きのうはやあるきのじいさんにおいぬかれる

犬と酒依存症のおっさんが、車椅子を漕ぎながら、ネガティブに日々見たり聞いたり感じたりした暗めの話題を綴ります。

年度締めの踏まれたり蹴られたり

2012-03-31 20:31:26 | 徒然に2010-2013
毎度毎度だが、年度締めのこの時期、やっぱり忙しい。

昨日が本当は「〆(ほおこれで「締め」なんか)」だったのだが、今日も昨日のやり残しを片付けに職場に行く。大荷物を運び込み運び出すために車で行ったので朝の7時過ぎには着いてしまう。門を開けようとすると、鍵の暗証が変更されていたらしく、開かない。しょうがないので道端に車を置き、周りを確認してから塀をワープする。30分ぐらいして、別の部署の上司が来られ、事なきを得る。昨日から、こんな感じで大事にこそならないが、なかなかスムーズにはいかない。

昔上岡鶴瓶のパペポTVだったか、そこで上岡さんが鶴瓶さんに「踏んだり蹴ったりじゃないでしょう踏まれたり蹴られたりでしょう」って突っ込んでいた。確かに。でもそこまでいかんか。いつのまにか、殴られて顔が腫れているような感じはするがなあ。
仕事に追われるのは毎度のこと。しかし年に一度ぐらいしかやらない仕事をこの時期はするせいか、やたら効率が悪い。おまけにこの時期昼食抜きで仕事続けることはあたりまえのようによくやるが、この日に限っては夕方つらくなり、流れてきた来客の手土産らしい御菓子を口に入れつつ踏ん張る。
「林檎使い」の前任者が作ったPRのチラシの修正が、去年はできたのに今年はどうしてもうまくいかず、「窓使い」の儂は試行錯誤し何度か失敗した末、結局自分の得意なアプリで一から作り直す。
意を決して直していると同じ部署のNさんが「最初から、一から作り直しとけば良かったですねえ」と曰う。確かに。意地になって慣れないアドビのソフトつつき回していた。たったA4版1枚なんだから、ねえ。でもまあ冷静になればとは思うが冷静になんかならんわな何時でも。
4月から儂と入れ替わりでこの部署に凝られるIさんが「は、大丈夫ですか?」と曰う。「は?」って。

「芋けんぴ」の「けんぴ」ってこれなんだあ。としばし感動。有り難くいただく。がりごりと部屋に音が響きわたる。確かに歯が欠けそうな堅さだった。歯に意識を向けつつ咀嚼しながら仕事を続ける。

ようやく一区切りし、また今日も遅くなったと駅までの道を走り、信号待ちで止まり、とすると今度は鞄開けっ放しで走っていたことに気付く。

どうしようもないな。でもUSBメモリもクレジットカードも落ちてなかった。すごい。

遅くなり電車のインターバルが長くなっているので、駅近くの本屋で時間をつぶす。入るといえば古本屋ばかりなので、本屋の書棚は「眩しい」と思う。あれもこれも欲しくなる。欲しかった本がなかったが、別におもしろい本を見つける。今度、欲しかった本とまとめて買うことにしよう。

そして、駅近くのコンビニで年度締めの慰労の品を買う。締めて150円。

駅のホームでぐびくびやる。やみつきになりそうだわ。駅近くの居酒屋の「ほろよいセット」が生2本とつまみ2品で野口さん1枚らしいが、それでもまだ二の足を踏む。150円なら週末ごとに慰労しても十分だな。そういうことを考えているとむちゃくちゃいい気分になって、電車内でLinuxを入れたムラマサを開け、いろいろいじってみる。さくさくと動くという訳ではないが、職場で使うには問題ない。日本語入力もそこそこできた。
帰宅。ヨメさんは飲み会で不在。用意してくれた麻婆豆腐をよそっているとき、結構気に入っているトレーナーを汚してしまう。

少し気分が沈む。

で今日である。午前中でなんとか仕事を終え、家路につく。家にもうすぐ着く頃、USB忘れてきたことに気付く。あらら。でもまあ、朝の強い雨も上がり、春の空。犬たちと散歩に出て、その後、ジョグに出た。

でもまあ、昨日の本屋にあったこの踏み台、ねえ。どうなんだろ。目が点。

ま、ね。そういう時ってあるのかもしれないが、意識しないままにそういう風になっているのはいやだなあと思った。逆に言えば、自分の意志でそういうことがいえるようになれば、すごいなあ。でも現実は自分の意志とは別の流れがあって、結果誰かが貧乏くじひくようになる気がして、ちょっとやるせなかったりするな。そういう人がいつも同じだったりすると余計。

踏まれたり蹴られたり。いつもいつも。でもまだ、踏みつぶされてはいけないぞと思った。

ケトン体だったのかもしれない

2012-03-24 18:24:01 | 徒然に2010-2013
休日。ちょこっと職場に行き、ちょこっとやり残した仕事をする。帰りの電車、活字を目にするのがしんどくなり、ケータイで所さんの番組を見る。

肉だけダイエットというのをしていた。儂も肉はかなり喰う。そうかダイエットになるのか。
番組を見ていると「体が臭くなる(という言い方はすごいな臭うぐらいかな漢字は同じだが)」のは、肉だけで炭水化物を取っていないから糖の欠乏を補うために体内の脂肪を糖に換えるわけで、その時に出てくる「ケトン体」のせいだと言っていた。

儂も思い当たるフシがあって、例えば真夏に15キロ20キロと軽くではなく少しハードなジョグをしたときなど「『汗』ではなくて『汁』が出た」と表現したくなることがある。体が汗くさいを通り越し、自分でも「えっ」と思うぐらいの体の中から出てくるような体臭を感じる瞬間がある。それなのかなと(それでも単なる汗臭というよりもはや加齢臭なのかもしれないですが・・・)。初めて経験したのが真夏に走るようになって程なくしての頃。走り始めて体脂肪ががくんっと落ちたのは、恐らくその辺りからかもしれないなと思ったりもする。

3月もとりあえず400キロぐらいは超えそうだが、2月に風邪引く前は月平均600キロ超えていたから、距離だけで言えば2/3ということになる。走る距離を少し減らしてから、気持ちは楽になったが体まで楽になるのはどうなんだろう。ペース走を意識して取り入れないとなあと反省する。しかしまあ、寒い寒いまだまだ寒い。春はどこに行ってるんだろう本当に。

マイペンライ・タイ訪問記~その1

2012-03-21 22:00:00 | 別に除けておきたいこと
 これもまた、これまで何度か話に出てきた、数年前、社会人入学していた大学院時代のこと。意識して走ってないので正確には旅ランではないが、旅ランに近いぐらい歩き回ったこともあり、儂にとって貴重な体験だったので、記しておきたい。ちなみに全7回である。
 修士論文の指導でお世話になっていたT先生が当時、タイの「すわんどぅしっとらじゃばど」スワンドゥシットラジャバド大学(この日本語読みが正確とは限りません・・・)の聴覚障害教育関係の先生と、共同研究か業務提携か何かの話を進めていて、その関係でいい機会だからタイの聾学校に行ってみようかという話になった。元々大学ではタイから国費や私費の研修生を受け入れて面倒を見ていたこともあり、現地には修了生や知り合いもいて、連絡し会える状況にあるらしい。
 T先生は、自分の専門の研究とは別に、国内だけでなくスリランカやイスラエル等々に出向き、補聴器関係、聴覚障害児教育の支援をしてきた方である。この時もその行動力を余すところなく発揮され、あちこち連絡を取り、あっという間にタイ行きの手はずを整えた。参加者は、T先生、研究室の学部生さん、隣の研究室の学部生さんとT先生の研究室の卒業生さんと私の5人になった。実は予定者はまだいたのだが、直前(年末年始あたりだったか)にタイ中心部のスクンビット(かその辺)で爆弾テロがあり、参加を見合わせた学生が数人いてこういう数に落ち着いた。私も実は真剣に辞退しようかと考えていたが、T先生が考える危険度で言えばその程度はたいしたことないらしく、行くのが当然のように打ち合わせをされるので結局止めますと言えなかった(行ったらあんまり街に緊張感なくて、結果オーライでしたが)。
 この貴重な海外研修(当然自費です)。当時、機会があったらまとめようかと思っていたのか、実施記録のようにメモをとっていた。写真と、そのメモをもとに振り返ってみようかと思う。

