「やっぱ、お前、先生になって大正解だよな。浩介先生。いいよな」
慶がそう言ってくれた。綺麗な瞳でこちらをまっすぐ見つめてくれながら。
おれは、慶の中にいる「浩介先生」でい続けたい。
「君は充分、成しえてきた。たくさんの生徒を育ててきた」
吉田先生がそう言ってくれた。
だから、今までの経験は無駄では無かったのだと思いたい。
「浩介先生だったら、あの子達を笑顔にしてあげられると思うんだよ。あの時のオレみたいにさ」
ライトがそう言ってくれた。
おれは、そちらに向かって歩きだそうと思う。
だから、「逃げ出す」のではなく「出発する」のだと思いたい。
思いたいけれども……、結局のところ、「逃げ出す」という言葉が一番しっくりくるような気がする。
***
修了式で正式に離任の挨拶をして以降、今の教え子はもちろん、かつての教え子たちも入れ代わり立ち代わり挨拶にきてくれた。
おれなんか存在感も薄いし、彼らにとっては通過点の一つでしかないのに、こうして訪ねてきてくれる、ということに、驚きと感動を覚える。
(先生、だったんだな……)
あらためて思う。おれは先生をしていたんだ。自分の求めた先生像とは違ったけれど、確かに先生をしていたんだ……
勤務最終日である3月31日月曜日、最後のバスケ部の練習を行った。終了後には、花束までくれた子供たち……有り難い、と思う。
「ちゃんとお礼言えよ!」
みんなから花束を渡す係に任命されたのは、一年生の関口君だった。学業成績不振で一度退部した彼は、その後再入部してきた。
「先生、そのセツはアリガトウゴザイマシタ」
エヘヘ、と笑う関口君。
「おれは何も。関口君が頑張ったからだよ」
関口君は、退部させられたあと、親の前で一生懸命勉強している姿を見せたそうだ。母親が味方してくれて、父親を説得した、と聞いている。
「そんなことない。やっぱり先生のおかげなんだよ。あの……」
コソコソとおれの近くに寄ってきた関口君が、少し言いにくそうに言った。
「お母さんが、おれの味方してくれたっていったじゃん?」
「うん」
「昨日聞いたんだけど、それ、先生のおかげだった」
「え………」
おれのおかげ? おれの母に似ていた関口君の母親の姿を思い出す。
「先生さ、自分のお母さんのこと、今も大嫌いで憎んでるって言ったんだって?」
「あ……うん」
退部させる、と言いに来た関口君の母親に、息子を自分の思い通りにしようとする母の姿が重なり、思わず本音を言ってしまったのだ。
「なんかそれが相当衝撃だったらしいよ」
「…………」
そうだよな……。「母親」だもんな……
「お父さんが部活ダメっていうから、しばらくは辞めなくちゃだったけど、お母さんがお父さんの説得に協力してくれて……んで、先生に言われた通り、ちゃんと勉強してる姿見せてたら、再入部許してもらえた」
「そっか……」
「なんで急にお母さんが味方してくれたのか不思議だったんだけど、そういうことだったんだって」
「……………」
それは良かった……。
しかし、おれの母だったら、たとえ「憎まれる」と分かっていても、自分の価値観を押しつけ続けたのではないかと思う。それが「子供のため」と言って……。子供の意思を完全に無視した押しつけは親の自己満足でしかない、と思うけれども、おれは親になったことがないから、親の気持ちは分からない。これからなることも絶対にないので、一生理解できないだろう。
「お母さんに、先生がアフリカ行っちゃうって話したら、喧嘩したまま離れ離れになるのは先生のお母さん辛いだろうねって言ってたよ」
「…………」
別に母とは喧嘩はしていない。でも、一生分かり合えない。分かり合うつもりもない。
「このお花、お母さんにあげて仲直りしたら?」
「………ありがとう」
母には会わないで行くつもりだ。今日の夕方、父の事務所に行って、父と庄司さんにだけ報告する予定なのだ。
庄司さんは、出来損ないの息子であるおれに代わって、父の跡を継いでくれる人で、昔から変わらず、明るく朗らかな人だ。今日の父との面談も庄司さんにお願いして設定してもらった。
(実の父親と会うのに仲介が必要だなんて……)
破綻してる。もうとっくに、おれと両親との親子関係は破綻している。
「お母さんによろしくね。これからも頑張ってね、関口君」
「はーい」
楽し気な関口君の返事にホッとする。関口君の母親はおれの母とは違う。きっと今後も彼を守ってくれる、と信じたい。
帰り際、卒業したばかりの高瀬君と泉君が来てくれた。高瀬君は美容師の専門学校に、泉君は第一志望だった国立大学に合格している。
幼なじみであり親友であり恋人である2人。2人が恋人になる過程を見守ってきた身としては、今後の二人のことも気になるけれども……
(あいかわらず、仲良いな……)
