新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

問題の捉え方と解き方

2020-04-16 18:52:17 | 認識論


今朝、寝起きに、布団の中で、フっと思った。
『多角形の対角線の本数は?』…と。


三角形⇒0本。
四角形⇒2本。
五角形⇒5本。
六角形⇒9本。

上記の数字から、

N角形の対角線の数は、

「N×(N-3)÷2」という公式を思い出した。

ここで、(N-3)の「3」は、三角形の「3」だと納得していた、事を思い出した…
三角形では、対角線は「0」だから、「ひく3」だと納得していた。

しかし、フっと思った、
『全ては疑いうる』と…

そして思った、
『今の私は、この問題を多角形の問題として捉えている』と…

そこで思った、
『ならば、これを点と点しで作る直線の問題と捉えるなら』と…

点と直線では、
「ひとつの点では、直線が引けない」

直線は
「ふたつの点」以上で初めて引ける」
二点で一本、
三点では、一点と他の二点で、直線は六本引ける。


具体的には、点A、点B、点Cで書くなら、
AからBとC⇒ABとAC、
BからCとA⇒BCとBA、
CからAとB⇒CAとCB、

ここでは、
AB=BA、BC=CB、CA=AC


なので、三点で引ける直線は

3(点)×<3(点)-1(点)>(他の二点)÷2=3(本)


ならば、A、B、C、Dの四角形・四点では、

AからB、C、D⇒AB、AC、AD、
BからC、D、A⇒BC、BD、BA、
CからD、A、B⇒CD、CA、CB、
DからA、B、C⇒DA、DB、DC、

4(頂点)×<4(頂点)-1(頂点>)(他の三点)÷2、

4×3÷2=6(本)


五角形ABCDEならば、
同様に、
AからB、C、D、E
BからC、D、E、A
CからD、E、A、B
DからE、A、B、C
EからA、B、C、D


5×4÷2=10(本)


ここで、3本,6本,10本とは、
以下のような各辺数と対角線の本数
の合計であるから、

三角形では、三本+0(対角線)=3
四角形では、四本+2(対角線)=6
五角形では、五本+5(対角線)=10
六角形では、六本+9(対角線)=15


三角形の対角線数⇒三本-三辺=0本、
四角形の対角線数⇒六本-四辺=2本、
五角形の対角線数⇒十本-五辺=5本、


これが、N角形なら、
N×(N-1)÷2-N となる。

今、これを通分して一つの式にするなら、

N×(N-1)÷2-N となる。
=N×(N-1)÷2-2N÷2
=<N×(N-1)-2×N>÷2
=(N×N-1×N-2×N)÷2
=(N×N-3×N)÷2
=N×( N-3 )÷2


ここで、問題の「3」が浮上してきた。

因みに、ネットで検索した、公式は以下である。




(頂点の数)×(頂点の数 – 3)÷ 2


上記の式は以下のように考え導かれた。


三角形では対角線は引けない。
三点では対角線は0本となる。

これは、左右隣に引かれた直線は多角形の辺となり、
対角線とはなり得ない、という事である。


四角形ABCDならば、

AからB、C、D⇒AB、AC、AD、
BからC、D、A⇒BC、BD、BA、
CからD、A、B⇒CD、CA、CB、
DからA、B、C⇒DA、DB、DC、

AならAB、AD
BならBC、BA
CならCD、CB
DならDA、DC

全て多角形の辺となる。
四点全て。二点少なくなっている。

なので、
N角形の対角線の本数は、

N×(N-1-2)÷2
=N×(N-3)÷2




ここで結論を書くなら以下である。


この問題は二通りの思考法で解ける。
① 多角形の対角線の問題を、対角線の問題として解く。
② 対角線の問題を点と点を繋ぐ、直線の問題から解く。


さて~
だから何なの?
それはまた次回!