 まずは0日目。この日は夜行バスに乗り、大阪へ行く。バス内では当然の如く飲み寝る。
 1日目。朝早くから昼過ぎまで関空にいたことになる。はっきり言って何をするでもなくひたすら時間が過ぎるのを待っていた。ちなみに、T先生とは現地集合、現地解散である(これもT先生に当然のように言われて「はい」と当然のように返事をした記憶がある)。数少ない渡航経験しかないのに、そして自分でホテルまで行かなければならないというのに、案外切迫感がなかったのも覚えている。まあ、空港で待つのはイヤではなかった。田舎もんだから、ビルとかでぼんやり過ごすの悪くないし(というより飲めば時間がつぶせると思っていたし)以下、メモと写真を元に。
 7時に関空着。朝ご飯食べにマクドへ。メモには「クーポン忘れる」と記してある。よほど悔しかったらしい。8時。ゴールドカード会員用のラウンジへ(実は持っていたりする。おかげで海外旅行保険も入らずに済ませることができた)。一本目を飲むのはまだ早いかと、ジュースを飲みつつ。一息つく。そして11時。学部生の二人と合流する。モダン焼きを食う。彼女たちも今回の海外は初めてかそれに近かったはずだ。普段からしゃべっている訳ではなかったが、全く接点がないわけでもなかった。ちなみに、儂はひょんなことから大学の非常勤講師を2年間したことがあるが、そのとき講義をした学年が、奇しくも学部から内部進学した大学院の同級生と、その下の学年(つまり今回一緒の学部生)ということで、不思議な縁があった。ともあれ、心強くもあり、若い女性二人連れてというのは、かなり責任感も感じていたのを覚えている。
 12時前に4階へ上がり、空港内ゲートより出国する。日本であって日本でないのかなと妙な気分にある。

 14時過ぎにようやく出発。出国からさらに2時間かかっている・・・。この辺の記憶はない。ずっと土産物屋とか免税店見てたんだろう。で、機内。JALである。エコノミーだが、儂の体が小さめだからか別に不自由はなかった。個人用のモニタがあり、映画やらゲームやらできるので退屈しなかった。で、普段はあまり見ない映画を見た。一本目は韓国映画の「sad movie」で、話の中に韓国手話が登場し、思わぬ貴重な情報を得た。当然じっくり見た。もう一本は「武士の一分」軽い気持ちで見たが楽しめた。見ながら機内食そして、一番搾り2本。

 18時45分(現地時間)。映画の余韻に浸りつつ到着。

時差は2時間だから、6時間余り乗っていたことになる。以下現地時間で記す。
 19時20分入国。まあまあ時間がかかっている。ターミナル内の銀行で両替。この時のレートは30000円→8760バーツ(B)。この時は、日本国内なら1バーツ4円、タイなら1バーツ3円といった感じだったか。現地で換えた方がトクなのは確かだし、しゃべれなくても大丈夫だから、面倒がらずに向こうでやった方が正解だなと思った(また、バンコクなら町中至る所に小さい銀行があるので、気分的に困らなかった)。
 30分後にようやくタクシーに乗る。タクシー待ちでイヤな予感が的中する。係員か何か分からんが、乗り場の担当らしき人は結構いい加減に客を割り振る。順番とばしも若干受けた後で、ようやく指示されたタクシーに乗り、ホテルの住所を書いたメモを見せ、行き先を指示する。儂は前。学部生の二人は後ろ。ほっとしたのもつかの間、走り出した後でタクシーにメーターがないことに気付く。確認してから乗るべきだったと思うが後の祭り。後ろの二人は不安そうである。車内で人の良さそうな運転手が片言の英語で(儂に内容が分かったんだから片言の英語だったんだろう)800バーツでいいよ高速代はサービスするからと言う。「地球の歩き方~タイ」で予習していたので、ぼったくられるかなというのは分かった。メーターがないというのはその時点で悪質である。乗り場の係員も、いくらかもらってこういう悪質タクシーも適度に混ぜて配車しているんだろうか。まあ、800払っても、日本人の感覚なら妥当といえば妥当(タイの物価は1/3と考えればいいから)だし、ここで素直にそれで安全に連れて行ってもらうのもいいかもしれない。でも、儂は抗議した。日本語で、地元の言葉で怒鳴りまくった。ちがうやろおかしいやんかめーたーないしめーたーあったら300(指3本出す)やろってかまんからおろせって(本当に降ろされたら困るけど・・・)。しばらくやり取りしてにらんで怒った顔で乗っていた。この時、もう仕方がないというか、別に自腹切れば他の二人には影響ないわけだしと納得はしていた。まあ授業料だなあと。マニュアル通りに空港内の乗り場でタクシー拾ってもこうなるんだなあと、まあ言うだけ言ったこともあり納得していた。すると、運転手は、程なくして3(00)でいいと三本指を立てた。ほっとした反面いいのかなと思った(この辺が中途半端にお人好しなんかな)。その後、30分は長かった。高速代(30バーツ)もルール通りこちらが支払った。景色を見る余裕はなく、まあ普通のタクシーに乗ってもそうだっただろうけど、英語の看板をさがしては、頭の中で何度も復習したバンコク市内の地図とつきあわせた。
 20時40分、無事にホテル着。儂の表情は硬いままだったが、さんきゅーと300バーツを渡して、無事に解放された。ちなみに、今回の結果はオーライだったが、見ず知らずの土地でけんか腰で対処するとリスクが大きいと後になって思った。今もそう思う。どこに連れて行かれ、どんな目に遭わされるかという心配(というより危険)もある。だから、あまりおすすめしません。この時はたまたま運が良かっただけ。800バーツを授業料代わりに払うのが一番賢明だろうと思う。
 21時10分、彼女たちに連れられ(本当にそんな感じ)ホテル近くをうろうろしに出る。ばりばりの地元民御用達と思われる屋台がならんでいるがもう店じまいらしい。セブンイレブンに入り、耳かきやらスナック菓子を買う。実は、空港で携帯をレンタルしてFOMAカードを差し替えようとしたら、カード挿入口に仕込まれたバネが反応してしまったらしく、電池がとれなくなり、結果的にカードが抜けなくなってしまっていた。携帯が使えないと現地でのT先生との連絡や日本との連絡ができず不便だし不安なので、何とか直そうとしたが、工具もなく本当にどうしようかと思っていた。そこで、具合の良さそうな耳かきを見つけ、購入したというわけである。コンビニ万歳。1時間ぐらいぶらぶらしてホテルに帰り、ケータイ修理を無事に完了する。

携帯が使えないというだけでこんなに不安になると言うのも考えもんだと直って安心してから思う。普段余り使わないのに、思った以上に携帯に依存していることを改めて知った。ちなみに、ドコモでレンタルすると海外では着信でもお金がかかる。この翌日、何年もかけてこなかった人から電話がかかってきたりして、これもまた不思議なもんだなと思ったりした。

