約5ヶ月余り前。正に衝動買い、である。20分ぐらいで決めた。
日産車(中身は三菱キャブらしい)のクリッパーDX。
凄い値段で、それでも年式は約10年落ち。
但し走行距離が半端でない。バリバリの営業車だったようで。ボディに小傷も多い。運転席シートも傷んでいて破れているし。
本当はバモスとかエブリィとかが希望だったが、まあ、型自体は悪くないなと思って。前輪が前に出ているタイプが好きだったので。
実際に乗ったら本当に軽トラみたく乗りやすかった。軽トラより屋根付きの荷室がある分いろいろ使えそうだし(これはネットに出ていた写真)。んでもって後ろにスモークが貼ってあるのも自分で貼る手間が省けてよかった。
最初はインチアップしようかと思ったが、タイヤが綺麗なのでそのまま乗ることにした。荷室はどうだろう。ベットでも置けるように改造するか、などと車中泊のネットの記事を見ながら思案中。
それよれ何より、車全体を安いパーツ探して何年何ヶ月単位で作っていくかと。
安くいくらでできるかと思案中(少し前は中古というよりジャンク扱いの安いデスクトップを買ってきて安いパーツを探して取っ替えたりして楽しんでいたから、1から作るのはともかく少し手を加えるというのは元来すきなのだろう)。
ちなみに、コミコミの乗り出し価格は「Surface Pro 4 (i7/256GB/8GB)但し旧価格」よりまだ安いぐらいであった。
今は週末しか乗っていないし今後もそうなるだろうが、健康診断(バリウム)の日とか走れない時とかに職場に乗っていったり、チャリンコ積んで走ったりしている。儂、初めての車がジムニーだったからか、この高さの軽を運転する感覚は、懐かしい気さえする。
余計なものがないコックピットは実にわかりやすくていい。ただ、スマホだけおけるように細工はした。
灰皿のところを開けて、折り曲げるタイプのすべらないシートを配置し、FMトランスミッターを付ける。発進の時にスマホが落ちるので、100均でコードを止める金具を右隅に設置。
トランスミッターが、不良品(?)のため、余計な出費がかかったが、二つめのはしっかり動作した。
先日もこの通り。便利。
週末の休日限定ではあるが、最近多い予期しない雨にざんざかいいように降られて濡れる日などは、職場に乗って行ってもいいか否それやると走らんようになるか。
この車で「走る(ランの方)」上で新しいコトができるようになればと思うのだが、さて、どうなるか。恐らく走った後で呑むのを止めたら一番いいんだろうが、それが無理な間はやはり週末チョイ乗り限定か。まあ充分ではあるが。
日産車(中身は三菱キャブらしい)のクリッパーDX。
凄い値段で、それでも年式は約10年落ち。
但し走行距離が半端でない。バリバリの営業車だったようで。ボディに小傷も多い。運転席シートも傷んでいて破れているし。
本当はバモスとかエブリィとかが希望だったが、まあ、型自体は悪くないなと思って。前輪が前に出ているタイプが好きだったので。
実際に乗ったら本当に軽トラみたく乗りやすかった。軽トラより屋根付きの荷室がある分いろいろ使えそうだし(これはネットに出ていた写真)。んでもって後ろにスモークが貼ってあるのも自分で貼る手間が省けてよかった。
最初はインチアップしようかと思ったが、タイヤが綺麗なのでそのまま乗ることにした。荷室はどうだろう。ベットでも置けるように改造するか、などと車中泊のネットの記事を見ながら思案中。
それよれ何より、車全体を安いパーツ探して何年何ヶ月単位で作っていくかと。
安くいくらでできるかと思案中(少し前は中古というよりジャンク扱いの安いデスクトップを買ってきて安いパーツを探して取っ替えたりして楽しんでいたから、1から作るのはともかく少し手を加えるというのは元来すきなのだろう)。
ちなみに、コミコミの乗り出し価格は「Surface Pro 4 (i7/256GB/8GB)但し旧価格」よりまだ安いぐらいであった。
今は週末しか乗っていないし今後もそうなるだろうが、健康診断(バリウム)の日とか走れない時とかに職場に乗っていったり、チャリンコ積んで走ったりしている。儂、初めての車がジムニーだったからか、この高さの軽を運転する感覚は、懐かしい気さえする。
余計なものがないコックピットは実にわかりやすくていい。ただ、スマホだけおけるように細工はした。
灰皿のところを開けて、折り曲げるタイプのすべらないシートを配置し、FMトランスミッターを付ける。発進の時にスマホが落ちるので、100均でコードを止める金具を右隅に設置。
トランスミッターが、不良品(?)のため、余計な出費がかかったが、二つめのはしっかり動作した。
先日もこの通り。便利。
週末の休日限定ではあるが、最近多い予期しない雨にざんざかいいように降られて濡れる日などは、職場に乗って行ってもいいか否それやると走らんようになるか。
この車で「走る(ランの方)」上で新しいコトができるようになればと思うのだが、さて、どうなるか。恐らく走った後で呑むのを止めたら一番いいんだろうが、それが無理な間はやはり週末チョイ乗り限定か。まあ充分ではあるが。
でつるぶんの続き。
つるぶんを辞めた後、自宅浪人を経て、G大に補欠で拾ってもらった。この半年、そんなに身を入れて勉強に専念していた訳ではなくて、冬になる前には事故起こしたりして相変わらず何やってんだという感じだった。不処分にはなったが、裁判所に親について来てもらったときの情けなさはよく覚えている。
補欠合格までの道のりも平坦ではなかった。それまでは、最近急に駅伝が強くなったあのA大の夜間にだけ受かっていた。昼間の方は落ちた。何でここを「滑り止め」として受けたのかというと、夜間でも4年で卒業できて教員免許(但し2級)が取れてしかも学費が安かったから。
