「(略)柘植の郷ウォーキング」その3、芭蕉公園&福地城跡、万寿寺

2022-05-11 16:17:36 | 松尾芭蕉と横光利一のふるさとを訪ねるウォークイベント
*④名阪国道下り線SSの道の駅 いがで休憩を終え、
名阪国道のすぐ傍を歩き、高架をくぐったところから再開します。
今の時期「山藤」が巨大に伸びつつ、藤色の花を咲かせているのはよく見ます。

目の前のコレ、📷で撮って調べると…
桐の花」でした、藤の花は下向きですが、「桐」はしっかり斜め上向きにキリっと咲きます。
かなりの大木で近くにも寄れず遠目で見る限り、
蔓状にはなっていないので、区別はできると思います。
  
(個人的に道草or寄り道が多いので必ずグループの中の最後尾になってしまいます
 💦って走るので余計疲れる、アホやなぁと思います けど)
今まで歩いていた道は「名阪国道」の側道になり、
目の前の丘陵地へ右折すると、本格的な山道っぽくなります。
  
ほんの少し「山道=崖道」ですが階段付きなので大丈夫です。
以前来た時は「福地城跡」の正面から上ったので、
こんな裏道?があるとは知らなかったです。
少し登って、見上げた「石垣」、確かに見覚えがあります!

*⑤「芭蕉公園&福地城跡」
ここで柘植駅前の案内看板より
 ≪芭蕉公園 (柘植駅から 2.4km ) 俳聖松尾芭蕉を顕彰し、福地城址に造られた公園
  福地城址は中世城館の形をよく残しており県史跡に指定。1㎞西方には芭蕉翁誕生宅吐がある。≫
正面に「芭蕉句碑『古さとや 臍の緒に泣く としの暮』」


近くに「横光利一『考へる葦』の中に」の抜粋文
蛙がいっぱいいると思っていた井戸と園内
  

城跡正面の石碑と説明文
 

ウォーキング当日(5/8)配布資料より
≪中世の土豪柘植三方(サンポウ) (福地・北村・日置の一族)のなかの福地氏の城跡で、
 丘陵頂部の郭群(カクグン) (詰の城) と丘陵裾(フモト)の(カク)(平素の館) からなる。
 中世の典型的な掻揚(カキアゲ)式で石垣の表門跡土塁がほぼ残っている。
 天正伊賀の乱の時、福地伊予守宗隆は、織田信長に味方して信長没後伊賀を追われた
 明治26年 (1893) は芭蕉翁200回忌にあたり、翁の父の叔父から8代目に当る松尾宇八郎氏が
 福地伊予の守から譲り受けていた土地を当時の東柘植村に寄贈。
 松尾六家をはじめ村の有志によって「芭蕉翁生誕の碑」と「臍(ホゾ)の句碑」を建立し、
 顕彰行事が行われた。その後、明治43年になって一時荒廃していた福地城跡を公園化して
 「芭蕉公園」と名付けた。≫

城跡から「万寿寺」への道すがら、野の花と広い空に飛行機雲
 

*⑥「万寿寺」
当日配布資料より
万寿寺の本山は永平寺で、上野の広禅寺の末寺、寺の前身は長福寺で、
 宝暦10年 (1760) に万寿寺に改められ、 約240年となる。
 長福寺は福地氏の祈願寺として1200年頃(鎌倉時代)に開山された。
 本尊木造地蔵 菩薩坐像は、この寺の住職了賢房(リョウカンボウ)和尚が
 鎌倉時代を代表する仏師、寛慶・ 忍慶(カンケイ・ニンケイ)親子に両親の追善供養のために
 貞治3年(1364) に作らせた。胎内文書とともに国の重要文化財に指定されている。
 毎年11月17日にしぐれ忌が行われる。≫

山門、花の鬼瓦、境内の「青面金剛像」。
   

万寿寺は「松尾芭蕉の菩提寺」です。
 


では、「徳永寺」へ向かいます……
今日はここまで

※詳しくは…とは、おこがましくて書けませんが、
「伊賀忍者回廊巡り」の時の様子を訪問記録として載せておきます、
2020/7/28訪問「福地城跡」と「萬壽(万寿)寺」

ではまだ続きます


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