マイペンライ・タイ訪問記~その2

2012-03-20 22:00:00 | 別に除けておきたいこと
 2日目。
 5時30分。滅多にかかってこない前の職場の人から、何年かぶりに用事で電話があってびっくりして起きる。海外にいるとは言わず、普通に対応する(説明が長くなるので)。ついでにヨメさんにメールを送る。ちなみにホテルは、T先生からの薦めもあり、今回のタイ行きにも関係するラジャパド大の付属施設に宿泊することになった。

王宮の近くにあり、繁華街からは少し遠いが雰囲気が落ち着いていていいなと思った。日本語は通じない。タイ語の代わりに英語でやり取りする。儂の片言英語は非常に怪しい。ただ、フロントの実習生さんは儂のようなやつでも丁寧に扱ってくれるし、ゆっくり目に言ってくれるせいか何となく分かる(これがいわゆるピジン英語なのかと思ったりする)し、きれいできちんと鍵もかかるし安いのでかなりお得感があった。日本のガイドブックには載ってない。だからか宿泊中ずっと、朝食に降りていってもアジア系の人はほとんど見なかった。大学に用のある人が泊まるだけでなく一般の利用もあるみたいだが・・・。ホテル以外は、安い航空券をネットで探し、結果、3人一緒に来た。T先生は別便で昨晩着いたはずだ(フロントの人が夜遅く着くという連絡があったみたいなことをいってた)。
 7時00分。レストランに降り、初のタイでの食事となる朝食。

 タイ料理と言うより普通の洋食バイキング。がっつり食べる。
 9時。T先生とロビーで合流し豪華な大学のバスで、初めの訪問先であるセーサチアン聾学校へ出発する(但し豪華バスはこの区間のみ・・・)。学校では丁寧に応対していただく。ラフな格好なので恐縮する。ここで、T先生が持ってきた集団補聴器が寄贈される。T先生、結構こういう活動を昔からやっておられるらしい。

 学校は日本と同じく休みに入っているらしい。施設を見せていただく。日本に教員を派遣しているためか、補聴器も普及し、聴能教育に力を入れている様子がうかがえる。



寄宿舎を見せていただく。犬が暑そうにしている。

ほとんどの子どもは帰省中らしい。残っている子どもたちに中を案内してもらう。舎に入るのは女子だけだと聞いた。一つ一つが広い。だだっ広いところにベッドがぎっしり並ぶ。

この後もいろいろな建物に入ったが、聾学校内の施設なのか、別の施設(センター)なのかイマイチはっきりしない。いろんな人に会ったが、どこのどの部分を見ているのか分からんかった。表示はタイ語しか書かれてないし、聞くこともできんし。もったいないなかったなあ。写真は結構撮ったけど。


 昼前になる。以前大学にタイから研修で来られていたというアプラクさんと合流する。今回の旅は、T先生とアプラクさんがいろいろ手配してくださり、かなり快適な研修旅行になった。現在は、アプラクさんはノンタブリの特殊教育センターみたいなところにお勤めらしい。アプラクさんと、日本で言うバンに乗り、バンコクの隣のノンタブリ県に向かう。

 昼過ぎ。小学校に行く前に屋台に入る。

倉庫を改造したようなコンクリート長屋風の一角でアプラクさんは、よく立ち寄るらしい。ちなみにタイの人は昼食に限らずあまり家で御飯作らないということも聞いた。安く食べられる屋台とかちょっとした食堂があちこちにあるらしい。

はじめてのタイ料理か。うまかった。味がしっかりしていて、メリハリがあって、暑い国ならではの食べ物という気がした。満喫した。

 ここから、さらに田舎道を走る。田園風景が広がる。舗装はされている。突然、ぽつんと学校があった。

メモには、バンクラード小学校と記されている。ここにアプラクさんが勤めるノンタブリの特殊教育センタ-が併設されているらしい。広々とした学校は、子どもたちが休みに入っていてのんびりした流れの中で、先生方がごぞこぞと片付けをしていた。日本と同じだなと思った。

パソコンも整っている。少し離れた別棟にアプラクさんの執務室みたいなのがあった。

外に出ると、傘を差したサイドカーが通り過ぎた。

 続いて、やや街中にあるノンタブリ聾学校に移動する。


外では、教育相談?か何かの子どもたちが、おやつ作りの活動をしている。休み中だが、教育相談みたいなことはやっているらしい。小さな子どもたちと少しばかり交流もした。会議室に通され、ここでももてなしを受ける。子どもたちが色塗りをしたしおりをいただく。鉢植えもいただくが、検疫の関係で、アプラクさんに持ち帰ってもらうことにする。その後、パワーポイントで学校長より説明を受ける。英語である。理解度10~20%かなと。以前、デフ(ろう者)の舞台を見に行ったことがあるが、日本手話でのやり取りは理解度10~20%かなとその時も思った。どちらも使いこなすにはまだまだである。この説明はT先生が同時通訳(ちなみにT先生、大学の先生になる前は、儂と同じ系統の仕事をしていた。何故ここまでレベルが違うのか・・・)。

この後、様々な施設を建て続けに見学する。
 バンに乗り、戦勝記念塔経由でホテルへ帰る。

ハードなスケジュールだった。
 17時過ぎにホテルでパーンさんに会う。アプラクさんの紹介で、明日のアユタヤ行きに一緒に来てもらう人だ。T先生は日本語ができる、あるいは日本語を学んでいる学生さんを、とアプラクさんにお願いしていたようだが、パーンさんはまだ習い始めて数ヶ月らしく、日本語はほとんど話せず、かといって英語もほとんど無理で、身振り手振りのコミュニケーションになった。これはこれで、そんなに苦ではなかったが。現地での交渉ごとはT先生が全部やってた。
 18時。タクシーに乗りビクトリーモニュメント(戦傷記念塔)駅へ。渋滞に巻き込まれる。さすがバンコク。BTSに乗り換えトンロー駅へ。

にぎやかなところに行き当たる。「歩き方」にも載っていたバイクタクシーに乗っている人がいる。

ここでタクシーをつかまえる予定だったが、つかまらず、バスに乗りトンクルアンというところに行く。

ここで、青年海外協力隊でタイの聾学校に来ている方に会い食事会をする。当然T先生の呼び掛け。一人はアユタヤの聾学校。もう一人の方は北のチェンマイの聾学校。どちらも結構な都市部で、生活に不便はないらしい。タイ語を流ちょうに操っているのが、格好良かった。協力隊で、タイなんていいなあと正直思う。

 22時30分、協力隊の方々と別れ、ホテルに帰ることにする。途中サイアム駅をうろうろしている時に、T先生の一声でもう一軒寄ることになり、ノボテル(?)のラウンジに行く。飲む。
 23時30分にホテル着。0時30分、家にメールを打ち、ようやく寝る。

マイペンライ・タイ訪問記~その3

2012-03-19 22:00:00 | 別に除けておきたいこと
 第3日目である。ここまで記してみると、えらくハードなスケジュールだった。二日間ぐらいで視察するところを、まあ諸事情というやつで一日で一気に回ってしまったようである。春休みを利用しての研修だからあまり無理はできないが、子どもがいるときにくれば、もっとおもしろかっただろうなと思う。

