現実界をみるなら~
肉眼で直接見られるのは、今はこの瞬間だけ、だろう。
我々が、八ミリフィルム映画を見る時、
スクリーンでスムーズに流れ変化する映像が一連の運動として認識できる。
運動とは、運ばれ動く事・位置が変化する事。
フィルムの位置は変化しない。
ただ一枚一枚のフィルムが映し出されているだけである。
その一枚一枚の連続を見た人が頭脳内で「運動・動いている」と認識しているだけである。
我々が「走っているイヌ」の姿を見ている時、
頭脳内の残る今この瞬間の次から次への「イヌの姿」を記憶し…
それら一つ一つの像を同じイヌの連続の姿として認識した時、それを「変化・運動」と表現している。
現実界のどこにも、事実としての「変化・運動」は存在しない。
存在するのは、今この瞬間を事実・像である。
あるモノの姿・変化した像を、同一のモノであると認識するのにも、それなりの実力が必要であろう。
また、一つ一つの記憶像を連続体として捉えるのにも実力が必要であろう。
ある人物の生誕から大人までの一枚一枚の写真を、成長の流れに即して並べ直す作業は、その人物の全く知らない人にとっては難しい。ましてや他人の写真が混じった一枚一枚なら殆ど至難であろう。
端的に言ったら玄和会の会員が南郷氏の教えに従って三浦つとむの『弁証法はどういう科学か』を読んで身につける「弁証法的なものの見方」が全く無いことは理解できます。
それは先の文章にも書きましたけど「真理の相対性」を探そうとせずに「絶対的な真理」を探そうとする姿勢から南郷的・玄和会的ではないと感じますし、もしかしたならこの文章は自由びとさんがどこかの大学で学んだ哲学科の絶対真理を説く講義からなんでしょうかね。
赤ん坊のときから成人までの写真を同一人物のものを並べるのは難しい人と分かりやすい人とがいますね。それはお父さんかお母さんに特徴があって、その人の子供だと赤ん坊から成人に至るまで判断がつくような人がいるんですよね。
でも写真を比べてどちらが古い写真なのか、一年前の写真なのか2年前の写真なのかを判断するのは難しいですし、似たような顔の写真を同一人物か別人かを判断するのも難しいことがあります。
その「写真を目的どおりに判別できない」ということを、自由びとさんがいいたい?「変化はあるのか?無いのか?」ということで利用するには、言ってることが良く分からないというか、説明が下手というか成ってないと思うのは私だけ?
要するに、誰かに何かを説きたくて書き綴っているのだと思うのですが、その相手の立場に一旦はなってみて、それから書くという姿勢が感じられません。
常識的にいって「世の中で運動や変化が無いと思っている人間はいない」といって良いと思うので、それを「世の中に運動や変化はない」ということを述べるのならば、「みなさんは、普通は運動や変化はあると思っているでしょうが、実はそうは考えていない人物がいるのです。例えば、この私、自由びとは映画が静止画の連続で構成されているように、現実の世の中も切り離された一瞬一瞬の一コマの連続が脳内で合成されて運動・変化しているように錯覚しているのだと考えているのです。」と説けば、この変な自由びとさんの「読み手を無視した独りよがりな書き方」よりも随分と分かりやすいものになると私には思えます。
自由びとさんは全力で馬鹿を演じてらっしゃるのですか?