・つづく・















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6 コメント

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Unknown (如月)
2020-04-16 21:31:43
自由びと氏の記事にしては少し興味をもったので次回を期待したいですね。
何しろ貴方は自分のことを「天才・秀才」だと私に言ったわけですから、それだけのモノを見せていただきたいわけです。
私は自分のことを「天才」だとも「秀才」だとも貴方に言ったことはありませんからね。もっとも他人の見えないところで嫁さんにだけは自信のほどを述べたことはあるかも知れませんけど、まあ身内とのプライベートな話しですから。

私が感じるに今回の貴方の(実は私には貴女だと映っているのですがね)記事は「結局、同じ答え・結論になることでも違った視点からの入り方がある」ということを言いたいというか先入観的な問いかけとして「多角形の対角線」なんて話しにしたのだろうと思うのですよ。
それで「多角形の対角線」ということを言わないで、どうするのかと言ったら「多角形の頂点」を「ただの点」にして「点と点とを結ぶ線の本数」というところから答えを導くことで「入り方は違うけれど結論=答えは同じになる」ということを示そうとした。
ですが、例えば五角形の辺を無くして5つの頂点だけにしたときに、その5つの点を任意で直線で結んで幾何学図形を描けと言われたならば私の場合は菱形と三角形がくっついた金魚のような図形になってしまいました。
それで、そこからは最初の「多角形の対角線の数を求めよ」とは違う問題が生み出されそうで楽しいところもあるわけですが、「複数の点があって、それを直線で結んだときの本数」の中から最初の「多角形の対角線の数」に行くためには「与えられた点を結んだ線の中から<辺>と<対角線>とを区別」しなければならないわけです。
ところが貴方は最初から「違った視点から始まって同じ結論に辿り着く、つまり同じ設問に辿り着く」という先入観というか欲求がありますから、記事の後半の計算は私には良く分かりませんけど帳尻を合わせて「多角形の対角線の数」になるように誘導している。

私が思うに「天才」というのは他人と同じモノを見ても違う発想をして、つまりは考えた設問自体が「対角線の本数」なんかじゃなくて、問いかけた問題自体が違うわけですから答えも「対角線の本数」と同じにはならない、みたいなことじゃないかと思うわけですよ。

だいたいが幾何学の話しに限定しても「線」というのが「点」の連続したものですし、点の連続といっても直線もあれば曲線もあって、その「点」が「連続した点の任意の場所」でなくて「多角形の対角線を引くための頂点から辺だけ無くした場所の点」だと先入観的に前提されてることが「何だかな~」と思いますし、それだと単に「同じ問題の別解」がせいぜいでしょうが、別解にもなっていない、「同じ問題の同じ答え」でしかありません。

遠慮することありませんから、そんな隠し立てしないで自由びと氏の天才さを遺憾なく見せつけて下さいな。(爆)
返信する
合わせようピントを♪ (自由びと)
2020-04-17 12:33:27


毎度毎度のコメント書く込みに謝辞を書こう。
お読み頂きコメントまで頂きご苦労で様ぞ!


さてさて~

>何しろ貴方は自分のことを「天才・秀才」だと私に言ったわけですから、
>それだけのモノを見せていただきたいわけです。

↑~
こんな事を書いた記憶は、残っていませんが…

でも…折角の御言葉ですから…
少々「天才と秀才」についての書きましょう。

「秀才とは、秀でた才能」、
「天才とは、天から賦与された才能」、 
のもち主、という事。

どちらも、
その人物に現在表れている能力に対す評価となります。

秀才は、努力・獲得した、才能。
天才は、持って生まれた、才能。

秀才は、唯物論的な言葉。
天才は、観念論的な言葉。

どっちにしても…どちらも、
「優れた才能」の持ち主という事になります。

しかし、それは、
現代社会で「優れた」と評価可能な能力であり、

真の「秀才・天才」は、生前はその社会では、
「優れている」という評価を得られないモノ、のようですよ。

どちらにしても、天才も秀才も、
他人・大勢の人々…
社会的な評価・言葉ですね。

だから、私は自分で自分を秀才・天才とは書きません。
書くなら、
「過去に誰々から、そのように言われた事がある」…
となりますかね…。




因みに、ドラマ「スーツ」の若手の主人公は、
一度見たモノは、記憶に残り、
いつでも、、どこでも、いつまでも、思い出せる能力の持ち主だ、そうです。

それって、
見た物事を一瞬で脳裏に焼き付けてしまう能力だそうです。



>もっとも他人の見えないところで嫁さんにだけは自信のほどを述べたことはあるかも知れませんけど、まあ身内とのプライベートな話しですから。

↑~
「自信のほどを述べる」とは、どのような事を言うのて゜しょうか。
「自信」は、述べるモノではなく、態度・言動・立ち振る舞い…
に現象している・してくる・滲み出てしまうモノだと、
私は認識していますが…


