ざっくばらん(パニックびとのつぶやき)

詩・将棋・病気・芸能・スポーツ・社会・短編小説などいろいろ気まぐれに。2009年「僕とパニック障害の20年戦争出版」

大人になるにつれ、かなしく(42)

2016-12-31 18:53:52 | Weblog
その後、藤沢と有紗のことは気がかりだったが、僕は仕事が終わると、やはり生まれたばかりの我が子がいる家庭に帰った。帰ったところで、自分はさして何の役にも立たないのだが、生まれたばかりの長男と2歳の長女、そして亜衣。この輪に加わっていると、気持ちが安らいだ。

時々、病院にも足を運ぶのだが、藤沢の意識は相変わらず戻らず、こないだの有紗との感情的な高まりが、少し居心地を悪いものにしてしまったかもしれない。


いつの間にか秋は深まっていた。藤沢が倒れて2ヶ月が過ぎた。有紗と僕は病院の中庭のテーブルをはさんで向き合っている。白で統一されたテーブルと椅子がいくつかあるのだが誰もいない。おそらく、以前、喫煙スペースだったのではないだろうか?それが近年の流れで、禁煙となりそして誰もいなくなったというところだろう。

「話って何?」
「うん」
有紗は言葉に詰まった。僕は敢えて、何も聞かず彼女の口が動くのを待った。
「驚かないで聞いてくれるかなあ?」
「わかった」
「私、もう疲れた。藤沢を殺したい」
普段より低い声だった。
「殺すって」
僕も声を抑えた。
「その後、私も死ぬから」
「矢野、何言ってるんだよ」
僕は無理やり微笑んだ。
「その方がいいんじゃないかって。あの人はプライドが高いから、今凄くみじめだと思う」
僕は目を閉じしばらく考えていた。そして、思ってもみない言葉を吐いた。
「わかった。俺が殺す。俺が藤沢を殺すよ」
僕はこみ上げてくるものを抑えながら、決意を固めようとしていた。
しばらく、僕を凝視していた有紗が口を開いた。
「ありがとう。いや、ごめんねかな。昨日、寝ずにこれからの事を考えていたら、こんな悪い考えが浮かんできて。でも坂木君に残酷な言葉を言わせてしまって、やっと自分がどうかしてたことが分かった」
「うん。俺もどうかしていた」

病室に戻った有紗と僕は、チューブの数が少し減った以外は、変化のない藤沢を見守る。僕は藤沢を直視できなかった。有紗もそうだろう。それでも随分、やせ衰えた事は分かる。

「ここの病院、出て行かないといけなくなるかもしれない」

「そうか。しかしまだ藤沢は意識を取り戻していない訳だし」

「うん。だから病院側も回復の見込みが薄いと考えているんじゃないかな」

「どこの病院に移るのか決まってるの?」

「いや、まだそこまでは。ただ、この病院よりも治療の質は落ちるところになる気がする」

「ここの病院としては、もっと治療効果の上がる可能性のある患者を入院させたいんだろうな」

「そういうことだと思う」

有紗の淋しそうな笑みを見て、僕は少し前から考えていたことを口にした。

「あの、本を出版したいんだけど」

唐突な発言なのは自覚している。

「えっ?小説家にでもなるの」

有紗は意表をつかれた顔を浮かべた。

「違うよ。臨床心理士という職業をもっと知ってもらいたいんだ。認知行動療法についても」

推測でしかないけれど、文学少女だった有紗にとって、天職であるはずの書店員の仕事が、いまは藤沢を支える手段に変貌してしまったのではないかと僕は危惧していた。せめて仕事をしている時は、少しでも藤沢のことを忘れさせてあげたい。その一心だった。




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大人になるにつれ、かなしく(41)

2016-12-30 22:54:55 | Weblog
「そうだね。まず、いま住んでるマンションは独りでは広すぎるから、ワンルームに引っ越すつもり」

有紗の前向きな声が耳に届く。確かに入院が長引けば、大きな出費は免れない。僕も全くの無力だ。自分の家族すら養っていく自信もない。有紗のことを思うと、藤沢は馬鹿な事をしたと責めたくもなる。しかし、彼も辛かったのだろう。誰が悪い訳でもない。僕の思考は激しく揺れ動いた。

