月研ぎさんから、コメントを頂いた時、本当に忙しかったのか?
確かに、忙しかったのは事実である。
しかし、それでも…
忙しいからと言ってブログを書けない程の忙しさだった…
と言えば、そうとは言えない。
その理由は、
テレビを視る時間はあった。
寝る時間もあった。
買い物へ行く時間もあった。
からである。
人間にとっての「忙しい」には、
二重性がある。
一つ、身体が忙しい。
二つ、認識が忙しい。
24時間休みなく、働き通しなら、それは身体的な忙しい…
しかし、普通に考えて、それはあり得ないだろう。
仕事せずに身体的に余裕・時間があっても…
仕事の事を思い続けているなら、それは忙しい、となり得る。
月研ぎさんからコメントを頂いた時の私は、
勤務中の学校では子供達の事を想い・考える事に忙しかった。
帰宅したなら、確定申告の事、不動産登記の移転手続きの事、
そして、相続税の申告書の書き方の事…等を想い・考える事に
心も頭も使われていて忙しかった。
そんな私には、教育について、
まともに思い考える頭脳の余裕は皆無であった。
そんな私だったが…
今は、
私と家内の確定申告も
亡き父の準確定申告も終わり、
不動産登記の移転手続きも終了して、
残るは最後の相続税の申告書を書くだけとなった。
そんな状態の私だから、
やっと、まともに月研ぎさんのコメントに応えられるのだろう。
それは、
「距離」についてである。
ここでの「距離」とは、
私の認識と月研ぎさんコメントとの「距離」である。
月研ぎコメントを読んだ時、
それまで思いも考えもし得なかった
(先生と児童の)「距離」というモノが身近に認識し得た。
しかし、そのコメントを読み終わった瞬間、
その「距離」は遥か彼方へと去って行った。
その大きな理由は、
初めて知り得た「距離」というモノは、
私にとって身近なモノではなかった。
それでも、心に頭に余裕があれば、
未知のモノでも、離さずにいられただろう。
ある子供にとっては、身近なモノでなかった先生の教え、でも、
別の子供にとっては、身近なモノ足り得たなら、その別の子は忘れない。
そして、忘れない子供の言動は、先生の傍でなら先生的足り得るだろう。
そんなミニ先生的な同級生・先輩が、傍にいれば、
先生の教えが身近ではなかった子供の身近に、
「先生の教え」が存在し続け事になり、
その結果、身近に先生がいないにも関わらず、
先生の教えが身近にあり続ける事になる。
先生の教え・言葉・認識は、高度で多彩、多義である。
それを子供は、自分の分かる範囲で習得していく。
他の子供が、習得できた範囲の事なら、
例え先生の言動から、その教えが分からずとも、
他の子供の言動から習得可能であろう。
先生の教え・目標・悟り…等は、
今の自分の位置からでは、
遥か彼方で見え難いモノであったとしても…
自分よりずっと先にいる者には、
その教えの微かな影が見えるのかもしれない…
そんな、
先に立っている先輩の言動・様子・態度から、
遥か彼方にあるだろう…先生の教えの位置を想定して、
歩み続ける事が肝心なのだろう。
今の目の前の先生は、別の先生の教え子かもしれない。
更に、その別の先生は、他の先生の教え子なのかもしれない。
そして、その先には、もっともっと先生がいるのだろう。
何しろ「先生」とは、先に生まれた人、なのだから…
最終的・究極的な先生とは、宇宙・世界・自然…であろう。
だから…
動物的な本能が消失した人間は、
宇宙から、世界から、自然から…
学問を学び習得し続ける必要があるのだろう…