先生になりたいと思っていた。しかし、自分の聞こえの問題から半分諦めてもいた。実際に実習に行って担当の教官から「無理」とはっきり云われ、それがきっかけで方向転換をした。その時はそれでも、という気持ちだった。
で、なんだかんだといいながら、私立はこの二つ受けただけで、後は国立のみ(その国立も前期後期と2回受験できる最初の年だったが、1次試験の出来が現役の時より悪くて、締め切り日の朝まで地元のE大の願書も交互に比べながらの受験だった)。ということで、昼間働きながら大学で教員免許を取ろうかと思っていた。そのA大学の事務のバイト(ほぼフルタイム)募集は、夜間部のある渋谷のキャンパスの枠が埋まってしまっていて、厚木の分しか残っていなかった。待遇はほとんど変わらない(月12万ぐらいだったか)が、八王子→厚木→渋谷→八王子と通うのはさすがにきついのではと、田舎から出てきた19の世間知らずにも分かったらしく、結局断念した。青山キャンパスで雇ってもらえていたら、補欠合格が出ても流石に辞めにくかっただろうし、またその後が違っていたかもしれない。
住むことにしたのは渋谷から遠く離れた八王子。但し京王線で一本。これも、受験の時に配っていたビラに記されていた「紹介センター」と名の付く不動産屋へ行き、1軒目で決めた。八王子で4万3千円。安かったのはJRの線路のすぐ傍でそれなりに五月蠅いからだろう(駅の傍ではない線路である)。京王のこの駅は、G大に受かったからあまり使わなかった。使ったのはJRの方。
北野街道だったと思う。ここを南へ。
しばらく行く。
すぐに見つかった。今は高架になっているが、当時は下だった。1階の窓から電車のお客さんがよく見えた。
元々踏切もあった。これも近かった。横浜線は中央線ほどは本数はないから渋滞するほどではなかったか。
片倉城址公園、1回ぐらい行ったか。この日は行かず。
片倉駅も変わったなあ。
この道は横浜に続く道。正月にマフラー改造した車や単車がものすごい数通っていった。ここにいたのは一年でしかもその時は帰省していたはずだが何でかそんな記憶がある。正月ではなかったのかもしれん。
京王片倉には戻らず、北野街道を少し行くことにする。単車で走ったことがちょくちょくある。この辺りに魚介ベースの拉麺屋があった。初めて食べた味でよく覚えている。この店ではなかったような気がするが。
工事中だったので脇道へ。北野には縁があって、ついに喘息の発作が起きてぜえぜえいいながら病院を探し回っていたとき、一軒目に飛び込んだ病院に紹介されて来たのが「小児科」の個人病院。本当によく診てくれて、今までの治療方針ががらっと変わって、発作のコントロールもそれまでに比べてしやすくなって。で、愛媛に帰るときに、地元の医者まで紹介してくれて。お世話になったその医者が数年前に亡くなったということを、伝え聞いて。まだそんなにお年じゃなかった筈。先生のお陰で大袈裟でなく人生の展望が開けたといってもいいぐらいの出会いであった。ありがとうございました。
もうすぐ到着。
その後は、新宿から日暮里乗り換えで成田へ。
今回のルートその1。
その2。
覆面浪人の結果補欠合格だから、決して一筋縄ではいってない。本人はともかく、このトシになってから思うのは、親の立場なら本当にしんどかったのではないかと。莫迦息子に文句を云いもせず、じっと待っていてくれたというのは事実だし、親には頭が上がらん。
今みたいにモラトリアムが認められてなかった時期だから余計に。だからこそ、我が子は凄いなあと普通に感じる。
有り難いぐらいに親孝行。
それでも、弱くても世間を知らなくても、おおごとにならずにそれなりにやってこれた。
案外何とかなる。運が良かったにしても。
つるぶんを辞めた後、自宅浪人を経て、G大に補欠で拾ってもらった。この半年、そんなに身を入れて勉強に専念していた訳ではなくて、冬になる前には事故起こしたりして相変わらず何やってんだという感じだった。不処分にはなったが、裁判所に親について来てもらったときの情けなさはよく覚えている。
補欠合格までの道のりも平坦ではなかった。それまでは、最近急に駅伝が強くなったあのA大の夜間にだけ受かっていた。昼間の方は落ちた。何でここを「滑り止め」として受けたのかというと、夜間でも4年で卒業できて教員免許(但し2級)が取れてしかも学費が安かったから。
先生になりたいと思っていた。しかし、自分の聞こえの問題から半分諦めてもいた。実際に実習に行って担当の教官から「無理」とはっきり云われ、それがきっかけで方向転換をした。その時はそれでも、という気持ちだった。
で、なんだかんだといいながら、私立はこの二つ受けただけで、後は国立のみ(その国立も前期後期と2回受験できる最初の年だったが、1次試験の出来が現役の時より悪くて、締め切り日の朝まで地元のE大の願書も交互に比べながらの受験だった)。ということで、昼間働きながら大学で教員免許を取ろうかと思っていた。そのA大学の事務のバイト(ほぼフルタイム)募集は、夜間部のある渋谷のキャンパスの枠が埋まってしまっていて、厚木の分しか残っていなかった。待遇はほとんど変わらない(月12万ぐらいだったか)が、八王子→厚木→渋谷→八王子と通うのはさすがにきついのではと、田舎から出てきた19の世間知らずにも分かったらしく、結局断念した。青山キャンパスで雇ってもらえていたら、補欠合格が出ても流石に辞めにくかっただろうし、またその後が違っていたかもしれない。
住むことにしたのは渋谷から遠く離れた八王子。但し京王線で一本。これも、受験の時に配っていたビラに記されていた「紹介センター」と名の付く不動産屋へ行き、1軒目で決めた。八王子で4万3千円。安かったのはJRの線路のすぐ傍でそれなりに五月蠅いからだろう(駅の傍ではない線路である)。京王のこの駅は、G大に受かったからあまり使わなかった。使ったのはJRの方。