「お金は大丈夫なの?」

「うん。孝志さんの両親は離婚していて、お父さんに引き取られたのは知ってると思うけど、彼が司法試験を諦めた頃から関係が悪くなってしまって。私の方は、父がいまだに孝志さんとの結婚を認めてくれない状態だから、話にならない。まさか子供のいる兄夫婦に頼る訳にもいかない。だから私が頑張るしかない」

有紗の言葉を聞いて僕の脳裏に浮かんだ事がある。離婚すればいい。別に逃げではないのではないか?周囲の協力があって初めて、新たな結婚生活が成り立つ可能性が生まれる。しかし残念なことに、少なくとも金銭的な手助けは望めない状況だ。窮地に立たされたからといって、有紗の給料が倍になる訳ではない。離婚すれば、彼女は自由になるし、藤沢は有紗を含め、皆の力を少しずつ合わせて、出来る限り、支えていくのが最善ではないのか?

しかし有紗に、この考えを伝える事はとても出来ない。間違いなく拒絶するはずだ。何を言っても綺麗事になるような気がした。

有紗は椅子から立ち上がり、変わり果てた藤沢を見て、肩を落とす僕に声をかけた。小さな声だった。

「坂木君にお願いがあるんだけど」

「何?俺に出来ることなら」

「ハグしてくれないかなあ?」

さらに声は小さくなった。

「えっ?」

全く予期していない言葉だった。

「こんな30過ぎたおばさんじゃ駄目かなあ?」

「何言ってるんだよ」

ためらいはなかった。僕は立ち上がるなり、有紗をきつく抱きしめた。

「もっと強く」

有紗が涙声で懇願する。僕は壊れてしまうのではないかと思うほどに、彼女の体に渾身の力を加えた。意識が戻らない、管につながれた親友の目の前で。有紗は何も言わない。僕は不安になり、少しずつ、力を緩めていった。彼女の呼吸は揺れていた。

「もう少しこのまま」

僕は有紗の願いどおりにした。しばらくして彼女が「もういいよ、ありがとう」とささやいたので、僕たちはゆっくりと体を解いていった。有紗の涙を初めて見た。もしかしたら、藤沢が自殺を試みた後も、彼女は泣かなかったのかもしれない。少なくとも人前では。

「ありがとう、坂木君。これで頑張れそうな気がする」
涙が頬を伝い、潤んだままの目で、有紗は笑みを浮かべて言った。








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大人になるにつれ、かなしく(40)

2016-12-30 21:25:40 | Weblog
あくる日の午後、仕事を終えた僕は、車でT市のK病院へ向かった。車から降りるなり、僕は藤沢の病室へ急いだ。夏の午後の日差しは、まだ力強く、まぶしかった。病院内に入り、少し迷いながらも彼がいるはずの303号室を見つけた。4人部屋の右奥。僕は足取りを緩め、薄緑色のカーテンで閉ざされている藤沢のベッドに近づく。有紗が僕に気づいた。疲れ切った顔をしていた。

「坂木君」

「孝志はどう?」
有紗は何か言いたげだったが、首を小さく横に振るだけだった。僕は何本ものチューブにつながれた藤沢に声をかけた。

「孝志」
自分でも聞き取れないような、小さな声しか出せなかった。この変わり果てた姿が、どうしても受け入れられない。ベッドの上に寝ている男は、藤沢とは別人なのではないか。しかし、現実から逃げようとする僕を有紗が引き戻す。

「一時、心肺停止だったんだ」

「えっ、心肺停止?」

「うん。だから、万が一、意識を取り戻しても厳しいと思う」
有紗は冷静な口調だった。壊れそうな自分を必死で押さえ付けているのかもしれない。

「まさかこんな事になるなんて」
月並みな言葉しか出てこなかった。

「ここまで追い詰められてるなんて私も思わなかった。妻、失格だね」

「いや、そんな事ないよ。それより、有紗さんは少しでも寝たの?」

「うん、私は大丈夫。体力には自信があるから」
そう発する彼女の言葉に疲労の色が浮き、だいぶやつれているように見えた。

「しかし、これからどうなるんだろう」
有紗を励まさなければいけない僕が弱音を吐いていた。


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大人になるにつれ、かなしく(39)