以上は、前置きです。

さて、以下は、本論です。

さて、さて、
今回の記事へのお宅のコメントですが…
私の感想は、「ピント外れだね♪」です。


この記事で読み取って欲しい事は、
「事実」の記述を通して、そこに流れている「論理」なのです。

非常に残念な事に…
お宅の読み取っ たモノは、私の欲した論理でありません。
それは、私の事実を否定して、お宅の欲した事実の提示、です。
この過程にある「論理」とは、私の記事・内容の全否定です。

それは、以下のコメントに顕著に表れています。
>今回の貴方の(実は私には貴女だと映っているのですがね)

お宅に、どのように映っていようが…
私の事実は、私は「俺は男だ!」です。


さてさて、
折角にお宅様から寄越して
頂いたコメントですから、

私の読み取って欲しかった、
続・編で書きたかった、
その「論理」を書きましょう。


それは、以下のようなモノです。

眼前の対象との関わり方には、
①  目の前の事実を操作して、変化・変形さてつつ関わる。
②  その対象に関わる記憶・書物・過去…の事実と関わる。  の二通りがある。


端的には、
①  事実・身体的な関り。
②  観念・認識的な関り。

ここで、①の「事実・身体的な関り」には、個人的な限界がある。
しかし、その限界は、②の他人・書物…言動・記述の地からを借りるなら突破可能である。


上記の方法をこの記事の例で説くなら、

① の方法でやるなら、
「公式」を繰り返し書き続けて
丸暗記して公式を暗記して終了。

② の方法が、「点と線」までに遡って、その筋道に沿って、
公式の意味・内容を理解・納得して覚えて暗記可能にする。



しかし、お宅は、このような読み取れていません。
その理由として考えられるのは、
以下のコメントに書かれている、

「…他人の見えないところ」でも…」
「…自信のほどを述べたことはある…」

その、お宅の「自信のほど」がなせる技ですかね♪♪♪


どうですか?

「遠慮すること」なく「隠し立てしない」
「自由びと氏の天才さ」を「遺憾なく見せつけて」いる

上記の記述に、実感・納得できましたか?


まあ~
自由びとの記述を
真面目に真摯に読み取ろうとしない・読み取れず、
全否定的な認識で読んでいるお宅には、
無理・無理なのかも…ですね♪♪♪♪♪


師範曰く!
「修行とは、出来ない事をやり続ける事」だそうです。


そうそう、今回は、
「阿保・馬鹿」ではなく、
「秀才・天才」でしたね。


これって、
「両極端は一致する」という
弁証法的記述ですね。

まあ~どっちにしても、
まあ~こんな時世ですから
きっと~ヒマしている事でしょうから、
また~遊びにいらっしゃいな♪♪♪

「書く事は考える事」ですからね♪♪♪









返信する
Unknown (如月)
2020-04-17 13:30:09
自由びと氏、自由びと氏の今回の返信は何を書いたのか私には俄に理解できないものでしたよ。
ま、何度か読み返したなら意味を読み取れていくのでしょうけれどね。
貴方は読者である私に何かを期待したのですか?残念会ながら私は貴方と一緒に何かを創り上げていく共同者だという認識は無いのですがね?なぜなら考えることは人それぞれですから、一緒に何かを生み出し創り上げようとする関わりと、相手が発表していることを理解するというところまでの関わりと全てが一緒くたであるはずも無いことは還暦まで生きてきたなら常識的なことではありませんかな?