北野街道だったと思う。ここを南へ。
しばらく行く。
すぐに見つかった。今は高架になっているが、当時は下だった。1階の窓から電車のお客さんがよく見えた。
元々踏切もあった。これも近かった。横浜線は中央線ほどは本数はないから渋滞するほどではなかったか。
片倉城址公園、1回ぐらい行ったか。この日は行かず。
片倉駅も変わったなあ。
この道は横浜に続く道。正月にマフラー改造した車や単車がものすごい数通っていった。ここにいたのは一年でしかもその時は帰省していたはずだが何でかそんな記憶がある。正月ではなかったのかもしれん。
京王片倉には戻らず、北野街道を少し行くことにする。単車で走ったことがちょくちょくある。この辺りに魚介ベースの拉麺屋があった。初めて食べた味でよく覚えている。この店ではなかったような気がするが。
工事中だったので脇道へ。北野には縁があって、ついに喘息の発作が起きてぜえぜえいいながら病院を探し回っていたとき、一軒目に飛び込んだ病院に紹介されて来たのが「小児科」の個人病院。本当によく診てくれて、今までの治療方針ががらっと変わって、発作のコントロールもそれまでに比べてしやすくなって。で、愛媛に帰るときに、地元の医者まで紹介してくれて。お世話になったその医者が数年前に亡くなったということを、伝え聞いて。まだそんなにお年じゃなかった筈。先生のお陰で大袈裟でなく人生の展望が開けたといってもいいぐらいの出会いであった。ありがとうございました。
もうすぐ到着。
その後は、新宿から日暮里乗り換えで成田へ。
今回のルートその1。
その2。
覆面浪人の結果補欠合格だから、決して一筋縄ではいってない。本人はともかく、このトシになってから思うのは、親の立場なら本当にしんどかったのではないかと。莫迦息子に文句を云いもせず、じっと待っていてくれたというのは事実だし、親には頭が上がらん。
今みたいにモラトリアムが認められてなかった時期だから余計に。だからこそ、我が子は凄いなあと普通に感じる。
有り難いぐらいに親孝行。
それでも、弱くても世間を知らなくても、おおごとにならずにそれなりにやってこれた。
案外何とかなる。運が良かったにしても。
ここ数日プライベートでは休日帰宅時電車帰宅後ほぼスマホの引き継ぎで、また仕事場では隙間時間を見つけてはタブレットの設定でやたらと時間をとられている。ググってやっているわけだが、案外その通りになったためしはない。
中古で買ったスマホの方はrootが取れるらしく、昔P-01DでやったときのようにAndroidSDKやらJavaやらPCに設定しようとするが、最近のはファイルの構成とかが昔のとちょっと違うらしく、そのちょっとの違いを突き詰めてまでやる気力も時間もなく。諦めかけた頃、たまたまアプリだけでできるという信じられない記事を見つける。事実、Towelrootで一発だった。
便利になったの。ただこの後Link2SDを動かすためにext4パーティション作って進めようとしたら起動ループに陥り、あららとなってまた一悶着。ループを止めるファイルがPCからでないと入らないので試行錯誤することこれもかなりの時間。結局我が家にはないWin10を借りて解決。
職場で使う予定のタブレットも事情があって。仕事で必要なために自費で購入したワコムのバンブー・スレートを使うために。今のライフタッチはアンドロイドのバージョンが低くてクリアできないので、使えないことが判明。グーグルプレイからは当然インストールできないので、APKファイルにするがこれもだめ。スマホのrootの件ググっていた流れで、アプリの対応バージョンを落として(書き換えて)使うことができるかもしれないという記事に引っかかり、これも試行錯誤しつつトライ。結果、時間と技術のどちらもが足りず、断念して安い中華パッドを買う。そのパッドが、何故かバンブー・スレートを認識しない。安もんやからブルートゥース壊れとるんかなと思ったら、他のスマホ間は認識する。何でかね。中華特有のバッテリーの不安定さかなと思ったり。それよりこれ近日中にカタをつけとかんと仕事に差し障るから、他の仕事もさることながら気が気でなく。
便利なようで制約が多くて不便になっとるんじゃないかと思う昨今。というより、しっかり金をかければこんな面倒なことにはならないはずで、ケチるからこういうことになる、ということには薄々気付いてはいる。
タブレットの方はメーカー不明で、スイッチが下にあったりいろいろと癖がありそう。こちらとしてはブルートゥースがつながれば問題ないのだがそれができんから困っている。
スマホの方は、結局2年半前に買ったのと同じ機種。原点回帰、じゃないがやはりブランドに負けたか。使い勝手がいいもんで。これは稿を改めて。
中古で買ったスマホの方はrootが取れるらしく、昔P-01DでやったときのようにAndroidSDKやらJavaやらPCに設定しようとするが、最近のはファイルの構成とかが昔のとちょっと違うらしく、そのちょっとの違いを突き詰めてまでやる気力も時間もなく。諦めかけた頃、たまたまアプリだけでできるという信じられない記事を見つける。事実、Towelrootで一発だった。
便利になったの。ただこの後Link2SDを動かすためにext4パーティション作って進めようとしたら起動ループに陥り、あららとなってまた一悶着。ループを止めるファイルがPCからでないと入らないので試行錯誤することこれもかなりの時間。結局我が家にはないWin10を借りて解決。
