冬を目前にした紅葉がきれいなこの時期、小豆島では、寒霞渓という有名な見どころスポットがあります。そしてこの時期小豆島では、タートルマラソンという儂の周辺では結構有名なマラソン大会があります。儂はこのマラソンが初マラソンでした(初マラソンがフルでした)。6年前のことになります。この大会に参加することを告げたときのヨメさんの「え?」っていう顔は今でも思い出せます(応援に行くぐらいに思っていたようです)。それまで本当に走ることとは無縁の人間でしたから。
これまでいろいろな大会を走ってきましたが、この小豆島のマラソンはものすごく雰囲気がよく、あんなに応援が多くて(私設のエイドも多い)景色がよくてという大会は他にはあまりないと思います。コース的には細かなアップダウンが結構あって手ごわいかもしれませんが、いろいろなことに勇気づけられながら走ることができる恵まれた大会だといえます。今日は、そのマラソンが行われた日でした。今年は何人の方がフル初完走の感動に浸ることができたのでしょうか。
6年前の瀬戸内海タートル・フルマラソン。前日の夕方、師匠の車で高松市内のホテルに向かいます。到着後、師匠の知り合いの方々とホテル前の居酒屋で「前夜祭」をしました。緊張なくいつものようにビールをいただきました。でも緊張してないと思っていながらなんとなく3杯で止めたのを覚えています。フル参加、ハーフ参加、10キロ参加といろいろですが、毎年この大会だけ参加されるという方もいました。
次の日の朝、早起きして小豆島行きのフェリー乗り場に向かいます。早朝というのに、人がわんさかいます。フェリーに乗り込み、師匠と床に座りうどんを食します。やがて小豆島に着き、会場に到着し車を停め着替えて準備します。なのにスタートまでまだ2時間以上あります。アップのつもりでやたらめったらその辺を歩きます(歩くだけではアップにはならんなと気付くのは随分あとになってからのことです)。何となくどきどきしています。
時間になりスタート。集団の動きはゆっくりしています。しばらくは前後左右とぶつかりそうになりながら、空いている隙間を見つけてぴょんぴょんはねるように移動しながら走ります。景色をみながら走る余裕がありました。秋の山を満喫しながら走りました。結構快調です。街中から少しばかり山道に入り、そこを抜け海の近くののどかな県道を走ります。前にも後にもランナーがうようよいました。再び山に入り小さな集落を過ぎ、少し大きめの街に折り返しがありました。折り返し地点は2時間10分ぐらいで通過しました。子どもたちとハイタッチ。快調でした。
で、突然でした。気分が良すぎて全く無警戒でした。折り返しを過ぎて3キロぐらい走ったとき、急に足が「止まった」ように感じました。少し疲れたなあと感じた矢先、スピードが出なくなり前に進まなくなりました。この日に向けた練習は、実質夏明けからの3ヶ月しかしていませんでしたが、週2回ペースで月70~80キロ、30キロ走も一度経験していました。十分ではないにしても、何とかなるのではという感じはしていました。が甘かったです。そこからの約17キロはどうしようもない痛さとしんどさと、時間に追われる焦りとで追い詰められました。今考えても本当に長い長い2時間半でした。何故かわからんのですが前に進まない。後で思い当たったのは「ガス欠」になったのかなということです。ものをほとんど食べずに、粉のアミノバイタルをエイドで水と一緒に飲むだけだったので、2時間半ぐらいになるとグリコーゲンがなくなってしまったのでしょう。でもこのときはものを食べながら走るなどということは考えもつかなかったわけです。それから右脚が痛く脚を下ろす度に激痛がはしります。これも後で思い当たったのが「靴」。サイズの合わないしかも靴底の薄い運動靴レベルのもので走っていました。当日この靴で走ろうと思ったのは軽いからです。実はまだマラソン用のシューズを購入したことがありませんでした。20キロぐらいまでなら何とかなったかもしれませんがフルはそういうわけにはいきません。走り込み不足もあったかもしれません。
それでもまだ何とか「歩かずに」走っていました。どんなに遅くなっても、歩くのだけはイヤだと思っていました。でもいつ終わるんだろうと考えていました。いつか必ずゴールできるという確信はありませんでした。ただただ前に見える道はずっとずっと遠くに続いていました。気持ちに余裕はありませんでした。誤解を恐れずに言うならばこのとき儂は怒っていたのだと思います。隣には後から追いついた師匠が儂を追い抜かずに併走していました。師匠と一緒に走っていた同じ職場のMさんは「ぎりぎりになりそうだから先行くね」と追い越していきました。でも師匠は追い越して行ってくれませんでした。それが悔しかった。32キロぐらいか、まだ10キロぐらいあった時に時計を見たら驚くほどに時間が経っていて、このままだと時間内は無理だろうと思いました(後で師匠がいうには、この時辺りがペースとしては最悪で1時間に6キロも進んでなかったらしいです)。師匠に「もう自分はかまん(いい)ですから、行ってください」といいたかったのですが、そんなの言えるようなえらそうな走りではありません。そのことも自分自身のイライラに拍車をかけました。この時師匠は「どういう展開になっても、誘った手前最後まで付き合うことにしていた」らしいです。後で淡々とあたりまえのように話をしていただき救われました。「あなたのために」とか「ぜひ完走させたかった」とかいわれると逆にへこみます。そんなに思ってもらえる価値のある人間ではないから申し訳なくて。自分で勝手に走りたかったから走ったというだけです。で師匠は勝手に併走したかったから併走したんだなと。だから救われました。ただそれは後になって思ったことです。
