結局、これまでうろうろと漕いできたのは、今までできていたことができないという事実を認めたくなくて、ということなのだろうということに気付く。つい先日のこと。
これはラン時代と大きく違う。ラン時代は、まだ見たことのない光景が見たかったという、シンプルな動機が起点になっていたから。
車いすになってから、そのまだ見たことのない光景を見たいということもさることながら、ラン時代のように、それができるのかどうか、兎に角確かめたかったという動機が大きくなっていた。
電車や高速バスに乗り飛行機に乗り、バリアがある現実に直面し、それに対応するべく漕いでいった。長時間漕いでも大丈夫か、トイレとかそういうのも含めて前と同じ感じでできるのか。
いろいろなことをやってみて、ある程度納得いく部分(愛媛マラソンコース試漕や1都5県を旅するなど)もあったし、やっぱり難しいという事実(蹴上インクライン)も経験した。どちらも、事実として受け止め、納得した。それでも、未だに訪れたことのない地名には反応するし、以前訪れた場所にも反応する。そしてこれは、車いすだから難しいのかなというトピックスにはより敏感に反応する。やりたくないのではなくできないということには我慢することが難しい。だから、これからも、抗うはずである。
これはラン時代と大きく違う。ラン時代は、まだ見たことのない光景が見たかったという、シンプルな動機が起点になっていたから。
車いすになってから、そのまだ見たことのない光景を見たいということもさることながら、ラン時代のように、それができるのかどうか、兎に角確かめたかったという動機が大きくなっていた。
電車や高速バスに乗り飛行機に乗り、バリアがある現実に直面し、それに対応するべく漕いでいった。長時間漕いでも大丈夫か、トイレとかそういうのも含めて前と同じ感じでできるのか。
いろいろなことをやってみて、ある程度納得いく部分(愛媛マラソンコース試漕や1都5県を旅するなど)もあったし、やっぱり難しいという事実(蹴上インクライン)も経験した。どちらも、事実として受け止め、納得した。それでも、未だに訪れたことのない地名には反応するし、以前訪れた場所にも反応する。そしてこれは、車いすだから難しいのかなというトピックスにはより敏感に反応する。やりたくないのではなくできないということには我慢することが難しい。だから、これからも、抗うはずである。