黒沢清監督、『叫び』、3/2、Tジョイ久留米にて鑑賞。
この世には確かにクサヤノヒモノ的映画が存在すると思う。
クサヤノヒモノ的映画というのは先祖代々クサヤノヒモノを作り続けている一家を主人公にした映画、、、というわけではない。
まぁ言ってみれば一般大衆には受け入れ難いものがあるものの、ある一部の人たちからは熱烈な支持を受ける映画のことだ。まるでクサヤノヒモノのように。
それってカルト映画のことじゃない?って思われる方もいるかもしれないが、まぁ確かにそうともいえる、、、いやいや違うんだってば!!
カルト映画にはある程度「知る人ぞ知る」といったマイナー性が不可欠だと思う。
映画ファンであれば大抵誰もが知ってるんじゃない?という映画監督の作品はもはやカルト映画の定義には当てはまらない、と勝手に思っている。
そのクサヤノヒモノ的映画監督の西洋の代表がM・ナイト・シャマランであり、そして日本の代表が黒沢清ではないだろうか、とやっぱり勝手に思っている。笑。
さて、本作『叫』はホラー映画として観に行くと肩透かしを喰らう。
何しろ怖くない。
いや、怖くないっていうのとは違うか、場面によってはゾクゾクとさせられるし、ギョッと驚かされもするのだが、如何せん鑑賞後に恐怖が残らない。
ぶっちゃけていって、そんな理由で呪われてもな、、、っていうのが正直な感想。
「袖触れ合うも他生の縁」というが、『叫』に出てくる赤い服を着た幽霊は袖触れ合うもの皆殺しって感じで、どうにも恐怖の対象とはなりえない(このことは『呪怨』も同様)。
また本作は「黒沢清初の本格ミステリー」というのが謳い文句なのであるが、いわせてもらうとミステリーとしては二流といっていい。
ミステリーというのは単純に謎があればいいってものではなく、その中心に一本の筋が通ってなければいけない。仮に題材が幽霊であろうが、舞台が宇宙であろうが、そうだ。
でなければ読み手(映画であれば観客)は推理しようがないし、結末に納得も出来ない。
ところが『叫』においては後半にドンデン返しが用意されているせいで、見事にその筋が断線してしまっている。
え、これがこうならそもそもあれはどうなの?って突っ込まずにはいられない。
だからミステリーとしては二流なのだ。
ホラー映画としてダメ、ミステリーとしても二流というと、まるで観る価値のない、どうしようもない駄作だといっているとように受け取る人もいるかもしれないが、本作は決して駄作では、ない。
かといってどこがいいかを具体的に説明するのは難しい。
それすなわち、クサヤノヒモノのよさを説明するようなものだな、きっと。笑。
一応自分がスゲェな、と思ったところを書き出してみると、まず冒頭、赤い服を着た女性が男に水溜りに顔を無理矢理つけられ、溺死するシーンがある。
カメラは延々とその女性を捉え続ける。しつこいぐらい延々と。
スゲェよ!!
だってその女優さんはずっと水溜りに顔を突っ込んだままなのだから。どうやって撮影しているのか、さっぱりわからない。
似たようなことを思ったのはポン・ジュノ監督の『殺人の追憶』を見たときだろうか。あの作品でもどう見ても生身の女優さんが死体を演じていて、その死体に蟻が無数にたかっているシーンがあった。死体は人形に見えないし、蟻はCGには見えない。生身の女優さんに死体を演じさせ、本物の蟻をたからせているようにしか見えない。思わず怖気が走った。
このシーンだけで自分はポン・ジュノは常人ではありえない、そう思ったのだが、それは黒沢清についても同様だった。
他にも役所広司扮する刑事に追っ掛けられ、容疑者が三階ぐらいのビルの屋上からポーンと飛び降りるシーンがある。普通だったら人がビルから飛び降りたら、カットが入って次に地面に叩きつけられ墜落死した死体が映し出されるものだろう。
だが『叫』においてはポーンとビルから飛び降りた容疑者が地面に叩きつけられるまでをカメラは追っているのだ。
どう見てもその容疑者はスタント俳優などでなく、見た目はただのしがないオッサンである。オッサンが地面に叩きつけられる様は驚愕といっていい。
無論三階ぐらいからなら墜落死することはないだろうが、実際そのオッサンはよたよたとふらつきながらも歩き出している、だが怪我をする危険性は大だろう。到底まとも(な撮影)とはいえない。
そんなふうに常識では考えられない、まともではないと思えるシーンがごく当たり前のように次から次にスクリーンに映し出されるのだから、これはスゴイ、といわざるをえない。
黒沢清に傾倒するもの、ハマるものが現れるのも当然か、そう思う。
だがしかし、同時に黒沢清がメジャーになることもないだろうなとも思う。
なぜなら彼はまともではないから。
彼の才能は異常だ。
異常とは常とは異なる、と書く。一般的ではないということだ。
彼はその才能ゆえに一部の人から支持され、その才能ゆえに一般大衆からは受け入れられないだろう。
だがそれもクサヤノヒモノ的映画監督であれば運命、そう思ってもらいたい。
この世には確かにクサヤノヒモノ的映画が存在すると思う。
クサヤノヒモノ的映画というのは先祖代々クサヤノヒモノを作り続けている一家を主人公にした映画、、、というわけではない。
まぁ言ってみれば一般大衆には受け入れ難いものがあるものの、ある一部の人たちからは熱烈な支持を受ける映画のことだ。まるでクサヤノヒモノのように。
それってカルト映画のことじゃない?って思われる方もいるかもしれないが、まぁ確かにそうともいえる、、、いやいや違うんだってば!!
