ざっくばらん(パニックびとのつぶやき)

詩・将棋・病気・芸能・スポーツ・社会・短編小説などいろいろ気まぐれに。2009年「僕とパニック障害の20年戦争出版」

若い罪(20)

2020-11-06 18:30:43 | 小説
「あの人もずっとレールの上に乗ってきたんだよな。このままあと10年ぐらい働いて、退職した後は孫の成長を楽しみにするような。そんな穏やかな人生の後半をわざわざ捨てる気なのか?」
正志は首を捻り、書き置きをテーブルに放り投げた。
「麻美には伝えておいた方がいいかな?」
「うーん。姉ちゃんにはまだいいんじゃないの。この先どうなるか分からないし」
「どうなるか分からないって、今日にでも帰ってくるかもしれないってこと?」
佐世子はすがるような目で正志を見た。
「シュールな笑いを狙うような人じゃないから、この書き置きは本気だとは思うよ。だからってどうだろう?これまでほとんど一人暮らしをしたことのない中年の男が、どこまでその生活に耐えられるかな」
正志は少し楽観的に考えているようだ。
結局、その日は孝は帰らず、塾から帰宅した彩乃は「私のせいだ。私がパパに冷たくしたのがいけなかったんだ」と目が腫れるほど泣いていた。その後、1週間過ぎても、2週間過ぎても孝は戻ってこなかった。

「ただいま」
「誰もいないか」と呟きながら靴を脱ぐ。しばらくしてキッチンの奥から「おかえりなさい」と元気のいい声がした。
「なんだ。いないかと思った」
「失礼な。私の家だよ」
林田恵理は一瞬真顔になり、すぐに笑みを浮かべた。孝は分かりやすく動揺し、分かりやすく安堵した。その様子を見て、恵理はまだ笑っている。
「孝さんって面白いね。今日、仕事は休み。火曜は定休日。お客なんだから覚えといてよ」
恵理は軽く肩を叩いた。
「だけど、もう恵理さんの居酒屋には行きにくいなあ」
「何せ、私を抱いたんだもんね。美人の奥さんがいる分際で」
恵理はまた少し孝をからかった。
「その通りだよ。結婚してから自分には浮気なんて縁のないことだと思っていたのに」
孝はようやく聞き取れる程度に小さく呟いた。
「私を抱いている時の孝さんて、抱くというよりしがみ付いてるようだった」
「そうだったかなあ。いろんな感情が混ざっていたのは確かだと思うけど」

話しているうちに、いつの間にか恵理は夕食の仕度に戻り、孝は食卓の椅子に座っていた。
「忘れなさい。私を抱いたことも。もしこの先抱いたとしても」
恵理の背中から真面目な声が聞こえてきた。
「ありがとう恵理さん」と決して恵理には届かぬ声で孝は呟き、そっと目頭をぬぐった。
「ねえ。今度の土曜日にもデートしない?別に特別なものじゃなくて、映画を観たり、お蕎麦食べたり、街をぶらぶら散歩したり」
「俺は構わないけど、店の方は大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。多少、睡眠時間削って、デートは夕方ぐらいに切り上げて、下準備の時間を短くすれば。1時間ぐらい開店ずらしてもいいし」


川奈彩乃は黒のタンクトップに白い薄手のカーディガンを羽織り、下はデニムのスカート姿で一人気だるく歩いていた。久しぶりに仲の良い女子4人組で集まった。ファミレスでは近況報告したり、カラオケでは皆、受験のストレスを発散するように歌った。しかし、どこにいても「そろそろ行こうか」と誰かが言い出し、彩乃を含めた残りの3人も「そうだね」といった調子で、長続きしない。だから解散時間も思いのほか早く、スマホで時間を確認するとまだ午後4時を過ぎたばかりで、街は十分な明るさを残している。

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若い罪(19)

