この世界の憂鬱と気紛れ

タイトルに深い意味はありません。スガシカオの歌に似たようなフレーズがあったかな。日々の雑事と趣味と偏見のブログです。

大日本人。

2009-10-06 22:47:16 | 旧作映画
 松本人志が笑いの天才であることに異論を唱える人はおそらくいないだろう。
 絶妙なボケ、巧みなトーク、笑いに対する独特な哲学、彼がお笑い芸人の中で抜きん出て人気があるのも充分頷ける。

 松本人志は笑いの天才である。
 が、自分が見るに彼は努力を厭う天才である。
 そのことを強く感じたのは『遺書』だったか、『松本』だったか、彼の著作を読んだときのことだ(当然立ち読み)。
 手元に本がないので、正確な引用は出来かねるが、その中で彼はこんなことを述べていた。
「どうして貧しい国の人ってたくさん子供を作るんでしょうねー。ボクにはちょっと理解できません。云々」
 いうまでもなく彼の認識は間違っている。
 一言で言えば貧しい国の人たちが子供を多く作るのは、そうすることでしか希望を持てないからだ。
 経済学的に、というか経済学以前に常識的に、暮らしが豊かになればなるほど一世帯当たりの子供は少なくなり、逆に暮らしが貧しくなればなるほど子供は多くなる。
 日本でもテレビのバラエティの大家族ものに出てくる家族はたいがい経済的に苦しい生活を送っている。

 どうして貧しい国の人はたくさん子供を作るのか?
 そのことを疑問に思うのはもちろん悪いことではない。
 が、その答えはちょっと調べればわかることだ。
 さらに問題なのは、この文章が活字になったということで、それはつまり編集に携わった編集者の誰も松本人志に対して「貧しい国の人たちが子供をたくさん作るのはですね、これこれこういうわけなんです」と説明しなかった、ということである。
 知らない、ということは恥ではない。
 誰にでも知らないことはある。
 だが、知らないことを疑問に思い、しかしその答えを求めないこと、また知らないということを回りの人間が知っていて、その人に間違いを指摘しないということは恥ずべきことといえるだろう。
 そういった意味では松本人志は出汁のことを長い間「でじる」と読んでいた木村拓哉に似ている(誰もキムタクに「あなたは古代進のイメージではないですよ」といわなかったのだろうか?)。

 映画『大日本人』は実に天才松本人志らしい作品だった。
 冒頭から松本扮する大佐藤へのインタビューが延々と続く。
 そのインタビューで彼が何を語っているのか、ぼそぼそとしゃべっていてひどく聞き取りにくい。
 おそらく、大して意味のあることはしゃべっていないのだろう。だから巻き戻してまで何と言ってるのか、確認しようとは思わなかった。
 だがひどく聞き取りにくいインタビューが延々と続くのだから、見ているこちらとしてはストレスが溜まる。
 これが普通の映画であれば、監督が「松本さぁん、もうちょっと、もうちょっとだけはっきりとしゃべってみましょうか。じゃ、シーン12、テイク2!!」とでもいってダメを押すところだろう(実際の撮影現場を覗いたことはないので想像だが)。
 だが、『大日本人』の監督はいうまでもなく松本人志本人である。
 彼なら、聞き取りやすくしゃべるぐらいなら、大佐藤は普段からぼそぼそとしゃべる男であるという設定を付け加えるに違いない。
 その想像はおそらく間違っていまい。

 実を言えばここだけの話、途中までは『大日本人』をそれなりに楽しめていた。
 松本なりの怪獣観も面白かったし、ほとんどプレステのSIMPLE1500の地球防衛軍並みにショボいCGも見慣れれば悪くはないと思ったし、四代目大佐藤が獣に立ち向かうシーンはジーンとすらきた。
 が、実写シーンになってからはダメだった。受け入れられなかった。
 あの実写シーンはそれこそテレビのコントでしかないだろう。
 映画でやりたいことがテレビのコントであるなら、わざわざ映画を撮る必要もないだろう。テレビで思う存分やればいい。

 映画評論家柳下毅一郎は本作を指して「無」だといった。
 確かにクライマックス(一番盛り下がるところをクライマックスと呼べれば、であるが)でそれまでの見てきた100分を否定するのであれば、作品的には「無」でしかない。

 松本人志は笑いの天才である。
 天才の考えは余人の及ぶところではない、ということが本作を見てわかった。
コメント (2)
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