 6時30分に起床し、7時に家に電話。
 レストランで朝食をとっていると、ラジャパド大学のマリワン先生にお会いする。かみ砕いた英語でわかりやすく、T先生はどこかと尋ねられる。部屋の番号は知らないが今日は、9時にロビーに集合する予定だと、どうやって伝えたのか覚えてないが、とにかく英語ならぬ英単語を並べて答える。困ったことがあったら、電話をしろと名刺をいただく。心遣いに感謝する。タイ語は難しくても、英語はやっとくに越したことはないのかなと思う。特にピジン的に(こういう用語の使い方は不適切かもしれませんが)英語が使われる国では、なおさらなのかもしれない。
 9時にホテルを出発し、半にはファランボーン駅周辺に到着する。

タクシーで60Bほど。ここで、パーンさんと合流。
時間があるので、駅の近くのお寺(ワットトライシート)に行く。途中カワサキに会う。


チャイナタウン入り口を眺めながら歩き、7月22日ロータリーも見物する。犬はやっぱり暑そうだ。

駅に戻り、国鉄に乗る。ゆっくりゆっくりアユタヤに向かう。

車内では、近くに座っているほかのお客さんから乾燥したお菓子みたいなものをもらったり、弁当が突然配られそれを食べたりした。

弁当はチケットの料金に含まれているのかもしれない。楽しい国鉄の旅ができた。
 12時20分、ということは約1時間あまりで「AYUTAYA(アユタヤ)」着ということになる。小さな駅に降りる。パーンさんが車内に荷物忘れたらしく、駅員とタイ語でなにやらしゃべっている。20分ぐらいいろいろやりとりして、めどが立ったらしく、これもアプラクさんの知り合いの運転するピックアップの車に乗り、観光情報センター経由でホテルに向かう。T先生が予約したリバービュープレイスホテルである。

 部屋がでかくて落ち着かん。手荷物のみ取り出し、ロビーに出る。ホテルのロビーでは、T先生と、現地のおっちゃんが英語でなにやら話をしている。もろおっちゃんという感じの男の人はトゥクトゥクの運転手で、先生は、今日明日の二日間、おっちゃんと貸し切り契約したらしい。「地球の歩き方」には、トゥクトゥクでぼったくられる話ばっかり載っていて、あまりいい印象をもっていなかったが、このおっちゃんは本当にいい人で、時間通りに迎えにきてくれ、きちんと案内してくれた。英語も観光客相手の商売だからがんばって身に付けたんだろう。見方を変えれば、英語が第二言語で使える人というのは、現地の人もそれなりの待遇でもてなすのかなと思ったりする。
 で、トゥクトゥクに乗りアユタヤの遺跡見学に行く。

まずは、象に乗る。

遺跡もさることながら、象に乗っているという事実に感動する。

 ワットプラナームへ行く。
 ワットロカヤスタは、横になっている仏像である。

これも観光ガイドブックではそこそこ有名だと思う。
 ウイハーンプラモンマンビートは大きな仏像と寺をみる。小さい子どもが境内(?)を走る。夕日の頃、破壊された遺跡と、寺の屋根、もの悲しい異国の雰囲気が漂う。後はメモに残っていない。寺の境内か別の所か・・・。



 ワットマハタートは木の間にある頭部のみの仏像が有名。

思わず手を合わせる。時は流れている。


昔、ここに住んでいた人々のこと、王朝のことを想いながら巡る。
 17時30分。一旦ホテルに帰還。ホテルから町並みを見る。人々の暮らしを想う。

夕暮れ時というのはよくそんなことを考えさせられる。

 小休憩後、トゥクトゥクにて、サイトンリバーレストランへ。文字通り、川の畔にあるレストランである。時は18時30分。ここでシンハーをいただきつつ、夕食。おいしい。

パーンさん、日本でいう高校出たてで、日本語の学校に通ってまだ半年たっていないらしく、本当に日本語わかりません、らしい。儂が持ってきた「指さし会話帳」で、片言の日本語教室、タイ語教室が学生たちとともに展開される。こういうコミュニケーションの仕方もあるのかなと思う。一生懸命伝えようと、お互いがんばるがなかなかである。学生2名とともにいろいろ質問し応えつつ会話する。結局、その本はパーンさんに贈呈する。日本語の勉強頑張ってねということで。

 レストランを出て、どうするのかと思いきや、トゥクトゥクは先ほどの遺跡へ。ライトアップされていて美しい。


 先生、まだ飲み足りないらしい。訳分からん屋台バーへ行く。

強そうな酒が出る。二日酔い覚悟で飲む。ヘパレーゼもウコンも当然ない。結構酔いが回ったが、飲み会の二次会ともなるといつもはしんどくなるのにそれがない。異国でテンションがあがったか。その後、ちゃんとトゥクトゥクで帰る。全部、T先生が手配してくれたようだ。恐らく0時は越えていないはずだが、それでも単独旅行ならまずあり得ないなこんなこと。

マイペンライ・タイ訪問記~その4

2012-03-18 22:00:00 | 別に除けておきたいこと
 昨晩結構飲んだが6時30分に起床。部屋が広くて落ち着かんが眠れないことはない。夜中に足がつる(一週間、毎晩のようにつっていた)。
 7時30分。朝食をいただく。バンコクでのホテルとは少し違った趣。

バイキングで食べ放題だが、がっつりとまではいかない。残念に思う。
 8時30分、時間があるので近くを散歩する。川を越える。通りを歩く。


学校だろうか。アユタヤの人が暮らしている空間に入る。家があり庭があり、人の暮らしを感じつつ歩く。単車に乗って一人であちこち旅していた時から、割合「何でもない」ところを通っているときに安心感というか気持ちよさを感じている。この単車、いい雰囲気である。
 と思えば、「pom phet」という遺跡も知らず知らずに通っていたらしい。後でガイドブックを読みなるほどと思う。

 9時00分に集合し、9時30分出発。昨日のトゥクトゥクで、市場(ウィハーンプラモンコン市場)に向かう。


田舎の市場。でも銀行はある。古くて安い土産物屋がたくさんある。T先生、お茶を買うが「ん゛ー」という顔になる。

パッケージは日本のそれとほぼ同じだが、味はまるっきり違う。甘いらしい。本当に「甘茶」である。
 10時30分、チャオプロム市場に移動。ここは繁華街。生の肉やら剥き身で固まりでどーんと置いてある。


圧倒される。スーパーみたいなところに入る。ダンキンドーナツがある。まだ腹が空いていないので買わなかった。アディTの安いのがあったので買う。

日本円で800円ぐらい。サイズが欧米サイズなのかやたらでかかったが。
 11時45分、一旦ホテルへ帰る。ここでトゥクトゥクのおっちゃんとはお別れ。楽しい時間を過ごすことができた。後々、そういうことを思うことができるのは、こうしたガイドさんとかタクシーの運転手さんとか、土産物屋のおばちゃんとか、そういう人に温かくもてなされた時に限るな。いくら名所旧跡でも、ぼったくりばかりじゃ、ねえ。
 荷物をまとめ、バンで出発。これもアプラクさんの知り合い関係らしい。だんだんと郊外に出る。

12時35分、船着き場に到着。

場所はよくわからない。日本人があまり乗っていなかったところをみると、日本向けのガイドにはあまりないところなのかもしれない。T先生、バンの運転手さんに、日本から持ってきた陶器をプレゼントする。気配りすごいなあ。
 船に乗る。

T先生の企画で、川下りしながら、食べて飲んで楽しもうということらしい(帰りは船で、とは聞いていたがこんなに豪華な船だとは思っていなかった)。欧米人ばっかである。食べ飲み放題。一通り飲んで食べると、デッキに出る。川岸の家を眺める。