2020-11-06 18:17:37 | 小説
「うん。いつもより早く出たよ」 佐世子は必死で自然を装った。 「そう」 娘の佐世子に対しての口数が極端に少ない事に、これほど感謝した時はない。スマホをチェックしながらパンとベーコンエッグを食べ、夏休み明けの学校へ向かった。佐世子は一息つき、コーヒーを手にした。時が経つにつれ、孝がこの家から消えた現実感が増してくる。そしてその理由は何なのか?それが最も知りたい。放っておけば、原因探しで頭の中が一杯になる。やはり私が悪いのか?どこが悪かったのか?考え出したらキリがない。佐世子は浮かび上がってくる感情をいったん抑えつけ、とりあえず、いま何をしなければならないのかを考えようとした。まずは念のため孝の無事を確認したい。彼の書き残した紙に「仕事は続ける」とあったので、まずそれを信じて間違いないと思うが、万が一という事もある。 9時前、階段から勢いよく降りてくる足音が聞こえた。息子の正志だ。あの紙は佐世子が隠し持っている。川奈家の異変には何も気づいていないようだ。彼にも彩乃と同じメニューをテーブルに並べた。異なるのは紅茶がコーヒーに変わったぐらいだ。佐世子は迷っていた。正志にこの家族に起きた事を話すべきかを。 「母さん」 正志は遠くない背中に声を掛けたが、佐世子に何の反応もない。だから少しボリュームを上げて呼んだ。 「ねえ、母さん」 佐世子は驚いたように振り向き、正志を凝視した。佐世子の目は潤んでいた。 「何かあったの?」 正志は困惑の面持ちをしていた。佐世子は僅かな沈黙を切り裂いた。 「お父さんが家から出て行ったみたい」 告白と同時に、隠し持っていた孝の書き置きを正志の目の前に置いた。息子はそれを手に取り、少ししてテーブルに戻した。 「何が家族へだよ」 正志は不貞腐れた顔をしていた。彼はスマホを取り出した。「今日は急用で行けなくなりました。すいません」と相手方に伝えてスマホをしまうと、再び置き手紙を手に取った。 「勤務先に電話した方がいいかな?万一、行ってない可能性はあるかもしれないし」 佐世子は正志に意見を求めた。 「万一というよりは五分五分じゃないかな。親父が仕事を休んでる可能性は」 正志は冷めた口調だった。佐世子はすぐに電話を掛けた。応対した若い女性職員が「出勤していますけど」と答えた。「川奈はいま電話に出られるでしょうか?」と聞くと「少々、お待ちください」と女性は言った。10分も20分も待たされている気がしたが、実際には1分と経たないうちに女性は戻ってきた。そして「申し訳ありませんが、出られないそうです」との返事だった。 佐世子は礼を言い電話を切った。おおよそのやり取りを把握した正志は「出勤してるんだ」と意外そうだった。「お父さんの携帯に掛けてみようか?」と佐世子が言うと、正志は「無駄だよ。もう繋がらないんじゃないかな」とあきれた様子だった。案の定、孝と直接、連絡は取れなかった。 「親父も勝手だな」 正志が呟いた。少しばかり怒りが混じっていた。 「何か事情があるんだろうけど」 佐世子も漠然とは孝が家を出ても不思議ではないと感じていても、あの短い文面を見ただけでは、具体的な理由は分からなかった。そして何故、今日だったのか?ギリギリまで我慢した結果なのか、予定通りの行動だったのか?正志はまた紙を手にして、孝の言葉を見つめている。もはやそこに新しい情報が加わることはない。
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若い罪(18)

2020-11-06 14:35:40 | 小説
「よそよそしくなった。よそよそしくなりました。大体、別室で寝るようになった時期と重なるように思います」
的確な言葉が見つかって佐世子は少し安心したようだった。
「一般論だと、ご主人の態度は浮気を疑われても仕方ないように思いますが?」
「いや、今まで主人が浮気するなんてほとんど考えた事はなかったです。女性にもてるタイプではありませんし」
佐世子は少し意表を突かれたようだった。
「それはご主人に直接聞いてみないと分かりませんが、聞いたとして本音を話してくれる男性はなかなかいないでしょうね」

佐世子は俯き加減で沈黙していた。もう言葉は出てこないようだ。町田は彼女を見ていて飽きないのだが、そろそろまとめに入ることにした。
「人と大きくかけ離れたものを抱えて生きていくのは辛いですよね。今日の診察でもうつ病など精神的な病気ではないですし、認知のゆがみもない。川奈さんの外見の若さが、家族の形を変えてしまっているという考え方も自然です。ただ、敢えて老化を速めようとするのには反対です。これから秋ですし、少しオシャレを楽しんでみてはどうですか。川奈さんは20代に見えますから、30代の大人の装いを意識すれば、外見よりも少し上には変身できますよ」
町田が笑みを浮かべると、佐世子も少し気を取り直したように穏やかに笑った。