心配する必要は一つもない、と思う。寄り添って、くっついて、離れることなんて少しも考えられない。一緒にいることに少しの疑問も抱いていない2人が羨ましい。おれとは違う……
「先生、本当に行っちゃうんだね」
泉君が、なんだか呆れたように言ってきた。
「渋谷さん、よくOKしてくれましたね?」
高瀬君の質問に、「うん、まあ……」とあいまいに肯く。
この2人は、慶のことを知っている。だから口止めしようかとも思ったけれど、藪蛇になる恐れもあるため、あえて何も言わなかった。よほどの偶然でもないかぎり慶と彼らが会うことはないから大丈夫だろう。
(慶には……言わない)
そう。おれは、慶には何も言わず、出発するつもりなのだ。
***
約一か月半前、バレンタインの翌日の夜。
「おれが、お前に新しいアザ、つけてやる」
そう言って、慶は、おれの背中に歯を立てた。
「お前がこれから見るアザは、全部、おれのしるしだ。全部、おれの痕だ」
その宣言通り、心因的なものから発現していたらしいおれの背中のアザは、この日を境に綺麗になくなった。その代わり、しばらくの間、慶の歯形がくっきりと残っていて……毎日鏡の前で確認しては、泣きたいような笑いたいような気持ちになっていた。子供の頃からずっと苦しめられていた母に付けられたアザ……ようやく本当に消えたのかもしれない。
(慶はいつでもおれを助けてくれる……)
昔から、ずっと。ずっとだ。
慶がいたから生きてこられた。慶がいたから今ここにおれはいる。
(『浩介……』)
慶の優しい声が頭の中で再生されて、胸が痛くなる。
慶がおれを好きでいてくれることは充分に分かっている。
おれがアフリカに行くと言ったら、きっと慶は「行くな」というだろう。それを振り切ってまで行ける自信はなかった。
話し合い、説得……、そんなことをして、喧嘩になってしまうのも嫌だった。綺麗な思い出だけ残して、慶の元から去りたかった。
(慶はおれなんかいなくても大丈夫)
きっと、おれがいなくなったら、しばらくは寂しく思ってくれるだろうけれど……でもすぐに慣れるだろう。みんなに愛されて、みんなに必要とされている慶には、その寂しさを慰めてくれる人がたくさんいる。
(そう思うと、嫉妬でどうにかなりそうだ……)
ほら……やっぱり。独占欲から殺意を抱いてしまうような恋人はいらない。慶を傷つけてしまう前に、慶の元からいなくなる。
それがおれが選べる最善の道だ。
**
4月1日。出発の前日。
夕方から当直だという慶と一緒に、久しぶりに慶のうちの近くの公園に行った。
「1ON1で、賭けやろうぜー」
実家の物置からバスケットボールを取ってきた慶がニヤニヤと言う。
「えーやだよー絶対負けるもん」
「バスケ部顧問が何言ってんだよ!」
あはは、と笑う慶。高校の時から少しも変わらない。
高校3年生の時、おれは、この場所で親の意向に反することを決めた。「弁護士ではなく、学校の先生になる」と決心させてくれたのは慶だった。
その日の夜、
「学校の先生に、なりたいです」
父の書斎に入り、緊張してそう言ったおれに、父は「勝手にしろ」と冷たく言って、部屋から出て行くよう手で追い払う仕草をした。
昨日の夕方も似たようなものだった。
「今勤めている学校を辞めて、ケニアに行きます」
おれがそう言うと、父は「勝手にしろ」と言って、席を立った。
大きい事務所ではないので、話していた打ち合わせスペースと、父のデスクはそんなに離れていない。話の内容は聞こえるだろう、と判断してくれたらしい庄司さんが、あえて父を引き留めることはせず、話を聞いてくれた。
「母には言わずに行きます」
「ああ……そのほうがいいかもな」
母の気性を知っている庄司さんは苦笑気味に肯いてくれた。
「今後連絡を取る時には、こちらにお願いしたくて……」
一応、今後の連絡先を差し出す。
「Kenya……、え、これ、もしかしなくても日本語通じない?」
「はい。英語かスワヒリ語でお願いします」
「うわ……そっか。わかった……」
わざとだ、ということも、庄司さんには気付かれたかもしれない。
本当は日本支部を通して連絡してもらうことも可能なのだ。でもそんな連絡先を教えたら、また母がしつこく電話するに決まっている。同じ轍は踏まない。母は海外旅行経験は豊富なくせに、旅先でも父とおれに依存しっぱなしだったので、全く英語が話せないのだ。少しは自分で勉強したらいいのに、とずっと思っていたけれど、まさか今になってそれで助かることになるとは……
「すみません。今後のことよろしくお願いします」
「頑張ってな」
にっとして肯いてくれた庄司さんに、深々と頭をさげる。頭をあげた時に、チラリと父の方をみたけれど、父がこちらを見ることは一度もなかった。
事務所から出ると、もうすっかり夜になっていた。ビルの間の夜の空を見上げる。
(……自由だ)
体中に巻きついていた紐が解かれていく感じがする。空に向かって、両手を伸ばす。