シンハーの酔いが心地よい。寺やら家やら、川岸の表情は絶えず変化していて飽きない。




バンコクについたのは16時00分であった。ここで、スアルルム・ナイトバザールへ。大きな市場である。土産を物色する。迷路みたいで飽きない。途中、大がかりな停電があり、照明が少しだけになる。場所はよわからないがルンビニ公園の近くか。でっかい観覧車があった。

 19時40分に、チャイナタウンへ向かう。

店を物色し、一軒目は高そうなお店。フカヒレをいただく。いくらになるんだろうと緊張する。二軒目は屋台。エビを食う。うまい。客が入れ替わり立ち替わりで緊張する。21時00分、タクシーで日本のガイドブックによく載っている有名なホテルと間違われ、大回りになるが、とりあえず30分後に帰り着く。アユタヤに行っていたので、部屋が変わる。

そこで、日本を出発するときに着ていた服を前の部屋のクローゼットに忘れていたことに気づく。片言の英語でフロントと交渉する。探してくれるがないらしい(儂の言っていることが分からずにうやむやにされただけかもしれんが)。まあ仕方がない。その後、携帯、メール等一通りして、寝たのが1時00分。ドコモの携帯、海外でも使えて便利だが、海外は着信でもお金がかかる。まあ、想定内だが。

マイペンライ・タイ訪問記~その5

2012-03-17 22:00:00 | 別に除けておきたいこと
5日目。6時30分に起床。
家人に葉書を書く。8時00分に朝食。9時00分ロビーでパーンさんと会い、改めてお別れする。ご両親の対応がとても柔らかだった。
9時30分。一人で出発(覚えていないがたぶん歩いて)。この日は午後まで予定なしである。とりあえず街をぶらぶらしに行くことにする。
戦勝記念塔からチットローム、サラデーンへ。途中、マクド発見。

うーんタイ。ここでバンコク銀行本店へ。この日に1万円を両替して2910バーツと記録にはある。しかし記憶にはない。そして、葉書を出す。

この葉書は儂が日本に帰った後に到着することになる。
大通りを歩き、サラデーンから、チットロームに戻る。今地図を見てもどの辺を歩いたかあまり記憶がない。この写真の風景は記憶にある。

単車がシグナルGPしてた。
さらに歩く。早足で歩く。大きなビルの近くに来た。

ショーウインドウが奇抜である。
伊勢丹(?)で買い物をする。日本ではみないスポーツメーカーの長Tを買う(ミズノのパクリかなという気もしたが、一応、独立したテナントが出ていて値段もまあまあした)。
 この辺りから、タイの日本語OKの旅行社に電話して、明日の日帰りのツアーがないか、何社か当たってみる。公衆電話が目に付くと入り、電話をかける。一緒に来た学生さんたちは就職先のオリエンテーションがあるとかで今日までである。明日は、T先生も別のところへ行くらしい。儂は儂で、行きたいところがあった。でもどうやって行くかは迷っていた。「地球の歩き方」には、そこそこ情報が載っているのだが、本当にこれでいけるのか、また帰りの便の本数が少ないのも気になっていた。迷いながら、電話をし続けた。伊勢丹の近くにプラトゥーナム市場がある。この辺は、古い市場ときれいなビルが混在し、後から思えばバンコクならではという光景だった。

昔上京して、初めて新宿駅に降り立った時のことを思い出しながら、市場に寄りビルの中を歩いた。伊勢丹の入り口では、警備員が所持品検査をしていた。ガラス張りのきれいなビル。一方で、宗教の勧誘こそなかったが、道には物乞いの姿が本当に何人も何人もいた。片足がない、手がない、そういう人たちが立っていた。こちらをじっと見ていた。
 13時にプラトゥーナム市場を後にし、T先生と卒業生さんとの待ち合わせ場所のグランドハイアットエラワンバンコクに向かう。途中、水上バス(?)を見つける。

無事合流し、そこから、ソフィテルホテルの38階にある(上海・飲茶)で遅い昼食をとる。

ビルの外を見ると、さっきのビルと物乞いの残像がそのままにある。13時40分。時間制限のオーダーバイキング。満喫する。日が傾いてきて、テーブルに陽が差すようになった。T先生、勝手にテーブルを動かして移動させる。冷や冷やする。でもお咎めなし。やっぱすごい。
 15時00分に食事を終え、サラデーン近辺をうろうろ。タンヤ通りという、バッポン通りの近くで、市場があるところを徘徊する。この辺、スクンビットの近くか。この間も、明日の日帰りツアーの予約を試みるが、なかなかうまくいかない。
 明日は、カンチュナブリに行こうと思っていた。これだと、国鉄で行けば、市の郊外にある駅から100バーツで行ける。ただし少し先のクゥエー川鉄橋までは、135バーツという。どういう料金体系しているのかがよくわからない。とにかく「歩き方」を読んだだけではよく分からないことが多い。一方、旅行社が企画する日帰りツアーは、だいたい900~1200バーツ。途中のナコーン・パトムを回ってくれるなら、それもいいかと思い、いろいろ探したが、2箇所回るツアーの空きがない。カンチュナブリ1カ所なら、それほど魅力的とは思えず、覚悟を決めて汽車で行くことにする。
 17時00分。サヤームにあるYMというチェーン系のタイスキの店へ。今日帰国する学生さんがなかなか集まらない・・・。待っている間に、T先生にさっきはどこ行ってたんですかと尋ねると、高校の時の友達を訪ねていたとのこと。某日用品メーカーの現地法人のお偉いさんになっているらしい。ソフィテルに行く前は、お世話してくださった大学のマリワン先生といろいろ話し合いをしていたそうだ。ハードな日程だなあと思う。学生さんが到着しシンハーを注文。学生さんエステに行っていたらしい。安くてよかったと満喫したようだった。儂も、この日は中休みみたいな感じで、街ブラを満喫した。18時40分、店を出てホテルへ。1時間後、学生さんを見送る。タクシーはホテルで呼んでもらったから大丈夫なはずだ。T先生も別のホテルに移動する。明日は予定があるらしい。みんないなくなり、一人になる。セブンイレブンへ行き、お菓子を買う。少し緊張する。

マイペンライ・タイ訪問記~その6

2012-03-16 22:00:00 | 別に除けておきたいこと
 6日目。で、カンチュナブリである。「歩き方」ではカンチャナブリだが、自分の中ではカンチュナブリで覚えてしまっているのでとりあえずこのままにしとく(それでも、気付いたら換えます)。とにかく初めての海外一人旅の日。
 朝5時00分起床。身支度をする。時間がかかる。今日は朝一番の汽車に乗るために、朝食をとらずに出る。非常食代わりのお菓子を鞄に入れ、6時15分出発。「地球の歩き方」の地図を頭で反芻しながら、歩いてテゥエートへ向かう。屋台やらリヤカーやらがぽつぽつ見える。

テゥエートに到着。ここに水上バスの停留所がある。水上バスは、普通便から特急便まであるらしい。止まるところは、船の旗の色によって違うらしい。とりあえず、ここからならワンランに行くのがいいみたいなので、番号を覚える。市内を走るバスになると、英語表記がないので本当に訳が分からないが、ここは何とか英語があった(と思う忘れた)。

水上バスが来る。乗ろうとすると違うよと言われる(何となく分かる)。次のが来る。さっきのことがあるのでちょっとドキドキしながら乗る。車掌さんから切符を買う。番号を両手で示し、うまく買うことができた。