町田メンタルクリニックで診察を受けて一週間ほどが過ぎた9月の初めの休日の午後、佐世子は熱心にファッション誌を眺めていた。
長男の正志の顔には戸惑いが浮かんでいる。
「いい事だよ。女性が身だしなみに気を遣うのは」
孝は穏やかな顔をしていた。


翌朝、佐世子は2階からリビングに降りてきた。テーブルの上の一枚の白い紙が目に入った。時刻は午前6時を少し過ぎている。眠気の抜けない佐世子の瞼は重かった。それでも白い紙に黒のマジックで文字が書かれているのには気が付いた。佐世子はそれを手に取り、手元に引き寄せた。半開きだった瞼は大きく見開かれた。
「家族へ しばらく家に帰りません。アパートを借りました。区役所の仕事は続けるので金銭の心配はいりません。申し訳なく思っています 孝」

佐世子の体が小刻みに震えだした。朝日が差し込む静かな空間に、紙がパタパタとはためく音だけが鳴り響いていた。佐世子はしばらく動かなかった。どうしてこうした状況になったのか心で孝に、そして自分自身に問い詰めた。かと思えば少し楽観的になり、これは孝の悪い冗談にちがいないと期待して、佐世子は音を殺して2階へ上がった。そして孝の寝室のドアを開け、彼を探した。やはりいなかった。掛け布団やパジャマが畳まれている様が、家を出た事実を際立たせる。
再び、音を殺して階段を降り、佐世子はリビングに戻った。もう少し一人で考える時間が欲しい。しかし、階段から品のない音が聞こえてきてしまった。程なく、娘の彩乃が眠たい顔を隠そうともせず、リビングに入ってきた。朝の挨拶もそこそこに「あれパパは?」と半分夢の中といった様子で聞いてきた。娘の方から声を掛けられるのも久しぶりだ。しかし、それを喜びとして噛みしめているような余裕は佐世子にはない。時計は6時半を示している。

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若い罪(17)

2020-11-06 10:22:35 | 小説
「下の娘さんはいくつですか?」
「高校3年です。秋で18になります」
「やはり娘さんとうまくいかないのは、川奈さんがここのクリニックに来る理由と繋がっていると思います?」
「それは繋がっていると思いますね。彩乃、娘は彩乃というんですが、あの子は友人たちに私を見せたくないみたいです。それを恐れているのが口に出さなくても伝わってくるんです」
佐世子は寂しげな笑みを浮かべた。
「もう少しの辛抱ですよ。そのうち恐らくお姉さんやお兄さんがそうだったように、下の娘さんも折り合いをつけるのではないでしょうか」

町田は少し暖かく微笑んだ。そしてすぐにクールな顔に戻り、佐世子に質問を続けた。
「ご主人との関係は上手くいっていますか?最近、変わったことはないですか?」
「5年ほど前、主人の要望で夫婦別々に寝るようになりました。理由は何か付けていたと思いますが、とにかく私と離れて寝たいという強い意志は感じました」
失礼な質問ですが、夜の関係はありました?答えたくなければ答えなくてもいいですよ」
町田は意識して柔らかな顔を作る。
「ええと、そうですね。5年前まではありました」
「じゃあ、川奈さんとしては突然という感覚でしたか?」
「考えてもみなかったですね。仕事が忙しくなったとか、取ってつけたような理由を話していた気はしますが、なんかピンと来なくて。忙しい時期ならこれまで何度もあったはずだし、本音ではないような気がしました」
佐世子は遠くを見つめるように言った。
「それはご主人に聞いてみないと分かりませんね。まあ、本音を話してくれるかも定かではないですが。ただ、川奈さん夫婦の年代になれば、別々の部屋で寝るのは珍しくありませんし、それでご主人の何らかの重荷がなくなるなら、むしろ夫婦円満のためには一概に悪いこととも言えません。ただ問題はその後の5年なんですが」
町田と佐世子の目が合い、佐世子はすぐに逸らした。
「あの人、ああ主人ですが、何年前からかは分かりませんが、仕事の話をしなくなりました。昔はよく細かな事までは話さなくても、もっと役所をああしたい、こうしたいと理想を語っていましたね」
「誰しも若い頃は仕事に情熱を傾けるのだと思います。しかし年を経るにつれ、地位や給料も上がって、権限を持つ人も多くなりますが、情熱が覚めていたり、当時の理想が古くて使い物にならなかったりで。私も勤務医の時はそういう人を多く見てきました」