私はそのように、貴方が何を書いているのかを一度では判然としなかったものですから2度読んだわけです。それで、どうやら自由びと氏の書いていることは「公式を単に暗記することと、その公式が確かに正しいのかを導出して証明できるのか?」という話しに収斂させられると感じたのですね。
その時点で自由びと氏のまとめの記述とは一致しないわけですが自由びと氏の書いている数式の展開を総括する私の見解としては的を射ているし筋が通ったものだなと考えたのですよ。
それで、その私の見解に合致したような識者の見解が有るか否かを検索してみたならば大学受験のところにあったわけです。
いわく「貴方(大学受験生)は受験数学のために公式の暗記までで留めておきますか?それともその公式の証明までできるようにしておきますか?」というわけでした。
それに対して8割方の受験生が「公式の証明までできるようにしておく必要がある」と答えています。それは「過去問に公式の証明が出題された事例がある」ということから「点数を取って志望校に合格するためには公式を用いて解答を導けるようにしておくばかりではなく、その公式自体を導き出して公式が正しいことを証明できる必要がある」という判断なわけです。
正にプラグマティズム的といいますか、敢えてマンガ的な起承転結をつけるなら自由びと氏の書いた「既知の公式の数学的な証明ができることが志望校に合格し専門分野の学位を取って社会人として成功する道の一里塚」だという現代社会における予備校だとか進学校で別に普通に指導されている事柄なのでしょう。
では、そうした自由びと氏の発言に対する私の理解とは区別された私自身の数学や公式に関する理解とは如何なるものか?は別にここで披露する必要もないでしょう。あくまでも自由びと氏のブログですから自由びと氏の発言を理解するということに関わって対話がなされるものですからね。

ま、私が述べた「この記事の「つづく」の後の次回の展開は斯様なものに違いない」という起承転結の「結」が必ずそうなるという絶対性はないわけですから、自由びと氏は正に自由に次の展開を書けるわけです。
期待してますからお書きなさいな、自称・天才さんwww
返信する
「天才」とは? (自由びと)
2020-04-18 13:24:09


まあ~確かに、
その通りの自由に!ですね。
私は、私で自由に展開して書くし、
お宅は、お宅で自由勝手ですね。

でも…苦言を一つ~

このブログ主である私と
コメント主のお宅とでは、
その自由の範囲に相違がある筈だと、
私は思っています。

でも…まあ~
一般常識・分別・良識…に
欠けているお宅は、
そうは思っていないだろう
事実は認識できています。

それでも、苦言を書きました。


だから、
私が、書いても言ってもいない事柄を、
さも、事実であったかのように書くのは、

それって…
お宅の自由の許容範囲遺脱ですね!

それは、以下のお宅の最後の言葉

「自称・天才さんwww」

これって、
存在しない事実、
虚偽ですよ!



過去・現在、そして未来永劫~

私は、「自分は天才だ!」と
思った・思う・思うだろう事も、
言った・言う・言うだろう事も、
書いた・書く・書くだろう事も、

ありません!

そもそも…
「自称天才」は、天才ではありません。
「天才とは、他人・大勢・社会が評価するモノです」と、
書いた筈ですよ。


失礼!失言です!
そもそも、私はの記述を、
自分勝手な思いで理解・納得している、
お宅には、読めている訳ありませんでしたね…

結論~
お宅が、お宅の自由で理解・認識し続ける限り、
ここでの記事・記述内容を的確に理解する事は、
非常に難しいですね!





返信する
Unknown (弥生)
2020-04-19 11:35:54
もう4月も後半ですからハンネを「如月」から「弥生」に変えました。

自由びと氏はお忘れみたいですが、今年の2月22日の記事「一を十個足すと、10と書くのは?」への自由びと氏の2月23日のコメントに「私は天才秀才」だと書いたでしょう。もっとも「相手が自分を天才秀才だと思っているなら」なんて変な理屈で誤魔化してはいますが、「自分は天才秀才だ」などとは述べてもいない相手にそんなことを言う必然性もありませんし相手がどうだろうと相対的に独立して存在してるのが唯物論者の自由びと氏なはずですから、自分の考えは「われ思うゆえに
われあり」で直接的同一的に把握できるでしょうが、他人の考えは超能力者でもないかぎり聞かなければ解らないものでしょうに。
端的には自由びと氏が自分を「天才秀才」だと思っていた証が2月23日のコメントですよ。