おれは、ようやく解放される……
1ON1の勝負の結果は、当然、慶の圧勝だった。高校生の時から一度も勝ったことがない。
「何にしようかな~」
ニコニコで慶が言う。今まで、何回こうして慶の願い事を聞いてきただろう……
「お前だったら、何にした?」
「そうだなあ……」
当時と全然変わらない慶の唇をすっとなぞる。
「キスしてほしい」
「………は?」
ばかじゃねえの、と言いながら赤くなっていく慶。でも、ボソボソっと不機嫌そうに言葉を足した。
「そんなの賭けじゃなくたって、いくらでもする」
「………うん」
ぐっと、胸がつかまれたように痛くなる。
そうだね……そうだね、慶……。
「もう少しだけ時間大丈夫? いつもの川べり行きたいな」
「ん……じゃあ、ちょっとだけ行くか」
「うん」
思い出の川べり。ここでたくさん話した。たくさん笑った。たくさん泣いた。たくさんキスをした。高校時代の慶との思い出が全部つまっている場所……
「浩介」
土手をおりながら、ふいに慶が振り返った。
「!」
腕を引っ張られ、傾いだところに、チュッと軽くキスをされて……
「慶……」
泣きたくなってくる。気持ちが溢れて苦しい……
「……慶、大好きだよ」
「おー」
慶の照れたような顔。大好きな、大好きな慶……。
このまま時が止まればいい。慶と離れたくない。慶が欲しい。慶が欲しい。慶の全部、おれにちょうだい。慶、どこにもいかないで。慶、おれだけのものになって。慶、慶……
(苦しい……)
だから、慶……
さよなら。
***
慶とは17時前に病院の前で別れた。その足で、慶の部屋に置いてあった私物を回収して、24時間営業のファミレスに移動した。アパートは今朝引き払ったため、明日までファミレスで時間を潰すつもりなのだ。飛行機の中で寝たいのでちょうどいい。
でも、夕食を食べ終わり、コーヒーを飲みながら、到着してからの予定の確認している最中………
(…………慶?)
携帯のディスプレイが慶からの電話であることを知らせている。出発する寸前に慶にメールしようと思っていたので、携帯は明日解約するよう手続きしてあるのだ。
(珍しい……)
まだ20時過ぎだ。仕事中にかけてくるなんてどうしたんだろう……。
慶の声を聞きたいという気持ちと、今電話に出てしまったらまた嘘をつかなくてはならないという心苦しさが錯綜する。
迷った挙句、出ない選択をする。と、しばらくしてから、携帯の震えが止まった。
(慶………)
ホッとしたような、ガッカリしたような……、と。
(!)
また鳴りだした。今度も長い……
(慶………)
なんだろう。何かあったのかな………。
あまりにも止まらない携帯の震えに、お店の人にもチラチラ見られてしまい……
「…………はい」
観念して、出入り口近くのスペースに移動して、通話ボタンを押したところ、
『お前、今、どこにいる?』
慶の声……すごく冷たい感じ。付き合いが長いから分かる。これ、最上級に怒ってる時の声だ……
「えと……ファミレス、だけど……」
『そうか』
こわい……こわい声……。指先が冷えていく……
数秒の沈黙の後、慶が言った。
『さっき、泉君と高瀬君が病院にきた』
「!」
な……っ
『お前、ケニアに行くって……どういうことだ?』
慶………
『エイプリルフールの冗談にしては、手が込んでるな?』
「あ………」
声が……出ない。何を……何を言えば……
黙ってしまったおれに、慶の淡々とした声が聞こえてくる。
『今すぐ、うちに来い』
「え……、でも慶、仕事」
『代わってもらった』
「え……」
『だから、今すぐ。今、すぐに来い』
「…………」
逆らえない、絶対的命令。
「………わかった」
肯くしか、選択肢はなかった。
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お読みくださりありがとうございました!
余談ですが。花束はお父さんの事務所に置いてきました。事務員のカコちゃんが花瓶に生けてくれてます。
それから。泉君たちがなぜ慶に会いにいったのかというと。
異変を察知して言いつけにいった……とかでは全然なく、ただ単に、桜井先生の見送りに行きたい!と思ったけど、詳しい出発時間が分からなかったので、慶に聞きにいっただけです。(浩介と泉君たちは親しくしていたとはいえ、教師と生徒の関係のため、個人的連絡先の交換はしていないので……)
そんな泉君たちのお話はこちらでございます。上記の2年ほど前から物語が始まります。→ 嘘の嘘の、嘘
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次回金曜日が最終回……かもしれないです。よろしくければどうぞお願いいたします!
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