町田は威圧してしまっているかもしれない自覚を持ちながらも、なかなか佐世子から目を逸らせなかった。若くして亡くなった育海がそのまま目の前にいるような錯覚にとらわれていた。
「確かに先生の仰る通りだとは思うのですが、それだけではないような気がするんです。仕事に関してもそうですが、私や子供たちの話題にも建前で話しているような」
「川奈さんはともかく、お子さんたちも成長して大きくなれば、可愛いとか頑張ったという言葉が減っていくのは、むしろ自然だと思えるのですが」
町田は敢えて夫の肩を持つような言葉を並べて、佐世子の反発や本音を待った。彼女はしばらく沈黙していたが、心の奥から言葉を拾ってきたようだ。
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若い罪(16)

2020-11-05 18:33:27 | 小説
「1か月前と大きく変わってないという事なので、こちらから薬をお出しする必要はないと思います。睡眠薬もまだほとんど残っているでしょうし」
「はい。大丈夫です」
「やはり、川奈さんを苦しめている原因は、大幅に若く見えることだと思います。他人の視線が気になると話してましたが、現在の家族についてはどうですか?ご主人とお子さんが3人でしたよね」
相変わらず口調は柔らかいのだが、徐々に核心に迫る刑事のようにも思え、佐世子は思わず紅茶で口を潤した。佐世子が緊張しているのが伝わったのか「話せる範囲でいいですよ」と町田は付け足した。
「いま一番気になっているのは末娘です。ここのところ、まともに口をきいてくれなくて。長女や長男にもそうした時期はありましたが、末っ子には両親ともども甘く接してしまって、この先どうなるのか不安です」
「下の娘さんはいくつですか?」
「高校3年です。秋で18になります」
「やはり娘さんとうまくいかないのは、川奈さんがここのクリニックに来る理由と繋がっていると思います?」
「それは繋がっていると思いますね。彩乃、娘は彩乃というんですが、あの子は友人たちに私を見せたくないみたいです。それを恐れているのが口に出さなくても伝わってくるんです」
佐世子は寂しげな笑みを浮かべた。
「もう少しの辛抱ですよ。そのうち恐らくお姉さんやお兄さんがそうだったように、下の娘さんも折り合いをつけるのではないでしょうか」

町田は少し暖かく微笑んだ。そしてすぐにクールな顔に戻り、佐世子に質問を続けた。
「ご主人との関係は上手くいっていますか?最近、変わったことはないですか?」
「5年ほど前、主人の要望で夫婦別々に寝るようになりました。理由は何か付けていたと思いますが、とにかく私と離れて寝たいという強い意志は感じました」
失礼な質問ですが、夜の関係はありました?答えたくなければ答えなくてもいいですよ」
町田は意識して柔らかな顔を作る。
「ええと、そうですね。5年前まではありました」
「じゃあ、川奈さんとしては突然という感覚でしたか?」
「考えてもみなかったですね。仕事が忙しくなったとか、取ってつけたような理由を話していた気はしますが、なんかピンと来なくて。忙しい時期ならこれまで何度もあったはずだし、本音ではないような気がしました」
佐世子は遠くを見つめるように言った。





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若い罪(15)

2020-11-05 18:01:21 | 小説
「今のは姉じゃないよ」
彩乃は俯き呟いた。
「えっ?姉じゃなければ誰?従姉妹がたまたま来てたとか?」
小川の顔は明らかに困惑していた。
「私の母」
彩乃は勇気を振り絞った。自分のために。そして佐世子のために。
「またまた。川奈は真顔で面白いこと言うよなあ。だってあれじゃ、うちの母親の娘って言っても誰も疑わないぜ」
小川が素直に受け取ってくれないのは仕方のないところだろう。しかし、彩乃は彼を許せなかった。
「帰って」
「いや、だって今お姉さんがケーキを買ってきてくれるって」
「いいから帰って」
彩乃のただならぬ剣幕に押され「わかったよ」とだけ言い残し、小川は姿を消した。程なく彩乃の目は潤んだ。自転車で帰ってきた佐世子の姿もぼやけていた。この日以来、彩乃は佐世子とほとんど口を利かなくなった。