2016-12-29 22:55:21 | Weblog
「もしもし、坂木君。有紗だけど」

「ああ、久しぶりだね」
そう言いながら、僕は妻子のいる部屋から出ていった。

「いま、大丈夫かな?」

「うん、大丈夫だよ。何かあった?」
僕は有紗の声色から異変を感じ取った。

「それが、言いにくいんだけど」

「うん」

「藤沢が、孝志さんがね、死のうとしたんだ」

「えっ」
どういう状況なのか、こちらから聞く勇気がなかった。

「3日前なんだけど」

「何で知らせてくれなかったの?」

「だって亜衣ちゃんが大変な時だと思って。お子さん、生まれた?」

「うん。男の子。亜衣も元気だよ」
僕の鼓動は高鳴っていた。

「よかったね。おめでとう」

「ありがとう。それより孝志は大丈夫なの?」

「何とか、容態は安定した。昨日まで集中治療室にいたんだけど、いまは一般病棟に移された。でも、まだ意識が戻らないんだ」

「えっ?意識が・・・」

頭が真っ白になりそうだった。

「うん。先生が言うには、意識が戻るかは判断が難しいみたい。大量の睡眠薬とアルコールで自殺しようとしたんだ」

「そうか・・・。大変だったね。有紗さんひとりで」

僕はようやく彼女を気遣う言葉を絞り出した。
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大人になるにつれ、かなしく(38)

2016-12-29 20:46:01 | Weblog
その後、何回か藤沢と話した。有紗とも連絡を取り合い、藤沢の現状を伝えてもらった。僕は藤沢には「とにかく会って欲しい」と何度も頼んだのだが、藤沢の意志は固かった。絶対に会いたくないという意志。有紗によれば、藤沢の就職活動ははかどってないらしい。時々、面接は受けているものの、とても採用されるような状態ではないと有紗は言った。「どこか悪いなら病院で見てもらったら」と有紗が勇気を振り絞って進言しても、藤沢は「どこも悪くない」と突っぱねてしまうようだった。

夏が近づくにつれ、亜衣のお腹が大きくなると、僕は仕事が終われば、身重の妻と生まれてくるわが子の事で、頭が一杯になった。僕ができる事といえば、できるだけ亜衣の側にいてあげる事ぐらいしかない。親友の力にもなれず、妻の力にもなれず、そんな男が病院では、患者相手にそれらしいアドバイスをしているというのは滑稽だった。

亜衣は「腹部を撫でながら、この子で終わりかもね」と僕の様子を伺うように言った。彼女は幼い頃に母親を亡くしている。父親である白川さんが、男手ひとつで育てた。それもあって、亜衣が出来る限り、大家族にしたい意向があるのは知っている。しかし、僕は「うん、それは何とも」と歯切れの悪い言葉しか返せなかった。それでも亜衣は幸せを纏った顔をしていたし、僕も穏やかな気持ちだった。

長女が誕生して丸2年。亜衣は無事、長男を出産した。僕は大きな喜びと、まだ実感が湧かないフワフワした気持ちがない交ぜになっていた。しかし、僕の幸福感は長続きしなかった。母子ともに退院して、半月も経っていなかった。有紗から悲痛な知らせが届いたのだ。
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大人になるにつれ、かなしく(37)

