「あの人もずっとレールの上に乗ってきたんだよな。このままあと10年ぐらい働いて、退職した後は孫の成長を楽しみにするような。そんな穏やかな人生の後半をわざわざ捨てる気なのか?」
正志は首を捻り、書き置きをテーブルに放り投げた。
「麻美には伝えておいた方がいいかな?」
「うーん。姉ちゃんにはまだいいんじゃないの。この先どうなるか分からないし」
「どうなるか分からないって、今日にでも帰ってくるかもしれないってこと?」
佐世子はすがるような目で正志を見た。
「シュールな笑いを狙うような人じゃないから、この書き置きは本気だとは思うよ。だからってどうだろう?これまでほとんど一人暮らしをしたことのない中年の男が、どこまでその生活に耐えられるかな」
正志は少し楽観的に考えているようだ。
結局、その日は孝は帰らず、塾から帰宅した彩乃は「私のせいだ。私がパパに冷たくしたのがいけなかったんだ」と目が腫れるほど泣いていた。その後、1週間過ぎても、2週間過ぎても孝は戻ってこなかった。
「ただいま」
「誰もいないか」と呟きながら靴を脱ぐ。しばらくしてキッチンの奥から「おかえりなさい」と元気のいい声がした。
「なんだ。いないかと思った」
「失礼な。私の家だよ」
林田恵理は一瞬真顔になり、すぐに笑みを浮かべた。孝は分かりやすく動揺し、分かりやすく安堵した。その様子を見て、恵理はまだ笑っている。
「孝さんって面白いね。今日、仕事は休み。火曜は定休日。お客なんだから覚えといてよ」
恵理は軽く肩を叩いた。
「だけど、もう恵理さんの居酒屋には行きにくいなあ」
「何せ、私を抱いたんだもんね。美人の奥さんがいる分際で」
恵理はまた少し孝をからかった。
「その通りだよ。結婚してから自分には浮気なんて縁のないことだと思っていたのに」
孝はようやく聞き取れる程度に小さく呟いた。
「私を抱いている時の孝さんて、抱くというよりしがみ付いてるようだった」
「そうだったかなあ。いろんな感情が混ざっていたのは確かだと思うけど」
話しているうちに、いつの間にか恵理は夕食の仕度に戻り、孝は食卓の椅子に座っていた。
「忘れなさい。私を抱いたことも。もしこの先抱いたとしても」
恵理の背中から真面目な声が聞こえてきた。
「ありがとう恵理さん」と決して恵理には届かぬ声で孝は呟き、そっと目頭をぬぐった。
「ねえ。今度の土曜日にもデートしない?別に特別なものじゃなくて、映画を観たり、お蕎麦食べたり、街をぶらぶら散歩したり」
「俺は構わないけど、店の方は大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。多少、睡眠時間削って、デートは夕方ぐらいに切り上げて、下準備の時間を短くすれば。1時間ぐらい開店ずらしてもいいし」
川奈彩乃は黒のタンクトップに白い薄手のカーディガンを羽織り、下はデニムのスカート姿で一人気だるく歩いていた。久しぶりに仲の良い女子4人組で集まった。ファミレスでは近況報告したり、カラオケでは皆、受験のストレスを発散するように歌った。しかし、どこにいても「そろそろ行こうか」と誰かが言い出し、彩乃を含めた残りの3人も「そうだね」といった調子で、長続きしない。だから解散時間も思いのほか早く、スマホで時間を確認するとまだ午後4時を過ぎたばかりで、街は十分な明るさを残している。
正志は首を捻り、書き置きをテーブルに放り投げた。
「麻美には伝えておいた方がいいかな?」
「うーん。姉ちゃんにはまだいいんじゃないの。この先どうなるか分からないし」
「どうなるか分からないって、今日にでも帰ってくるかもしれないってこと?」
佐世子はすがるような目で正志を見た。
「シュールな笑いを狙うような人じゃないから、この書き置きは本気だとは思うよ。だからってどうだろう?これまでほとんど一人暮らしをしたことのない中年の男が、どこまでその生活に耐えられるかな」
正志は少し楽観的に考えているようだ。
結局、その日は孝は帰らず、塾から帰宅した彩乃は「私のせいだ。私がパパに冷たくしたのがいけなかったんだ」と目が腫れるほど泣いていた。その後、1週間過ぎても、2週間過ぎても孝は戻ってこなかった。
「ただいま」
「誰もいないか」と呟きながら靴を脱ぐ。しばらくしてキッチンの奥から「おかえりなさい」と元気のいい声がした。
「なんだ。いないかと思った」
「失礼な。私の家だよ」
林田恵理は一瞬真顔になり、すぐに笑みを浮かべた。孝は分かりやすく動揺し、分かりやすく安堵した。その様子を見て、恵理はまだ笑っている。
「孝さんって面白いね。今日、仕事は休み。火曜は定休日。お客なんだから覚えといてよ」
恵理は軽く肩を叩いた。
「だけど、もう恵理さんの居酒屋には行きにくいなあ」
「何せ、私を抱いたんだもんね。美人の奥さんがいる分際で」
恵理はまた少し孝をからかった。
「その通りだよ。結婚してから自分には浮気なんて縁のないことだと思っていたのに」
孝はようやく聞き取れる程度に小さく呟いた。
「私を抱いている時の孝さんて、抱くというよりしがみ付いてるようだった」
「そうだったかなあ。いろんな感情が混ざっていたのは確かだと思うけど」
話しているうちに、いつの間にか恵理は夕食の仕度に戻り、孝は食卓の椅子に座っていた。
「忘れなさい。私を抱いたことも。もしこの先抱いたとしても」
恵理の背中から真面目な声が聞こえてきた。
「ありがとう恵理さん」と決して恵理には届かぬ声で孝は呟き、そっと目頭をぬぐった。
「ねえ。今度の土曜日にもデートしない?別に特別なものじゃなくて、映画を観たり、お蕎麦食べたり、街をぶらぶら散歩したり」
「俺は構わないけど、店の方は大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。多少、睡眠時間削って、デートは夕方ぐらいに切り上げて、下準備の時間を短くすれば。1時間ぐらい開店ずらしてもいいし」
川奈彩乃は黒のタンクトップに白い薄手のカーディガンを羽織り、下はデニムのスカート姿で一人気だるく歩いていた。久しぶりに仲の良い女子4人組で集まった。ファミレスでは近況報告したり、カラオケでは皆、受験のストレスを発散するように歌った。しかし、どこにいても「そろそろ行こうか」と誰かが言い出し、彩乃を含めた残りの3人も「そうだね」といった調子で、長続きしない。だから解散時間も思いのほか早く、スマホで時間を確認するとまだ午後4時を過ぎたばかりで、街は十分な明るさを残している。