蝉の鳴く声の力が弱まり始めた8月末の午後、佐世子は町田メンタルクリニックの長椅子に腰かけていた。初めて来た時ほどではないものの、やはり緊張していた。旧友の牧野和枝に相談はしたが、佐世子の悩みの深さを理解してくれてはいなかった。しかし「私、その先生、嫌いじゃないよ。佐世子もそうなんじゃないの?」という言葉には少し背中が押された気がする。「確かに私は町田先生を嫌いじゃない」。それにしても何を話してよいやら纏まりがつかない。そのうちに「川奈さん、川奈佐世子さん」と名前が呼ばれた。佐世子はドアをノックして診察室に入った。
「こんにちは。よろしくお願いします」
佐世子は軽く会釈した。
「お待ちしていました。どうぞお掛けください」
町田の凛とした表情の中には優しさが浮かび上がっていた。

「よく眠れましたか?」
「そうですね。前回とあまり変わらないんですけど、なかなか眠れそうもない時は、いただいた睡眠薬を2、3回飲みました」
「まあ、そのくらいなら問題ないでしょう。睡眠以外に何か変化はありましたか?」
町田は本題に話を移そうとしていた。
「1か月前と大きく変わった所はありません。婦人科や美容整形外科も頭には浮かびましたが、結局、行動には移せませんでした」
「それで正解だと思いますよ。婦人科はともかく、美容整形はちょっと違うと思うんです」
町田は穏やかに言った。
「それでまたこちらにお世話になろうと思いまして」
佐世子はすでに注がれている紅茶のカップに口をつけた。








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若い罪(14)

2020-11-05 14:41:02 | 小説
中学生になると、さらにその傾向は強まり、佐世子とはよほどの事がない限り、一緒に外出はしなくなった。それどころか、たとえ近所の住人の前ですら、その視線が気になるようになっていた。
「いつまでも若いお母さんでいいね」
物心がついた頃から知っている隣のおばさんが言う。「はい」と一応返しておくが、本当にそう思っているのかと疑いたくもなる。
学校の友人達とラインに参加しても心からは楽しむ事が出来なかった。話題は多岐にわたり、自分たちの恋愛を含めた悩み事からグループに入っていない男女の噂話や、誰と誰が付き合っているのではといった話、また教師への評価、部活、趣味。高校に進学してからはアルバイトの愚痴も加わるなど様々だったが、時々は家庭の事も話題にのぼる。彩乃は黙ってやり過ごそうとするが、とにかく母のことを聞かれないよう苦心する。それが嫌でラインから抜けてしまった事もあった。
高校2年の夏、彩乃に恋人が出来た。相手は同級生のバスケット部に所属していた小川という男子生徒だった。初めて人前で手を繋いだ時は、汗が体の内側から湧き出てきた。それは相手も同じで、お互いが暑さを言い訳にしていた。そんな小さなデートを繰り返した後、小川は言った。「川奈の家に行きたい」と。「もう少ししたらね」と何回かやんわりと断っていたが、何か事情があるのではと思われるのも嫌で、自宅の前までならと妥協した。小川も顔に少し不満の色を浮かべていたが、一歩前進と前向きにとらえたのか「それでもいいよ」と応じた。

すでに二学期、つまり季節は秋に変わっていた。自宅前の歩道で二人並んで背にもたれ、時々話す。
「暇だね。どっか行こうよ」
彩乃は一刻も早くこの場を離れたかった。しかし、小川も引かない。
「いや、もう少しここにいよう」
「約束通り、自宅まで来たでしょ。もういいじゃない」
「何でそんなに嫌がるの?」
「雰囲気悪いから」
「オヤジさんが無職とか?」
彩乃は力なく首を横に振る。
「引きこもりの兄弟がいるとか?」
それにも彩乃は気だるく首を振るだけだ。

