っています。
もっとも…そうで、ないかのかも しれません。その事実確認は非常に至難です。

確認しても本当の事は言わない…かも…
唯の私の妄想の連続なのかも…
私の中の「南郷継正的な認識」で相手の言葉を理解して納得して「〇〇会」の認識トレーニングと解釈している…かも…

現実と認識の一致・不一致を確認したくても、怖い!

それが、昨日から今日までの私の「認識運動」なのです。

「怖い」理由は、〇〇会が、宗教カルトだったら、私どうなるの?
確かめにいったら怖い…でも「確かめたい」
師範は、自分みた景色が本物かどうかの確認へ大地に木から降りた…
と言っていました…確認へ行ったら、私はサル的人間から、真の人間的人間に慣れる…のかな?

このコメントが、あまりにも、ナイス・タイミングでした。
ちょうど…上記のような事を書こうと「、tadaさんと雲海上人」宛てに書こう…と悩んでいた所へのコメントでした。

そんな中、上〇ちゃんから電話があり…

〇原ちゃんとの会話内容~
今日の土曜日に予定していた〇〇支部見学に行けないパソコンメール4月7日に送信。
それを未確認で、来ていない私への電話でした。
ついつい…興奮気味にコメントと○○会の関係を話したら、全く分かって貰えませんでした。

「永遠の嘘をついてくれ」の中

「振り払え風のようにあざやかに
人はみな望む答えだけを聞けるまで
尋ね続けてしまうものだから」


「こんな気持ちです」


稽古中という事で中途で切りました。
電話で来週の土曜日に見学希望をした所、精神的に不安定な私の言動が不安になったらしく、「支部長に再度お聞きしのす」の返事でした。
何でも
「今後の「私一人だけ」の時の指導は不安定だから困る」…、
「他の人と一緒だと、他の人に迷惑をかけるから困る」…
「自分独りの練習なので見学にはならない」

だから、「私の指導はできないの?」、「私の見学に見学はダメなの?」…と聞くと、
「そうじゃなくて…色々と規則がるから破られたら困るから事前に伝えたくて…」
「不安定でから出来ない」の時の指導は困る・不安定だから他の人の迷惑になる…」「見学には支部長の判断が必要」


私が、「支部長に伺いを立てるか?」または「支部長がいらっしゃる時に 私が見学に行って、最終的な判断は支部長がすればよいし…」
そこで、支部長が「ダメ!」なら「私は諦める」し、「支部長が『OK』で 〇原ちゃんが『NO』」なら 支部長に他の支部を紹介して頂く」と言ったらやっと納得して、「そうします」となりました。

また、支部長が来られるか否かの確認メールか電話を事数日前にする」となりました。


〇原ちゃんは、新宿支部時代から一緒で、私より早く黒帯になった、後輩だった先輩です、が…」なかなかの頑固者です」
でも非常に真面目に日々の空手修業に励んでいる…ようです。
以前に私が在籍中に、一緒に試合の行った時の師範御講義の前に驚き顔で「〇原、お前まだ…」と言った記憶がありますが…


なので、支部長、来週の見学可能なら、軽く体も動かします。
今後の予定は、現在の勤務は、月・水・金の週三で15時まで です。
ただ、現在の体力に不安で、その心配があります。


宜しく 御願い します。

私は、現実の強烈な「不安心」と モノをネット界で体験しました。
ただし…私の強烈な「不安心」は、いつも「春」⇒3月から4月ですね。

一回目は、小学校勤務開始時期の4月でした。
二回目は、「母の死」1月23日から数か月たった頃でしたね。

( 家内との成立していた婚約を 彼女の両親から破棄宣言手紙をもらいました。理由は教師だったのに止めて父親のパチンコ店の手伝いする、するから)…それでも家内が傍にいたから…大事にならず無事通過)

三回目の今回は、「家内の死」十月二日(奇遇な事に私の誕生日)から数か月後の今頃。

私は、家内が生きていれば、ここまで不安定が続かなかった、と思いました、が…
しかし、家内が生きていれば、こまで不安定にならなかった…とも思いました。






歌:中島みゆき
作詞:中島みゆき
作曲:中島みゆき
発売:2006-12-21 00:17:28
ニューヨークは粉雪の中らしい
成田からの便はまだ まにあうだろうか
片っぱしから友達に借りまくれば
けして行けない場所でもないだろうニューヨークぐらい
なのに永遠の嘘を聞きたくて
...
返信する
♪♪♪確認が出来そう ですね♪♪♪ (自由びと)
2023-04-08 17:38:17
>このことを私に教えたくて

以前に自由びとさんに廣松渉さんの名前を出したことありましたっけ?記憶にありませんけど。

私が今回、廣松渉さんの名前を出したのは「廣松渉」という名前は日本を代表する哲学者の名前で、しかも南郷先生の著書では「このボケぶりを見よ!」と罵倒されているからでもあります。

「餅は餅屋」というように哲学のことは哲学者に聞くべきで、本業の哲学者よりも南郷先生のほうが優れているなんてことは現実には無いからです。

ありがとうございます
「餅」については、「餅屋に聞け」
廣松渉 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/廣松渉
廣松 渉(ひろまつ わたる、男性、1933年 8月11日 - 1994年 5月22日)は、日本の哲学者。東京大学名誉教授。筆名は門松暁鐘など。 生涯・人物 福岡県 柳川市 蒲池 出身。出生地は山口県 厚狭郡(現在の山陽小野田市)。1946年 ... 詳細