職場で使う予定のタブレットも事情があって。仕事で必要なために自費で購入したワコムのバンブー・スレートを使うために。今のライフタッチはアンドロイドのバージョンが低くてクリアできないので、使えないことが判明。グーグルプレイからは当然インストールできないので、APKファイルにするがこれもだめ。スマホのrootの件ググっていた流れで、アプリの対応バージョンを落として(書き換えて)使うことができるかもしれないという記事に引っかかり、これも試行錯誤しつつトライ。結果、時間と技術のどちらもが足りず、断念して安い中華パッドを買う。そのパッドが、何故かバンブー・スレートを認識しない。安もんやからブルートゥース壊れとるんかなと思ったら、他のスマホ間は認識する。何でかね。中華特有のバッテリーの不安定さかなと思ったり。それよりこれ近日中にカタをつけとかんと仕事に差し障るから、他の仕事もさることながら気が気でなく。
便利なようで制約が多くて不便になっとるんじゃないかと思う昨今。というより、しっかり金をかければこんな面倒なことにはならないはずで、ケチるからこういうことになる、ということには薄々気付いてはいる。
タブレットの方はメーカー不明で、スイッチが下にあったりいろいろと癖がありそう。こちらとしてはブルートゥースがつながれば問題ないのだがそれができんから困っている。
スマホの方は、結局2年半前に買ったのと同じ機種。原点回帰、じゃないがやはりブランドに負けたか。使い勝手がいいもんで。これは稿を改めて。
とりあえず家を出たのが8時過ぎ。まずは、犬たちのおはかまいりへ。
桜が残っているところも。
桜の後の桜も。
これも確かにこの時期。
3時間後に到着し、後2時間頑張ることに。
疲れたのでいつもの補給をして、道前平野巡りへ。細かな道をトレースする気にはならんかったので、旧道ではなく大きい道を。まずは通称産業道路へ。
昔ヨメさんとお付き合いしていたときに、この辺りで牛が単独で横断し、さいさんの地元は「野良牛」がおるというネタになった。
少し前に利根川を走ったとき、川のそばの放牧地(?)から牛舎へ自分で帰っている牛くんたちを見てから、こういうのが当たり前にできるんだと漸く納得した。
因みに山羊さんは繋がれていた。
産業道路は高校のときの行きに使っていたのだが、その時は気づかなかったものもある。
国広城跡、とある。スルスミ、という名馬のお母さんが祀られているらしい。教科書の記述がリアルに形作られてくる瞬間。
高校以来のおしぶの森へ。
こんな立派なのはなかったが。
この傾斜には覚えがある。
部活のとき、特に新入生が入ってくるこの時期とか、たまに高校からここまで走ってこの石段を登った。
上から見た方が高さを感じるな。
何となく覚えがあるか。景色は多少変わっているにしても。
この福岡八幡の傍にあるのが生木地蔵。こちらは初めて。
地蔵さんがどこにあるんかわからんかった。
この後川に出る。ここは10年振りぐらいか。正月帰省したときにランシューでないただのスニーカー履いて30キロ走り、足首を傷めた。初の愛媛マラソンを控えていたのでよく覚えている。
でいつもは寄らない実家に寄り、筍を貰う。今日のご用事。
禁酒している親父の傍で呑むのは気が引けるので近くのコンビニで慰労する。約5時間、距離はともかく時間はまあまあ。
桜の後に、というならコイツもそう。我が家の庭で一昨日ぐらいに突然咲き始める。
帰宅後、犬たちを庭へ。この時期ならでは、か。
晴れているというだけで、とりあえず走っとかんと勿体無い気がする。暑すぎず寒すぎずで丁度
良い時期ならではのラン。
有り難い、ですな。
桜が残っているところも。
桜の後の桜も。
これも確かにこの時期。
3時間後に到着し、後2時間頑張ることに。
疲れたのでいつもの補給をして、道前平野巡りへ。細かな道をトレースする気にはならんかったので、旧道ではなく大きい道を。まずは通称産業道路へ。
昔ヨメさんとお付き合いしていたときに、この辺りで牛が単独で横断し、さいさんの地元は「野良牛」がおるというネタになった。
少し前に利根川を走ったとき、川のそばの放牧地(?)から牛舎へ自分で帰っている牛くんたちを見てから、こういうのが当たり前にできるんだと漸く納得した。
因みに山羊さんは繋がれていた。
産業道路は高校のときの行きに使っていたのだが、その時は気づかなかったものもある。
国広城跡、とある。スルスミ、という名馬のお母さんが祀られているらしい。教科書の記述がリアルに形作られてくる瞬間。
高校以来のおしぶの森へ。
こんな立派なのはなかったが。
この傾斜には覚えがある。
部活のとき、特に新入生が入ってくるこの時期とか、たまに高校からここまで走ってこの石段を登った。
上から見た方が高さを感じるな。
何となく覚えがあるか。景色は多少変わっているにしても。
この福岡八幡の傍にあるのが生木地蔵。こちらは初めて。
地蔵さんがどこにあるんかわからんかった。
この後川に出る。ここは10年振りぐらいか。正月帰省したときにランシューでないただのスニーカー履いて30キロ走り、足首を傷めた。初の愛媛マラソンを控えていたのでよく覚えている。
でいつもは寄らない実家に寄り、筍を貰う。今日のご用事。
禁酒している親父の傍で呑むのは気が引けるので近くのコンビニで慰労する。約5時間、距離はともかく時間はまあまあ。
桜の後に、というならコイツもそう。我が家の庭で一昨日ぐらいに突然咲き始める。
帰宅後、犬たちを庭へ。この時期ならでは、か。
晴れているというだけで、とりあえず走っとかんと勿体無い気がする。暑すぎず寒すぎずで丁度
良い時期ならではのラン。
有り難い、ですな。
クルマを運転してO市へ。同じ部署の上司と一緒に研修。
このために久々にヨメさんの車を借りて高速を走る。帰宅は16時。やれやれ。
でやれやれで慰労。
今日は朝10キロ走ったのみだが、キロ5分で7キロ程維持できた。
ただ、体重は昨年のこの時期に比べて3キロぐらい多い。
そろそろ絞らんと、と思うがなかなか絞れない。意志が弱い。