切符が買えたので安心する。朝日だ。

ワンランで降り、歩いてトンブリー駅へ向かう。

緊張しながらもとにかく歩く。路肩が狭い。トゥクトゥクをよく見る。路地は、バイクタクシーを使うらしい。怖くて乗らなかったが。怖いのは二人乗りが怖いのではなく、どこに連れて行かれるか分からなかったから。公共交通機関と、自分の足は嘘はつかないだろうと思って。でも自分の足は、頼りない。路肩に張り出した建物で、肩を強く打つ。気にせず駅を目指す。水たまりが多い。坊さんが朝から歩いている。人通りは多い。市場が見える。

トンブリー駅に着く。時は7時15分。出発してから約1時間。

 時間に余裕があったので、切符売り場でも落ち着いてジャパニーズイングリッシュ。問題なく100バーツで買えた。外国人料金は一律100バーツらしい。

スムーズに買えたら欲が出る。もし鉄橋まで買うならいくらだったんだろう。「えくすきゅーずみー」と言いかけたら、「ノー」と遮られる。再発行は駄目だといっているようだ。この旅で、断られることは普通に多いと感じる。あまり気にしない。カンチュナブリの駅から歩くか。
 ホームには、現地の人は当然ながら、欧米人のバックパッカーが結構いる。みんな背の高いザックを地面におろしていた。7時45分発ナムトク行き汽車がホームに入ってきた。50分出発。

 木のシートで、日本のJRの各駅停車のような四人が向かい合わせになるようなやつだった。

車内は空いている。同じ車両に子ども連れの母親がいる。車内販売で飲み物とおにぎりのようなものを買って子どもたちに与えていた。つい儂も買う。200か300バーツだったか。決して安くはなかった。

もの一つ買うのもどきどきする。相手は、儂が外国人だと分かるので、指立てて値段を教えてくれる。「せんきゅ」と礼を言う。
 途中、いくつもの駅に止まり、また出発する。家があり道がある。お寺が見える。


途中、先日のツアーで検討したナコーン・パトムを通る。駅前が少しにぎやかだった。

汽車でふらりと立ち寄るには、情報があまりに少ない。タイ語はおろか英語もできないとなれば、あまり無理はできんなあと思った。
 少しずつ風景が変わり、田舎の風景になる。家がぽつぽつと見える。


だだっ広い草原地帯になる。牛もいる。

 やがて遠くに山が見えるようになる。

そして乗車すること2時間半。カンチャナブリに到着。

駅近くで、リヤカー付きのサイドカー発見。いいなあ。
 駅はのどかな田舎の駅だが、駅を出ると想像とは大違いだった。駅前の大通りは車こそ少ないが、結構な広さで、ホンダやシェルの看板がたくさんあった。

バイクショップも。これはタイカワサキかな。

歩き方の地図を頭でトレースしながら、早歩き時々ジョグ混じりで、クゥエ川鉄橋の方面に向かう。大通りから狭い道に入ると、家が見える。別荘かそれとも普通の居宅か。大きめの家が多い。

もっと村っぽいのを想像していたから逆に新鮮に感じる。
 やがてバックパッカーが長期滞在に使うような民宿が並ぶ川沿いの道に出る。

ここにもセブンイレブンは存在する。そして、駅を出て1時間。記念館などを経てほぼ予定通りにクウェ川鉄橋着。

しばし感慨にふける。自身の最西端だな。



 上級ルートとしては、ここから先も鉄道を乗り継ぎ奥地に入り、途中泊を入れながらミャンマー近くまで行くこともできる。ただまあ、歴史的な背景もさることながら、儂としては何かの雑誌の写真で見たこの橋をみたかったそれだけ。もちろん映画を見ていたわけでもないし。
 堪能したのは、たったの約40分。でも十分。橋を後にすることにする。帰り際、汽車が鉄道を通る。

本当に汽車が通るのに、線路の上がんがん歩いたもんな。結構愉快だった。土産物屋にカワサキが停まっていたのでついでに少しのぞく。

丁度正午に出発する。

 目的を達成して腹が減った。道ばたの屋台に入る。

ジャパニーズイングリッシュで、屋台の看板に書いてあるメニューを指さしながら注文する。
焼きめしとペプシ。ビールはメニューにない感じだった。あったら注文していたかもな。テーブルの下では犬がいる。

近所のおいちゃんがご飯を食べている。まあ、バックパッカーも時々立ち寄るのだろう。あまりじろじろとはみられない。飯はうまかった。がんばったでしょう、の飯。
 屋台を後にする。趣味のバイクや働くバイクをたくさん見る。アジアの国のバイクを見るのは楽しい。

ほうレンタカーもあるのか。

 目指すはバスターミナル。早足で、時々ジョグ混じり。墓の前を通る。

バイクタクシーがやってくるなにやらいう。「乗らんか」と言ってるらしい多分。いらんいらんと手を振るとあっさり立ち去る。入れ替わり立ち替わり別のが3回ぐらい。トゥクトゥクもやってくる。
 繁華街らしき風景になる。

13時15分これもほぼ予定通りバスターミナル着。バスの時間は知らない。汽車より本数が多いらしいのでバスにしたが、どれに乗っていいのかさっぱり分からん。バンコク?と片っ端から、バスを指さして、行き当たる。ウェアー・セル・チケット、本当にブロークンな英語だなと思いつつも単語を並べて、バスの傍にいる人に尋ねる。どの人が係員なんだか分からんし。でも、チケットが買える。不思議だわ。値段は国鉄とそう変わりない。たぶん二等のエアコンバス(?)で77バーツだったはず。

で、乗り込むとすぐに出発する。この間5分。途中は、不安で、あまり景色も見なかった。バンコクでなかったら、ということは一応考えていた。しかしまあ、どこを走っているのか分からん。道路はすべてタイ語。途中で、バスは止まり、客を乗せる。

 車掌のお姉さんがやたら元気だ。運転手さんといちゃいちゃしているだけでなく、バスが走っている間は、かなりリラックスしている。

 1時間20分で、バンコクの南バスターミナル着。時刻は14時30分。バスを撮影していると、おねーさんがポーズをとってくれた。ありがとう。

 国鉄をみんな使わないわけだな。「歩き方」に乗っていたとおりのターミナルに着いたようなので一安心。ここから別に歩いても(走っても)、5㎞もはないだろうから、それほど心配はしなくていいはずだが、あいにく、交通量が多くだだっ広い道路の横断方法がイマイチよく分からない。で、ターミナルで、何て聞いたのか覚えてないが、とにかく戦勝記念塔に行くはずの28番?のバスを探す。いくつか窓口を回り、何とか乗り場の番号を教えてもらう。さっきのバスの車掌のお姉さんよりもっと若い高校生ぐらいのお姉さんが乗っているバスに乗り込む。

タイのバスは種類が細かくて分かりにくい。乗り口も料金の払方まで違う(あ、日本もいろいろあるか・・・)だから観光客はタクシーやトゥクトゥクなんだろうけど。
 やがてバスが出発し、大きな川を渡る。ラジャバド大学の前を過ぎる。ほっとする。

そのまま戦勝記念塔まで行き、降りる。

何か朝から冒険した割には、まだ時間が早い。予定にない時間なので戸惑いながらも、とっさにどこかに行こうという訳にもいかず、この辺をぶらぶらとする。下調べしていないので不案内である。市場に迷い込む。おみやげ物を物色。ビルのテナントに入っている本屋さん。タイ語の漫画。一冊買って帰ろうかと思ったが、止める。ケータイ屋も覗いても見る。アユタヤにあったダンキンドーナッツも見る。
 腹が減ったので、飯にする。肉々しい御飯。ファーストフードというかフードコートみたいなところで食べる。ビール飲みたかったが、メニューになく断念。