2016-12-28 22:03:47 | Weblog
「いつ頃やめたの?」

「3月だからもう3ヶ月近く前」
あのレストランであった時には、すでに藤沢は法律事務所をやめていた事になる。

「孝志も新しい就職先でも探す気になったのかな。あいつがアシスタントなんてもったいないよ」

僕は少し無理して声の調子を上げた。

「実はね、あの人、解雇されたんだ」

「解雇、された?」

「うん。欠勤や、遅刻、早退が多かったみたい」

「そうなんだ」

「藤沢と、孝志さんと再会した時から、この人変わったなと感じてた。いい意味の変わったではなく。昔のような輝きは消えてた」

「じゃあ何で孝志と結婚したの?」

「やっぱり好きだからかな。だからこうした事もあるかもしれないとは薄々ね」
次第に有紗の声が力を失っていく。

「酒の量は増えてない?」

「増えてると思う」

「飲みすぎると、体だけでなく、心に悪影響を与えることもあるから。鬱にもなりやすいんだよ」

「そうなんだ。言われてみるとあの人、寝つきが悪いみたいだし、食欲も落ちてきてる。病院へ連れて行ったほうがいいのかな?」

「出来れば、診てもらった方がいいと思う。ただ、孝志を精神科や心療内科へ連れて行くのは難しいだろうね」

「うん、あの人はプライドが高いところがあるからね。とにかく彼とよく話し合ってみる」

「そうだね。俺もこの次に顔を合わせた時は、もう遠慮しない。嫌われても構わない。孝志が立ち直ってくれるのが大事だから」

「ありがとう」
有紗の声は心なしか張りを取り戻したようだった。僕は有紗の携帯番号を聞き、電話を切った。
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大人になるにつれ、かなしく(36)

2016-12-28 15:50:24 | Weblog
その後、食事に誘っても藤沢は僕に会おうとしない。電話やメールでやり取りするだけだ。妊娠中の亜衣の体も心配だったが、それと同時に楽しみでもある。しかし、藤沢への心配は、ただただ、僕の気持ちを暗くさせるだけだ。イタリアンレストランでの彼の印象が、頭から離れない。有紗はどうしているのだろう?藤沢は本当のことを話してくれない。念のため、高校時代の友人の何人かと連絡を取り、それとなく藤沢の事を聞いたが「もう何年も会っていないし、携帯の番号も知らない」と口を揃えた。やはり有紗に聞くしかない。しかし、有紗の携帯番号が分からない。思い切って彼らの自宅の固定電話へ掛けた。

「もしもし」

「はい、藤沢ですが」
女性の柔らかな声だった。

「坂木ですけど、こんばんは」

「ああ、坂木君。久しぶりだね」
有紗の声は明るかった。

「いま一人?」
僕は少し緊張していた。

「うん、藤沢は近所の居酒屋にいると思う」

「いや最近、孝志に会ってもらえなくて」

「そうなの?ああ、そうなんだ」
有紗は意外そうな口調だった。

「だから電話やメールだけなんだ。しかも最近、本音を話してくれない。だから矢野、いや有紗さんに孝志の様子を教えて欲しくて電話したんだ」

「そうなんだ。あの人、何にも話してないのかな」

「何かあったの?」

「うん。あったよ」
有紗の声に少し翳りがあった。

「出来れば、教えて欲しいんだけど」
少しばかりの沈黙が流れた。

「藤沢には言わないって約束できる?」

「うん、約束するよ」

「あの人、法律事務所やめたの」
有紗の口調は淡々としていた。






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大人になるにつれ、かなしく(35)