その時、自宅の玄関が開く音がした。姿を見せたのは佐世子だった。彩乃は激しく動揺した。無職の父でも引きこもりの兄でもない若く美しい母親の姿に。予想外だった。昨日、買い物をまとめてしていたので、今日は外出しないはずだったのに。佐世子が白い自転車を出しながら「2人ともそんな所で立って話してないで、中に入って待っていなさいよ」。そう言い残して母は去っていった。
「お姉さん綺麗だね。ああ、俺もあんな姉貴が欲しかったなあ」
小川は羨望の眼差しで言った。

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若い罪(13)

2020-11-05 14:03:27 | 小説
「ねえ、さっきのウエイトレス、私たちの事、絶対親子だと思ってるよ」
和枝はいたずらっぽく笑った。
「随分、自信持ってるんだね。仕事先の先輩、後輩もあり得るんじゃないの?」
「服装がカジュアルだし、そうは思わないよ。別に親子と思われても全然気にしない。でも10年位前かな。最初に間違えられた時はちょっとショックだった。私だってまだ40前後だったしね」

和枝とはランチの後、カラオケボックスで懐かしい曲を歌いあって別れた。しかし、頭では解っていても、若く見える辛さを親友の和枝でさえ理解できない現実を確認すると、少し寂しくはなる。彼女には町田クリニックの町田朋子についても話した。和枝は「話で聞いただけだから何とも言えないけど、私はその先生、嫌いじゃないな。佐世子もそうなんじゃないの?」と迷っている背中を押されるような言葉を並べていた。

川奈彩乃にとって、佐世子は自慢の母親だった。姉や兄と比べても自分には優しく、きっと私が一番可愛いのだろうと漠然と思っていた。彩乃は佐世子が32歳の時に生まれた。年齢的には他の母親たちと比べて若い訳ではない。しかし、行事などで母親たちが集まると、佐世子はひと際輝いて見えた。
「彩乃ちゃんのお母さん綺麗だね。それに若いし」
クラスの子からそう言われるたび、彩乃は自分が褒められたようで有頂天になった。だから積極的に友達を自宅へ呼んだ。自慢の母を見せるために。彩乃にとって佐世子は女神だった。少なくとも小学校低学年までは。

小学5年の時だった。休み時間の廊下でクラスメートの女子が話しかけてきた。
「彩乃ちゃん。昨日、駅前の交差点を渡ってるの見たんだけど、隣にいた若い女の人ってお姉さん?」
クラスメートは屈託のない笑みを浮かべている。彩乃の手のひらに汗が浮かんできた。
「ああ、うん。そうだよ」
「美人なお姉さんだね。私もああいうお姉ちゃんがほしかったなあ」
クラスメートは友達に声をかけられて小走りに去っていった。彩乃はショックだった。漠然とは感じていた母親の若さに戸惑う自分を。親しくしている友人はともかく、初めて母を見たクラスメートが姉と認識したこと。そして正直に姉ではなく母だと否定できなかった彩乃自身を。それ以来、彩乃は当時高校生だった麻美を外出に誘うようになった。彩乃は姉が好きだった。優しくて外見は母をそのまま少女にしたようだった。何より堂々と歩ける事に幸せを感じた。嘘をつくのは嫌だったから。母を母と呼べない自分に罪悪感を抱いていたから。




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若い罪(12)

2020-11-05 11:39:31 | 小説
それに比べると、町田は恵まれていた。20代後半から大学病院で患者を受け持ったのだ。初めの頃こそ「あんな姉ちゃんにこの苦しさが分かる訳ないよな」と聞こえよがしに診察室を出ていく患者もたまにはいて、それなりに傷つきもしたが、しだいに慣れた。
町田は30歳で5歳年上のサラリーマンと結婚したが、その生活は長くは続かず、約2年で離婚した。夫は言葉はマイルドにしていたが、男二人で暮らしているようだったと芯の部分で語っていた。子供もなく、互いにそれなりの経済力もあったため、金銭的な揉め事もなく円満離婚となった。町田は二度と結婚はするまいと心に誓った。
数年後、母の頼子が亡くなり、町田は天涯孤独の身になった。大学病院での患者一人に向き合う時間があまりに短いことに疑問を抱いていた町田は独立し、町田メンタルクリニックを開業するに至った。
そして個人経営を始めて約5年後、佐世子が現れたのだ。診察の途中からは半分、若くして亡くなった姉の育海と話している気分で、それを抑えるのに大変だった。敢えて予約も勧めなかった。せいぜい軽い睡眠障害くらいにしか診断できない患者と予約しないのは珍しくもないし、佐世子は再び町田クリニックを訪ねてくるという確信に似たものが町田にはあった。