本名が、有名人として公開されているのですね。
だから「廣松渉さん」ではなく、
「廣松渉」という名前は日本を代表する哲学者の名前だったのですね。

いや~私は、はなから 雲海お宅の事を馬鹿にして


振り払え風のようにあざやかに
人はみな望む答えだけを聞けるまで
尋ね続けてしまうものだから

↑でしたね…

私の出発点である「科学的武道修業修行の論理とは」ですね。
いや~出発には、「唯物論世界観」が必要、それを持って「弁証法の修行」でしたね。

そう言えば、「弁証法」の言葉だけは知っていました。
その勉強の為に勧められた「弁証法はどういう科学」を読んでも、よくわかりませんでした。
でも、弁証法の「否定の否定」「量質転化」「対立物統一」言葉だけは記憶出来ました。

これって、ヤッパリ「♪私の悟りへの道程♪」でしたね。
あれから、33年経ちましたね。否 新宿支部支部長から言われ書き続けた「練習日記・記録」によると…

「ふたたび始めた玄和会今回は黒帯取るまでがんばる!!」
の記録は 「1989年 10月31だから」~
   34年前でしたね。


このコメントの記述が、妄想ではない 確認が取れたら なら 続きも公開したい です。
確認が とれると いいな ♪♪♪
まあ~とれなければ 私の悟りへの修行録は 永遠に私の 頭脳のなか~かな…残念。

「永遠に嘘をついてくれ」ですが…
私は、その場の嘘・言い訳はしますが…
「永遠の嘘」は、嫌で、吐き続けるのは苦痛だから、なるべくは 吐きたくは ありませんね。
返信する
Unknown (雲海)
2023-04-08 19:02:37
>黒帯とれるまで頑張る

それが33年前で初段はとったことは言っておられたと記憶しています。それで30年以上かけて今は何段なのですか?

私は玄◯の空手を経験した後、別の流派を色々と経験して自分に一番合う流儀と巡り合いました。今後は死ぬまで今の流儀を続けると思います。

自由びとさんに改めて確認なのですが、私(雲海)に遠回しに玄◯の空手に復帰して黒帯を取れと言ってるわけではありませんよね?

私がこれまでに経験した世界に広がった大流派では見学に行った際に「どうぞ見て行って下さい。そして気に入ったなら一緒に練習しましょう。」と「真っ直ぐな目で」世界大会で入賞したような指導者が語りかけてくれましたが、自由びとさんのような「遠回しに(自分=自由びとの望みではなく)私(雲海)の自主的な意向であるかの如くに、人間的な卑屈さ・いやらしさを引きずって、精神的な薄暗さを隠すことも出来ずに」策を弄そうとする《正に玄◯!》なところに失笑しましたよ。

どうして正面から言って来ないのです?「一緒に玄◯空手をやりませんか?」と。そうすれば私は「いえ、私は他に魅力のあるものを見つけましたから玄◯空手は結構です」と返しますのに。例え心の中で思っていても「あんな魅力のない武道など御免こうむります」とは言わないでしょう。

自由びとさんは玄◯組織の内側にいるから察し得ないのかも知れませんが、私は仮に極真をやることがあり、全空連をやることがあっても、玄◯の空手をやることは絶対にありません。

これまで対話をしてきて「それ」を全然気づかなかったのですか?それも不思議ですねぇ。私の頭が働くようになってきたのは玄◯を辞めて別のものを始めたからです。だから自由びとさんとは全く見解が違うわけです。

医療だってセカンドオピニオンというものがありますから、一旦はかかった病院ならば医師が了承するまで別の病院に行ってはならぬ、などということは有りませんけどね。
返信する
以下が返答です。 (自由びと)
2023-04-09 12:34:46
そして、気付きました~
昨夜から今日まで…「雲海コメントへ返答」に迷っていた私の解答が、
このブログへの記述だ!という事に


「自分から自分を識る事の問題点」…

https://blog.goo.ne.jp/satori2017dragong
返信する
やっとの安心・安堵…かな (自由びと)
2023-04-09 12:56:50
相手と「同じレベル」で闘論・議論する事は、
認識の広まりは可能でも…認識の深化・発展は難しいのです。

昨夜の私は、一々私の過去の記録・記述を調べて、
事実的に、唯お宅へ反論しようとしました。
でも…途中で疲れ果てて床へ着きました。

でも一晩眠って夢の中でも考え続けて…
最終的な私の結論が、今回の「禅問答」の解答・記事なのです。

いや~
私の個人的な私の「♪♪♪我が悟りを求めての道程♪♪♪」の記述…が、
大勢の人たちの幸福にも生かし得る、とは…愉快・痛快・ですね♪~

また、人は、他人から助けられる事で、自分ではない他人を助ける認識の習得が可能になる事。

しかし…今回の雲海お宅は、
賢そうでして、阿保みたいに抜けていますね…

これって、賢者が愚者的に書き込んだモノでしょうね…
危うく、飲み込まれ、そうになりましたよ♪♪♪

でも…とても楽しく・味わえ・考えさせられましたね♪♪♪

どうも…今回も、またまた「ありがとう」♪♪♪でしたね~
返信する

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