 時は18時15分。歩いてホテルに帰ることにする。到着は約1時間後だっただから3~4㎞。ホテルはドゥシット地区にあり、この辺は王宮の側である。きれいな噴水と、警備の兵士の姿をよく見る。ライフル銃だもの。少しびびる。

 この後の記録はない。セブンイレブンで、シンハー(正式には「シン」らしい)買って、荷物の整理でもしていたに違いない。

マイペンライ・タイ訪問記~その7

2012-03-15 22:00:00 | 別に除けておきたいこと
 7日目最終日。この日のメモには時刻の記録がない。飛行機の中ででも、思い出しながら書いたんかなと思う。
 起床、朝食後チェックアウト。フロントで荷物を預かってもらう。マイバゲージうんたらかんたらキープうんたらで通じたらしい。ホテルマンはすごい。儂もすごい。
 表に出て歩いて戦勝記念塔へ行く。何度も歩いた道であるが、案外ゆっくりと探索できていない気がする。

踏切で汽車の通過を待ち、貨物列車の通過を待つ。

ドゥシット地区の何でもない日常の中にいられることの面白さを感じる。

まずは、市内の免税店へ行く。

日常とは全く違った空間に入る。ここでは、家族に普段買えない土産を買うことにする。2時間ぐらい迷って、子どもたちにはスワロフスキーの置物(日本円で各5000円ぐらいか)、ヨメさんには、ブランド品の鞄(40000円ぐらいしたか)。いずれも通常よりかなり安かったようだ。某ブランドの販売店は、ごっつい兄ちゃんが、びっちり化粧して、ごくごく普通に応対してくれた。タイではいわゆるおねえ系のあんちゃんは、そういう「性」があることを認められているらしい。上手く書けないが、男の人が女の人のような格好をして立ち振る舞いをすることが、社会的にはどうもアリらしい。
 買い物が落ち着いて、昼食代わりに軽くビールとつまみを食す。ここでもシンハー(正式にはシンらしいが)。

 その後、ここから1時間ぐらい歩いて電器屋さんへ行く。秋葉原の電器屋のテナントビルみたいなのがあるらしい。途中、路地(ソイ)を眺める。子どもが遊び、犬が寝っ転がっている。路地というのは、道だけではない生活空間でもある。大きなビルと路地が、一緒くたになっている。バンコクを歩くと、もうどこでもそうした光景を見ることになる。このカオスがカオスではなくいわば当たり前のことなのだろう。写真を撮るのは少し遠慮した。大通りに出て一枚。

 電器屋さんで、マイクロSDカードを見つけ、安かったので買う。512M。これは今でも使っている。英語で何て言ったかは覚えてないが、店員は、指で値段を教えてくれる。外国人は当たり前のように来るのだろうか。近くのBTSの駅から、ホテルに行くバスが通るバス停の最寄り駅へ向かう。

 余裕を持って行動しようとすると、歩くには少ししんどい時間になっていた。
 バス停でしばしバス待ち。バスが何台か来る。来る度に番号を確かめる。何台目かのバスに、動物園に行くと思われるバスの番号を見つけた。車掌に行き先を告げる。ホテルがある所「ドゥシット・ズー」と。女性の車掌、首をかしげる。
 バンコク市内を走るバスは何種類かあり、行き先で料金が変わるバスと一律のバスの2種類がある。夜中も走っているので使いこなせることができれば便利な手段だろうと思う。行き先を告げたこのバスは、先に行き先を言って金を払うタイプのバスだ。儂自身は、これまで市内一律料金のバスしか乗ったことがない。ただ、こうしたバスの種類や乗り方自体は、ガイドブックや「歩き方」で確認済み。だから、初めてのるタイプのバスだったが、戸惑うことなく行き先を告げた。
 しかし、車掌は分からないというように首を振る。3回ぐらい繰り返したか「ドゥシット・ズー」と。すると車掌は、しばらくしてから何やらまくしたて、ドアを閉めて言ってしまった。タイ語で「このばすはそこにはいかんよ」というようにきこえた。何故か分かった。何でだろう。この乗車拒否は仕方がないなどうしようか。動物園前を通る別系統のバスを待ってみるか。時間に余裕はないが、歩いて帰るには、ちょっと時間が厳しい。どれぐらいの感覚で来るのかは分からないのでドキドキしながら待つ。やがて目指すバスが到着した。普通に乗り、だいたいこの辺、というところでボタンを押して、降りる。やれやれ。
 ホテルに着き、荷物を受け取って、ホテル前から出ているバスに乗る。今度は、空港行きのバスが出ていると思われるバス停まで行く。普段なら歩いていくが、スーツケースが重い。詳しく覚えていないが、地図と「歩き方」の情報、後は現地で入手した英語版か何かのバスの路線ガイドで降りるところと歩くところは調べていた。目指す辺りで、バスを降りる。料金も予定通り。ただ荷物のスーツケースが大きくて、降ろすのに四苦八苦する。ここから、もう一つ別の通りまで行くと、空港行きのバスが出ている筈だ。狭い路地を地球の歩き方の地図を見ながらスーツケースを押して歩く。珍しいのか、結構振り向かれる。広い通りに出る。この辺だが・・・と思っていると、飛行機のマークが入ったバス停発見。

だいたい20分ぐらい待ったか。バスが来る。

バスには、始発から乗っていると思われる客がいる。欧米人ばっか。バス料金は150バーツだから、一人ならタクシーよりは安いが、2人3人ならどうなんだろう。儂も、一人であってもタクシーを利用するという選択肢はあったが、とにかく、ぼったくられるのがいやだったのでバスを使った。こうしたことは手間がかかるし、不便だったし、乗車拒否にもあったし。ただ、調べて行動して、何となく自信というか、何とかなるもんだという感じも得た。とにかく、昨日今日と単独行動になってから、やたら公共交通機関を使った。それまではタクシーの乗り合わせが多かったからな。タクシーでは見えないものが見えるのは想像通り。だから若いもんがザック一つで日本を出てみようとするんだろう。危険は危険だが、危ないすれすれのところさえ行かなければそれなりにいいものかもしれない。もちろんすれすれを知るにはすれすれを経験しないとだめなんだが。
 市内の喧噪が消え、郊外の光景が目に入る。行きは暗くて見えなかった景色。

タクシーの運転手はうまくやっているのかなと考える。空港の建物らしきものが見えてくる。空港着。バスを降りるときに料金を支払う。

建物に入り、出発ロビーを探す。行きは余裕がなくて見えていなかったが、結構大きな空港で綺麗だった。

時間はまだまだ余裕がある。無事に到着したことを喜び、飲む。シンハーじゃなくてぞうさん。

今日のこれだけでも大冒険だった。20年前に上京したときのようなハラハラ感に似ていた。そして、無事にゲートくぐった。

 ゲートをくぐってもしばらくは、物珍しくてうろうろした。バンコクの免税店で購入した品物を受け取り、空港のショップもくまなくゆっくり見る。


バーツもなるべく使う。ちょっと御飯を食べる飲む。

で、もういいかと早めに出発ラウンジに行く。しかし誰もいない。店もない閑散としている。

まあいいかと1時間ぐらいそこで待ち、機上の人となる。
 行きと同じ映画を見る。隣は恰幅の良いオヤジである。オヤジがビールを頼む。儂もと頼むそして飲む。ミラーか何かを2本飲み、また武士の一分とサッドムービーを見て、寝る。