それでね、自由びと氏は確か自分の奥方が博学だと書いていた記憶があるんですよ。そんな博学の嫁さんがいたなら嫁さんとの対話が浸透してきて自分も博学になっていくもんじゃないかと私には思われるんですわ。ところが自由びと氏のコメントは一向に博識なものとはなっていかない。私はこれを不思議に思っているんですわ。
私の嫁さんは特定分野の専門家ですから特定分野には詳しいが博識でもない。
でもね、今回の「多角形の対角線」に関して私なりの道筋を考えてはみたのです。それは私なりの「解った」と思える道筋なので本来は自分のブログに書くべきことではあるのですが自由びと氏には特別にお教えしましょう。
社会人になって久しい私は「多角形の対角線の本数」と聞いて先ずもって「それがどうした?」と思ってしまったんですね。自分の日常生活の中に必要なこととも思われなかったものですから。「そんな純粋数学の話が何なんだ?」とも思ったのですが、気を取り直して「多角形の対角線の本数」なんてものが現実社会で必要な場面があるだろうか?と考えてみたなら「図形を変形させずに維持しておくには対角線の変わらない長さが必要だ」と思ったわけです。
正方形の四辺の長さが全て等しくても対角線、長さが変わっていけば正方形から菱形に変形してしまう。だから形を維持するためには図形の外枠を決定する「辺の長さ」とは別に図形の内側に支柱たる長さの変わらない対角線が必要になる。いわば生物の細胞の形を維持する細胞骨格のようにね。
それで、現実世界での形が変形しないための対角線って何があるだろう?と考えて「対角線」というキーワードからボクシングだとかの四角いリングや総合格闘技だとかの五角形、六角形のリングを連想したのですが、調べてみたならリングの基礎鉄骨は対角線には入っていなくて外周の辺と平行みたいなので「対角線」という形式の強さは考慮しないで「鉄骨」という材質の硬度だけでいってるみたいだと知ったわけです。
それはともかく「多角形の形が変わらないように維持する」という機能性から対角線というものを捉えたならば、先ずは対角線の「長さ」がどのぐらいか?ということを計算的に導き出す必要性が出てきます。
その上で「その⚪⚪mの長さの対角線が何本必要か?」という支柱たる鉄骨を発注するという経済的(財貨の交換)という面での「多角形の対角線の本数」を算出する必要性が出てくるわけです。

そのような現実社会・現実生活に純粋数学の計算を結びつけて「解った!分かった!」と理解できた人間の頭の中での働きを、日本語では「解る:つまり牛の角を刀で切る様、分かる:つまりは刀で切る様」だと言語化・比喩化・メタファー化したねは、「こうでは無い、ああでは無い」と区別=切り分けられたという思考であり、それを英語で「アンダースタンド:下に立つ」というのは言わば「上では無い」という否定性を内に孕んだ思考・言語化だと思うわけです。
言ってみれば庄司和晃の三段階連関理論の「昇り降り、上と下」という対立関係にあると捉え得るものの間での運動で、私はだから人が何かを理解するという一つ一つの認知活動においても弁証法的な活動がなされていると思っているわけで、その点では『武道修行の道』だかでの「弁証法は個々の事例には顔を出さずに最後に総括するときに必要になる」みたいな見解とは意見が違うわけです。
もっとも、最新号の19号では私の見解に近いような発言が見られましたけどね。
返信する
ご苦労ぞ! (自由びと)
2020-04-19 16:20:20


>自由びと氏の2月23日のコメントに「私は天才秀才」だと書いたでしょう。<とは、以下の記述てすね。



「 同類という事なら~
お宅が、私を阿保いうのなら、お宅も同類の阿保という事になり。
お宅が自分を天才・秀才と思っているから、同類の私も天才・秀才てという事です。」


これは、<私が「自分を天才・秀才」と思っている>のではなく、
お宅のように「馬鹿・阿保」と書き続ける者と私が「同類」なら、
それが、どのような「同類」なのか、という説明の為に書かれた、
「方便」しての仮定的な言葉でしょうに…

それをまあ~
自分勝手に「自由びとは自分の事を天才・秀才」と書いている…
なんて、よくぞ言い切ったものよ…

お宅には、事実と方便( 論理 )の区別がつかないようですね。

そんな事だから、
このブログの自由びとの書きたい事が分からない、
のですよ。

対角線の問題は、幾何学の問題です。
それを「純粋数学」の問題・計算として…
と言って、いいものなのしょうかね?


まあ、折角の長文コメントだから、
労いの言葉を書いておく事に…。

非常なる御苦労ぞ!
存分に休みなさい!

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