2016-12-27 22:31:40 | Weblog
「最近、あまり良く眠れないんだよ」
確かに藤沢の目の下に隈ができている。

「眠れないって、大体一日何時間くらい寝てるんだ?」

「日によってまちまちだけど、3~4時間かな」
藤沢は赤ワインを口にする。

「6時間位は寝たいよなあ」

「ああ。睡眠薬、飲んだほうがいいかな」
そう言いながら、ワイングラスを口に運ぶ。料理にはほとんど無関心だ。

「うん。睡眠をしっかりとることは大事だからな。でも、酒と一緒にはよした方がいい」

「それぐらい分かってるよ、俺だって」

「ところで、有紗ちゃんは元気?」

「ああ。でも有紗ちゃんはないだろ。誠、いくつになった?」

「30だけど」

「ということは有紗も30ってことだ」

「それは分かってるけど。たまには一緒に連れてくればいいのに。有紗ちゃんを」

僕は何だか少しイライラした。本当は矢野と呼びたいのだ。

「いや、あいつは仕事が忙しいから」

「そんなに忙しいのか?」

「うん。いま2LDKの、家賃もそこそこ高いところに住んでるけど、肩身が狭くてな」

「何で?二人の家じゃないか」

「収入格差っていうやつ。あそこに住めるのも有紗のおかげ。あいつにはかなわない。それより誠、子供2人目、生まれるんだろ?」

「ああ」

「良かったな。亜衣ちゃんを大切にしろよ」

「分かってるよ。それより孝志、そっちはどうなんだ、子供」
藤沢と有紗が結婚して1年が過ぎていた。

「ああ。俺は欲しいんだけど、有紗がな」

「子供が欲しくないって?」

「いや、そうじゃないけど、もう少し仕事に専念したいっていうんだ」

「そうか。早く見てみたいけどな。二人の子供なら、きっと可愛い顔だろうなあ」

「ああ、そのうちな。でも誠は立派だよ。いまは一人で亜衣ちゃんと子供を養ってる訳だから」

「まあ、何とか。でも俺の収入じゃ、もう一人増えたら、やっていけるかと不安になるよ」

「確かに誠も高給取りじゃないからな。でもお前は立派だ、俺とは違って」

藤沢は淋しそうな笑みを浮かべた。僕はワイングラスに口をつけた。返す言葉を探したが、見つからなかった。否定したかったが、出来なかった。今は何を言っても、彼を傷つけてしまうような気がして、沈黙を選んだ。






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大人になるにつれ、かなしく(34)

2016-12-27 21:15:29 | Weblog
亜衣の報告は妊娠だった。亜衣はよちよち歩きの長女に「お姉ちゃんになるんだよ」と笑顔で頭を撫で、僕は長女の時と同じように、無事に生まれてくるよう願いを込めて、亜衣の腹部を擦った。心から嬉しかった。それは幸福な光景だったに違いない。

しかし時間がたつにつれ、自分の収入で、子供二人を養っていけるのだろうかとの不安が色濃くなっていく。亜衣との結婚を機に止めたはずの煙草を、彼女らの目の触れない場所で、再び吸うようになった。もしかしたら僕は、藤沢や有紗らに囲まれ、心理学を志したあの頃よりも、心が弱くなったのではないかと思うことがある。人の悩みを手助けする仕事をしているというのに。亜衣は時を重ねるたびに、強くなっているというのに。大人になり、人の親にさえなったというのに。

それに、やはりあの二人が心配になる。藤沢と有紗。特に藤沢とは時々、レストランなどで食事をするのだが、かなり酒量が増えた。「税理士か何か、目指してみたらどう?」と言っても「あまり、ピンと来ないんだよね」とはぐらかされてしまう。会う度に顔色が悪くなっているのも気になっていた。そして、都内のイタリアンレストランで藤沢は僕に悩みを打ち明けた。




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大人になるにつれ、かなしく(33)

2016-12-26 23:22:57 | Weblog
「認知行動のプリントはこれくらいにして、腹式呼吸は続けていますか?」

「はい、毎日続けています」

「では最後に一緒に腹式呼吸をやりましょう。その壁にかかっている時計の秒針が6のところから1分やってみます」

「はい」

「ゆっくり口から吐いて、鼻をすするように吸い込みます。そうです」

僕とUさんは二人で向き合い、腹式呼吸を続ける。

「ゆっくり吐いて、吸って。手をお腹において、膨らみと凹みを確認しながら。はい、お疲れ様でした。今日はこれで終わりです」

「ありがとうございました」

Uさんの表情が部屋に入ってきた時より、だいぶ柔らかくなっている。しかし、またすぐに元に戻ってしまうだろう。それで構わない。何度も繰り返して、少しずつ前進できればいい。

「では、気をつけて、帰ってくださいね」

「では、失礼します」

僕は彼女の後ろ姿を見送り、再び部屋に入った。今日の仕事が終わった。インスタントコーヒーを飲みながら、携帯のメールをチェックする。亜衣のメールが入っている。「大切なお知らせがありますので、寄り道をせず、まっすぐ帰ってきてね」と記されていた。それほど悪い報告ではないらしい。僕は亜衣との結婚前からの付き合いになる、100万もしない中古車で、妻の待つ自宅マンションへ向かった。


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