大の大人が、見守られながら走るという情けなさ。情けないのでほうっておいて欲しかったがそれをいうほどの走りではなく、結局いいたいことがいえず、悔しくてただ前に進むしかありませんでした。察してくれればいいのにと、勝手に師匠に腹を立てていました。併走する人は満足でも、併走される人は情けない気持ちしかわかないということが何で分からないんだろうかと。でも結果的に師匠の併走がなければ、ワシは時間内に完走できていなかったでしょう。そして、その後こうしてマラソンを続けることもなかったかもしれません。
35キロ過ぎ。しんどい状況に体が慣れたのか、少しだけペースが上がっているようでした。道端に立っている白状をついたおばあさんが声をかけてくれました。師匠と二人「ありがとうございます」と頭を下げました。まだしっかりと声は出ていました。脚が痛いだけになってきていると感じました。40キロを過ぎ残り2キロ。ペースを上げました。脚を引きずりながら急ぎました。間に合うかもしれないと思いました。
初マラソンの記録は4時間56分56秒。もう走らなくていいと思ったら泣けてきました。ほっとして泣けてきました。フルをなめていた自分に悔しくて泣けてきました。意味のないイライラに支配された自分に情けなくて泣けてきました。たかがフル走っただけなのに泣けてきました。恥ずかしかったです。とても。
でも完走できました。それも時間内に。このことが案外その後も走ることについてのモチベーションの維持につながっているのかもしれないと感じることはあります。時間オーバーしていたり、棄権していたりしたらたぶんここまで続いてないんじゃないかと、自分の性格を考えるとこれもなんとなくそう思います。で、時間内に完走できたのは師匠の併走があったから。これに尽きます。あの併走がなかったら時間内にはゴールできませんでした。師匠と併走したのは本番でも練習でもこれ一度だけです。元短距離の選手だった師匠の「ゆっくりでかまんのよ」という誘いがきっかけで(あと「フルの後のビールは甘いんよ」というのも殺し文句でした・・・)走り始め、そういうのがなければ今儂は走る人ではなかったので、そんなにしょっちゅう会ったり教えを請うたりしている訳ではないんですが、やはり師匠は師匠と呼ぶにふさわしい存在だったりします。
そしてあとはやはり見栄かなと。今はランニングブームでそうは珍しいことではないのかもしれませんが、6年前はフルを走る人なんてそんなにいませんでした。だから我が子に「父ちゃんはフルマラソンを走った」ということそして「最後まで歩かなかった」ということを示したかったわけです。それだけだと思います。
今回の愛媛マラソンでは職場の方々が何名か初マラソンに挑戦します。こうして初マラソンの時のことを綴ってみると、儂が初フルの方と併走しサポートできる勇気があるかというのは難しい問いになります。他者に合わせ力を発揮できるようにするための併走という技術的な走りが必要であることはいうまでもなく、最終的には自分のために走るということでも、他者のことを考えながら走るということそして併走される人がどう考えているのかということも儂としては気になります。儂は基本的にはどんな状況になっても一人で走る人間だと思っていますしこれからも一人で走りたい。でも併走してもらったことで走るきっかけをつぶさずにすんだということも実際に経験しました。他の人のサポートを考えるというのは難しいと思います。どういう形でサポートすれば結果を伴いつつそのプロセスにおいてその人自身の充実感が得られるのかということを考えたりしています。たかが走るだけでここまで根詰めて考える必要はないんですけどね。性分ですから仕方がありません。
初マラソンだったので補給の仕方やペース配分、靴の選択など今考えるとめちゃくちゃなことをしていました。フルをなめていました。でも、失敗したけれど棄権したり脚を傷めたりするみたいな致命的な失敗ではなかったから次につながったということだと思います。失敗して次につながる経験もあるのかもしれませんが、失敗しなかったからその後も踏ん張れたという経験もあるのかもしれません。
このあと4ヶ月後には松野桃源郷ハーフ、そして10ヶ月後には歴史街道丹後ウルトラ(60キロ)を走り、そして2回目の小豆島で2回目のフル。2回目の小豆島は気持ちよかった記憶しかありません。予想を上回るペースでゴールすることができ、意識して臨んだ翌月の加古川でサブフォー達成。初マラソンから1年と1ヶ月でした。初マラソンで「歩かなかった」こと、「時間内にゴールできた」ことは、儂にとってはものすごく大きなことだったんだと思います。
今年は何人の方がフル初完走の感動に浸ることができたのでしょうか。