 夢のような一週間だった。現地集合、現地解散で大丈夫かと思ったが大丈夫だった。全部決められているわけでなく、ほったらかしの訳でなく。初めにT先生と行動する中で、タイの様子がつかめてきたし、そのおかげで、単独行動もできるようになったんだなと思った。いろいろと考え事をしながら、しかも危険を背負わずに過ごせたのはラッキーだった。
 風邪も下痢もなかったのが不思議だ。トラブルは、警戒しすぎるほど警戒していたから、どえらいことにはならなかった。「歩き方」を鵜呑みにするわけではないが、基本的に人は信用しない。儂など、現地の人から見ればいいカモだから、防ぐ手だてを考えなければならないのは仕方がない。ふれあいがないとか、旅のうまみに欠けるとか、まあそういうことがあるだろうが仕方がない。
 大学院に行ったときの借金を返し終わって、その上で旅費が貯まったら、また行きたいと思う。北部のチェンマイも良さそうだし、東北部からラオスへの国境越え興味津々である。おっさんになって世界を知ったなと思う。記録を整理しながら、自分の子どもたちにも、すれすれの旅をしてもらえたらと思った。何か得られるものはある。そしてそれは案外長持ちするから。

案の定という結果~県クラブ駅伝の反省

2012-03-12 22:00:00 | 大会回顧録
昨日無事に終了。

今年のコースは、愛媛マラソンの第2折り返し近辺。だらだら坂と気が重くなるような直線。そして今年は、折り返し後の向かい風゛結構きつかったです。
直前になって病気になったり怪我をしたりした方が出てきてどうなることかと思ったが、何とか出走し、最後まで襷をつなぐことができた。儂にとっては初めて職場のチームで参戦。「お客さん」で走るのとは違った。やはり。
いろいろな人の協力で走るということができるのだと改めて感じ、またこういう大事なことを忘れていたかと情けなくも感じた。口をつくのは反省ばかり。

でここからは、個人的な反省。
4部5区5キロ出走。21分越えてしまうという情けない結果。
他の人はちゃんと走っているのだから、向かい風が、とか、息が、とか、そういうのは見苦しい聞き苦しい。
量走っていないとこうなる。
距離を甘く見ているとこうなる。
練習を考えてしていないとこうなる。
そして何より天狗になっているとこうなる。
やっぱり。

一年

2012-03-11 19:49:07 | 徒然に2010-2013
やはり引っかかるというか終わっていないと感じるのは、避難者34万人、不明者3000人以上という数字。

負けないで一歩一歩行かなければならないんでしょうけど、何とかならないかなとやはり想います。

早く。そう早く。

ムシのいいことを考える

2012-03-10 20:50:35 | 徒然に2010-2013
明日は、クラブ対抗駅伝大会がある。昨年は、大震災のため急遽中止になった。そのことを考えると、参加できることに改めて感謝せねばと思う。今年は初めて職場でチームを作ったが、練習はほとんどできないまま。まあ結果が出た後でいろいろ反省の弁を綴ることになるとは思うが、やっぱもうちょっと真面目にやっとけばよかったかなあと前日になって思う。

力が劣っている者が、勝負になるぐらいまでのレベルに達するためには、創意工夫か半端でない練習するかどちらかが必要。知恵がないモンはがむしゃらに量こなさないとだめなんだけどな。分かっていたはずなのに、中途半端に当日を迎えるのが、なあ。

カープソース、おたふくとは違った独特の味でうまかった。老舗の会社だが大きくはない。それでもこのソース立派に地位を得ているのかもしれない(600円は決して安くはないのに、である)。創意工夫だけではない、やっぱ研究に費やした量じゃないかなと思うのだが。

なのに、あわよくば再び5キロ20分切り、なんてムシが良すぎるなあ。はあ。

軽めのついで走り

2012-03-06 22:00:00 | 徒然に2010-2013
先日は、JRで1時間半程のところへ所用に出かける。駅から目指す場所までは約3キロ弱。バスが都合良く来るとは思っていない。歩くとギリギリになる。よって走る。

全く見ず知らずという訳ではなかったが、車や単車では、筋違いの大きな交通量の多い道路の方ばかり通っていて、いわゆる旧道を走ったことは、片手で数えるほどしかないことに気付く。
そうか遍路道だったかと気付く。

帰りも、回り道せずに元来た道を戻る。往復で5キロぐらいか。

風邪引いてから、走ることに対して少し頑張らなくなっているなあと思う。先月が450キロぐらい。これぐらいで充分なのかなと思いつつ、でも、前は本当に設定した目標をクリアしようと意識して走っていたから、走力が維持できていたのかもしれないし、それを考えると、今の走ることに対するスタンスは、どうなのかなと思う。甘いかなと。

本読む時間はできた。毎日帰りの30分の電車の中。それを考えるとまあいいのかなとも思う。この日の所用の帰りでようやく「デフ・ヴォイス」を読み終える。

コーダ(CODA)の観点からろう者の周辺を描いたこの作家は、この関係のことに詳しいという訳ではないらしい。丹念に取材を重ね、参考図書を読破して創られたものだということである。それにしてもまあ、この関係にどっぷりつかっている我々より、ろう者を見つめる視点は的確である。大学の先生レベルの研究者って、常人を超えたものを持っていないと研究なんかできないと常々思っているが、作家という人種もすごいなと感じさせられる。

個人的には「味方か、敵か」というフレーズが印象に残った本だった。

馬路村から便りが届く

2012-03-04 16:08:23 | 大会回顧録
おらが村・心臓破りフルマラソンという、マラソン大会に出たことがある。そのマラソンが20回を区切りとしてなくなるらしい。

当日は結構な雨で、「え、走るんですか?」みたいな感じで躊躇しながらも走り始めたことを思い出す(マラソン大会って割合雨になる確率が高いかも今度調べてみようか)。途中で雨は止んだが、ゴールした後のフットバスには、水しか用意されてなくて、確かに10月初旬のまあまあ汗ばむ時期だからお湯を準備することなど考えなかったのは仕方がないが、えらく寒くてすぐに足を出したことと、ボランティアの大学生(?)の女の子が申し訳なさそうにしていたのを覚えている。
コースは、本当に山道。トンネルも多く、マラソン大会じゃないと絶対走らんなあと思うようなコース。ダムまで上がると、ちょっとした集落があり、結構な応援があった。スタートとゴール、それから折り返し付近のダムは、近くの家から応援の人がたくさん出ていた。じゃその途中はというと、大会スタッフの方が、しっかり応援してくださった。会釈しながら走るので、最後は首が痛くなった。ちなみに、当日は折り返し後は下りが多いことを計算して、25キロぐらいでペースを上げたら、5キロぐらいで見事に失速して4時間18分ぐらいだったか。最後はキロ8分近くでへろへろでゴールした。前の年に初めてサブフォーして、2回目を狙って何度か失敗していた時期だったか。馬路村といえば「ごっくん」で、マラソンのエイドには、水と「ごっくん」がおいてあった。はじめはうれしくて、結構がぶがぶ飲んでいたが、後半は腹が変になり、水分どころか固形も入らなかった。それも関係していたのかなと思う。マラソンできちんと4時間切れるようになって来たのは、水分を調節できるようになったからかもしれない。

出たのは5,6年前のことだから、律儀な便りだと思う。なくなってしまうとなると、もう一度あの坂できっちり4時間切りたかったとか、前の日に前夜祭とか出て村に止まっても良かったかなどと思ったりもする。しまなみ海道ウルトラ遠足みたいに復活してくれればいいのになと思いつつ、でもあの坂でフルはきついなあ。いっそのことウルトラにでもしてくれたらと思ったりもするのだが。