研修先の昼食はこんな感じだった。バイキング形式で、好きな量が取れる。初めこの見本を見ていなくて、ハヤシライスを貰ったときにカウンターから「ラーメンは一寸お待ちください」と言われ、思わずいやいいです充分ですと答える。後でこの見本を見て納得するが、まあ凄いボリュームである。でももう呑んでいる訳で。
炭水化物の緩和が原因なのか呑む量なのか呑む種類なのか、本当によく分からんが、もう誤差でない範囲まで増えている。ただまあ救いは、走れているということ。
なので気にしつつも呑んでしまう訳で。
そろそろ何か考えにゃいかんかなと思う。
思いつつも呑む。
まだ陽は高い。
まあいいか。休日ご苦労様ということで。
このために久々にヨメさんの車を借りて高速を走る。帰宅は16時。やれやれ。
でやれやれで慰労。
今日は朝10キロ走ったのみだが、キロ5分で7キロ程維持できた。
ただ、体重は昨年のこの時期に比べて3キロぐらい多い。
そろそろ絞らんと、と思うがなかなか絞れない。意志が弱い。
研修先の昼食はこんな感じだった。バイキング形式で、好きな量が取れる。初めこの見本を見ていなくて、ハヤシライスを貰ったときにカウンターから「ラーメンは一寸お待ちください」と言われ、思わずいやいいです充分ですと答える。後でこの見本を見て納得するが、まあ凄いボリュームである。でももう呑んでいる訳で。
炭水化物の緩和が原因なのか呑む量なのか呑む種類なのか、本当によく分からんが、もう誤差でない範囲まで増えている。ただまあ救いは、走れているということ。
なので気にしつつも呑んでしまう訳で。
そろそろ何か考えにゃいかんかなと思う。
思いつつも呑む。
まだ陽は高い。
まあいいか。休日ご苦労様ということで。
入学式が終わって、新入生たちは一寸落ち着いてきたのだろうか。お仕事している新社会人はそうは関係ないかもしれないが。
昨年の夏前にふと思い立って、ここに行った。成田発着で何でわざわざ山梨までと思うが、行きたくなったのはいろいろ訳があり。
子供達が二人とも県外に出て、自分のことを少し振り返ってみたくなったのかもしれない。
自分の大学生活のメインは多摩であり、近く(だが歩くにはちょっと遠い)の国分寺とか小金井とかだった(都心ではないいわゆる多摩である夜の都心は数えるほどしか行ったことがない)。
で、その前に半年だけ都留というところにいた。予備校生ではなく一応大学生として。
前の日にジェットスターで成田に着きカプセル泊(空港泊はこの次のときだった)。朝早くに出発四時半ぐらい。
千葉から新宿経由で京王線。懐かしの京王線。懐かしい地名。またこの時はここで降りることは考えてなかった。なかったからせめて京王線に乗りたかった。今の伊予鉄の車両は京王のらしい。
高尾でJRに乗り換える。ローカルだが人は多い。山の格好をしている人が結構いた。
大月でJRから富士急に乗り換える。昔はこんなに綺麗じゃなかった筈。
あの頃なかった駅があった。大学前。特急も停まるってすごいな。
で、その大学前ではなく、昔の最寄り駅である谷村町で下車。
小雨が降る中を、登校途中の高校生を避けながら走り国道へ。高校の名前も工業高校からえらい格好いいのに変わっていた。
富士急の線路の手前を左に。
これはびっくりした。大学前駅。
店もそこそこあって便利そうで、いいな。
踏切を渡り、隣の駅まで走る。
昔からあったのかもしれないが、訪れたのは初めて。
これも見たことがない地名。国道を離れ駅へ。
十日市場。無人駅だが距離的にはこちらの方が近かったから、こっちから来る学生も多かった。あの時は、本当にここまできてしまったという、最果て感みたいなものを感じて、何となく先がもうないような息苦しさを覚えた。当時を思い出し何かしら寂寥感がこみ上げた。
元来た道へ。そうそうこんな感じのだだっ広い道の傍。
左の大家さんの家と奥のワンルームは建て替えたか。右の儂が住んでいたアパートは、店になっていた。
4月に荷物を入れてテレビの設置をしていたとき、ここは電波が悪いから室内アンテナじゃ映らないと言われながらもいろいろ向きを変えていて、岡田由希子の自殺のニュースが飛び込んできたことを覚えている。
このアパート、トイレと風呂と台所が共同の四畳半一間で廊下が1メートルぐらいしかなく、郵便受けも一つしか無くって、電話は大家さんの家に取り次いでもらう。仕送りの額からすれば余裕がないわけではなく、自分で電話を引けなくはないし、ワンルームに住むことができなくもはなかった。でも何故かここに決めてしまった。決めてしまった、というのが正解なのだろう。一人で外にでたこともない人間がいきなり飛行機と電車乗り継いでここまで来て夕方で、大学のアパート紹介ではもうワンルーム埋まっていて、不動産屋に行くという知恵もなくて、何となく、紹介の表の一番上にあったここに来て大家さんとしゃべったら断るとかそういう台詞を知らなくて、で、何となく流れで決めた。親はついては来なかったし、それが普通だったと思う。ただ自分がしっかりしていなかった。決断が良かったとはあまり思わない。部屋の住人はすべて一年生だったが、ほとんどが浪人生。話す内容も過ごし方も全てが格上で、圧倒された(特に奈良の人)。そしてみんな四年過ごしたりせず一年経ったら出て行くという、そういうアパートでもあった。ちなみに、儂ともう一人の現役生はどちらも、隠れ受験生だった。青森出身のそいつは儂と違って大学を辞めずに受験生を掛け持ちし、同志社大学に合格した。アパートにいるときはあまりしゃべらなかったが、都留を出た後、しばらく年賀状のやり取りが続いた。
大学に行く。大学を辞めたいということを親に伝えた電話ボックスはもう無くなっていた。
4月はまじめに通ったが、5月ぐらいに東京と鎌倉に遊びに行き、やはり東京に出たいと思うようになった。再受験、かと。浪人という言葉が全然ピンとこなかったし、ここに来たときは、もう一度というのは全然想定していなかった。
