19年ぶりに彼女を見た。
スポットライトを浴びて光り輝く彼女。
19年前、まだ二十歳だった彼女は『姫』と呼ばれていた。でも今はもう『女王』の貫禄。
たったの1年3ヶ月一緒に過ごしただけの私の存在は、彼女の記憶からはとっくに消えていることだろう。
何百人といる観客の中の一人である私は、拍手を送ることしかできない。
もう二度と、話しをすることもない。
………と、思っていたのに。
運命の悪戯。その2か月後、娘の通う中学校の教室で顔を合わせることになった。
担任の先生と保護者、という形で。
教室のドアが開き、私の前の順番の保護者が廊下に出てきた。今日は2年生になって初めての個人面談だ。
「じゃ、小池さん。失礼いたします。佐藤さん、どうぞ中にお入りください」
廊下に現れた彼女。驚くほど変わっていない。長身。スラッとした手足。アーモンド型の瞳。
「はい……」
動揺を顔に出さないよう気をつけながら、中に入ろうとしたところ、廊下の先から大きな声がして立ち止まった。
「一之瀬先生ー、ちょっとよろしいでしょうかー?」
大柄な男の先生が、彼女に向かって手招きをしている。
「はーい? じゃ、すみません、佐藤さん。よろしければ後ろに展示してある美術の作品ご覧になっていてください」
あいかわらずのテキパキとした口調。彼女は会釈をしながら私の前を通りすぎ、呼ばれた方へ小走りに行ってしまった。
「…………」
拍子抜けだ。やっぱり気がつかれなかった。
考えてみたら、苗字も変わっているのだ。母親の下の名前なんて先生は知らないだろうし、このまま気がつかれないかもしれない。
ホッとしたようなガッカリしたような……いや、ホッとした、という気持ちのほうが大きい。
なにせ19年。彼女の中の私は22歳の若いままであってほしい。……まあ、覚えてくれているかどうかも分からないが。
中に入り、展示されている絵を見てみる。同じ花を見て描いているだろうに一人一人違う。娘の美咲の絵は……自己主張の強いタッチ。絵には性格が出るのだろう。
「一之瀬級………」
掲示物を見て思わず声に出してつぶやく。
私の知っている彼女の名字は『木村』だった。
「一之瀬……」
別人のようだ。昨年、娘が一年生の時に彼女は三年生の担任をしている。入学時の配布物を見て、彼女と同じ名前の先生がいる、と思った記憶はあるが、名字が違ったのでまさか本人だとは思いもしなかった。
「結婚……したのね」
想像ができない。彼女が男と一緒にいるところなんて。
『私が男に抱かれたりしたら、嫌?』
昔、聞かれたことを思い出した。私は何て答えたんだっけ……。
『綾さん……』
彼女の声が脳内によみがえり、思わず自分の身をかき抱く。
低く、落ち着いた声。彼女に呼ばれると、嫌いだった自分の名前にさえ光が灯る。
『綾さん、大好きだよ』
私は……私は、何て答えたんだろう……。
もう、あの声で名前を呼ばれることもない。私はもう『国中綾』ではない。彼女が担任している『佐藤美咲の母親』。それ以上でもそれ以下でもない。
もう……呼ばれることはない。あの腕に抱かれることもない。
「…………」
なんて幸せな日々だったのだろう。私の人生の中で唯一純粋に誇れる時間。
でも、もう、彼女にも忘れられている。19年もたったのだ。
私も彼女も結婚して名字も変わった。変わったのだ。
私の胸の中にだけある日々。泣きたいほど切なくて幸せな光彩。
「おまたせいたしました」
涼やかな声とともに『一之瀬先生』が教室に入ってきた。ピシャッとドアが閉まる音が響き渡る。
切ない。苦しい。
でも、あれから19年たった。もう、私の知っている彼女ではない。彼女は娘の担任の先生だ。
彼女は私を忘れている。でも、思い出されなくていい。
「…………」
頭を切り替え、『一之瀬先生』の方へ向こうとした、その時……
「!」
驚きのあまり息がとまるかと思った。
「……綾さん」
「……っ」
後ろからぎゅっと強く抱きしめられた。
耳元であの心地よい声がする。
「綾さん……会いたかった」
19年前と少しも変わらない吐息。耳に触れる唇。
「…………あかね」
声に出して、その響きを確かめる。
あかね。あかね………。
何度口に出して言いたかった名前だろう。
まわされた腕に顔を押しつける。その腕の温かさに身を預ける。
夕暮れの教室の中、私達は時が止まったかのように立ちつくしていた。
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あかねと綾さんの話です。
風のゆくえには~自由への道3-1で出てきた二人です。
19年。過ぎてしまえばあっという間です。
