「清水谷」という場所がどんなところか、実際に行ってみてわかりました。
googleの地図を拡大して上から見てみると『清水谷弘法』と出てきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/77/1c/9a6d433f630a18260a7ffb411a777ce7_s.jpg)
が、これだけでは何も詳しいことはわからないので、
福居町にお住いの方何人かに聞いてみました。
・毎月「大師堂」と「地蔵堂」の清掃作業とお参りをしていて、
・町外の方も含め信心深い女性たちが協力しているとのこと
・10日、20日、30日と当番を決めている
・しかし、高齢化してきて坂の上り下りが辛くなってきている等々、
お話を伺いました。
出来る限りのこと、自分にできる範囲のことを細々と続けていく姿勢を
若い世代にもみてもらいたい、けどみなさん忙しそうでねぇ…と、
寂しそうにお話をしてくれたのは、そんな世話人の方のお一人で知己の方でした。
「今年は、お地蔵さんの『赤い前垂れ』をぜ~んぶ作り直したとこで、
その新しい『前垂れ』を見てもらえるのは嬉しい」とお話しながら、
「お堂の扉」を開けてくれました。
(再掲)
【清水谷地藏堂】は完全開扉とはいきませんが、
扉の隙間からお地蔵さまたちにお目にかかりました…
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/3b/a7/7b90cba0b2e82a34d4f0c2f108c84934_s.jpg)
お地蔵様は、造られた当時のプロ?の作品ではないかもしれませんが、
みんなやさしい顔をしていて、ここに「集って楽しく」って感じですね。
「地蔵見守り隊」が強力です。
お堂の外には、だれが置いたのかわからない「お地蔵様一体」が
門番をしておられます(笑)。
さて、もうひとつは、【清水谷弘法大師のお堂】
(再掲)
お堂の中の両側の壁には「絵画」がたくさん飾られています、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/2c/ee/207f636232dbabf3524ce417c734bf45_s.jpg)
写真を撮らせていただきましたが、これでごく一部。
書かれてから数十年以上は経ちますが、色彩が綺麗に残り、
大切に保存されていた様子が伺えますし、
呉耕の作品全容を見る機会はなかなか少ないらしいので、
「清水谷の宝物」を見せていただいた気分です。
因みに、この絵を描いた方は、
≪伊賀上野で活躍した日本画家、前田呉耕(ゴコウ)(1886~1951年)。
前田呉耕は鈴鹿郡坂下村(現・亀山市関町)出身。
京都で絵を学び、江戸時代の円山応挙らの系譜に連なる日本画家。
大正に入り伊賀市内に移り住み、亡くなるまでの約40年間、伊賀上野で絵筆をふるった。
江戸時代の「絹本著色(けんぽんちゃくしょく)藤堂高虎像」(国の重要文化財)を
写したとみられる作品なども知られる。≫とのことです。
(参考:歴史街道HP・「生誕130年展」)
さて、上野西部地区住民自治協議会の中で
当地区の歴史的な場所などの『探訪シリーズ』なる印刷物(A4判で)が発行されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/03/c6/789b69530f88c7ddf51a0c97b91c9679_s.jpg)
『清水谷の「弘法の井」』と『小鍜治(刀工)伝説』
文責者の方にもお話を伺い、その伝説のご紹介を~~
≪(前略)その昔、空海の導きによって湧き出したとされる井戸があります。
(略・昔の文献によると)
「平安時代、京都の刀工三条小鍛冶宗近(さんじょうこかじむねちか)が伊賀の清水に渡り住み、
伊賀小鍛冶となり、井水を用いて刀剣造りを営んだ」とあります。≫
「清水谷の弘法の井」
また別の文献『ええもん探し隊見聞録より』(2004年頃の読売新聞掲載版)では、
≪城下町・上野の本町筋や二之町筋は水脈があり
昔から酒や醤油の醸造業が盛んであった。
その先には古くから弘法大師を祀るお堂があり、
境内に霊験あらたかな湧き水の井戸がある。≫との記述もあり、
≪御詠歌の三番に、刀鍛冶「宗短」の名が出てくる。
「さえわたる剣はふしぎ 宗短の ここに名をえし しょうず寺かな」≫ と。
案内してくれた方の話では今でも、「湧き水は出ています」とのことで
この「弘法の井戸水」は今のところ枯れることはない、そうです。
ワタシもこの霊験あらたかな「井戸水」を使い、手を洗わせていただきました、
さすが「井戸水」、冷たくて気持ち良かったですよ。
では、もう少し「清水谷の伝説」はつづきます。
googleの地図を拡大して上から見てみると『清水谷弘法』と出てきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/77/1c/9a6d433f630a18260a7ffb411a777ce7_s.jpg)
が、これだけでは何も詳しいことはわからないので、
福居町にお住いの方何人かに聞いてみました。
・毎月「大師堂」と「地蔵堂」の清掃作業とお参りをしていて、
・町外の方も含め信心深い女性たちが協力しているとのこと
・10日、20日、30日と当番を決めている
・しかし、高齢化してきて坂の上り下りが辛くなってきている等々、
お話を伺いました。
出来る限りのこと、自分にできる範囲のことを細々と続けていく姿勢を
若い世代にもみてもらいたい、けどみなさん忙しそうでねぇ…と、
寂しそうにお話をしてくれたのは、そんな世話人の方のお一人で知己の方でした。
「今年は、お地蔵さんの『赤い前垂れ』をぜ~んぶ作り直したとこで、
その新しい『前垂れ』を見てもらえるのは嬉しい」とお話しながら、
「お堂の扉」を開けてくれました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/35/07/845d6f0352934f9f85e0333b0c98c191_s.jpg)
【清水谷地藏堂】は完全開扉とはいきませんが、