そこから、講義は英語と体育だけ出て後は四畳半一間の部屋で黙々とやった。一日8時間ぐらい勉強して、でも1ヶ月ぐらいしかもたなかった。そんなに勉強に対する耐性がある方ではなかった。勉強の量が落ちた頃、一日中本を読む生活が少し続き、閉塞感を感じ始めた頃、同じアパートの奴(一浪の社交的な広島の人)に誘われて、初めてのバイトを経験した。富士吉田のホテルの接客とか清掃とかのバイト。泊まり込みだった。昼間修学旅行生相手の食事の準備と片付けをし、仕事が終わってから小さな布団部屋のような所に泊まらせられ、お握りと小魚の天ぷらだけの賄い食が出た。朝はまた朝ご飯の準備と片付けをして昼前に終わった。現金払いだった。金はこうやって稼ぐのだなと思った。
そしてしばらく経って、運転免許を取りに帰省した。免許を取りに行きながら、そこでも高校の時の友達に誘われて、坂出のコンビナートの配管清掃のバイトをやった。これも2泊3日ぐらいの泊まり込みで、こちらは喘息の発作が出て、発作を凌ぎながら仕事をした。向こうで発作が出たときのことは全く考えてなかった。そういやあ、ホテルの時は発作がでなかったな。
大学というともっとでっかくてごちゃごちゃしているイメージだったから、クラスみたいなモノまであったこの大学は、ちょっと予想外だった。
ただ、こぢんまりした大学ではあったが居心地は悪くなくて、それなりにのんびりと過ごすことはできたのかもしれない。自分に合っていた部分はあった。免許とってからは原付も買ったし、これで住んでいたところがワンルームマンションみたいな快適な場所だったら出ようとは思わなかった筈だ。
それでも出たいと言う気持ちは変わらず、逆に強くなった。都留は盆地だから、何かしら「埋没する」危機感というのが絶えずあったのかもしれないし、「抜け出したい」願望は徐々に大きくなった。
9月に都留に帰ってきてから、勉強はやる気にならず、かといって大学に行く気は全くなく、大学の掲示板で募集していた富士急の添乗員のバイトをした。これもまた泊まり込みで、行きは貸し切りで東京、帰りは高速バスの添乗をした。1泊2日で勤務が終わった後、営業所のソファで仮眠を取って、もう一回貸し切りバスの添乗を1日やった。発作は出なかった。
それほどハードではなかったが、運転手の人使いが荒くて閉口した。担当者からは「また来てくれ」と言われたが、咄嗟に「大学辞めるんで」と返した。で、辞める方向に舵を切った。
半年、というより運転免許を取るために夏早めに帰省したから実質5ヶ月ぐらいか、それでもまあよく住んでいたと思う。その頃の儂としては考えられない。それほど苦労したり生活に困ったりとしたこともなかったし、耐性はかなり低いと思っていたのだが。最後の最後に、辞める時になって喘息の発作が出て、実家に帰ってから半月ぐらい元に戻るのに時間がかかった。
今考えるとここに記すのも恥ずかしいのだが、クラスにとけ込もうとせず、俺はこんな所に来たかったわけではないオーラが全開だったから本当に失礼で嫌な自分が確かにここにいた。阿呆かと思うしひたすら恥ずかしい。
今は綺麗になっていたが、当時は民青が仕切っているかのような地味な生協とかあって不思議な部分もあった。本をよく買ったが、狭いスペースに並べられている背表紙にはやや偏りがあるようにも感じた。山の方には体育館とグランドとテニスコートがあった。卓球部の見学にも行った。関東の三部リーグという割に動きがみんな速かった。
大学を出る。買い出しに行っていたスーパーがあったところ。自転車買うとかしなかったからいつも歩きだった。車の運転免許とった後で、原付買って(丁度ヘルメット義務化のとき)、いろいろなところを走るようになって行動範囲が少し広くなったが、辞める気持ちは変わらなかったな。
で、ここからは大月駅まで走る。この間を原付でも走ったことはほとんどない。ここまでは振り返りの後ろ向きのラン。ここからは異邦人になって走る探検ラン。折角なのでこの辺りで路地に入る。
大名行列か。当時は知らなかったが、結構歴史がある街のようで。
寺とか神社とか結構ある。
大学からそれほど離れてはいない筈だが、不思議な感じで走り続ける。
国道に出る。
国道沿いのここも初めて。
ローソンに寄る。トイレを借りる。古くからある店のようで。別のときに三浦半島走ったときのセブンも古くからの店のようだった。どちらもトイレで分かる。愛媛のコンビニは最近ぼこぼこ建っていてトイレも新しい。
昨日泊まったカプセルはコンセントがなくて、スマホの電池がやばくなっていた。少々高いが購入。
あれは何が通っているんだろうか。
リニア、とある。どんなもんやろ。
こちらは富士急である。
やがて、甲府に行く国道20号線と交わる。
何となく駅はこちらかと、曲がる。
風情のある店に会う。いいねえ。
で速そうな電車。これも富士急らしい。
大月駅到着。20キロもは走っていない。
あくまで都留ではなく、つるぶんと都留、である。
少しだけいたことがある街である。幼くて大莫迦の自分がいた街。もう行くことはないと思っていたから不思議な気分だった。
昨年の夏前にふと思い立って、ここに行った。成田発着で何でわざわざ山梨までと思うが、行きたくなったのはいろいろ訳があり。
子供達が二人とも県外に出て、自分のことを少し振り返ってみたくなったのかもしれない。
自分の大学生活のメインは多摩であり、近く(だが歩くにはちょっと遠い)の国分寺とか小金井とかだった(都心ではないいわゆる多摩である夜の都心は数えるほどしか行ったことがない)。
で、その前に半年だけ都留というところにいた。予備校生ではなく一応大学生として。
前の日にジェットスターで成田に着きカプセル泊(空港泊はこの次のときだった)。朝早くに出発四時半ぐらい。