カルト映画にはある程度「知る人ぞ知る」といったマイナー性が不可欠だと思う。
映画ファンであれば大抵誰もが知ってるんじゃない?という映画監督の作品はもはやカルト映画の定義には当てはまらない、と勝手に思っている。
そのクサヤノヒモノ的映画監督の西洋の代表がM・ナイト・シャマランであり、そして日本の代表が黒沢清ではないだろうか、とやっぱり勝手に思っている。笑。
さて、本作『叫』はホラー映画として観に行くと肩透かしを喰らう。
何しろ怖くない。
いや、怖くないっていうのとは違うか、場面によってはゾクゾクとさせられるし、ギョッと驚かされもするのだが、如何せん鑑賞後に恐怖が残らない。
ぶっちゃけていって、そんな理由で呪われてもな、、、っていうのが正直な感想。
「袖触れ合うも他生の縁」というが、『叫』に出てくる赤い服を着た幽霊は袖触れ合うもの皆殺しって感じで、どうにも恐怖の対象とはなりえない(このことは『呪怨』も同様)。
また本作は「黒沢清初の本格ミステリー」というのが謳い文句なのであるが、いわせてもらうとミステリーとしては二流といっていい。
ミステリーというのは単純に謎があればいいってものではなく、その中心に一本の筋が通ってなければいけない。仮に題材が幽霊であろうが、舞台が宇宙であろうが、そうだ。
でなければ読み手(映画であれば観客)は推理しようがないし、結末に納得も出来ない。
ところが『叫』においては後半にドンデン返しが用意されているせいで、見事にその筋が断線してしまっている。
え、これがこうならそもそもあれはどうなの?って突っ込まずにはいられない。
だからミステリーとしては二流なのだ。
ホラー映画としてダメ、ミステリーとしても二流というと、まるで観る価値のない、どうしようもない駄作だといっているとように受け取る人もいるかもしれないが、本作は決して駄作では、ない。
かといってどこがいいかを具体的に説明するのは難しい。
それすなわち、クサヤノヒモノのよさを説明するようなものだな、きっと。笑。
一応自分がスゲェな、と思ったところを書き出してみると、まず冒頭、赤い服を着た女性が男に水溜りに顔を無理矢理つけられ、溺死するシーンがある。
カメラは延々とその女性を捉え続ける。しつこいぐらい延々と。
スゲェよ!!
だってその女優さんはずっと水溜りに顔を突っ込んだままなのだから。どうやって撮影しているのか、さっぱりわからない。
似たようなことを思ったのはポン・ジュノ監督の『殺人の追憶』を見たときだろうか。あの作品でもどう見ても生身の女優さんが死体を演じていて、その死体に蟻が無数にたかっているシーンがあった。死体は人形に見えないし、蟻はCGには見えない。生身の女優さんに死体を演じさせ、本物の蟻をたからせているようにしか見えない。思わず怖気が走った。
このシーンだけで自分はポン・ジュノは常人ではありえない、そう思ったのだが、それは黒沢清についても同様だった。
他にも役所広司扮する刑事に追っ掛けられ、容疑者が三階ぐらいのビルの屋上からポーンと飛び降りるシーンがある。普通だったら人がビルから飛び降りたら、カットが入って次に地面に叩きつけられ墜落死した死体が映し出されるものだろう。
だが『叫』においてはポーンとビルから飛び降りた容疑者が地面に叩きつけられるまでをカメラは追っているのだ。
どう見てもその容疑者はスタント俳優などでなく、見た目はただのしがないオッサンである。オッサンが地面に叩きつけられる様は驚愕といっていい。
無論三階ぐらいからなら墜落死することはないだろうが、実際そのオッサンはよたよたとふらつきながらも歩き出している、だが怪我をする危険性は大だろう。到底まとも(な撮影)とはいえない。
そんなふうに常識では考えられない、まともではないと思えるシーンがごく当たり前のように次から次にスクリーンに映し出されるのだから、これはスゴイ、といわざるをえない。
黒沢清に傾倒するもの、ハマるものが現れるのも当然か、そう思う。
だがしかし、同時に黒沢清がメジャーになることもないだろうなとも思う。
なぜなら彼はまともではないから。
彼の才能は異常だ。
異常とは常とは異なる、と書く。一般的ではないということだ。
彼はその才能ゆえに一部の人から支持され、その才能ゆえに一般大衆からは受け入れられないだろう。
だがそれもクサヤノヒモノ的映画監督であれば運命、そう思ってもらいたい。