何せ、盛りだくさんコースなのです。(ウォーキング予定距離は8kmと書かれていますが…???)
3回書いてもまだ「昼食休憩」になりません
どんだけ「見どころ」あるねん…柘植!
実は、柘植駅を出発する時から某新聞記者さんも一緒に歩いておられ、
5/9の朝刊は休刊、翌5/10付けの朝刊にこのイベントの事が掲載されており、
幾人かの方がインタビューも受けられたようですので、ご参考までに…
「煉瓦塀見学」の様子
さて、「万寿寺」を後にして、コノ道を歩いていて
(再掲)
だんだん方向がわからなくなるワタシ
「今、どこを歩いているんですか?」
「この道は『国道163号線』に出る道ですよ…」モヤ モヤ モヤ モヤ
「次は、確か『徳永寺』ですよねぇ…」
見覚えのある標識!
「わかりました! 国道と旧街道の交わる『辻』ですね…」
*⑦「徳永寺」
徳永寺全景
柘植駅前の案内板説明より
≪柘植駅から (1.5km)
本能寺の変(1582年)の直後、徳川家康が三河へ戻る伊賀越えの際に休息した寺。
後年、その恩賞として、周りの山林田畠が下賜され、屋根瓦などに葵の紋を使用することが許された。≫
静永住職にお話を伺います、
ここでは丁度「掛け軸:善光寺如来絵伝」※1のお披露目もあってお忙しそうでした。
ウォークイベント参加者は、次の予定もあるので、ということで「山門」の中でお話を伺いました。
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『藤堂藩主代々の寄進状』が現存していることや
『家康の命日に法要を営むことを記した書付状』など、また
「江戸時代の終焉と共に『徳川憎し』の雰囲気があったのか?、
明治維新以降の150年ほど、家康の法要は忘れ去られた存在になっていた」そうですが、
近年再開されたことなど伺いました。※2中日過去記事2021/6/6
※1:中日新聞「善光寺如来絵伝」絵解き記事
2022/5/9付け
「徳永寺本堂」
何日間もお堂に籠って描かれたそうです。
当日「徳永寺」より頂いた資料、
その記事 「善光寺如来絵:一幅目、二幅目」
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お披露目は5/9で終了しています、あしからず。
「徳永寺」を後にし、ぼちぼち空腹感が増してきますが、もうひと踏ん張り!
*⑧「横光利一文学碑」
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柘植駅前案内板より
≪彼がこよなく愛した丘に横光利一文学碑がある≫
この丘から「霊山」と「柘植の町並み」が綺麗に見えました…
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参考①:「伊賀ぶらり旅」より
余談になりますが、
上野高校正門から明治校舎、
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参考②:上野高校正門横の「横光利一碑」より
≪横光利一(1898~1947)
大正末期に発表した『日輪』や『頭ならびに腹』などによって川端康成らと共に「新感覚派」と よばれた。
その後、『機械』『上海』『紋章』『家族会議』などを発表して昭和初期の文壇を代表する作家となったが
長編『旅愁』が未完のまま病没した。
1911(明治4)年、当時の三重県第三中学校 (現・上野高等学校)に入学し、卒業までの5年間この校舎で学んだ。
その青春の思い出や初恋の体験を小説『雪解』(昭和8年・20年)に描いている。
幼年時代、大分県出身で鉄道技師の父について 転居を重ね、小学校時代の大半を母の郷里の柘植 (現・伊賀町)で過ごした。
中学時代と合わせて 約10年間過ごした伊賀について「私の故郷である」 と書いている。
揮毫は岸宏子氏。上野市在住の作家で 『若き日の芭蕉』など作品多数。父が横光の 従兄弟であり、
「ふるさと伊賀上野の横光利一」 などで少年利一の横顔を伝えている。≫
柘植を訪れていろんなお話を聞くにつれ、
横光利一の故郷は「帰りたくても帰れない(芭蕉もそうだったように)、柘植!」
だったのではないでしょうか。
ここにいると、幼い頃の思い出は絶対忘れないし、旧制第三中学時代の初恋も含めて、
一番濃厚な時を過ごしたのが柘植であり上野だったかもしれないと…そんな気がしてきました。
さぁ、ここからが長かったです、「余野公園」まで何キロ?