千葉から新宿経由で京王線。懐かしの京王線。懐かしい地名。またこの時はここで降りることは考えてなかった。なかったからせめて京王線に乗りたかった。今の伊予鉄の車両は京王のらしい。
高尾でJRに乗り換える。ローカルだが人は多い。山の格好をしている人が結構いた。
大月でJRから富士急に乗り換える。昔はこんなに綺麗じゃなかった筈。
あの頃なかった駅があった。大学前。特急も停まるってすごいな。
で、その大学前ではなく、昔の最寄り駅である谷村町で下車。
小雨が降る中を、登校途中の高校生を避けながら走り国道へ。高校の名前も工業高校からえらい格好いいのに変わっていた。
富士急の線路の手前を左に。
これはびっくりした。大学前駅。
店もそこそこあって便利そうで、いいな。
踏切を渡り、隣の駅まで走る。
昔からあったのかもしれないが、訪れたのは初めて。
これも見たことがない地名。国道を離れ駅へ。
十日市場。無人駅だが距離的にはこちらの方が近かったから、こっちから来る学生も多かった。あの時は、本当にここまできてしまったという、最果て感みたいなものを感じて、何となく先がもうないような息苦しさを覚えた。当時を思い出し何かしら寂寥感がこみ上げた。
元来た道へ。そうそうこんな感じのだだっ広い道の傍。
左の大家さんの家と奥のワンルームは建て替えたか。右の儂が住んでいたアパートは、店になっていた。
4月に荷物を入れてテレビの設置をしていたとき、ここは電波が悪いから室内アンテナじゃ映らないと言われながらもいろいろ向きを変えていて、岡田由希子の自殺のニュースが飛び込んできたことを覚えている。
このアパート、トイレと風呂と台所が共同の四畳半一間で廊下が1メートルぐらいしかなく、郵便受けも一つしか無くって、電話は大家さんの家に取り次いでもらう。仕送りの額からすれば余裕がないわけではなく、自分で電話を引けなくはないし、ワンルームに住むことができなくもはなかった。でも何故かここに決めてしまった。決めてしまった、というのが正解なのだろう。一人で外にでたこともない人間がいきなり飛行機と電車乗り継いでここまで来て夕方で、大学のアパート紹介ではもうワンルーム埋まっていて、不動産屋に行くという知恵もなくて、何となく、紹介の表の一番上にあったここに来て大家さんとしゃべったら断るとかそういう台詞を知らなくて、で、何となく流れで決めた。親はついては来なかったし、それが普通だったと思う。ただ自分がしっかりしていなかった。決断が良かったとはあまり思わない。部屋の住人はすべて一年生だったが、ほとんどが浪人生。話す内容も過ごし方も全てが格上で、圧倒された(特に奈良の人)。そしてみんな四年過ごしたりせず一年経ったら出て行くという、そういうアパートでもあった。ちなみに、儂ともう一人の現役生はどちらも、隠れ受験生だった。青森出身のそいつは儂と違って大学を辞めずに受験生を掛け持ちし、同志社大学に合格した。アパートにいるときはあまりしゃべらなかったが、都留を出た後、しばらく年賀状のやり取りが続いた。
大学に行く。大学を辞めたいということを親に伝えた電話ボックスはもう無くなっていた。
4月はまじめに通ったが、5月ぐらいに東京と鎌倉に遊びに行き、やはり東京に出たいと思うようになった。再受験、かと。浪人という言葉が全然ピンとこなかったし、ここに来たときは、もう一度というのは全然想定していなかった。
そこから、講義は英語と体育だけ出て後は四畳半一間の部屋で黙々とやった。一日8時間ぐらい勉強して、でも1ヶ月ぐらいしかもたなかった。そんなに勉強に対する耐性がある方ではなかった。勉強の量が落ちた頃、一日中本を読む生活が少し続き、閉塞感を感じ始めた頃、同じアパートの奴(一浪の社交的な広島の人)に誘われて、初めてのバイトを経験した。富士吉田のホテルの接客とか清掃とかのバイト。泊まり込みだった。昼間修学旅行生相手の食事の準備と片付けをし、仕事が終わってから小さな布団部屋のような所に泊まらせられ、お握りと小魚の天ぷらだけの賄い食が出た。朝はまた朝ご飯の準備と片付けをして昼前に終わった。現金払いだった。金はこうやって稼ぐのだなと思った。
そしてしばらく経って、運転免許を取りに帰省した。免許を取りに行きながら、そこでも高校の時の友達に誘われて、坂出のコンビナートの配管清掃のバイトをやった。これも2泊3日ぐらいの泊まり込みで、こちらは喘息の発作が出て、発作を凌ぎながら仕事をした。向こうで発作が出たときのことは全く考えてなかった。そういやあ、ホテルの時は発作がでなかったな。
大学というともっとでっかくてごちゃごちゃしているイメージだったから、クラスみたいなモノまであったこの大学は、ちょっと予想外だった。
ただ、こぢんまりした大学ではあったが居心地は悪くなくて、それなりにのんびりと過ごすことはできたのかもしれない。自分に合っていた部分はあった。免許とってからは原付も買ったし、これで住んでいたところがワンルームマンションみたいな快適な場所だったら出ようとは思わなかった筈だ。
それでも出たいと言う気持ちは変わらず、逆に強くなった。都留は盆地だから、何かしら「埋没する」危機感というのが絶えずあったのかもしれないし、「抜け出したい」願望は徐々に大きくなった。
9月に都留に帰ってきてから、勉強はやる気にならず、かといって大学に行く気は全くなく、大学の掲示板で募集していた富士急の添乗員のバイトをした。これもまた泊まり込みで、行きは貸し切りで東京、帰りは高速バスの添乗をした。1泊2日で勤務が終わった後、営業所のソファで仮眠を取って、もう一回貸し切りバスの添乗を1日やった。発作は出なかった。
それほどハードではなかったが、運転手の人使いが荒くて閉口した。担当者からは「また来てくれ」と言われたが、咄嗟に「大学辞めるんで」と返した。で、辞める方向に舵を切った。