続きはまた来週月曜日に。
スポットライトを浴びて光り輝く彼女。
19年前、まだ二十歳だった彼女は『姫』と呼ばれていた。でも今はもう『女王』の貫禄。
たったの1年3ヶ月一緒に過ごしただけの私の存在は、彼女の記憶からはとっくに消えていることだろう。
何百人といる観客の中の一人である私は、拍手を送ることしかできない。
もう二度と、話しをすることもない。
………と、思っていたのに。
運命の悪戯。その2か月後、娘の通う中学校の教室で顔を合わせることになった。
担任の先生と保護者、という形で。
教室のドアが開き、私の前の順番の保護者が廊下に出てきた。今日は2年生になって初めての個人面談だ。
「じゃ、小池さん。失礼いたします。佐藤さん、どうぞ中にお入りください」
廊下に現れた彼女。驚くほど変わっていない。長身。スラッとした手足。アーモンド型の瞳。
「はい……」
動揺を顔に出さないよう気をつけながら、中に入ろうとしたところ、廊下の先から大きな声がして立ち止まった。
「一之瀬先生ー、ちょっとよろしいでしょうかー?」
大柄な男の先生が、彼女に向かって手招きをしている。
「はーい? じゃ、すみません、佐藤さん。よろしければ後ろに展示してある美術の作品ご覧になっていてください」
あいかわらずのテキパキとした口調。彼女は会釈をしながら私の前を通りすぎ、呼ばれた方へ小走りに行ってしまった。
「…………」
拍子抜けだ。やっぱり気がつかれなかった。
考えてみたら、苗字も変わっているのだ。母親の下の名前なんて先生は知らないだろうし、このまま気がつかれないかもしれない。
ホッとしたようなガッカリしたような……いや、ホッとした、という気持ちのほうが大きい。
なにせ19年。彼女の中の私は22歳の若いままであってほしい。……まあ、覚えてくれているかどうかも分からないが。
中に入り、展示されている絵を見てみる。同じ花を見て描いているだろうに一人一人違う。娘の美咲の絵は……自己主張の強いタッチ。絵には性格が出るのだろう。
「一之瀬級………」
掲示物を見て思わず声に出してつぶやく。
私の知っている彼女の名字は『木村』だった。
「一之瀬……」
別人のようだ。昨年、娘が一年生の時に彼女は三年生の担任をしている。入学時の配布物を見て、彼女と同じ名前の先生がいる、と思った記憶はあるが、名字が違ったのでまさか本人だとは思いもしなかった。
「結婚……したのね」
想像ができない。彼女が男と一緒にいるところなんて。
『私が男に抱かれたりしたら、嫌?』
昔、聞かれたことを思い出した。私は何て答えたんだっけ……。
『綾さん……』
彼女の声が脳内によみがえり、思わず自分の身をかき抱く。
低く、落ち着いた声。彼女に呼ばれると、嫌いだった自分の名前にさえ光が灯る。
『綾さん、大好きだよ』
私は……私は、何て答えたんだろう……。
もう、あの声で名前を呼ばれることもない。私はもう『国中綾』ではない。彼女が担任している『佐藤美咲の母親』。それ以上でもそれ以下でもない。
もう……呼ばれることはない。あの腕に抱かれることもない。
「…………」
なんて幸せな日々だったのだろう。私の人生の中で唯一純粋に誇れる時間。
でも、もう、彼女にも忘れられている。19年もたったのだ。
私も彼女も結婚して名字も変わった。変わったのだ。
私の胸の中にだけある日々。泣きたいほど切なくて幸せな光彩。
「おまたせいたしました」
涼やかな声とともに『一之瀬先生』が教室に入ってきた。ピシャッとドアが閉まる音が響き渡る。
切ない。苦しい。
でも、あれから19年たった。もう、私の知っている彼女ではない。彼女は娘の担任の先生だ。
彼女は私を忘れている。でも、思い出されなくていい。
「…………」
頭を切り替え、『一之瀬先生』の方へ向こうとした、その時……
「!」
驚きのあまり息がとまるかと思った。
「……綾さん」
「……っ」
後ろからぎゅっと強く抱きしめられた。
耳元であの心地よい声がする。
「綾さん……会いたかった」
19年前と少しも変わらない吐息。耳に触れる唇。
「…………あかね」
声に出して、その響きを確かめる。
あかね。あかね………。
何度口に出して言いたかった名前だろう。
まわされた腕に顔を押しつける。その腕の温かさに身を預ける。
夕暮れの教室の中、私達は時が止まったかのように立ちつくしていた。
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あかねと綾さんの話です。
風のゆくえには~自由への道3-1で出てきた二人です。
19年。過ぎてしまえばあっという間です。
続きはまた来週月曜日に。