扉の隙間からお地蔵さまたちにお目にかかりました…
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/69/ed/b8bf8599f74f1c76ec58c53efe6d2399_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/51/a8/18610c3e6d0620b0779236cdfe0716f9_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/3b/a7/7b90cba0b2e82a34d4f0c2f108c84934_s.jpg)
お地蔵様は、造られた当時のプロ?の作品ではないかもしれませんが、
みんなやさしい顔をしていて、ここに「集って楽しく」って感じですね。
「地蔵見守り隊」が強力です。
お堂の外には、だれが置いたのかわからない「お地蔵様一体」が
門番をしておられます(笑)。
さて、もうひとつは、【清水谷弘法大師のお堂】
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/3b/d4/d8954ca0beccd0f01f1ce138e93b9596_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/44/cb/ed4697012bb5695382a5cef55f3b7de4_s.jpg)
お堂の中の両側の壁には「絵画」がたくさん飾られています、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/64/bd/508eb6854919b3cf8eaf14bafdd691ed_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/2c/ee/207f636232dbabf3524ce417c734bf45_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/25/0b/605919b7ffcc952b49abc19c9e42ae04_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/01/4d/1591911f28ae4ae53eca325602a3682d_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/0a/0b/ee5a34878adb4478612a21f2fa02a5cc_s.jpg)
写真を撮らせていただきましたが、これでごく一部。
書かれてから数十年以上は経ちますが、色彩が綺麗に残り、
大切に保存されていた様子が伺えますし、
呉耕の作品全容を見る機会はなかなか少ないらしいので、
「清水谷の宝物」を見せていただいた気分です。
因みに、この絵を描いた方は、
≪伊賀上野で活躍した日本画家、前田呉耕(ゴコウ)(1886~1951年)。
前田呉耕は鈴鹿郡坂下村(現・亀山市関町)出身。
京都で絵を学び、江戸時代の円山応挙らの系譜に連なる日本画家。
大正に入り伊賀市内に移り住み、亡くなるまでの約40年間、伊賀上野で絵筆をふるった。
江戸時代の「絹本著色(けんぽんちゃくしょく)藤堂高虎像」(国の重要文化財)を
写したとみられる作品なども知られる。≫とのことです。
(参考:歴史街道HP・「生誕130年展」)
さて、上野西部地区住民自治協議会の中で
当地区の歴史的な場所などの『探訪シリーズ』なる印刷物(A4判で)が発行されています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/03/c6/789b69530f88c7ddf51a0c97b91c9679_s.jpg)
『清水谷の「弘法の井」』と『小鍜治(刀工)伝説』
文責者の方にもお話を伺い、その伝説のご紹介を~~
≪(前略)その昔、空海の導きによって湧き出したとされる井戸があります。
(略・昔の文献によると)
「平安時代、京都の刀工三条小鍛冶宗近(さんじょうこかじむねちか)が伊賀の清水に渡り住み、
伊賀小鍛冶となり、井水を用いて刀剣造りを営んだ」とあります。≫
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/0c/d4/850444d4d7984879cbf1ff8abf2135cc_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/1b/21/15ebaa07f1c5d67cb7a512aaddbad6ba_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/3e/6d/380a234391ad7d24c2cebf146452db97_s.jpg)
また別の文献『ええもん探し隊見聞録より』(2004年頃の読売新聞掲載版)では、
≪城下町・上野の本町筋や二之町筋は水脈があり
昔から酒や醤油の醸造業が盛んであった。
その先には古くから弘法大師を祀るお堂があり、
境内に霊験あらたかな湧き水の井戸がある。≫との記述もあり、
≪御詠歌の三番に、刀鍛冶「宗短」の名が出てくる。
「さえわたる剣はふしぎ 宗短の ここに名をえし しょうず寺かな」≫ と。
案内してくれた方の話では今でも、「湧き水は出ています」とのことで
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/2b/4f/9c3d4f3b9922048e294d35e554e33e57_s.jpg)
この「弘法の井戸水」は今のところ枯れることはない、そうです。
ワタシもこの霊験あらたかな「井戸水」を使い、手を洗わせていただきました、
さすが「井戸水」、冷たくて気持ち良かったですよ。
では、もう少し「清水谷の伝説」はつづきます。
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