(google地図によれば、約2.6km 30分
)
確かに、ちょっとしんどかったかな、口数が減ってきたような気がします。
でもツツジが満開!と前日のニュースで伝えられていたので、楽しみです。
もう少し、つづく
3回書いてもまだ「昼食休憩」になりません
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どんだけ「見どころ」あるねん…柘植!
実は、柘植駅を出発する時から某新聞記者さんも一緒に歩いておられ、
5/9の朝刊は休刊、翌5/10付けの朝刊にこのイベントの事が掲載されており、
幾人かの方がインタビューも受けられたようですので、ご参考までに…
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さて、「万寿寺」を後にして、コノ道を歩いていて
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だんだん方向がわからなくなるワタシ
「今、どこを歩いているんですか?」
「この道は『国道163号線』に出る道ですよ…」モヤ モヤ モヤ モヤ
「次は、確か『徳永寺』ですよねぇ…」

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「わかりました! 国道と旧街道の交わる『辻』ですね…」
*⑦「徳永寺」
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柘植駅前の案内板説明より
≪柘植駅から (1.5km)
本能寺の変(1582年)の直後、徳川家康が三河へ戻る伊賀越えの際に休息した寺。
後年、その恩賞として、周りの山林田畠が下賜され、屋根瓦などに葵の紋を使用することが許された。≫
静永住職にお話を伺います、
ここでは丁度「掛け軸:善光寺如来絵伝」※1のお披露目もあってお忙しそうでした。
ウォークイベント参加者は、次の予定もあるので、ということで「山門」の中でお話を伺いました。
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『藤堂藩主代々の寄進状』が現存していることや
『家康の命日に法要を営むことを記した書付状』など、また
「江戸時代の終焉と共に『徳川憎し』の雰囲気があったのか?、
明治維新以降の150年ほど、家康の法要は忘れ去られた存在になっていた」そうですが、
近年再開されたことなど伺いました。※2中日過去記事2021/6/6
※1:中日新聞「善光寺如来絵伝」絵解き記事
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何日間もお堂に籠って描かれたそうです。
当日「徳永寺」より頂いた資料、
その記事 「善光寺如来絵:一幅目、二幅目」
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お披露目は5/9で終了しています、あしからず。
「徳永寺」を後にし、ぼちぼち空腹感が増してきますが、もうひと踏ん張り!
*⑧「横光利一文学碑」
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柘植駅前案内板より
≪彼がこよなく愛した丘に横光利一文学碑がある≫
この丘から「霊山」と「柘植の町並み」が綺麗に見えました…
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参考①:「伊賀ぶらり旅」より
余談になりますが、
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上野高校正門から明治校舎、
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参考②:上野高校正門横の「横光利一碑」より
≪横光利一(1898~1947)
大正末期に発表した『日輪』や『頭ならびに腹』などによって川端康成らと共に「新感覚派」と よばれた。
その後、『機械』『上海』『紋章』『家族会議』などを発表して昭和初期の文壇を代表する作家となったが
長編『旅愁』が未完のまま病没した。
1911(明治4)年、当時の三重県第三中学校 (現・上野高等学校)に入学し、卒業までの5年間この校舎で学んだ。
その青春の思い出や初恋の体験を小説『雪解』(昭和8年・20年)に描いている。
幼年時代、大分県出身で鉄道技師の父について 転居を重ね、小学校時代の大半を母の郷里の柘植 (現・伊賀町)で過ごした。
中学時代と合わせて 約10年間過ごした伊賀について「私の故郷である」 と書いている。
揮毫は岸宏子氏。上野市在住の作家で 『若き日の芭蕉』など作品多数。父が横光の 従兄弟であり、
「ふるさと伊賀上野の横光利一」 などで少年利一の横顔を伝えている。≫
柘植を訪れていろんなお話を聞くにつれ、
横光利一の故郷は「帰りたくても帰れない(芭蕉もそうだったように)、柘植!」
だったのではないでしょうか。
ここにいると、幼い頃の思い出は絶対忘れないし、旧制第三中学時代の初恋も含めて、
一番濃厚な時を過ごしたのが柘植であり上野だったかもしれないと…そんな気がしてきました。
さぁ、ここからが長かったです、「余野公園」まで何キロ?
(google地図によれば、約2.6km 30分
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確かに、ちょっとしんどかったかな、口数が減ってきたような気がします。
でもツツジが満開!と前日のニュースで伝えられていたので、楽しみです。
もう少し、つづく
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