川奈佐世子は迷っていた。婦人科や美容整形などに問い合わせようとも考えたが、未だに行動には移せず、結局、短大時代からの親友である牧野和枝に「近いうちに会いたい」とメールするのが限界だった。
「何かあった?」
ファミレスのテーブルを挟み、和枝は少し心配顔で問う。高々と舞い上がった日の光が、カーテン越しにも十分伝わってくる。
「うん、こないだメンタルの病院へ行ってきた。多少抵抗はあったけど,どこへ行けばいいのか分からなくて」
「えっ?もしかしてうつ病とか?」
「いや、そうじゃなくて」
「そうじゃないって事は、ええと」
和枝は思案顔をしていたが、永遠に答えられそうにない。
「若く見えること。若く見られることがどうしようもなく苦痛になった」
和枝は少しの間、口を開けたまま沈黙していたが「その事で佐世子が悩んでいたのは知っていたけど、まさかメンタルクリニックに行く程とは思っていなかったから」と辛うじて言葉をつなぎ、コップの水を一気に飲み干した。
和枝が動揺するのも当たり前だ。同年代の女性と外見が大きく違ってしまうのは、それなりに不便な事も多いだろうとは彼女も理解しているのだと思う。しかし、それ以上に老けない羨ましさが、女性の本能としてどうしても先に立ってしまうのだろう。


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若い罪(11)

2020-11-05 11:17:33 | 小説
姉は高校の途中まで精神科医を目指していたが、学年が進むにつれ成績が伸びなくなり、医師を諦めざるを得なくなり、文系に転向した。その後、一流大学に合格し、商社への就職も決まったのだが、ほぼ同時期に体調を崩し、白血病の診断が下された。それから半年後、育海は息を引き取った。姉からの最後の言葉は「楽しく生きてね」。高校1年だった町田は耐え切れず、病室を出てうす暗い廊下で涙した。

姉の育海が亡くなるまで、町田は遊んでばかりいた。当然、通っている高校も進学校とは程遠い。姉の「楽しく生きてね」の意味も考えた。確かにこれまでも楽しく生きてきたつもりだった。しかし、それが通り過ぎると満たされていたはずの心に空洞が生まれ、虚しさに変わった。姉の最後の言葉はこれまでのような楽しさも含まれているのだろうと思う。しかし、それだけではないような気もしたのだ。

町田は姉の遺志を継ぐように勉強に明け暮れるようになった。「すぐに飽きるよ」という周囲の陰口をよそに、町田の取り付かれたような姿勢に変わりはなく、高校3年に進級した時には、一流大学を目指す受験生と同じ程度まで学力が向上していた。原動力は姉の無念と彼女が目指していた精神科医になるという強い意志に他ならなかった。町田は一浪の末、医学部に合格。姉の果たせなかった精神科医への道が拓けた。大学入学後も彼女は以前にも増して、知識の獲得に貪欲になった。しかし、トップクラスの成績での卒業を控えたある冬の日、町田に不幸が襲う。父の政夫が突然、死んだのだ。急性心不全だった。
母の頼子によれば、その日も仕事から帰宅後も特に変わった様子はなかったという。しばらくして「少し眠る」と寝室に向かった。数時間後、頼子が異変に気付き、救急車を呼んだ時にはすでに心肺停止状態で、病院で死亡が確認された。58歳だった。すでに安いアパートを借り、一人で生活していた町田は父の死に立ち会えなかった。

若い頃、父は無給医だったらしい。以前、同僚の意志が自宅を訪れた時、そう話していた。卒業した大学系列の病院に勤務していた父は、上司から「誰のおかげで医者になれたんだ」、手術に立ち会っても「ただで勉強させてやってんだから感謝しろよ」という言葉が日常だったらしい。姉の育海は「私が小さい頃は母も外で働いていた」と話していた。結婚後も世間がイメージする報酬とはかけ離れていて、それを埋めるために無理を重ねて働いていたのだろう。だから父の死は若い頃から積み重ねた緩やかな過労死と言えるかもしれない。





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