半年、というより運転免許を取るために夏早めに帰省したから実質5ヶ月ぐらいか、それでもまあよく住んでいたと思う。その頃の儂としては考えられない。それほど苦労したり生活に困ったりとしたこともなかったし、耐性はかなり低いと思っていたのだが。最後の最後に、辞める時になって喘息の発作が出て、実家に帰ってから半月ぐらい元に戻るのに時間がかかった。
今考えるとここに記すのも恥ずかしいのだが、クラスにとけ込もうとせず、俺はこんな所に来たかったわけではないオーラが全開だったから本当に失礼で嫌な自分が確かにここにいた。阿呆かと思うしひたすら恥ずかしい。
今は綺麗になっていたが、当時は民青が仕切っているかのような地味な生協とかあって不思議な部分もあった。本をよく買ったが、狭いスペースに並べられている背表紙にはやや偏りがあるようにも感じた。山の方には体育館とグランドとテニスコートがあった。卓球部の見学にも行った。関東の三部リーグという割に動きがみんな速かった。
大学を出る。買い出しに行っていたスーパーがあったところ。自転車買うとかしなかったからいつも歩きだった。車の運転免許とった後で、原付買って(丁度ヘルメット義務化のとき)、いろいろなところを走るようになって行動範囲が少し広くなったが、辞める気持ちは変わらなかったな。
で、ここからは大月駅まで走る。この間を原付でも走ったことはほとんどない。ここまでは振り返りの後ろ向きのラン。ここからは異邦人になって走る探検ラン。折角なのでこの辺りで路地に入る。
大名行列か。当時は知らなかったが、結構歴史がある街のようで。
寺とか神社とか結構ある。
大学からそれほど離れてはいない筈だが、不思議な感じで走り続ける。
国道に出る。
国道沿いのここも初めて。
ローソンに寄る。トイレを借りる。古くからある店のようで。別のときに三浦半島走ったときのセブンも古くからの店のようだった。どちらもトイレで分かる。愛媛のコンビニは最近ぼこぼこ建っていてトイレも新しい。
昨日泊まったカプセルはコンセントがなくて、スマホの電池がやばくなっていた。少々高いが購入。
あれは何が通っているんだろうか。
リニア、とある。どんなもんやろ。
こちらは富士急である。
やがて、甲府に行く国道20号線と交わる。
何となく駅はこちらかと、曲がる。
風情のある店に会う。いいねえ。
で速そうな電車。これも富士急らしい。
大月駅到着。20キロもは走っていない。
あくまで都留ではなく、つるぶんと都留、である。
少しだけいたことがある街である。幼くて大莫迦の自分がいた街。もう行くことはないと思っていたから不思議な気分だった。
靴の話。GT‐2000ウイメンズからGT‐2000ウイメンズへ。しかも同色。ここまで完全に同じ靴を履くのは初。
踵の外側の減りはいつものことだが、全体的に摩耗しているのがよく分かる。
ナイキと併用だったが、3月4月半ばまでそこそこは走れた。アッパーが傷むのが早いのもいつものことである。
ネットで安かったから買い占めた関係で、2足続けて同じ靴ということに。味気ないが、勝手知ったるニューヨークだから安心といえば安心であるのも事実。ベタな選択というのは、新鮮味はないが堅実ではある。堅実ではあるが新鮮味は本当になくてモチベーションの点から云うと今ひとつ。
で近々もう一つ新旧交代予定あり。これはまだ手元にで入手できてはないが、紆余曲折を経てほぼ決まりかかっている。因みに靴の話ではない。
でも、割れていても支障なく使えているので、慌てなくてもいいかという感じになっているのでまだすぐには交代にはならないか。因みにまた、一つ前のに戻ろうかという考えもあった。これは購入後に詳しく。
で、ついでの話。
これは今日マルナカで見つけた新製品。のどごしなんだが、外見が違うと新鮮に感じる。108円は優秀だが買い占めることはできず、他はバーリアルを予定通り買った。
中身と外身、どちらも大事、ということなんだがな。
最近、アクセスが多くて、感謝です。がしかし。
岩国の記録とか早めに仕上げたいのですが今日は早く帰って寝るとします。
明らかに疲れとるんで。
いやまあ単なる走り過ぎと呑み過ぎです。足の裏が痛いのと脚が重いのは確かですが、いつものこと、ではあります。
出勤ランぐらいはできてます。大丈夫。
踵の外側の減りはいつものことだが、全体的に摩耗しているのがよく分かる。
ナイキと併用だったが、3月4月半ばまでそこそこは走れた。アッパーが傷むのが早いのもいつものことである。
ネットで安かったから買い占めた関係で、2足続けて同じ靴ということに。味気ないが、勝手知ったるニューヨークだから安心といえば安心であるのも事実。ベタな選択というのは、新鮮味はないが堅実ではある。堅実ではあるが新鮮味は本当になくてモチベーションの点から云うと今ひとつ。
で近々もう一つ新旧交代予定あり。これはまだ手元にで入手できてはないが、紆余曲折を経てほぼ決まりかかっている。因みに靴の話ではない。
でも、割れていても支障なく使えているので、慌てなくてもいいかという感じになっているのでまだすぐには交代にはならないか。因みにまた、一つ前のに戻ろうかという考えもあった。これは購入後に詳しく。
で、ついでの話。
これは今日マルナカで見つけた新製品。のどごしなんだが、外見が違うと新鮮に感じる。108円は優秀だが買い占めることはできず、他はバーリアルを予定通り買った。
中身と外身、どちらも大事、ということなんだがな。
最近、アクセスが多くて、感謝です。がしかし。
岩国の記録とか早めに仕上げたいのですが今日は早く帰って寝るとします。
明らかに疲れとるんで。
いやまあ単なる走り過ぎと呑み過ぎです。足の裏が痛いのと脚が重いのは確かですが、いつものこと、ではあります。
出勤ランぐらいはできてます。大丈夫。