例えば、ここでは「運動と静止」ということを話したいのだと思うのですが、「運動一般」だとか「静止一般」だとかの「すべての運動」だとか「すべての静止」について漠然と説きたいわけではなく、「古代ギリシアのゼノンの説いた《不動》」について説きたいのだ、と。
ゼノンの詭弁ではアキレスは亀を追い抜けないとしましたが、「それでもアキレスは亀のいたところまで走っていけてるではないか!運動できているではないか!」と思うのが普通ですよね。ですから、ここでの「不動」というのは「亀も人間も体を動かすことは出来ない」といった日常生活で感覚的に判断できることの否定ではありません。
そうではなく、「前を行く亀と後ろを走るアキレスとの《前と後ろ》という位置関係が変わらない」という意味でしょう。
これが、後のアリストテレスにおいて「不動の動者」とされて変化・運動の因果関係を形而上学的に説いた上で、さらにその上に動かない、関係性の変わらないものがあるとされた、それが「ゼノンの絶対矛盾」なるものから派生したと哲学史において理解されるものなのでしょう。
そうした「関係性の不動性」は過去の「国王・貴族と大衆」から現代の「社長と平社員」まで普通に見られたものでしょうが、この「関係性の不動性」を「人間の加齢による容姿の変化」として写真を正しく並べられるか?なんて話しにしてしまうと、意味が全く分からなくなります。
それが同じ玄和関係者でも東京大学と獨協大学とのレベルの違いでしょうね。
その「動中の不動」の把握は哲学史を経て近現代の科学的法則に繋がったものだと考えることも可能ですね。
中国ないし東洋においては技術は発達したものの科学的法則の把握は西洋に及ばなかったのもパルメニデスやゼノンの「不動」の考えが無かったからだと解釈することも出来ます。
もっとも、自由びとさんのように「即物実体論的(南郷氏の言葉)」に感覚的な対象自体が運動・変化していないのである、と解釈する人もいるのでしょう。
たしか「パルメニデスやゼノンのようなエレア派の哲学者は感覚を信じずに理性のみで思索した」と解釈している人の文を以前に読んだことがありますが、当時の古代ギリシアで「感覚でなく理性で」とは言ってないでしょうから(プラトンの対話篇でソクラテスがそんなことを言ってるくだりがあったように思いますけど)後世の人の解釈なんでしょうね。
そうすると、自由びとさんのように感覚的に変化・運動しているものを独我論者のように非連続として考える人が出てきても不思議じゃないわけですね、感覚を否定して。
ですが、私はパルメニデスやゼノンは感覚を否定したのではなく、感覚的なものの上に概念的なものを位置づけた、二重化の祖みたいなものだと思われますね。南郷氏の「絶対矛盾」の解釈と一致しているか分かりませんけど、後々の哲学史や科学史の発展から鑑みて、そう考えるのが妥当だと思いますね。
>「真理の相対性」を探そうとせずに「絶対的な真理」を探そうとする姿勢から南郷的・玄和会的ではないと感じますし、
↑…
間違った解釈ですね…
「真理の相対性」…とは、以下のようなモノでしょうね~
「絶対的な真理」を一つ一つ求めて行く中で、ある真理と別の真理が相対的である事に気付いていくモノですよ。
「自分が絶対に正しい」と思った事を、他人の「正しい」で強く否定される事から、
「俺の正しいと彼の正しい」の区別と連関を求めて思惟する過程で、「正しい事(真理)の相対性」に気付くのですよ。
>私が素朴に感じたのは、この自由びとさんの文章には海保静子さんの言う「自分の他人化」が無いなあ、と。
>要するに、誰かに何かを説きたくて書き綴っているのだと思うのですが、その相手の立場に一旦はなってみて、それから書くという姿勢が感じられません。
笑止千万・ 天に唾してますよ…
ここは、自由びとブログです。
書かれた言説は、自由びとの精神です。
それを理解するには、自由びとへ二重化する事で初めて可能です。
ここの、自由びと記述が理解できないお宅自身を棚に上げて、
その、お宅自身の二重化・自由びと化出来ない事実に気付けずに…
こともあろうか…原因を自由びとの能力に押し付けていますよ。
確かに、自由びとに文章力があれば、
お宅のような者にでも容易く理解可能にかけるでしょうが…
何分…国語力・作文・文章力…が未発達な自由びとには難しいようですね…
別の範囲では、絶対的に正しい「真理」。
ある範囲と別の範囲の区別と連関が見て取れ、
それら「絶対真理」の相対性が見て取れたた時、
そこから「相対的真理」へ向かう、のだろう。